はじめに よんでください

自己決定に関する諸国民の権利

The Right of Nations of Self-Determination


池田光穂

レーニンの「自己決定に関する諸国民の権 利」(スペイン語:El derecho de las naciones a la autodeterminación, 1914)は、ながく、日本のナショナリストと社会主義/共産主義者の誤訳により「民族自決権」と訳されてきたが、この民族と は、国民解放戦線(National Liberation Front)の誤訳である民族解放戦線とともに「国民=ネーション」のことである。また、この表題にみるように、もともとは、集団としての共同体成員であ る国民による自己決定権のことであり、個人の自己決定権のことではない。ただし、個人によ る自己決定は、「他人に迷惑をかけない限り人間は何をしても自由 である」J.S. ミル『自由論』から由来する考え方は、行動の自己決定に主眼が置かれる のに対して、レーニンの自己決定は、未だ集団的権利を与えられていない「ある国民=ネーション」の集団的諸権利、とりわけ自分たちを統治する権能としての 国家機能の獲得を意味しているように思われる。

レーニンは、「ある国民=ネーション」が 他の国民による共同体から分離して国民国家をつくりだす権利のことを、この自己決定権のこととした。な お、「ネーションの起源」はより古い」

ヘーゲルとレーニンにからみ合わせて、植 民者は決して自己決定を容認しないという強い主張を下記のエメ・セゼールの引用から理解することができ る。

"This influence of politics upon culture is expressly recognised by Hegel in the Lessons from the philosophy of history when he writes this innocent little phrase which Lenin, however, must have considered less innocent than it appears as he quoted it and underlined it twice in the Philosophical Notebooks :/ "The importance of nature should be neither over- nor underestimated; certainly the gentle sky of Ionia greatly contributed to the grace of the poems of Homer. Nevertheless, it cannot isolation produce Homer. Nor does it always produce them. No bard arises under Turkish domination."/ This can mean only one thing, namely, that a political and social system that suppresses the self-determination of a people thereby kills the creative power if that people." (Cesaire 1956: 196)

「このような政治が文化に及ぼす影響は、 ヘーゲルが『歴史哲学講義』の中で、次のような無邪気なフレーズを書いたときにはっきりと認識されている。「とはいえ、自然が孤立してホメロスを生み出すことはありえない。また、自然が常にホメロスを生み出すわけでもないトルコの支配のもとでは、いかなる吟遊詩人も生まれない」/これが意味すること はただひとつ、すなわち、民衆の自己決定を抑圧する政治的・社会的システムは、それによってその民衆の創造力を殺すということである」(Cesaire 1956: 196)。

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以下は、その歴史的経緯である(ウィキペ ディア「民 族自決権について」による)。

1896 第二インタナショナル・ロンド ン大会、すべての国民=ネーションの自決権を承認する決議(full autonomy of all nationalities)を採択。

1903 

1906

1908-1909 

1914 レーニンは、ルクセンブルグに 反対するために「自己決定に関する諸国民の権利」を認めるにいたる。

以下の内 容は、(ウィキペディア「国 民の自決権について」による)※したがって、引用文中の「民族」はすべて「国民」に置換している。
コメント (池田)
1)商品 生産が完全な勝利をおさめるためには、ブルジョアジーが国内市場を獲得することが必要であり、同一の言語をつかう住民の住んでいる諸地域を、この言語が発達し文献のうちに固定するのを妨げ ているあらゆる障害をとりのぞいたうえ、国家として結集することが必要である。だから、近代資本主義のこれらの要求をもっともよく満たす国 民国家を形成することが、あらゆる国民運動の傾向である。資本主義時代の典型的なも の、正常なものは、国民国家である。したがって、国民の自決とは、ある国民が他国民の集合体から国家的に分離することを意味し、独立の国民 国家を形成することを意味している。
資本主義の 完成は、国民国家領域において可能になる。そのためには、国民が国家領域を形成する統一した主体=主権者になることが必要がある。
2)国 民運動の見地から見て根本的に異なっている資本主義の二つの時期を厳密に区別する必 要がある。一方では、それは、封建制度と絶対主義の崩壊の時期で あり、ブルジョア民主主義的な社会と国家の形成の時期、すなわち、国民運動がはじめて大衆的なものになり、出版物や代議機関への参加などによってすべての 階級をどのみち政治にひきいれる時期である。他方では、それは、立憲政体をうちたててからすでに久しく、プロレタリアートとブルジョアジーの敵対関係がつ よく発展した、まったく形成されおわった資本主義諸国家の時期であ りーー資本主義崩壊の前夜と呼ぶことのできる時期である。第一の時期にとって典型的 なのは、国民運動の目ざめであり、一般に政治的自由のための、とくに国民の権利のための闘争とむすびついて、もっとも数多い、もっとも「動 きだしのにぶい」層としての農民が、国民運動にひきいれられることである。第二の時 期にとって典型的なのは、大衆的なブルジョア民主主義運動のないこと、発展した資本主義が、すでに完全に商品取引のなかにひきいれられた諸国民をますます 接近させ、ますます混合させながら、国際的に一体となった資本と国際労働運動との敵対を前面におしだすことである。
2つの異 なる時間的位相のなかに資本主義を位置付ける。

