かならずよんで ね!

AI時代において「空気」を読むとはどういうことか?

Trusting Communication-Design between human and AI

池田光穂・手島勲矢

わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。伝道の書(1:17-18)

すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。伝道の書(4:16)

「「いき」の語源の研究は、生、息、行、意気の関係を存在学的に闡明することと相俟あいまってなされなければならない。「生」が基礎的地平であることはいう までもない。さて、「生きる」ということには二つの意味がある。第一には生理的に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられている。した がって「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じている。「息」は「生きる」ための生理的条件である。「春の梅、秋の尾花のもつれ 酒、それを小意気に呑のみなほす」という場合の「いき」と「息」との関係は単なる音韻上の偶然的関係だけではないであろう。「いきざし」という語形はその ことを証明している。「そのいきざしは、夏の池に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ」という場合の「意気ざし」は、「息ざしもせず窺うかがへ ば」の「息差」から来たものに相違ない。また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。ambulo が sum の認識根拠であり得るかをデカルトも論じた。そうして、「意気方」および「心意気」の語形で、「いき」は明瞭に「行いき」と発音される。「意気方よし」と は「行きかた善し」にほかならない。また、「好いた殿御へ心意気」「お七さんへの心意気」のように、心意気は「……への心意気」の構造をもって、相手へ 「行く」ことを語っている。さて、「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料してい る。それは精神的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」お よび「行」は、「意気」の地平に高められたときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである」九鬼周造『「いき」の構造』結論の脚注13より)

この研究は、人とAI(人工知能/汎用人工知能)、 二つの言語・思考の関係の行く末についての議論を、思想史的検証に耐えるだけの理論に鍛え上げようとするものである。そのための課題として、昨今の日本社 会における「空気が読めない」「空気を読む」と言う隠喩的表現と、社会の信頼性の基礎についての基礎研究を行う。とりわけ、現在はAI時代である。人間の あいだの「空気が読めない」「空気を読む」と言う問題設定だけではもはや限界である。人間どうし、人間とAI、そしてAIどうしのあいだの「空気が読めな い」「空気を読む」と言う問題設定が重要なのである(→「気(氣)の研究」「山本七平『空気の研究』の研究ノート」「大学のキャンパスを変えるための12の哲学」)。

ここで空気を読むというのは、山本七平が、日本文化 において批判した《ロゴス抜きの談合コミュニケーション》のことではない()。むしろ、「KY=空気が読めない」ということのうちに内包されている「空気 を(適切に)読む」ということを、コミュニケーション論的に解釈して、「言語行為がおかれた文脈を読み取る=メタコンテクスト理解の判読可能性」と理解す る。そうすると、今日のAIは、その身体がないという限界性(ドレイファス 1992;Dreyfus 1979)により、「信頼」の醸成がおこなわれな い、ということになる。つまり、ここにおける日本文化論における「空気」とは、「信頼の醸成」という意味であり、「よい空気」とは、間主観的なコミュニ ケーションがなりたっている状態のことをさす。

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《強いAI》時代とは、コンピュータ ーが人間の代わりに思考し判断を行う時代であるが、その時の「信頼」とは何かを問う思 考実験は、まさに人とAIの、言語・思考の原理的な関係について問うことであり、人類社 会の行く末を占う意味で重要な思想史的意味をもつ。特にカーツワイルの描く未来論(シ ンギュラリティ仮説)では、人の言語・思考を模倣するにとどまらず、最終的に、人の思 考・知識を凌駕する《強いAI》の出現が予言されている。しかし、はたして《人の言葉とA Iの思考》を一つの等式で結ぶことが可能なのかなど、その議論の核心には疑問が残る。人 間の頭脳を模倣するAIとは一体何を模倣しているのか、その手本となる人間の言葉とは、 人間の思考とは何かなど、多様な交錯するAIの未来像には、人文社会学の二千年以上にわ たる知的総力を結集して取り組むべき課題が多くある。本研究は、ルネサンス期・宗教改 革期におきた言語の認識の革新を参照点として、未来社会における「信頼」の課題と必要 性のヴィジョンをまとめる。

1.研究目的、研究方法など

(1)研究目的:

本研究は、AIと人、その二つの言 語・思考の関係の行く末についての議論 を、思想史的検証に耐えるだけの理論に鍛え上げようとするものである。中でも、技術的特 異点を迎えたときに、AIは人間の知能を凌駕した人工知能になるという、そのときの「信 頼」とは何かを問う思考実験は、まさに人とAIの言語・思考の関係について問うことであり、 人類社会の行く末を占う意味で重要な思想史的意味をもつ。とりわけカーツワイルの描く未 来論(シンギュラリティ仮説)では、人の言語・思考の仕組みの模倣にとどまらず、最終的 に、自らの意識をもって思考・知識を生み出す《強いAI》の出現が予言されている。しかし、 はたして人とAIの《言葉と思考》を一つの等式で結ぶことが可能なのか、人間の頭脳を模倣 するAIとは一体何を模倣しているのか、その手本となる人間の言葉とは、人間の思考とは何 かなど、根本的な疑問に応えることなく、クラウド化とともに、多様なAIの未来像が語られ る。そのアイデアの多くは近代以降の思考と用語によるもので、人類史における宗教的な言 語の知見、「数字」「文字」の原理的論争、名前をめぐる思想史的な文脈など、近代以前の 人間の思考と語彙の伝統についての深い洞察が致命的に欠けている。AI時代の社会的課題 「トラスト」は、人文社会学の二千年以上にわたる蓄積の知的総力を結集して、領域横断的 に果敢に取り組むべき課題である。にもかかわらず、横断的総合的にできないのは、これま での人文社会学の怠慢であると同時に文系/理系というこれまでの文教政策による分断のせ いでもある。

(2)研究方法:

