講義:問題にもとづく学習について
On
Problem-Based Learning : A Lecture
◆ PBLに関するレクチャー(「現場力研究会」Dec. 6, 2006)
この講義では、受講者がPBL(問題にもとづく学習, PBL)についての大まかな定義やその意義について は、理解済みのであることを前提にして話します。
PBLを理解するためには、まずその批判の対象になり、また長い間PBLの仮想敵と思われてきた 「従来の学習」に関するモデルについて知っておく必要がある。その従来の学習のモデルとは、ひとことで言うと「系統的学習(systematic learning)」と呼べるものである。
系統的学習とは?
系統的学習に関してはいくつかの認知的フレーム(ないしはその業界の“常識=コモンセン ス”)がある。それは、理論と実践の対比、基礎と応用の対比、である。系統的学習が生起する世界では、知識は時代の経過とともに累積し、また洗練化をとげ ていくものとされている。実践に対する理論の優位性、応用に対する基礎の優位性はここからくる。またそれらは、相互に補完的であるので、それぞれの逆の側 の賞讃というスタンスも生じることがある。これらの優位性がどちらのものになるかは、系統的学習をどのような社会的文脈の中に表現するかによって、おもに 決定するものと思われる。
したがって、科学者は研究や実験を通して、この世界に「新しい知見」を提供しようと努力し、 また世間は、知識の蓄積と発展は善き物であると信じている。また、知識とは、教師、教科書、実験室、実験機材、ひいては科学者集団が構成する学会/学界な ど、目に見えるかたちで外在化されるものとしてたちあらわれている。百科事典が知識の外在化の例としてもっともよく理解でき、百科事典の比喩でいうと、知 識の発展は、新しい年度の版のページが増えていることで表現(=表象)される。
また、系統的学習の権威構造は、より知る者である教師が、より知ることが少ない学生を支配す るという社会構造を正当化することにつながる。
したがって、このような認知的フレームの中では、知識は現場にあるとか、現場において現場力(→リンク)から構 成される、などという表現は妄言に近いものになる。
系統的学習において、知識と新知見の再生産を維持するシステムは、学術論文(ジャーナル)生 産・流通システムである。
これらの状況がマンネリ化し、極限まできたと思われる時、人々は、知識の増大化が加速度的に 進み、それについていけない人間が最後には押しつぶされてしまうだろうという危惧をいだくことになる。
このような状況は、学習法の福音としてPBLを迎える準備が整っているというふうに理解した まえ。
そこでPBLの登場である(PBLについて の説明は別のページですでにおこなった。また、本レクチャーの以前の文章はある程度、PBLがどのように生まれてきたのか、また、それらがどのよ うな分派を生むようになったのかについて、正確とは言えないが、概略を理解できるように説明しているはずである)。
系統的学習への、トータルな批判と、その代替案をPBLがもつことは明らかである。系統的学習批 判としてのPBLの福音とは次のようなことである。理論は実践状況において学ばれる必要があること(理論/実践を二分化してみない)。また、基礎は応用の 現場で学ばれてこそ身に付く(基礎と応用の知的分業作業の否定)。知識は、外在化される必要があるが、知識を使うためには、系統的学習者が想定しているよ うな、網羅的な学習をおこなう必要はなく——やっていると一生が終わり目の前の苦悩者を救うことは不可能であるし、倫理的に問題が生じる——そのケースに 応じた正確な知識が、適当な知的リソース(図書館、インターネット、熟達者など)にアクセスすることを通し、使えるようになればよい。知識の調達たる学習 は、教師と学生の権威主義的な構造に置いてのみ可能になるのではなく、さまざまな知識理解が可能である。場合によれば、代替的方法のほうが民主主義的かも 知れない。などなど。
さて、PBLのコンテンツについては別項で説明したが、ここで、その方法論に着目するために、 PBLの唱道者たちが主張するPBLの3つの要素について理解しておく必要がある。
まず、PBL(広義のPBL)というは大きな風呂敷であり、その中に(1)手法としてのPBL (狭義のPBL)つまり個々の具体的な問題にもとづく学習、(2)SDLつまりSelf-Directed Learning 和訳すると自己主導型学習、そして(3)SGLこれは、Small-Group Learning つまり少数メンバーのグループ学習、という具体的な方法論が小分けにされて入っている。
これらの3要素は別々の特性というよりも方法論として相互に密接に絡まっている。具体的な問題に 研究するのだから、学習者が直面している社会的文脈はミクロな現場である。ミクロな現場では、個人ないしは少数の人たちがそれに取り組むことができる。個 人が自分自身で主導するという原理が重要であるが、同時に、現代のような分業と統合が求められる職場では、ミクロな集団内の人間関係が円滑に進むことで、 その学習効果は増大するであろう。一人の知識が人数分集まっただけでは、その単純集積にすぎないが、ここで人間間の討論が生産的に働けば、さぞ我々が得た い知識の質とさまざまなリスクをより多面的に考量することができる、云々。
つまり(広義の)PBLがもつ主たる主導理念とは、[いささか滑稽な同語反復ではあるが]「学習 者のための、学習者による、学習者の主体的学習」ということなのである。滑稽というのは、学習というのは、系統学習においてもまた、本来主体的なもので あったので、この表現は冗長であり、また誇張表現的でもあるからだ。
学生がチュータと呼ばれるソクラテス対話者たる〈産婆〉の支援のもとで、自分で学習し続けるこ と。これがPBLのユートピアである。
