文化と「美なるもの」について
Art and Aesthetics in Cultural Studies
「昨日は世界遺産,今日は地元のゴミ,明日はポストモダン芸術の勇敢なパイオニア(「汚れのついたモナリザ」)/もし君が文化研究とポストモダン人類学をマスターしたら,君はこの意味をより深く理解できると思う.我々のウェブページにようこそ!!!」
2.文化と「美なるもの」について(このページ)
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第2章 文化と「美なるもの」について
The sky above the port was the color of television, tuned to a dead channel. - William Gibson, Neuromancer, 1984
「港の空の色は、空きチャンネルの合わせたTVの色だった」(黒丸尚 訳)。脳に接続された端子を光ファイバー経由で直接インターネットに接続する生体ハッカーの生き様を描いた世界初のサイバーパンク小説『ニューロマン サー』の冒頭の文章である。空の色がVDT(Visual Display Terminals)のホワイトノイズで表現されているところが、僕たちの新しい視覚認知の様式の到来を予言している。原文はインターネットに「転がって いる」のでググってほしい。
「美は、合理性が目的の表象によらずにある対象において知覚される限りにおいて、その対象の合目的性の形式である」——カント『判断力批判』の「この第三判断様式から論定される美の説明」より(篠田訳 上 1964:129)
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人間によって創造されかつ持ち得る文化の数は無数にあるために、文化を複数形で呼んで、文化人類学者は、それらのまとまりを諸文化 (cultures)と言うことがある。この見解は、文化というものは多様な広がりがあるが、同時に異なったまとまりを持つことという意味で「文化的多様 性」(cultural diversity)があると言われる。世界の文化は、どこをとっても唯一のひとつの形をとるものではなく、多種多様な文化がある。その文化分析の対象の ひとつを「言語」にたとえると、世界には数千の言語がある。言語構造は人間の思考パターンを規定することが明らかであるために「世界の文化の数はどれくら いあるのか?」という質問には、言語の数をもって世界には数千の文化の種類があると僕は答えるようにしている。
Immanuel Kant, 1724-1804
哲学者のカントは『判断力批判』(1790)において、次のように言った。美というものが僕たちにはどうも感じとることはできるが、それは果た して学問的に把握し、分析し理解することが可能だろうか。つまり言葉を使って美というものを論理的に説明することができるだろうか、と。僕たちは日常から 「言葉にできない美」や感情をしばしば抱くという経験的事実をもつ。だから、言葉で表現できない経験というものがあり、その最たる実例が美であると思い込 んでしまいそうだ。だが、それに諦めないカントは、美(=美なるもの)について考察するために、趣味という人間の能力があるではないかと反論する。趣味と は、美しいものを美しいと判定する人の能力である、と。そして、美(反対語は醜である)の判断は、良いものだ(反対語は悪いものだ)という判断とよくに似 ており、それはともに自分にとって快適かそうでない(=不快である)かに由来すると指摘している。たしかにカントの言う通りである。しかし、ここでの問題 は、具体的な体験や現実から説明する文化人類学者は、カントの理詰めの主張をそのまま鵜呑みにしてよいのかどうかということだ。
文化人類学者は、社会文化や歴史によって美的判断が共通性を持ちながらも実際には(de facto)多様性があるために、趣味という能力形成もまた、それぞれの文化の影響を受けているはずだと反論する。カント的な枠組みを一旦受け入れた上で も、なおかつ、美の相対性を調べたい文化人類学者は、何を美しいと思うのか、何を良いと考えるのか、そしてなにがその文化に育つ人たちに快適なのか、つま り、僕たちと他者の趣味判断の共通点と相違点を明らかにするために、人々に具体的な質問を通して調べるだろう。
さて、ではそのような趣味の文化的多様性は、どのような観点から具体的に調べることができるのか。文化人類学者はしばしば、レンズ=つまりメガ ネ(lens)の喩えを使って解説する。すなわち、人間は素直に(=普遍的に)身の回りの出来事を受け入れることができない。人間が世界をみるのは、ある 種のメガネ(眼鏡)のようなものを通して世界を把握するのであり、そのメガネ=レンズは文化によって異なった度数をもっているようだ。残念ながら、人はレ ンズを外して事物を素直に(つまりありのままに事物を)みることができない。しかしながら、多種のレンズを通してみること——それを異文化比較法という ——で、相対的な見方をとることができ、自分たちがもつ偏見や偏りを軽減することができる(ベネディクト 2008)。たとえば、こんな方法である。本多勝一や石毛直道らは、ニューギニアのイリアンジャヤの高地に出かけて、まだ鉄器が十分に普及していないダニ 族の人たちと生活を共にした。彼らは当時、人気のあった女優たちの写真を複数持参して「どの女性がもっとも美人か?(=好きか)」と尋ねた。彼らの好みは 明らかに当時の日本における人気とは異なった偏りをみせた(本多 1981)。
Ruth Fulton Benedict, 1887-1948