人文社会学もAIの課題に取り組むことが可能な背景 として2つの認識を あげる。1)サピエンスは技術を生み改良し自然に働きかけ、自然を改変してきたが、その 技術力は、自然環境を理解する知的枠組みとしての言語能力の進化(3人称の認識革命)に よってもたらされた。2)どの人類社会にも言語があり、その多くは文字の文明となって神 話・古典・聖典を生み出した。現在の世界の論理操作の基盤の核心には、今もなお、その古 代の聖典や古典に由来する、宇宙や根源のイメージや文字の思考が認められる。 本研究は、〈AIの言葉〉と〈人間の言葉〉は、原理的に異なるものであり、二つは同じ言 語でないという仮定から、情報化社会のトラスト(信頼)基盤について考える必要性を説く。 AIの言語は、数値化されたデータを語彙として、そのデータの整理ロジック/アルゴリズム を文法として、一元的な「意味」伝達の記号体系を実現しようとする。だが、人の言葉は自 分の関心あるものに「名前」をつけ、それは視覚イメージを伴い、洞窟の壁に描かれ、また 岩に文字で刻まれる。それゆえに「名前」「文字」は、多元的な解釈や翻訳(イメージの拡 大や変容)を許す。その点で、人が交わす言葉は、相互批判と相互理解のコミュニケーショ ンの言葉であり、お互いの認識が相互に変えられて合意形成に至るプロセスの中で信頼が育 まれる。それに対して、特に《強いAI》は、クラウドの圧倒的なデータ量から正しい提案・ 適切な助言を医師や患者にすると期待されている。その時、患者も医者も、了承か却下かの 二択(バイナリー)状況になり、運命の明暗をわけるような事態では、その選択の余地もなくなるとも想像する。人の言葉とAIの言葉を責任の原理として追求 するときに、未来の情報 化された社会における「信頼」の一つの課題は、AIの知に対して、もはや人が真偽を問えな いことである。そのとき人間に問われるのは、自分の言葉を(強いAIが人間の言葉を超える 中で)どのように守り、どのように自己の知性を失わないでいるかである。《強いAI》時代 における信頼の担保には、それに見合う人間の側の《強い人文学的な人間の言葉の理解の努 力》が必要と考える。

2.本研究の着想に至った経緯:人とAIの言葉の対 立・緊張に相対化について

人とAIの言葉の対立・緊張も相対化できないか?な ぜなら、カーツワイル が夢見るAIの人工的な言語能力は、西洋思想史"The Divorce between the Sciences and the Humanities"(I. Berlin, Against the Current, 80-110, 1979) の中で、長年、精神科学と自然科学の統一の可能性をめぐる論争を一方的な独断で終焉させ る技術論からの発想であり、そのままの人類の未来は、極めて不安定な〈機械の言語〉のみ による価値観と、AIを受け入れない〈人間の言語〉の価値観が、原理的に対峙して 相争う状況となる。AI研究者との真摯な対話を抜きに、本研究が意味を持つこ とはないが、現時点では、まず人文社会研究の視点からAIと人間の言語の特性を明らかにす ることで、コンピューター科学者/情報科学者との対話の基盤をつくることが急務である。 それがAI時代の学問パラダイムを確立する一歩になり、学生・院生のための次世代モデル・ カリキュラムも技術系の研究グループとともに構想する道も拓ける。国内の研究者に加え、 ペンシルベニア大学・Katzセンター、イスラエル・バルイラン大学の研究者とも協力する。

3.方法論的含意;

【1】現在の高度な情報社会においては、 人間が行う何らかの行為(Twitter等での言語的発話行為や思考を含む言動のすべて)は、行 為者が意識する、しないにかかわらず、記録され、データ化され、流通し、さらにビッグデ ータとして蓄積され利用される状況を生んでいる。

【2】そのデータはプログラミング言語 で記述されるプロセスの様式で結晶化され論理構造を介して人のニーズにマッチするように ソートされる。その技術がAIであり、集積されたビッグデータを元に、それは人間に推奨さ れる行動のオプションを人間世界に提示する。

【3】AIがする行為のオプション群の推奨は、 あたかもデータの言葉を人間の言葉に変換した、ある種のAIから人への言語行為と言える。

【4】それは、人間が自分の現実レイヤーを数値デー タ化して、AIのわかる言葉で人がAIに 語り掛けた結果なのであり、その人からAIへの語り掛けがヴァーチャルのレイヤーを形成し ていると言えよう。

【5】そこで問題となるのは、AIが人間の言葉や行 為のデータをもとに 提供する行為オプションの推奨は、人間が自らをデータ化してAIに語り掛けた言語的コミュ ニケーション行為とされる点で、その人からAIの語りかけの言語行為において、ある種の多 義性、言語的行為の揺れ、論理性の予断の問題が存在しないのかどうかである。

【6】この 言動リアルとヴァーチャルのレイヤーの行き来の中で、人間の使用する言語的行為の多義性、 言葉の解釈の近代的な予断、文字の論理性の振れなどがどう位置づけられるかを考えるとき、 古典学を含む人文社会学の知見が貢献することは多くのことがあると考える。シンギュラリ ティ的状況下のトラストについて考えることは、人間と強いAIとの共生の在り方について、 人類社会の現実のQOLの向上について、ヴィジョンを描くことでもあるからである。

《方法論》

1)人文科学的な文献収集と その批判(日本、西洋、アジア)

2)共同研究会による討論 (日本)

3)専門家のところを訪問し た取材インタビュー調査(日本、アジア)

4)「空気を読む」比較文化 論——フランシス・フクヤマの比較政治思想史の方法論を採用する

5)AI到来時代において 「空気」を読むことは、どのように変化するのか/変わらないのか?について答申をだす


1)人文科学的な文献収集とその批判(日本、西洋、 アジア)

2)共同研究会による討論(日本)

3)専門家のところを訪問した取材インタビュー調査 (日本、アジア)

4)「空気を読む」比較文化論——フランシス・フク ヤマの比較政治思想史の方法論を採用する

5)AI到来時代において「空気」を読むことは、ど のように変化するのか/変わらないのか?について答申をだす

本研究は、AI時代の「信頼(トラスト)」問題は、 人とAI、二つの言語の原理・文脈の区 別から考えられるべきであるという立場に立つ。レイ・カーツワイルRay Kurzweil, 1948- )によれば2029年には「コンピ ューターが人間並みに言語を理解する」時代が始まると予測する(wired.jp/ 2017.09.21 THU 08:30)。つまり未来の「信頼(トラスト)」の問題は、もはや人と人の間での「コミュニ ケーション」問題に限定されない。強いAIと人の関係で起きる「了解」問題も孕む複雑な 状況になると想像される。それゆえに、(1)人の言葉とAIの言葉は、原理的にどの様に違 うのか、人文学・文法学の歴史的な視点、および現在の文化人類学・社会学の視点、また科 学哲学・宗教思想の視点を交えて分析すること、(2)人間社会のリアル(語彙・名前の言 動)のレイヤーと、AIのデータ(数値・函数・アレゴリズム)のレイヤーが「接地」される とき、どの様な「信頼」問題を孕むのか、二つの記号(文字と数字)の文脈化(フレーム 化)問題他の具体例を問うこと、(3)最後に、強いAIと人の共存を可能にする、具体的な 人間知性の教育(AI時代の人文教育の諸課題)とは何かを考え始めること。これらの必要性 を思う。以下に詳述する。

(1)本研究の学術的背景——研究課題の核心をなす 学 術的「問い」として

【要約】

AIの未来論(カーツワイルのもの)は、人 間の理解においては粗雑な議論がある。 本研究は、シンギュラリティ仮説を批判した西垣通の『AI原論』の議論を引き継ぎながら、 近代以前の伝統も視野にいれて、人間の言語とAIの言語の原理的な特性(それは人の思考の 模倣に留まるか?それとも原理的に最初から違う思考なのか?)を問いつつ、AI時代の信頼 の言葉の土台を思想史的検証にたえる理論として確立する必要性を説く。