また、SDLの評価項目のなかには、自分で自分を(自己反省のために)評価するという態度が求め られるが、自己評価以外に、学生が他の学生を、チュータが学生を、学生がチューターを相互に批判する態度も求められる。勉強の成果を含めた、これらの全レ ポートは、ポートフォリオと呼ばれる。(PBL原理派——当事者による正しい用 語ではAuthentic PBL, 本物のPBL——では、ポートフォリオで成績を評定せよという考え方 が導き出される)
PBLが生まれた背景には、(1)系統的学習手段による知識量の爆発という理由があることは、す でに説明した。ここでは、さらに(2)北米大陸におけるビジネススクールやロースクールによるエリート生産手段の社会的成功、と(3)コンピュータ・人工 知能、近くの認知研究などが相互に関連する認知科学の発達がある。
なぜこの2つのものがPBLの発達に関係あるのだろうか。まずPBL、SDL、SGLなどのアク ロニムを多様するモードは、ジャーゴンを多用し、概念をゲーム論的に説明することで過熱している大学院生とそっくりである。それもそのはず、PBL手法の 陰の源流としては、ビジネススクールにおける「事例研究」の分析手法の洗練化と、それを教育の現場での議論の素材に使うことが広く認められる。20世紀後 半になり、事例研究が学習者の具体的理解と、その実践的応用——要するに教訓ですな、中小企業の社長がプレジデントや日経の私の履歴書を読んで勉強になっ たと感動しているものが、より洗練化されたと想像したまえ——が可能になったのである。次に、認知心理学の発達は、人間の社会的行動の中に、生物学的普遍 的根拠と表層に現れる文化的多様性に関する統一的な見解を提示することに成功した。人間行動の理解に認知科学は書かせない。また認知科学の発達は、学習は 子どもだけの現象であり、こどもの発達と大人による外的な作用を知識の獲得という観点から応用学問化した教育学=ペダゴロジー(pedagology つまりpaid[こども]をagogus[みちびく]学問つまり「ガキを訓育する学」)から、〈大人の教育学〉=アンドラゴジー(andragogy つまりaner[おとな]おとなを導く(agogus)学」)に関する研究が進み、大学院生である大人——北米の医学校は大学を卒業ないしはそれと同等の 学力がないと入学できぬ——の学習課程の研究が進んだ(註:もちろんこれらも確実な史実というよりも語り、ないしは説明解釈の図式であるというふうにここ では理解してください)。ひょっとしたら、アメリカの多様な民族と年齢構成をもつ社会人に、チイチイパッパ的暴力的な暗記学習を求めても効率が悪いと教育 者は観念したのかもしれない[これらは本当はきちんと検証しなければならない学問的課題なのだが、医学的知識と技能を効率的に教える大学教員にそのような 悠長なことも言ってられないのだ!]。
このようなPBLの理念を純粋に守ろうとする発想を過度に教派の墨守とそのための理論的内旋(イ ンヴォルーション)が、PBLの本物派(誕生地のマックマスター大学、のちにバロウズのエクソダス的転勤により南イリノイ大学へ、あるいはニューメキシコ 大学などのようなプライマリーケア=ジェネラリスト育成主義)とハイブリッド型PBL——要するに系統的学習とPBLの良いことどり——つまり折衷派 PBL(ハーバード大学のような研究指向のつよいところ=系統的学習の牙城)の対立として現れるのである。
歴史的にみれば、PBLの熱病のような流行と、結局のところ妥協の産物としてのハイブリッド派 PBLの定着は、本物派のPBLがすでに「終わっている」——北斗の拳流に言えば“PBLはもう死んでいる”——ことを示唆している。
しかし、死んだ本物派のPBLの墓碑銘を書くとすれば、PBLが我々に対してもたらそうとしてい た高潔な「期待される人間像」というメッセージは次の3点に要約できる。なお[括弧]内は、その批判である。
【PBLにおける“期待される人間像”】※[括弧]内は、その批判である。
(1)永続的な自己教育サイボーグになりなさい
[人間はそこまで根性ないし高潔さを維持し続けるのも限界があるじゃろう。だから、この自己 教育サイボーグ化には一定の限度・限界がある]
(2)人間関係調整能力としてコミュニケーション力を陶冶しなさい
[コミュニケーション能力は狡猾に生きるためにも使われており、[宗教実践化でない限り]そ の有用性を否定するわけにはいかない。つまりコミュニケーション能力は多様に使われ、人間関係調整力はその一部の行使にすぎぬ]
(3)永続的学習を通してプロフェッショナリズムを内面化しなさい
[市民社会ではプロフェッショナリズムは自己管理されるが、また外部の権力によって制御され る必要があることは常識。プロフェッショナルの正義感やオートノミーを信じる人はもはや誰もいない。つまりアナクロ。]
本物派のPBLがすでに死に体[つまり屍体]になり、折衷的PBLが席巻した今日、PBLの夢と 可能性について、過剰な期待を抱きたくなることがある。そして、折衷派PBLの地滑り的勝利を、これまでの知識の権威構造の勝利の再確認としてみることも 忸怩たる思い——つまり慚愧の念——も生じるかもしれない。
しかし、本物派PBLの挫折の根本原因は、PBLの主体的学習者は、必然的に系統的学習の蓄積と いう成果を利用しなければならず、また基礎知識を短時間に身につけるには、ペダゴロジーを通して徹底的に鍛え抜かれた人類の知的財産としての教科書を利用 するのが もっとも効率的であるということについて自覚的ではなかったということだ。
もし、本物派PBLが世界を席巻し、1世紀以上にわたり知識生産と習得のタイプに根本的な変化が 訪れたとしよう。そのような未来は、はたして本物派のPBL主義者が夢想してものでは決してないはずだ。本物派のPBLの誤りは、系統的学習を仮想敵にし たことにある。PBLの本物の敵は、知識の伝達の際にできる不必要な学習者と教育者の間に横たわる従来の権力関係であり、このことを見誤った時点で、本物 派のPBLの敗北は決まっていたのである。
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