かならずよんで ね!

U. エーコ 開かれた作品ノート

Das offene Kunstwerk, The open work, L'œuvre ouverte, Opera aperta

池田光穂

「芸術作品は基本的に曖昧なメッセージ、単一の意味表現(=シニフィアン)の中に共生する多 様な意味内容(=シニフィエ)であるという考え方である」第二版序文(エーコ 2002:12)

[L]'opera d'arte è un messaggio fondamentalmente ambiguo, una pluralità di significati he convivono in un solo significante (Eco 1997:16).

「本書では〈詩学〉という言葉をもっと古典的な意味と結びついた意味で用いることにする。拘 束力をもった規則体系(絶対的規範としてのアルス・ポエティカ)としてではなく、芸 術家がその都度設定する作業プログラムとか、芸術家が明示的にあるいは暗黙のうちに理解している生成する作品の企図といったものとして考え ることにする」(エーコ 2002:15)。

「〈開かれた作品〉という概念に、価値論的考察は含まれない」(エーコ 2002:16)。

「言い換えるなら、リーグル(=P.リクール?)が芸術意志と呼び、そしてエルヴィン・パノ フスキーが(ある種 観念論的な胡乱さをそこから取り除くとして)「様々な芸術現象のうちに、作者の意識的決定や心理 学的諸性向とは独立して見出されうる、究極の決定的意味」と見事に定義づけたもの、それを 開かれた作品という現象であるということもできよう。しかもこの概念は芸術的諸問題がどの ように解決されるかをではなく、どのように提出されるかを明らかにするものなのである。よ り経験論的な意味で、様々な詩学がもつある一つの傾向を例証化する目的で作り上げられた一 つの説明的範疇であると言ってもよかろう。従ってある一つの作業傾向が問題である以上、そ れは様々な方法で検証されうるものであり、多岐にわたる思想的文脈に組み入れられるもの、 多かれ少なかれ明示的な方法で実現されるものであろう。それは、この傾向をはっきりさせる ためには、それ自体としてはどこにも具体的に見出されないような、なんらかの抽象化のうち にその傾向を拘束する必要があったほどである。その抽象化がまさしく開かれた作品というモ デルなのである」(エーコ 2002:17)。

「しかし形の同義語としては〈構造〉という言葉も時には用いられよう。だがある構造が一つ の形であるのは、具体的対象としてではなく、様々なレベルの関係系としてである(意味論的 統辞論的•物理的・感情的、あるいは主題レベルとイデオロギー的内容レベル、構造的関係と受信者の 構造化された応答のレベル等々)。対象がもつ個別の物理的実質ではなく、その分析可能性、つま り関係に分析されうるということを明らかにしようとする際には、形ではなく構造を問題とす ることになるであろう。そうすることによって、開かれた作品という抽象モデルに例証化され た享受関係の類型を様々な関係の中から抽出することができるわけである」(エーコ 2002:20-21)。

「(a)開かれた作品のモデルは複数の作品の一つの客観的と見なされる構造をではなく、ある 享受関係の構造を再現する。形は固有な解釈の秩序を生成する場合にのみ記述することができる」(エーコ 2002:21)。

「(b)このようにして獲得された開かれた作品というモデルは、まったく理論的なモデルであ り、〈開かれた〉と規定しうる作品か実際に存在するという事実とは無関係なのである」(エーコ 2002:22)。

●「第1章 開かれた作品の詩学」エーコ 『開かれた作品』

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「近年の器楽曲の中には、解釈者に許された演奏上の特殊な自立性によっ て特徴づけられる作品がいくつか認められる。そこでは、解釈者は、伝統的音楽の場合 のように、作曲者の指示を自己の感受性に応じて自由に解釈できるのみならず、しばしば楽音の持続や継起を創造的な即興行為において決定することによって、 作品の形に介入することさえ要求される」(エーコ 2002:34)。
・4つの作品の事例
1)カールハインツ・シュトックハウゼンは、『ピアノ曲第11番
2)ルチアーノ・ベリオの『フルート・ソロのためのセクエンツァ
3)アンリ・プスール『交換(スカンピ)』Scambi electronic music (1957)
4)ピエール・ブーレーズの『ピアノ・ソナタ第三番