【理論的背景】

《AI時代における「信頼」》の考察とは、数学的な 自然科学的な数字データ による認識と、人文学的な精神科学的な文字データの認識が、長年、西洋思想史の中で知の 対立を繰り広げてきたが(Isaiah Berlin, Against the Current, 80-110)、この知の対立をどのよ うに治めるのかという思想史的に難しい問題にも直結する考察でもある。とりわけカーツワ イルが考えるAI/シンギュラリティの未来は、バイナリーなコンピューター言語のイメージ の延長にある知性・マインドの未来である(『スピリチュアル・マシーン』122-130他)。 けれども、その白黒の、そのバイナリーな思考の言語は、一つの方向性にそれ自身を不可逆 的に固定して語る、そのAIの言語は、はたして信頼の土台を築くことができるのか?換言す れば、強いAI 時代の「トラスト」とは、人間の中にある、《答えを一つに絞れない視覚的 な多義的な文字の思考》と、《唯一の答えを求める論理的な一義的な数字の思考》の二つが 共存する人間存在の矛盾についての解釈力(Deep Hermeneutics) が問われているのでもある。 AIマシーンが知能の質と量で人間を超える技術的特異点を迎えるとするとき、人間の中の矛 盾したユニークな思考の特性が社会的に技術的にメディア的に許容されなくなるという文化 論的な問題もさることながら、究極的には、数字と文字の二つの記号を用いる人間の思考の 二重性が、もしAIの計算的な思考でシンギュラー化されうるとするなら、そのとき人類は「文字」を捨てるのか、などの思考実験も必要と思われる。これら様 々な文字/数字の基礎 的な問題意識については、16-17世紀、近代と前近代の狭間にあって、イコール記号を 生み出してきた数学者、科学と人間について考えたルネサンスの人文学者、また宗教改革の 神学者、またデカルト・スピノザの自然観・人間観・科学観、また古典・聖典の言語解釈か ら多くのことが学べると考える。特に文法学者と論理学者が「一般」と「固有」の関係につ いて行う論争は、AI開発における記号接地問題やフレーム問題にも通じる論争に思える。

【人文学的展開】

「人間の言葉を話すマシーン」とし て《強いAI》がイメージされるとき、 一体、どのようなものが「人間の言葉」であると理解されているのか?その点で、例えば、 人間の言葉を理解し模倣しようとするAI開発では、心や脳のメカニズムを語る脳科学や心理 学に注目が集まるが、古典聖典の語彙(例えば「霊魂」「死」「神」など)解釈の伝統の学 びには熱心ではない。しかし「信頼」という語彙は「信仰」に通じる極めて人間的な語彙で ある。その語彙を人が必要とするように《強いAI》においても必要なものとされるか?とい う問いは、人文科学的には、とても大事な問いである。例えば、人と人の信頼(トラスト) は、コミュニケーションの中で、相互批判や相互理解を繰り返し、お互いの認識が変えられ ていくプロセスでもあり、その中で芽生えるパーソナルな「絆」でもある。AIは、言葉の用 例を学ぶことはできるだろうが、AIの知がコミュニケーションの具合で変えられることは望 まれていない。とりわけ人の生死を分ける未来の医療現場で、クラウド的な圧倒的なデータ 量から導き出してくる《強いAI》の最善な提案・助言(絶対知)が可能になるなら、それは 了承するか却下するかバイナリーな判断に留まらず、決断する責任からの解放を人々(医療 関係者)が求めているとすれば、その時、AIの信頼性を問う選択肢も放棄されるかもしれな いことも想像される。人の言葉とAIの言葉を、二つの原理として精密に追求するならば、高 度情報社会の信頼の課題は、最終的には人間が自分の言葉を(精巧にAIが人間の言葉を模倣 すればするほど)どのように保持するのか、人間の自己理解が問われる問題でもある。

(2)本研究の目的および学術的独自性、創造性につ いて

【要約】

このAIと人の言語の二極化の未来について の研究は、楕円思考アプローチで行う。 これは、対立する個々の認識・意見を相対化するのに、二つの中心点からなる一つの楕円形 として捉えるアプローチである(A. J. Heschel, God in search ofMan,12-13:手島「ユダヤ宗教 哲学について」『宗教哲学研究』28:75-80、2011年)。

【理論的背景】

(未完成)

(3)本研究で何をどのように、どこまで明らかにし ようとするのか、

【要約】

人文学/人類学を中心とした本研究グループ が考えるAI時代の考察は、もちろんAI 開発者や情報科学者との真摯な対話を通して、はじめて意味を持つことは言うまでもない。 現時点では人間とAIの言語に関する人文社会研究からの原理的な問題の集約(e.g.閉鎖と開 放、自然と人工、個と集合、創造と模倣、理論と予測、名前と記号、論理と文法、近代と前 近代の語彙etc.)が第1の急務となる。あわせて現実の知のコミュニケーションでおきる文 字データと数字データの解釈のゆらぎのケースを探索しながら、《強いAI》との共存の在り 方の基礎教育(文字と数字の思考力)の理想を描く学問パラダイムの確立を目指す。最終的 には、次世代学生・院生のためのモデル・カリキュラムを技術系の研究グループとともに構 想提案につなげていきたい。

【教育構想】

AI開発と人文社会学のコラボレーショ ンについて、すでに新世代を意識してイ スラエルの大学の情報系では、その仕方を模索するMAレベルのコースが既に誕生している (バルイラン大学・情報科学学部)。しかし、AI時代を見据えた大学教育の改革は、大きな 視野の問題意識を抜きには混乱を拡大するだけである。一過性の流行ではあってはならず、 何度でも議論と討論を重ねるに値する、文字と数字の記号の調和とは一体何か、をめぐる真 の原理的な問題の輪郭の確立なくしては、到達できない。

したがって、大きな教育の構想(1)「AIと人文教 育(担当:池田)」の中に、原理的な、 技術的な、諸問題を明らかにする二つのセクション(2)「人間とAIの言語(担当:___)」および(3)「データ・レイヤーと現実レイヤー(担当: __)」をおく。代表者 (手島)は(2)(3)の重なりで「信頼/トラスト」議論を主に担当する。トラストの議論は、同時に4人の総括班(手島・池田・___・___)の議論で もあり、そこでは各セクシ ョンの議論内容をどの様にお互いに関連付けて、教育ヴィジョン「AI/人文教育」にフィー ドバックしていくか、次の段階の池田の技術系の研究グループとの間で構想される「モデ ル・カリキュラム」の補助となるような、学問パラダイム確立の道筋をつけることを総括班 として努力する。このような三つの柱の有機的な関係の中で、基本的に、本研究の終了年ま でに、強いAI時代の「信頼」の理解を深めるために1)人間の言語とAIの言語の思考におけ る、思想的、概念的、差異を明らかにする。2)文字および数字データ解釈にかかわる現実 とヴァーチャルのブレについての具体的な所見をもつ。3)AI時代における信頼を醸成する 新しい教育理念を求めて、学問パラダイム刷新の端緒を開く。