このような文化的な美的趣味の判断の違いにみられる多様性から、文化人類学者たちが得た結論は、世界は文化的多元論 (multiculturalism)になりつつあるという認識である。異なった集団どうしが出会った時には、人間の文化は人間同士の趣味判断の結果、良 いと判断するものは大胆に自分たちの文化に取り込むが、嫌なものは徹底的に嫌悪する傾向がみられる。調査を通して、世界の多様な文化制度に精通すればする ほど、多様な文化のそれぞれには利点も欠点もあり、どちらがよいという優劣をつけることができないという独特の見解を持つに到る。このような見解を、文化 相対主義(cultural relativism)という。文化的相対主義は他者の文化も公平に観ようとする態度なので倫理的態度でもある。そこから多種多様な文化は、優劣をめぐっ て争うことなく共存すべきだという考え方である文化的多元論が生まれる。他方で、それぞれの文化の世界にどっぷりと浸かっている人は、そのような相対的な 見方に到達できず、自分の文化が一番すぐれているという偏見を持ち続ける。このような偏見を、自文化中心主義(ethnocentrism)という。これ は文化相対主義とは、基本的に相いれないものとされている。ただし自文化中心主義は、自文化への尊敬やプライドとは異なる。なぜなら前者(=自文化中心主 義)は、他者の文化を退けようとするが、後者(=自文化に尊敬の念をもつこと)は文化的多元論に従いながら他者の文化を尊重しつつも自分の文化の良さを改 めて受け入れることができるからである。
美的判断を含めて文化は、どのような場所で議論されているだろうか。言語によるコミュニケーションがおこり、かつ言語活動が可能になる社会的空 間のことをコンテクストあるいは文脈(context)と呼ぶ。多くの言語活動では、何をどのような場所で発語するか、つまり文化の文脈に大きく依存する ために、発話者も聴取者も、この文脈に関する情報収集とそれにもとづく適切な行動上の発話戦略に敏感である。美について調べようとして、実験的あるいは経 験的手法をつかって「人間にとって美とはなにか?」ということを明らかにする際に重要なことは、対象としての美が存在する文化的背景、知識水準や意図を事 前に十分に把握し、状況に応じて反応の観察や対話を通して、適切な観察や追加の情報収集を柔軟におこなっていくことにある。このような認識の持ち方あるい は身体的構えを、我々は文化的感受性(cultural sensitivity)が備わっているという。
僕たちあるいは研究対象の人たちの文化的背景をもとに、その人の行動をその人が属する文化に基づいて「過度に一般化する」ことはしばしば誤りを 導くことがある。例えば「日本人だから寿司が好きだろう。韓国人だから焼肉が好きだろう」(これは日本人の文化的一般化の例)という見解が、文化的一般化 (cultural generalization)のひとつである。このような一般化は反証実例(「僕は日本人だが寿司は嫌いだ。絶対的に焼き肉を好む」)をあげることで先 の一般論が誤りであることを簡単に指摘することができる。文化的一般化は、その人の発話の中身を推論するために重要な参考資料になるが、逆に、その情報に 縛られるとそのレンズから自由にならず、実際の意味把握に失敗どころか明白な誤りを導くことになる。「すべての日本人が寿司好きでないのは自明のことであ り、ましてや寿司嫌いは日本人ではない」という主張をすれば、これは一般化を通り越して、論理的に誤った判断、つまり誤謬をしていることになるからだ。
だがしかし、美的判断の場合では奇妙な一般化がまかり通っている。ダ・ヴィンチの名画『モナリザ』は美女であるという命題がそれにあたる。 「ダ・ヴィンチのモナリザを世界の名画でないと言う人はいない」という一般化がそれである。そこには作品としての名画性と、モナリザは永遠の美女という一 般化が混在している。モナリザの作品性は、モナリザのモデルの美人さからくるのか?それとも天才ダ・ヴィンチが描いたものが、当代きっての美女だったの か?の峻別は不明瞭である。その時には質問を分解してみるのがよいだろう。モデルとなっている「モナリザを美人と思うか?」(=美的判断)、あるいは「モ ナリザが好きか?」(=趣味判断)を問えば、肯定から否定まで様々な意見が百出だろう。そこからわかることは、名画という判断と(モナリザのモデルもまた 絵画も)美的に美しいという判断は異なるという事実である。
Marcel Duchamp《L.H.O.O.Q》1919.「エラショオオキュ」になり、「彼女はお尻が熱い(=好きものの女だ」)」/Fernando Botero – Mona Lisa, 1978, 183 x 166 cm
文化間の違いを固定化し、根拠の薄い主張をすることを文化的ステレオタイプ(cultural
stereotype)という。文化的ステレオタイプは、自文化中心主義から生まれることが多く、また、異文化・異民族への差別と偏見の原因になることが
多い。ただし、どのような社会や集団においても、自分たち以外の人たちをステレオタイプで観る思考パターンがみられ、また「さまざまな事件」を通して新し
く生まれることがあるために、完全に廃絶することは困難である。文化人類学の専門家においてもしばしば、このステレオタイプという罠に陥りやすい。そこか
ら自由になるために、文化というものはその社会にみられる個々の現象が連関した全体的な総体であり、個々の現象を見る時にも、また大きな総体を見る時に
も、僕たちは文化的バイアスつまり自分たちの固有のレンズを外してありのままを見ることができないと自覚することが重要である。その意味では人間とはどん
な状況においてもデフォルトでは〈近視眼的動物〉にほかならず、さまざまなレンズを上手に使うことで初めて世界をなるべく客観的に相対的に、つまり中立に
扱うことができる。そのような反省をつねに心に抱いて、利用できる限りの分析的ツールをつかって文化(ここでは「美なるもの」)を眺めようという態度を通
して、さまざまな「美なるもの」に対する人間の認識の可能性を引きだすことができる
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