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・「解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品 として提示されるのである」(エーコ 2002:36)。
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・「芸術作品とはある作者によって生産されたものであり、この作者は、 享受者となりうるものなら誰でも、作品それ自体を、すなわち作者によって構想された元の形を、感性と知性により、剌激として感取される諸効果の布置に対す る応答の戯れを通して、再び理解することができるように、一連の伝達諸効果を組織するのである。このような意味で、作者は、その形が生産されたままの仕方 で理解され享受されることを望み、それ自体完結した形を生産する」(エーコ 2002:37)。
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・「だがベリオやシュトックハウゼンの手になるような作品が、それほど 比喩的ではないはるか に確然とした意味で〈開かれて〉いるのは明らかである。俗な言い方をするなら、それらは 未完成の作品であって、作者はそれらを多かれ少なかれ組立て玩具の部品のように解釈者に 託し、一見したところ事態がどのような結果になるか、無関心であるように思われる。この事 実解釈は逆説的で不正確ではあるが、これらの音楽経験のより外的な相は実際のところこの種 の誤解を生じさせる。だがそれは生産的な誤解である。というのは、このような経験のもつこ の釈然としない側面によって、我々は、今日の芸術家がそのような方向で作業する必要を感じ る理由を理解するように促されるはずであるから。つまり、それは美的感受性のどのような歴 史的展開の帰結によるのか。またそれは現代のどのような文化的諸要因に符合しているのか。 これらの経験は理論美学に照らして、どのように理解されるべきなのか」(エーコ 2002:38)。
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・「〈開かれた〉作品の詩学は、プスールが言うように解釈者の中に意識的自由行為を助長させ、 彼を無尽蔵の関係からなる網目の能動的中心として措定しようとする。解釈者は、この関係の ただ中で自分自身の形を創設するのであって、享受する作品の確定した組織様態を彼に命ずる 必然性により、決定されるのではない。しかしながら、その概略を示した〈開かれ〉という用 語のより広い意味内容に依拠する場合に、異論として予想されるのは、少なくとも、どのよう な芸術作品であれ、解釈者がそれを、作者自身と適合した行為において再創造しないならば、 真に理解することはできないのであるから、芸術作品は、たとえ実質的に未完成なまま託され ることはないとしても、自由で創意ある応答を要求する、ということである。それでもこの異 議は、現代美学が、解釈関係なるものについての成熟した批判的自覚に達してからはじめて実 現した認識を構成するのであり、数世紀前の芸術家は確かに、この現実を批判的に意識するど ころではなかったのである。ところが、今日では逆に、そのような自覚が、まずもって芸術家 に存在しており、彼は〈開かれ〉を事実上不可避の与件として忍受するかわりに、それを生産 のプログラムとして選択し、それどころかできる限り大きな開かれを助長させるべく作品を提 示するのである」(エーコ 2002:38-39)。
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・「享受関係における主体の関与分(享受が観る主体と客体的所与としての作品との間の相互作用を含意するという事実)を、古代人が見逃すことは、とりわけ彼らが造形芸術を論じる時には、決してなかった」(エーコ 2002:39)。
・その事例として、プラトン『ソピステス』、ウィトルウィウス(Vitruvius)によるシンメトリアとエウリュトミアの区別
・遠近法の開発:「様々な遠近法の技巧は、可能な唯一の適正な仕方で観者に画像を視させるために、観者の状況からくる要求に対してなされる譲歩と、まさに 同じだけの譲歩を表わしていたのであり、作者は視覚的技巧を構築しながら、この唯一の見方の方へと享受者の意識を収倣させようとしたのである」(エーコ 2002:39-40)

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・中世の寓意解釈の理論
・ただし、こちらには自由度がきわめて少ない
・詩篇(114:1-2)の解釈実践
1)イスラエルがエジプトをいで、
2)ヤコブの家が異言の民を離れたとき、
3)ユダは主の聖所となり、
4)イスラエルは主の所領となった。

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字面だけ)モーゼの時代にイスラエルの民がエジプトをでる
寓意)キリストによる我々の救済
道徳的意味)罪の悲哀と悲惨から、恩寵へと向かう魂の回心
天上的意味)堕落の隷属から聖なる魂の解放
・※この4つの意味以上のものがない。
・象徴体系は客観的で制度的である(解釈者の釈義の多様性や変則を許さない)——その理由は創造主のロゴスによる創設だからと説明される。そしてそれを定義するのはシステムにおけるパワーをもった存在である。