初年度、国内のAI研究者・情報科学者を招きグルー プで合宿・各種研究会をする。イスラ エルおよびアメリカの連携研究者(AI関係者含む)とワークショップ・各種セミナーを企画 する。計画2年目は、AI教育現場の視察およびセミナーをイスラエルまたアメリカほかでお こない、各種研究会を国内で行う。3年目は、強いAI時代のトラストを育てる大学の人文社 会の基礎教育について考える国内シンポジウムを計画する。

10名からなる研究チ ームは、その学問内容 と学的関心の観点から、 クラスターを構成して いる。その二つのクラ スターに挟まれて、AI 時代の言語とデータの 信頼の諸課題(の予 測・推論)を行うこと になる。___、___、___は、理論系クラス ターであり、___、___、___は、教育系クラ スターである。理論系 クラスターは、___、___、___の担当部分に、理論的な対論を用意し問題点を先鋭化させ、 教育系クラスターは、池田のカリキュラム構想と理論系の議論(___、手島、___)の間を 架橋する現場の知見・日本の文化的な個性のフィードバックもおこなう。左側の縦軸の、___・___・___は、伊藤の人とマシーンの言語の差異につい て、その思想的な特質を考え、 右側の縦軸(___、___、_______)では、文字と数字のデータ解釈で起きうる現実とのズレの考 察をおもに行う。それぞれの列の向かい合う二つの名前は、それぞれで楕円思考になるよう に構想している。例えば、___と____は、西洋思想史の観点で一つの対を作る。___と___ も、近代のキリスト教思想と近代日本の仏教思想で対になるように配置している。

(1)本研究の着想に行った経緯と準備状況

【α】

ルネサンス期のクリスチャン・ヘブライストの 伝統は、ヘブライ語をラテン語との比 較で考え、単語を名前としてとらえて、その名前が何を指しているかを尋ね、名前と事物の 関係性が一定でないことを意識した。文法が教える単数は人間の現実では複数の塊であると か、固有名と普通名の事物の特定は意味が違うとか、「命のある名前」と「命のない名前」 とか、一語一語において現実との対応関係を徹底的に追求し、文字と実際の現実を結ぶ解釈 の困難を意識し、文法の側から論理と現実が二重の関係にあることで哲学神学の認識を修正 する努力をする。理論と現実のずれは人間が使う単語がそもそも内包しているものである。 シンギュラリティの究極の狙いは言葉と現実のズレのないAI言語の実現にある。研究代表 (手島)は、脳科学のヴァーチャル・データと名前(文字)のギャップを『芸術と脳の対 話』高等研報告書1101で指摘したこと。《言葉は名前であり、現実のレッテルに過ぎない》 はスピノザのヘブライ語文法の見方に学ぶことで、今回の人間の言語とAI言語の関係性への 問題意識を形成している。手島と___はともに岩波書店のスピノザ全集翻訳メンバーである。

【β】

古典学の近代化のプロセスは、18〜19世紀 において、数学・自然科学の認識の進 化を模倣・追随する仕方で進む。その結果、聖書テキストの意味を複数でとらえる状況を、 歴史批判によって一つの意味に絞り込む数々の理解の仮説が提案される。20世紀の終わり になると、それらの仮説にテキスト根拠(本文批評の分野で)が乏しいことで、それらの仮 説は否定される傾向が強まる。研究代表(手島)は、国際チームで実行した『近代精神と古 典解釈:伝統の崩壊と再構築』(高等研報告書1102)の共同研究において「文字解釈」を一 つの答えに絞ろうとする近代精神が、異なる解釈を共存させたそれまでの古典解釈の伝統を 壊していく過程を調べた。手島と_______は同プロジェクトで共働している。

【γ】

ゲオルグ・ピヒトの人間環境思想の評価におい て科学理論の認識と人間の現実の相 克・亀裂を論じた(河井徳治ほか『文化環境学のスペクトル』47-74)。_______(人 間環境学者)は中川米造(医療人類学の提唱者)と近しく、池田光穂は現在・医療人類学を 阪大で担当する。大阪産業大学時代の_______に手島は生命の人間環境学とスピノザ哲学を学ぶ。

(1) 関連する国内外の研究動向と本研究の位置づけ

MITは、10億ドルを投じて、AIと倫理の関係の 研究(→Why AI Ethics?; moralmachine; )を推進することを発表したが、これは、 AIに関する人々の不安について(人々の仕事を奪うとか、戦争技術にもちいられるとか)対 処するためのものである。他方、イスラエルのバル=イラン大学https://www1.biu.ac.il/indexE.php) は、情報科学学部に、デジタ ル人文学MAコースを新しく設けた。これらは、人間の言葉の現実レイヤーから切り離され て開発されるAIの現状に対する社会の懸念が形になったものと思う。我が国においては、青 山学院大学がシンギュラリ ティ研究所を設立し、言語学の観点を柱にして研究活動を開始し ている。しかし、本研究は、古典学・文献学・宗教学・哲学・神学・人類学などの伝統的な 文系の知見と視点からシンギュラリティ問題の追求をおこない、人間の言葉とマシーンの言 葉の違いをホリスティックに理解する立場から、AIと人の未来の形を構想する。

研究倫理に関する項目

1.本研究は、日本および海外(イスラエル・米国 他)での訪問調査を予定しているため、 参与観察、インタビュー、民族誌的データの収集等において、個人のプライバシーに関 わる情報を取得する可能性を有する。

2.とりわけ紛争地においては、研究分担者の心身の 安全に留意し、つねに細心の注意をも って、また国内外の研究倫理上の諸成果を反映させる態勢で臨む。

3.研究情報の保護に関しては、調査対象者に文書お よび口頭において、事前に確認をとり、 被調査者との信頼性を確保することに努める。また、データを記載したフィールドノー トまたパーソナル端末等は管理を厳格にして漏えいがないように努める。また研究発表 に関しては、個人情報と当人とが「連結可能」になる危険性をもつ場合は、必ず本人に 照会するようにする。

