かならずよんで ね!

犬はコンパニオンか?それとも美味しい食材か?

 Are dogs good companions or only material resource for tasteful food, or both?

池田光穂

ナ・ハラウェイ(Donna Haraway, 1944- )によるコンパニオン・スピーシーズの複雑な議論 の紹介。狼が人間との出会いを通して犬と付き合うようになった来歴。とりわけ一緒に狩りをする同僚(コンパニオン)でありながら、その子供を殺して美味し いとたべる人類のちょっとした身勝手さと、その歴史的起源に関する謎についての解説。そして、その手がかりになりそうな、そして今は廃れてしまった、犬肉 への食用と生きていた時代の愛情の共存の紹介(→詳しくは大石高典・近藤祉秋・池田光穂編『犬からみた人類史』勉誠出版、2019)。

1. 俺様が議論したいのは、俺様のことメキシカ ン・ヘアレス・ドック、口語的なスペイン語表現ではペロッ・ペロン(ずるむけ犬)、たぶん教養ある現代メキシコ人なら複数の表記法のあるショロイツクイン トゥリ(Xoloitzcuintli)と呼んでいるユニークな歴史的存在である。俺様は、医療人類学者(medical anthropologist)で、この学問は「医学と人類学を架橋=ブ リッジする学問」の ことを言う。
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2. 考古学研究書や発掘調査書の中には、食用痕のある犬骨が多く発見され、また別の現場では人間の埋葬に併せて副葬されたものもありショロイツ クイントゥリが、メキシコを中心とするメソアメリカ世界とりわけアステカにおいては、ユニークな位置を占めていることがわかる。アステカの神話によると、 全人類を造った銀の生命の骨から、ショロトルの神がショロイツクイントゥリを作り上げたという。ショロトルの神は、死の世界である宵の明星のミクトランの 危険から、人間を導き救うためにショロイツクイントゥリを人間界に遣わしたという。ショロイツクイントゥリは、狩猟に利用され、ペット――メキシコではマ スコット(mascota, これにはお守りの意味もある)――としても利用された。しかし、アステカの民は、先のように食用としても、また薬用としても、この犬を珍重した。征服期の 16世紀のスペイン 人は、七面鳥と共にショロイツクイントゥリが、御馳走として盛大に食されたことを記載している。霊界の守り神なので、怖い面もある。

3. またヌード犬なので、夜寝るときには一緒に寝て湯たんぽになる。そして、食べる前はペットとして大変可愛がられたという。それをまとめると、次のような表 になる。


ン パニオン・スピーシーズとし ての人類と犬類の一万数千年の歴史を眺めてみると、ヒトのイヌに対するほとんど無慈悲とも言える犬肉の利用や犬嫌悪という虐待の数々にも関わらず、この長 い歴史のなかでよくイヌはヒトに対して裏切ってこなかったのだと、ヒトの立場からみてもイヌに対しては、すまない気持ちと人間に対する無類の忠誠心に感謝 の気持ちでいっぱいになる(先に「貸借対照表は人間がより多く犬に負債をおっている」と述べた)。そのように人間は一万年以上の長きにわたって犬に対して 罰当たりなことをしてきたので、人間と獣の間で病原菌が共有され、この循環によって(まさに片方の種だけの治療や予防接種では防ぎきれないイタチごっこに なり)なかなか駆除できない人獣共通感染症(zoonosis)である狂犬病は、犬が人 間にもたらした天罰ではないかとも思えてくる。年間世界で六万人弱 の人間たちが感染し致死率のとても高い、狂犬病のウィルスはイヌ以外にコウモリ、キツネ、マングースも保持しているのだが、なぜか日本語では「犬」に関連 づけられて、その不運をかこつている。狂犬病が疑われる犬は捕縛され、人間の発症が確認された時点で、大概は病死する前に殺される。英語では「犬の狂気 (Canine madness)」や「恐水症(hydrophobia)」とも呼ばれるがもっとも口語的でよく使われるのは「ラヴィス(Rabis)」と言われ、これは ラテン語のラヴィース(rabiēs)つまり「狂うワンばかり激怒」の意味である。なおここでのワンは駄洒落である。この激怒もまた種間の不公正を呪う怒 りなのかもしれない。