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・「寓意的言語表現の四つの解釈形が現代の〈開かれた〉作品の可能な多く外的に制限されているというのではない。後に示そうとするように、これらの異なるは、異なる世界観が存在するのである」(42)。

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・バロックの開かれた形式
・「もしバロック的精神性が現代的な文化と感受との最初のはっきりとした表われと見なされるとすれば、それは、ここにおいてはじめて人間が典則の慣例を脱 け出て(その慣例は、宇宙の秩序と本質の安定性とによって保証されていたのであるが)、芸術においても科学においても、人間に創造的行為を要求する動的世 界に直面するからである。驚異の、才知の、隠喩の詩学は、つまるところ、瑣末論議風の見かけを超えて、新しい人間のこの創造的課題を見極めようとするもの であり、この新しい人間は、芸術作品の中に、明確な諸関係に基づく、美として享受すべき対象を見るのではなく、探求すべき神秘、追求すべき課題、想像力の 生動性への剌激を見るのである」(42-43)

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・19世紀の象徴主義
・ヴェルレーヌ『詩法』

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・「事物を名指すこと、それは詩の楽しみの四分の三を取り去ってしまうことである。詩の楽しみは少しずつ推察していく幸福から成る。即ち、事物を暗示すること……そこにこそ夢がある……」マラルメ
・マラルメ→ジュール・ユレ『文学の進化に関するアンケート』への(マラルメの?)回答にあることば(75)

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・カフカの作品論
・象徴的意図と不確定性あるいは曖昧性への傾向が存在するかどうか、見定め難いもの……

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・象徴的意図と不確定性あるいは曖昧性への傾向が存在するかどうか、見定め難いものも、批判的詩学は、象徴的な装置へと構造化されたものとして見ようとする。
・ティンダル「芸術作品とは、その作者も含めて誰でもか、より良いと思う通りに〈使用する〉ことのできる装置である」(46)
・「文学作品を、開かれの絶えざる可能性、意味の不定の貯蔵庫と見なすことである」(46)

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・ 「『ユリシーズ』の中で「彷徨える岩」のような章は、多様な角度から見ることのできる小宇宙を構成するか、そこにおいてアリストテレス的性格の詩学は、等 質的空間における時間の一義的進行の詩学とともに、その最後の衰跡を完全に消し去られてしまう。……『ユリシーズ』の世界は複合的て無尽蔵な生によって生 気づけられている」(47)

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「最 後に『フィネガンズ・ウェイク』において我々は、自己自身へと湾曲し——最初の言葉は終わりの言葉と接合する——それゆえ、有限でありながらまさにそれが ために無限であるアインシュタイン的宇宙を真に前にすることになる。各出来事、各言葉は、他のあらゆる出来事や言葉と可能な関係を結び合い、ある語に対し て実現される意味上の選択によって、他のすべての語を理解する仕方が左右される。このことは、その作品が意味を持たないということを意味しない。つまり、 ジョイスがそこにいくつかの鍵を導入するとすれば、それはまさにその作品がある意味において読まれることを彼が望むからである。だがこの〈意味〉は宇宙の 豊かさを持つのであり、作者はその意味が時空の全体を——可能な時空の全体を——含むことを野心的にも望むのである。この全面的曖昧性の主要手段は地口、 語呂合わせである」(48)