4.これらの調査上における個人情報の保護と、それ ぞれの分野としての研究上の責務に関 しては「日本宗教学会倫理指針」(http://jpars.org/intro/guidelines);「日本基督教学会 倫理規定」( http://www.gakkAI.ac/jscs/summary/ ) ; 「日本哲学会研究倫理規定」 (http://philosophy-japan.org/summary/rules/日本哲学会研究倫理規定/)「日本文化人類学 会倫理綱領」(www.jasca.org/onjasca/ethics.html);アメリカ人類学連合Code of Ethics (https://goo.gl/8XgQwm),「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針(日本人類学 会)」(http://anthropology.jp/assets/docs/kenkyurinri.pdf);「日本考古学協会倫理綱領」 ( http://archaeology.jp/proceedings/rinrikoryo.htm ) ; 「日本社会学会倫理綱領」 ( http://www.gakkAI.ne.jp/jss/about/ethicalcodes.php ) ; 「 日 本 政 治 学 会 倫 理 綱 領 」 ( http://www.jpsa-web.org/doc/kitei/kitei_rinri.pdf ) ; 「 日 本 国 際 政 治 学 会倫理綱領」 ( http://jAIr.or.jp/committee/moral-code/348.html ) またWorld Congress of Jewish Studies (https://www.worldjewishcongress.org/en/ethical-standards)に記載されている理念を本研 究に関わるすべての人と共有するように努める。これらの要綱は研究の各年度の初回の 会合・集会のごとに(事前にメールあるいは)印刷配布して、倫理上のミスコンダクト がおこらないように留意する。したがって、この調整過程は、学際研究における研究倫 理のあり方に対する提言あるいはモデル化としても位置づけることができる。

5.研究代表者が所属する大阪大学COデザイン・セ ンターには、研究倫理委員会が設置さ れており、研究が採択されることが判明した時点で、審査のための具体的な調査項目に 関する研究計画書を別途作成し、その研究倫理上の審査を受けるものとする

クレジット:このサイトは、引用源の手島・池田「AI時代における「信頼」あるいは二つの言語と コミュニケーションの領域横断的研究」を継承し発展させつつあるものです(2019.07.30)

余滴:九鬼周造『「いき」の構造』(青空文庫版

粋=いき:遊里の男女の生における「媚態・意気地・ 諦め」の自由にある。

「大正・昭和期の哲学者九鬼(くき)周造の代表作。 雑誌『思想』92~93号に掲載されたのち、1930年(昭和5)岩波書店から刊行された。序説、「いき」の内包的構造、「いき」の外延的構造、「いき」の自然的表現、「いき」の芸術 的表現、結論の6章からなる。ヨーロッパ留学において体得した現象学的方法によって、「いき」という民族的文化現象の固有の構造を分析した ものである。まず「いき」を、男女の「媚態(びたい)」における二元的関係と、武士道などにおける「意気地(いきじ)」と、仏教などに由来する「諦(あき ら)め」の三つの契機によって完成させるものととらえ、さらにそれを「渋味」「地味」「上品」などから区別し、それが自然現象や芸術作品において、どのよ うに表現されているかを分析している。そこには、日本の文化をあくまでも理性的に把握しようとする九鬼の姿勢がみられ、日本思想史研究および日本文化論に おける代表的な文献となっている。 [渡辺和靖]」コトバンク


序論

「いき」という現象はいかなる構造をもってい るか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明せんめいし、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成し ていることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出みいだされるという 普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたなら ば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。しからば特殊な民族性をもった意味、すなわち特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取 扱わるべきものであろうか。「いき」の構造を明らかにする前に我々はこれらの先決問題に答えなければならぬ。

まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。言語の 内容たる意味と民族存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否いな、往々、存在問題の方が原本的で ある。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の綜合と考えられる「民族」であ る。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現われてくる。また、その一定の意味は「言語」によって 通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがっ て、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両 者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味ま たは言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験の特殊な色合いろあいを帯びていないはずはない。

もとより、いわゆる自然現象に属する意味および言語は大なる普遍性を もっている。しかもなお、その普遍性たるや決して絶対的のものではない。例えばフランス語の ciel とか bois とかいう語を英語の sky, wood 、ドイツ語の Himmel, Wald と比較する場合に、その意味内容は必ずしも全然同一のものではない。これはその国土に住んだことのある者は誰しも直ちに了解することである。Le ciel est triste et beau の ciel と、 What shapes of sky or plain? の sky と、 Der bestirnte Himmel ※(ダイエレシス付きU小文字)ber mir の Himmel とは、国土と住民とによっておのおのその内容に特殊の規定を受けている。自然現象に関する言葉でさえ既にかようであるから、まして社会の特殊な現象に関す る語は他国語に意味の上での厳密なる対当者を見出すことはできない。ギリシャ語のπολισ[#οに鋭アクセント。σはファイナルシグマ]にしても εταιρα[#εに帯気。ιに鋭アクセント]にしても、フランス語の ville や courtisane とは異なった意味内容をもっている。またたとえ語源を同じくするものでも、一国語として成立する場合には、その意味内容に相違を生じてくる。ラテン語の caesar とドイツ語の Kaiser との意味内容は決して同一のものではない。

無形的な意味および言語においても同様である。のみならず、或る民族の 特殊の存在様態が核心的のものとして意味および言語の形で自己を開示しているのに、他の民族は同様の体験を核心的のものとして有せざるがために、その意味 および言語を明らかに欠く場合がある。例えば、esprit という意味はフランス国民の性情と歴史全体とを反映している。この意味および言語は実にフランス国民の存在を予想するもので、他の民族の語彙ごいのうちに 索もとめても全然同様のものは見出し得ない。ドイツ語では Geist をもってこれに当てるのが普通であるが、 Geist の固有の意味はヘーゲルの用語法によって表現されているもので、フランス語の esprit とは意味を異にしている。 geistreich という語もなお esprit の有する色合を完全にもっているものではない。もし、もっているとすれば、それは意識的に esprit の翻訳としてこの語を用いた場合のみである。その場合には本来の意味内容のほかに強しいて他の新しい色彩を帯びさせられたものである。否いな、他の新しい 意味を言語の中に導入したものである。そうしてその新しい意味は自国民が有機的に創造したものではなくて、他国から機械的に輸入したものに過ぎないのであ る。英語の spirit も intelligence も wit もみな esprit ではない。前の二つは意味が不足しているし、 wit は意味が過剰である。なお一例を挙げれば Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱いんうつな気候風土や戦乱の下もとに悩んだ民族が明るい幸さちあ る世界に憬あこがれる意識である。レモンの花咲く国に憧あこがれるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧 憬しょうけいである。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣裳を恥ずる彼地 かのちへ{1}」の憧憬、ニイチェのいわゆる fl※(ダイエレシス付きU小文字)gelbrausende Sehnsucht はドイツ国民の斉ひとしく懐くものである。そうしてこの悩みはやがてまた noumenon の世界の措定そていとして形而上的けいじじょうてき情調をも取って来るのである。英語の longing またはフランス語の langueur, soupir, d※(アキュートアクセント付きE小文字)sir などは Sehnsucht の色合の全体を写し得るものではない。ブートルーは「神秘説の心理」と題する論文のうちで、神秘説に関して「その出発点は精神の定義しがたい一の状態で、 ドイツ語の Sehnsucht がこの状態をかなり善よく言い表わしている{2}」といっているが、すなわち彼はフランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のないことを認めている。
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{1}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil III, Von alten und neuen Tafeln.
{2}Boutroux, La psychologie du mysticisme(La nature et l'esprit, 1926, p. 177).