その罪滅ぼしのためなのか、狂犬病ワクチンは19世 紀の終わりにはルイ・パスツールによる弱毒ワクチンが開発された。ワクチン製造には、ヤギや赤ちゃんマウスの脳を使ったり、鶏の胚(卵の中でヒヨコになる はるか以前の原型のようなもの)を使ったりする。人間は万物の霊長と言われるが、ワクチンの開発には生きた動物や組織の利用が避けられないのだ。不吉では あるが、人間が動物由来の肉を将来完全に食べなくなっても、このように人間の生存のために動物に犠牲を強いる状態は今後とも続くだろう。(→「動物実験」の研究)

間と犬の関係について少しでも考えると、ダナのよ うに、コンパニオン・スピーシーズという概念を手がかりにして、人間と非人間(犬、動物、事物、自然環境、機械などなど)のハイブリッド状態は人間の思考 の範囲を大きく拡大するのだという哲学的な野望もまた人間のためのものであって、お互いに伴侶種だといっても、いまだ人間中心主義の誹りは免れないだろ う。

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は、それを克服する方法はないだろうか。19世紀 の哲学者のフリードリヒ・ニーチェのパースペクティヴィズム(遠近法)を 手がかりに考えてみよう。彼は言う、人間もまた家畜のように群れで生活する動物としての意識をいまだに保持している。そのような動物の群れ(「群畜」)と しての味方をパースペクティヴィズムという。もし、人間がその視点の切り替えにより動物の視点を獲得することで人間の味方はひとつの群畜にすぎないと自覚 することができれば、人間の意識は人間的狭量さを超えてより次元の高みに到達できるのではないかと、彼は考えたのだ。

そのような思考方法は、人間中心主義の見方を変えて くれるという点で、ダナのコンパニオン・スピーシーズの視点の原点になるような考え方である。このようにみると、この本の読者は「また小難しい話かい」と あきられるかもしれない。しかし、人間の思考を動物の視点や動物の存在に仮託して変える認識技法はじつはパースペクティヴィズムよりも身近なところで、か つ大昔からあるのだ。それを擬人法(anthropomorphism)と いう。最後にこの著者は、擬人法をつかって人間中心主義の視点を脱構築しよう。それは次のような犬のストーリーである。題して「俺たちはイヌではなく、犬 様なのだ!」という。

うだろうか。辛辣なイヌからのニンゲンに対する メッセージである。コンパニオン・スピーシーズの哲学的議論では、あたかも犬と人間の空中アクロバットショーという感じがした。しかし、ここでの叙述で は、ジャングルでのゲリラ兵どうしの突然の出合い頭で、お互いが物陰に隠れて、ここで即座に闘うべきか、小銃を構えながら相手に呼びかけるべきか、悩むよ うなシーンを想像することができよう。

不用意な戦闘行為をやめるには、どうも交渉を再開す るために対話するしかない。でも何語で話そうか。イヌ語なのかニンゲン語なのか。同胞ではない言葉を話せば、相手は敵意をむき出しにするのではないか?  パースペクティヴィズム擬人法という認識論は、その ような緊張を解き、「相手もまた自分たちのように小心もので、本当はただお互いに恐れているだけかも しれない」といった、反省心を私たち双方にもたらすのである。

して、俺様の最後のメッセージはこうだ!!!→女ともだちのショロ子から伝え てもらおう!!!「私たちはイヌではなく、犬様なのだ!」

犬と人間の共存に関する覚え書き

動画レクチャー(39分です)


宿題:CA220729_homework.pdf(パスワードありません。誰でもダウンロード可能)

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