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・開かれは革命教育の手段

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・ ポスト・ウェーベルン・スタイル「1950年代に,第2次世界大戦後の前衛音楽の一技法として盛んに用いられた作曲技法。〈全面的セリー音楽〉(セリー・ アンテグラルsérie intégral(フランス語),total serialism,total organized music)とも呼ばれ,また,この技法で書かれた音楽は〈点描音楽〉〈ポスト・ウェーベルン・スタイル〉とも呼ばれる。1個の音はそれ自身,音高(音の 高さ),音価(長さ),音色,音強(強さ)の四つの構成要素から成る」コトバンク)
・セリー音楽「1950年代に,第2次世界大戦後の前衛音楽の一技法として盛んに用いられた作曲技法。〈全面的セリー音楽〉(セリー・アンテグラル série intégral(フランス語),total serialism,total organized music)とも呼ばれ,また,この技法で書かれた音楽は〈点描音楽〉〈ポスト・ウェーベルン・スタイル〉とも呼ばれる。1個の音はそれ自身,音高(音の 高さ),音価(長さ),音色,音強(強さ)の四つの構成要素から成る」コトバンク)
・アヴァンギャルド(音楽)「の代表は〈無調〉と〈十二音技法〉の実践者であるシェーンベルク,ベルク,ウェーベルンの〈新ウィーン楽派〉,強烈なリズム 表現や〈複調〉を使用したストラビンスキー,音楽はなにげないものであるべきだと〈家具の音楽〉を主張したサティらがその第1世代である。しかし音楽にお いてアバンギャルドの語が一般化したのは第2次世界大戦後のことであり,その主流は1946年に始まり,〈ミュジック・セリエル〉を主張したブーレーズ, シュトックハウゼンなどの〈ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習〉から国際的にデビューした作曲家たちであり,またそのアンチ・テーゼとなったアメリカ のケージを中心とする〈偶然性の音楽〉の一派であった。日本ではいち早くジャズの語法を採用した黛敏郎,十二音技法で作曲を始めた諸井誠らが〈戦後派〉の 第1世代である」コトバンク)
・「つまり、ウェーベルンの作品を聴きながら、聴き手は、自分に提示された、それもすでに完成した仕方で生産された音響宇宙の範囲内で、一連の諸関係を自 由に再組織し亨受するのに対し、『交換(スカンビ)』において享受者は、生産と制作の側そのものから、音楽的言語を組織し構造化するのである。彼は作品を 作るのに協力するのである」(50)。

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・ 「工業デザインは、ある種の家具、調節可能なランプ、様々な姿に組み直すことができる書棚、疑いもなく様式上の高さに達した変形可能なソファといったもの によって、動的作品についてのごくささやかではあるが明瞭な実例を提供してくれる。それらは、現代人が、自身の趣味と習慣的必要性とに従って、自分がその 中で生きる形を自ら作り、自ら配置することができるようにしてくれる」(52)。

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「つ まり、ここで問題となっているのは、マラルメの『書物(リーブル)』であって、この巨大で全体的な作品、すぐれて作品と呼べるべきものは、詩人にとって単 に彼自身の活動の究極目的を構成するだけではなく、世界の目的そのものを構成するのである(「世界は一冊の書物に到達するために存在する」)」(52)。

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・ マラルメの『書物』:「覚書は最初、Jacques Schererによって、『Le “Livre” de Mallarmé』(Gallimard、1957)として、解説とともに刊行された。覚書はその後、Bertrand Marchalの編纂になる2巻本の『Mallarmé: Œuvres complètes Ⅰ』(Bibliothèque de la Pléiade、1998)に、258枚の覚書が発表された。/マラルメによれば書物は人類の永遠の記念碑として構想されるべきであり、堅固で、荘重なも のでなければならない。したがって熟考された構成法に則らないものは、書物の名にふさわしくないとして、書物がどのような大きさと形態を備えるべきかを本 気で研究したのである。覚書では書物がもつべきさまざまな条件について、繰り返し計算が行なわれている。/これと同時にマラルメは、書物が石造りの記念碑 のように不動であってはならないとも考えていた。そこに読者の参加する余地があり、読者が「自由に扱える」と感じない限り、書物は読者のものとはならず、成立の条件の一つを欠くことになると述べている。では書物が、一見正反対のこうした要求を充たすにはどうすればよいか。マラルメはこれを解決するのに、運動の概念を導入する。一般的に書物は決まった順序に従って、ページを開きつつ読み進められる。だがマラルメはこの常識を覆そうとしたのである。/彼 が構想する書物は、1、2、3、・・・ と、定められた順番に綴じられてはおらず、詩句(マラルメが考えていたのは、おそらく韻文形式のものであった)が 印刷された複数の紙片は、自由に順番を変えることが出来るようになっていた。読者は自分で自由にページを入れ換え、幾通りにも読むことができる。つまり彼 の目指す書物は、書物を構成する紙片の数の順列組合せの数だけ、読み方があることになる。/残された覚書からはさらに、こうした書物を、1 人の読み手が聴衆を前にして朗読する「講読会」を、マラルメが考えていたことがうかがえる。この講読会は、複数の招待者を前にして、1人の講師が書物を朗 読し、その解読を行う集まりである。講読会にはマラルメが「招待者」、「出席者」、あるいは「聴衆」と呼ぶ一定数の人びとが招かれ、これらの聴衆を前にし て読み手が登場し、読み手は紙片を朗読し、解釈を施し、そして紙片を組み換える。このように1回の講読会は、幕間をはさんで前後2回行われ、しかも1年間 にこうした講読会が数回開かれることになっている。/そしてこの書物を操作する者は、書物の単なる読み手でも注釈者でもなく、彼が行うのは論証であって、 書物に秘められている真理を招待された人びとに理解させようと努める。そのために、彼は繰り返し書物を構成する紙片を組み換え、そうして得られた千変万化 するテクストから、宇宙の隠された真理を導きだそうとするのである。
 マラルメはこうした形式をもつ書物を夢想し、それが出現したときは、一冊の書物はまさしく世界を包摂することが出来ると考えたのだった。ただ残された覚書では、この書物に盛られるべき内容についてはほとんど語られていなかった」ムッシュKの日々の便り