「い き」という日本語もこの種の民族的色彩の著しい語の一つである。いま仮りに同意義の語を欧洲語のうちに索めてみよう。まず英、独の両語でこれに類似するも のは、ほとんど悉ことごとくフランス語の借用に基づいている。しからばフランス語のうちに「いき」に該当するものを見出すことができるであろうか。第一に 問題となるのは chic という言葉である。この語は英語にもドイツ語にもそのまま借用されていて、日本ではしばしば「いき」と訳される。元来、この語の語源に関しては二説ある。 一説によれば chicane の略で裁判沙汰を縺もつれさせる「繊巧せんこうな詭計きけい」を心得ているというような意味がもとになっている。他説によれば chic の原形は schick である。すなわち schicken から来たドイツ語である。そうして geschickt と同じに、諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についての ※(アキュートアクセント付きE小文字)l※(アキュートアクセント付きE小文字)gant に近接する意味に変えて用いるようになった。今度はこの新しい意味をもった chic として、すなわちフランス語としてドイツにも逆輸入された。しからば、この語の現在有する意味はいかなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほど 限定されたものではない。外延のなお一層広いものである。すなわち「いき」をも「上品」をも均ひとしく要素として包摂ほうせつし、「野暮やぼ」「下品」な どに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している。次に coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏おんどりが数羽の牝鶏めんどりに取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的びたいてき」 を意味する。この語も英語にもドイツ語にもそのまま用いられている。ドイツでは十八世紀に coquetterie に対して F※(ダイエレシス付きA小文字)ngereiという語が案出されたが一般に通用するに至らなかった。この特に「フランス的」といわれる語は確かに「い き」の徴表ちょうひょうの一つを形成している。しかしなお、他の徴表の加わらざる限り「いき」の意味を生じては来ない。しかのみならず徴表結合の如何いか んによっては「下品」ともなり「甘く」もなる。カルメンがハバネラを歌いつつドン・ジョゼに媚こびる態度は coquetterie には相違ないが決して「いき」ではない。なおまたフランスには raffin※(アキュートアクセント付きE小文字)という語がある。 re-affiner すなわち「一層精細にする」という語から来ていて、「洗練」を意味する。英語にもドイツ語にも移って行っている。そうしてこの語は「いき」の徴表の一をな すものである。しかしながら「いき」の意味を成すにはなお重要な徴表を欠いている。かつまた或る徴表と結合する場合には「いき」と或る意味で対立している 「渋味」となることもできる。要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文 化の、否、大和やまと民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支さしつかえない。

も とより「いき」と類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によって何らか共通点を見出すことは決して不可能ではない。しかしながら、それは民族 の存在様態としての文化存在の理解には適切な方法論的態度ではない。民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域においていわゆる「イ デアチオン」を行おこなっても、それは単にその現象を包含する抽象的の類概念を得るに過ぎない。文化存在の理解の要諦ようたいは、事実としての具体性を害 そこなうことなくありのままの生ける形態において把握することである。ベルクソンは、薔薇ばらの匂においを嗅かいで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与え られてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共 通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂があるのみである。そうして薔薇の匂という一般的なものと回想という特殊なもの との連合によって体験を説明するのは、多くの国語に共通なアルファベットの幾字かを並べて或る一定の国語の有する特殊な音おんを出そうとするようなもので あるといっている{3}。「いき」の形式化的抽象を行って、西洋文化のうちに存する類似の現象との共通点を求めようとするのもその類たぐいである。およそ 「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に、我々はほかでもない universalia の問題に面接している。アンセルムスは、類るい概念を実在であると見る立場に基づいて、三位さんみは畢竟ひっきょう一体の神であるという正統派の信仰を擁 護した。それに対してロスケリヌスは、類概念を名目に過ぎずとする唯名論ゆいめいろんの立場から、父と子と聖霊の三位は三つの独立した神々であることを主 張して、三神説の誹そしりを甘受した。我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。すなわち、「いき」を単に種しゅ概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観 する「本質直観」を索もとめてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得えとく」でなくてはならない。我々は 「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである{4}。
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{3}Bergson, Essai sur les donn※(アキュートアクセント付きE小文字)es imm※(アキュートアクセント付きE小文字)diates de la conscience, 20e ※(アキュートアクセント付きE小文字)d., 1921, p. 124.
{4}「形相的」および「解釈的」の意義につき、また「本質」と「存在」との関係については左の諸書参照。Husserl, Ideen zu einer reinen Ph※(ダイエレシス付きA小文字)nomenologie, 1913, I, S. 4, S. 12. Heidegger, Sein und Zeit, 1927, I, S. 37 f.Oskar Becker, Mathematische Existenz, 1927, S. 1.


しからば、民族的具体の形で体験される意味としての「いき」はいかなる 構造をもっているか。我々はまず意識現象の名の下もとに成立する存在様態としての「いき」を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての「いき」の 理解に進まなければならぬ。前者を無視し、または前者と後者との考察の順序を顛倒てんとうするにおいては「いき」の把握は単に空むなしい意図に終るであろ う。しかも、たまたま「いき」の闡明せんめいが試みられる場合には、おおむねこの誤謬ごびゅうに陥っている。まず客観的表現を研究の対象として、その範囲 内における一般的特徴を索めるから、客観的表現に関する限りでさえも「いき」の民族的特殊性の把握に失敗する。また客観的表現の理解をもって直ちに意識現 象の会得と見做みなすため、意識現象としての「いき」の説明が抽象的、形相的に流れて、歴史的、民族的に規定された存在様態を、具体的、解釈的に闡明する ことができないのである。我々はそれと反対に具体的な意識現象から出発しなければならぬ。

結論

「い き」の存在を理解しその構造を闡明せんめいするに当って、方法論的考察として予あらかじめ意味体験の具体的把握はあくを期した。しかし、すべての思索の必 然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった。しかるに他方において、個人の特殊の体験と同様に民族の特殊の体験は、たとえ一定の意味として成立し ている場合にも、概念的分析によっては残余なきまで完全に言表されるものではない。具体性に富んだ意味は厳密には悟得の形で味会されるのである。メーヌ・ ドゥ・ビランは、生来の盲人に色彩の何たるかを説明すべき方法がないと同様に、生来の不随者として自発的動作をしたことのない者に努力の何たるかを言語を もって悟らしむる方法はないといっている{1}。我々は趣味としての意味体験についてもおそらく一層述語的に同様のことをいい得る。「趣味」はまず体験と して「味わう」ことに始まる。我々は文字通りに「味を覚える」。更に、覚えた味を基礎として価値判断を下す。しかし味覚が純粋の味覚である場合はむしろ少 ない。「味なもの」とは味覚自身のほかに嗅覚きゅうかくによって嗅かぎ分けるところの一種の匂においを暗示する。捉とらえがたいほのかなかおりを予想す る。のみならず、しばしば触覚も加わっている。味のうちには舌ざわりが含まれている。そうして「さわり」とは心の糸に触れる、言うに言えない動きである。 この味覚と嗅覚と触覚とが原本的意味における「体験」を形成する。いわゆる高等感覚は遠官として発達し、物と自己とを分離して、物を客観的に自己に対立さ せる。かくして聴覚は音の高低を判然と聴き分ける。しかし部音は音色の形を取って簡明な把握に背そむこうとする。視覚にあっても色彩の系統を立てて色調の 上から色を分けてゆく。しかし、いかに色と色とを分割してもなお色と色との間には把握しがたい色合いろあいが残る。そうして聴覚や視覚にあって、明瞭な把 握に漏もれる音色や色合を体験として拾得するのが、感覚上の趣味である。一般にいう趣味も感覚上の趣味と同様に、ものの「色合」に関している。すなわち、 道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。ニイチェは「愛しないものを直ちに呪のろうべきであろうか」と問う て、「それは悪い趣味と思う」と答えている。またそれを「下品」(P※(ダイエレシス付きO小文字)bel-Art)だといっている{2}。我々は趣味が 道徳の領域において意義をもつことを疑おうとしない。また芸術の領域にあっても、「色を求むるにはあらず、ただ色合のみ{3}」といったヴェルレエヌとと もに我々は趣味としての色合の価値を信ずる。「いき」も畢竟ひっきょう、民族的に規定された趣味であった。したがって、「いき」は勝義における sens intime によって味会されなければならない。「いき」を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。「いき」は 個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態びたい」といい、「意 気地いきじ」といい、「諦あきらめ」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味 体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙かんげきがある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然せつぜんた る区別がある。我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成し得るように考えるのは、既に意味体験としての「いき」を もっているからである。

意 味体験としての「いき」と、その概念的分析との間にかような乖離的かいりてき関係が存するとすれば、「いき」の概念的分析は、意味体験としての「いき」の 構造を外部より了得りょうとくせしむる場合に、「いき」の存在の把握に適切なる位地と機会とを提供する以外の実際的価値をもち得ないであろう。例えば、日 本の文化に対して無知な或る外国人に我々が「いき」の存在の何たるかを説明する場合に、我々は「いき」の概念的分析によって、彼を一定の位置に置く。それ を機会として彼は彼自身の「内官」によって「いき」の存在を味得しなければならない。「いき」の存在会得に対して概念的分析は、この意味においては、単に 「機会原因」よりほかのものではあり得ない。しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性 に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩きくとする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否いな。意味体験を概念 的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かかっている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約 的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのであ る。「いき」の構造の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる

しかし、さきにもいったように、「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎附けようとすることは大なる誤謬ごびゅうである。 「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表わしているとは限らない。客観化は種々の制約の拘束の下もとに成立す る。したがって、客観化された「いき」は意識現象としての「いき」の全体をその広さと深さにおいて具現していることは稀まれである。客観的表現は「いき」 の象徴に過ぎない。それ故に「いき」の構造は、自然形式または芸術形式のみからは理解できるものではない。その反対に、これらの客観的形式は、個人的もし くは社会的意味体験としての「いき」の意味移入によって初めて生かされ、会得えとくされるものである。「いき」の構造を理解する可能性は、客観的表現に接 触して quid を問う前に、意識現象のうちに没入して quis を問うことに存している。およそ芸術形式は人性的一般または異性的特殊の存在様態に基づいて理解されなければ真の会得ではない{4}。体験としての存在様 態が模様に客観化される例としては、ドイツ民族の有する一種の内的不安が不規則的な模様の形を取って、既に民族移住時代から見られ、更にゴシックおよびバ ロックの装飾にも顕著な形で現われている事実がある。建築においても体験と芸術形式との関係を否いなみ得ない。ポール・ヴァレリーの『ユーパリノスあるい は建築家』のうちで、メガラ生れの建築家ユーパリノスは次のようにいっている。「ヘルメスのために私が建てた小さい神殿、直ぐそこの、あの神殿が私にとっ て何であるかを知ってはいまい。路ゆく者は優美な御堂を見るだけだ――わずかのものだ、四つの柱、きわめて単純な様式――だが私は私の一生のうちの明るい 一日の思出をそこに込めた。おお、甘い変身メタモルフォーズよ。誰も知る人はないが、このきゃしゃな神殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女おと めの数学的形像だ。この神殿は彼女独自の釣合を忠実に現わしているのだ{5}」。音楽においても浪漫ロマン派または表現派の名称をもって総括し得る傾向は すべて体験の形式的客観化を目標としている。既にマショオは恋人ペロンヌに向って「私のものはすべて貴女あなたの感情でできた」と告げている{6}。また ショパンは「ヘ」短調司伴楽の第二楽章の美しいラルジェットがコンスタンチア・グラコウスカに対する自分の感情を旋律化したのであることを自ら語っている {7}。体験の芸術的客観化は必ずしも意識的になされることを必要としない。芸術的衝動は無意識的に働く場合も多い。しかしかかる無意識的創造も体験の客 観化にほかならない。すなわち個人的または社会的体験が、無意識的に、しかし自由に形成原理を選択して、自己表現を芸術として完了したのである。自然形式 においても同様である。身振みぶりその他の自然形式はしばしば無意識のうちに創造される。いずれにしても、「いき」の客観的表現は意識現象としての「い き」に基礎附けて初めて真に理解されるものである。