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※→「ハイパーテキスト


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55

・「芸術は世界を認識するというよりは、世界の補完物を、自立的な形を生産するのであって、この形は、固有の法則、個性的な生を提示しつつ、現存する形に付け加わるのである」(55)


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56
・ 「中世の芸術家の完結した一義的な作品は、位階による明確であらかじめ固定された諸次元から成るものとしての宇宙の概念を反映していた。教訓的メッセージ としての作品、(韻律と押韻の厳格な内的束縛においても)単一中心的で必然的に構造化されたものとしての作品は、三段論法による学問、必然性の論理、演繹 的意識を反映する」(56)
・「開かれとバロックの力動性とは、まさに新たな学的自覚が到来したことを示している。つまり、触覚的なものに視覚的なものが取って代わったこと、すなわ ち主観的側面が優位に立ったこと、例えば、建築的対象や絵画的対象についての注意の向かう所が存在から現象へと転換したことは、我々に印象や感覚について の新たな哲学・心理学のこと、実体というアリストテレス的実在を一連の知覚へと解消させる経験論のことを想い起こさせる」(56)

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57
・「〈開かれた〉作品の(さらにまた動的作品の)詩学の中に、享受のたびに自己同一的な結果を生じさせることの決してない作品の詩学の中に、現代科学のある傾向の漠然たる、あるいは明瞭な反響を見出しても行過ぎではなかろう」(57)

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57-58
・ 「音楽的構造がもはや必然的な仕方で継時的構造を決定しないという事実——すでにセリー音楽について起こったように、作品の物理的運動の試みとは独立に、 あらかじめ立てられた前提から音楽的言語表現の継時的運動を推測することを可能にする調性的中心がもはや存在しないという事実そのもの——は、因果性原理 の危機という一般的平面において理解される。二値論理(真と偽の間の、所与とその矛盾との間の二者択一)がもはや唯一の可能な認識方法ではなく、例えば認 識作業の有効な帰結としての不確定性へと通じていく多値論理が台頭する文化的コンテキストにおいて、この思想的コンテキストにおいてこそ、必然的で予見可 能な解釈形を持たない芸術作品の詩学が提示されるのであり、そのような作品において解釈者の自由は非連続性の要素として働くのである」(57-58)

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58
・ 「マラルメの『書物』から、すでに検討したいくつかの楽曲にいたるまで、注目されるのは、作品の各演奏が作品の最終的な規定と決して一致しないようにする 傾向である。各演奏は作品を展開しはするが、それを汲み尽くしはしない。各演奏は作品を実現するが、すべての演奏は互いに相補的である。結局、各演奏は作 品を完全で満足のいく仕方で我々に示してくれるが、同時にそれを不完全なものとする。というのは、そこに作品を同定しうる他のすべての解釈形が同時に示さ れるわけではないからである」(58)