な お、客観的表現を出発点として「いき」の構造を闡明せんめいしようとする者のほとんど常に陥る欠点がある。すなわち、「いき」の抽象的、形相的理解に止と どまって、具体的、解釈的に「いき」の特異なる存在規定を把握するに至らないことである。例えば、「美感を与える対象」としての芸術品の考察に基づいて 「粋の感」の説明が試みられる{8}。その結果として、「不快の混入」というごとき極きわめて一般的、抽象的な性質より捉とらえられない。したがって「い き」は漠然ばくぜんたる raffin※(アキュートアクセント付きE小文字)のごとき意味となり、一方に「いき」と渋味との区別を立て得ないのみならず、他方に「いき」のうちの 民族的色彩が全然把握されない。そうして仮りにもし「いき」がかくのごとき漠然たる意味よりもっていないものとすれば、西洋の芸術のうちにも多くの「い き」を見出すことができるはずである。すなわち「いき」とは「西洋においても日本においても」「現代人の好む」何ものかに過ぎないことになる。しかしなが ら、例えばコンスタンタン・ギイやドガアやファン・ドンゲンの絵が果して「いき」の有するニュアンスを具有しているであろうか。また、サンサンス、マスネ エ、ドゥビュッシイ、リヒアルド・スュトラウスなどの作品中の或る旋律を捉えて厳密なる意味において「いき」と名附け得るであろうか。これらはおそらく肯 定的に答えることはできないであろう。既にいったように、この種の現象と「いき」との共通点を形式化的抽象によって見出すことは必ずしも困難ではない。し かしながら、形相的方法を採とることはこの種の文化存在の把握に適した方法論的態度ではない。しかるに客観的表現を出発点として「いき」の闡明を計る者は 多くみなかような形相的方法に陥るのである。要するに、「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近 い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づいて自然形式および芸術形式に現われたる客観的表現 を妥当に理解することができるのである。一言にしていえば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。

民 族的存在の解釈としての「いき」の研究は、「いき」の民族的特殊性を明らかにするに当って、たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというよ うな発見によって惑わされてはならぬ。客観的表現が「いき」そのものの複雑なる色彩を必ずしも完全に表わし得ないとすれば、「いき」の芸術形式と同一のも のをたとえ西洋の芸術中に見出す場合があったとしても、それを直ちに体験としての「いき」の客観的表現と看做みなし、西洋文化のうちに「いき」の存在を推 定することはできない。またその芸術形式によって我々が事実上「いき」を感じ得る場合が仮りにあったとしても、それは既に民族的色彩を帯び た我々の民族的主観が予想されている。その形式そのものが果して「いき」の客観化であるか否いなかは全くの別問題である。問題は畢竟ひっきょう、意識現象 としての「いき」が西洋文化のうちに存在するか否かに帰着する。しからば意識現象としての「いき」を西洋文化のうちに見出すことができるであろうか。西洋 文化の構成契機を商量するときに、この問は否定的の答を期待するよりほかはない。また事実として、たとえばダンディズムと呼ばるる意味は、その具体的なる 意識層の全範囲に亙わたって果して「いき」と同様の構造を示し、同様の薫かおりと同様の色合いろあいとをもっているであろうか。ボオドレエルの『悪の華』 一巻はしばしば「いき」に近い感情を言表いいあらわしている。「空無の味」のうちに「わが心、諦めよ」とか、「恋ははや味わいをもたず」とか、または「讃 ほむべき春は薫を失いぬ」などの句がある。これらは諦めの気分を十分に表わしている。また「秋の歌」のうちで「白く灼やくる夏を惜しみつつ、黄に柔やわら かき秋の光を味わわしめよ」といって人生の秋の黄色い淡い憂愁ゆうしゅうを描いている。「沈潜」のうちにも過去を擁する止揚の感情が表わされている。そう して、ボオドレエル自身の説明{9}によれば、「ダンディズムは頽廃期たいはいきにおける英雄主義の最後の光であって……熱がなく、憂愁にみちて、傾く日 のように壮美である」。また「※(アキュートアクセント付きE小文字)l※(アキュートアクセント付きE小文字)ganceの教説」として「一種の宗教」 である。かようにダンディズムは「いき」に類似した構造をもっているには相違ない。しかしながら、「シーザーとカティリナとアルキビアデスとが顕著な典型 を提供する」もので、ほとんど男性に限り適用される意味内容である。それに反して、「英雄主義」が、か弱い女性、しかも「苦界くがい」に身を沈めている女 性によってまでも呼吸されているところに「いき」の特彩がある。またニイチェのいう「高貴」とか「距離の熱情」なども一種の「意気地」にほかならない。こ れらは騎士気質から出たものとして、武士道から出た「意気地」と差別しがたい類似をもっている{10}。しかしながら、一切の肉を独断的に呪のろった基督 キリスト教の影響の下もとに生立おいたった西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携たずさえて地獄に落ちたのである。そ の結果として、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全延長に亙わたって霊化して、特殊の存在様態を構成する場合はほとんど見ることができない。 「女の許もとへ行くか。笞むちを忘るるな{11}」とは老婆がツァラトゥストラに与えた勧告であった。なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として 西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定 の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあって は「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。

かように意味体験としての「いき」がわが国の民族的存在規定の特殊性の下もとに成立するにかかわらず、我々は抽象的、形相的の空虚の世界に堕してしまっている「い き」の幻影に出逢う場合があまりにも多い。そうして、喧やかましい饒舌じょうぜつや空むなしい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。しかし、我々は かかる「出来合できあい」の類概念によって取交される flatus vocis に迷わされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢った場合、「かつて我々の精神が見たもの{12}」を具体的な如実の姿において想起しなければならぬ。そう して、この想起は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釈的に再認識せしめる地平にほかならない。ただし、想起さるべきものはいわゆるプラトン 的実在論の主張するがごとき類概念の抽象的一般性ではない。かえって唯名論の唱道する個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。この点において、プラトン の認識論の倒逆的転換が敢えてなされなければならぬ。しからばこの意味の想起アナムネシスの可能性を何によって繋つなぐことができるか。我々の精神的文化 を忘却のうちに葬り去らないことによるよりほかはない。我々の理想主義的非現実的文化に対して熱烈なるエロスをもち続けるよりほかはない。「いき」は武士 道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きる{13}のが「い き」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬しょうけいを懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむる ことはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。

脚 注13:「いき」の語源の研究は、生、息、行、意気の関係を存在学的に闡明することと相俟あいまってなされなければならない。「生」が基礎的地平であるこ とはいうまでもない。さて、「生きる」ということには二つの意味がある。第一には生理的に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられてい る。したがって「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じている。「息」は「生きる」ための生理的条件である。「春の梅、秋の尾花 のもつれ酒、それを小意気に呑のみなほす」という場合の「いき」と「息」との関係は単なる音韻上の偶然的関係だけではないであろう。「いきざし」という語 形はそのことを証明している。「そのいきざしは、夏の池に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ」という場合の「意気ざし」は、「息ざしもせず窺 うかがへば」の「息差」から来たものに相違ない。また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。ambulo が sum の認識根拠であり得るかをデカルトも論じた。そうして、「意気方」および「心意気」の語形で、「いき」は明瞭に「行いき」と発音される。「意気方よし」と は「行きかた善し」にほかならない。また、「好いた殿御へ心意気」「お七さんへの心意気」のように、心意気は「……への心意気」の構造をもって、相手へ 「行く」ことを語っている。さて、「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料してい る。それは精神的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」お よび「行」は、「意気」の地平に高められたときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである。


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