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60
・ 「この種の〈開かれ〉はあらゆる知覚行為の根底そのものにあり、我々の認識経験のあらゆる契機を特徴づける。つまり、あらゆる現象はこのようにしてある種 の潜在的可能性によって、すなわち〈現実的もしくは可能的な現出系列へと展開されうるという潜在的可能性〉によって〈住まわれて〉いるように思われるであ ろう。現象とその存在論的基底との関係という問題は、知覚的開かれの展望においては、現象と、それについて我々が持ちうる知覚の多値性との関係という問題 に変質する」(60)

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61
・メルロ=ポンティの引用:「それゆえ、物と世界にとって本質的なのは、それらが〈開かれた〉ものとして現前すること……常に〈見るべき他の物〉を我々に約束することなのである」(61)。

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62
「セ リー音楽による作品の多極的世界——そこにあって享受者は、絶対的中心によって制約されることなく、自らの関係組織を構築し、それを、特権的な点などはな く、あらゆる展望が同様に有効であり可能性に満ちているような音響的連続体から、浮かび上がらせるのである——は、アインシュタインが思い描いた時空宇宙 と非常に近いように思われる」(62)。

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・「作品が開かれるというこの可能性がそのようなものとして存在するのは、諸関係の場の範囲内においてのことである」(63)

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・ 「要するに、作者は享受者に完成さるべき作品を提示する。つまり、作者はその作品がどのようにして仕上げられうるのか、精確には知らないが、それでもやは り仕上げられた作品が他ならぬ彼の作品であることを知っているし、解釈的対話の果てに具体化されるであろう形が、たとえ彼に完全には予見できないような仕 方で他者によって組織されるとしても、彼び形であることも知っている。というのは、つまるところ彼が、すでに合理的に組織され、方向づけられ展開の有機的 な諸要求を付与された諸可能性を、提示したのであるから」(64)

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・ 「無数の語を呈示し、その語でもって自由に詩や物理学の論文、匿名の手紙であれ、食料品のリストであれ、作成することのできる辞書というものは、それが呈 示する材料のどのような組み直しに対しても、大いに〈開かれて〉はいるが、作品ではない。ある作品の開かれと力動性は、逆に、様々の補充、具体的な生産的 補足へと通じながら、それらをア・プリオリに構造的生命力の中へと導いていくことに存するのであって、作品は、たとえ未完成であっても、この生命力を持 ち、この生命力は、多様で多彩な解釈形を目ざしながらも、有効であるように思われるのである」(65)→「このことが強調されるべきであるのは、芸術作品 について語る時、我々の西洋的美意識は、〈作品〉によって個人的所産が意味されることを要求するからである」(65)

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66
・(承前)「このことが強調されるべきであるのは、芸術作品について語る時、我々の西洋的美意識は、〈作品〉によって個人的所産が意味されることを要求するからである」(65)
・「〈芸術作品〉というカテゴリーを多様な経験に等質的な仕方で適用できるのは、この一般的定義によるのである(これらの経験は、『神曲』から、音響構造 の置換に基づく電子音楽作品にまで及びうる)。それは、芸術に対する趣味と態度の歴史的変遷にもかかわらず、人間行動の基本構造の不変性を見出そうとする 妥当な要求である」(66)

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・ 「それゆえ我々は次の三点を見てきたのである。まず第一に、動的なものとしての〈開かれた〉作品は、作者とともに作品を作ることへの誘いによって特徴づけ られること。第二に、(〈動的作品〉という種に対する類のような)より広いレベルで、すでに物理的に完結していながらも、刺激の総体を知覚する行為におい て享受者が発見し、選択するべき内的諸関係の絶えざる胚胎へと〈開かれて〉いる作品が存在すること。第三に、あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であ れ暗黙のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれ は、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を甦らせる、ということである」(66)。

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「ま さに今日において美学が〈開かれ〉の問題圏を告知し展開するという事実が偶然ではないことを指摘するのは、無駄ではない。ある意味で、美学が自己の観点か らあらゆる種類の芸術作品に対して主張するこれらの要求は、〈開かれた〉作品の詩学が、より明示的で決然たる仕方で表明するものと同じである」(67- 68)。

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・ 「芸術のこの状況が、その歴史的諸前提と、それを現代の世界観の諸相に結びつける関連付けと類推の作用との中で照らし出される時、それは今や展開途上にあ り、完全に説明され、列記されるどころか、多くのレベルに関わる問題圏を呈示する状況なのである。要するにそれは、開かれた動的状況なのである」(69)


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