2)資本主義国家時期では、資本と国民が接近し、大衆ブルジョア民主主義運動がみられもしないし、資本主義は国際労働運動との敵対をむき出しにする。
3)西 ヨーロッパ大陸では、ブルジョア民主主義革命の時代は、かなり限られた時期、すなわ ち、ほぼ1789年から1871年にわたっている。この時代こそまさに、国民運動と国民国家創設の時代であった。東ヨーロッパとアジアで は、ブルジョア民主主義革命の時代は、1905年にはじまったばかりである。ロシアが隣接諸国とともに、この時代を経過しつつあるからこそ、われわれは、わが綱領のなかに、国民自決権についての一条項を必要とする。
西ヨーロッ パの国民国家運動に比して、ロシアには、「国民による自決権」が未だないために「綱 領のなかに、国民自決権についての条項を必要」とする。
4)1896年のロンドン国際大会の決議は次のように述べている。「本大会は宣言す る。本大会は、す べての国民の完全な自決権に賛成し、現在、軍事的、国民的その他の専制の抑圧のもとに苦しんでいる、あらゆる国々の労働者に同情する。本大会は、これらす べての国の労働者に、全世界の自覚した労働者の隊列に参加して、国際資本主義にうちかち、国際社会民主主義運動の目的を実現するために、彼らとともにたた かうことを呼びかける」、と。
1896年の第二インターでは、国民の完 全の自決権の確立があってはじめて、国際社会民主主義運動が可能にな るという論理がある。
5)ロンドン大会に先立って、ポーラン ド独立の問題が『ノイエ・ツァイト』紙上で討論された。三つの見地が述べられた。(1) 「フラキ」(ポーランド社会党)の見地。ヘッケルは、インタナショナルがポーランドの独立要求 を、その綱領のうちでみとめることを要求した。(2) ローザ・ル クセンブルクの見地。ポーランドの社会主義者はポーランドの独立を要求してはならないという見地。(3) カ ウツキーの見地。この見地によれば、インタナショナルは、現在ではポーランドの独立をその綱領の一条項とすることができないが、ポーランドの社会主義者は この要求をかかげることが完全にできる。国民的圧迫がおこなわれている事情のもとで、国民解放の任務を無視することは絶対にまちがいであ る。
ポーランド独立問題に対する理解とコメン トでは、カウツキーの見解が一番まともということになる。
6)インタナショナルの決議にはカウツキーの見地のもっとも本質的、基本的な諸命題が再現されてい る。すなわち、一方では、あらゆる国民にたいする完全な自決権の、直接の、曲解の余地のない承認。他方では、労働者にたいする階級闘争の国 際的統一についてのおなじく明確な呼びかけ。
カウツキーの見解は、第二インターの見解 と同じである。
7)1903 年のロシア社会民主労働党第二回大会では、国民自決権の承認に関する綱領の条項は綱領委員会で議論された。ポーランド社会民主党の代表者はそこで国民自決 権の承認に反対し、容れられなかったため、大会から退場した。ポーランド社会民主党は1906年に党に加入したが、そのときにもそのあとにも綱領の修正を 要求していない
ポーランド社会民主党は1903年時点で も自決権の承認には決議していない。
8)大ロシア人的国民主義は、あらゆる 他の国民主義とも同じように、ブルジョア国でどの階級が首位をしめるかにしたがって、いろいろの局面を経過するであろう。1905年まで、われわれのとこ ろに見うけられたのは、ほとんど反動勢力の国民主義だけであった。革命後には、国民主義的自由主義派が生まれた。しかし今後、大ロシア人の国民主義的民主主義派が発生することは避けられない。1905年以後につよ く現れてきた被抑圧国民のあいだでの国民主義の勃興は、かならず、都市と農村における大ロシア人の小ブルジョアジーの国民主義をつよめるで あろう。
1905年以後につよく現れてきた被抑圧国民のあいだでの国民主義の勃興は、かならず、都市と 農村における大ロシア人の小ブルジョアジーの国民主義をつよめる」
9)このような事情は、ロシアのプロレタリアートに対して、二重の任務、もっとただしくいえば二面的な任務をあたえる。 すなわち、第一に、あらゆる国民主義、なによりも大ロシア人的国民主義とたたかうこ と、一般にあらゆる国民の完全な同権をみとめるだけではなくて、国家 建設の点での同権、すなわち国民自決権、分離権をみとめること。つぎに、それと同時に、すべての国民のあらゆる国民主義との闘争を有利にすすめるために、ブルジョアの国民的分立の傾 向に反対して、プロレタリアの闘争とプロレタリアの諸組織の統一を擁護し、それらを国際的統一体に緊密に結合するようにたたかうこと
レーニンは、ロシア・プロレタリアートに 矛盾する2つの要求をする;1)あらゆる国民主義、なによりも大ロシア人的国民主義 とたたかえ、そのために、国家建設の点での同権、すなわち国民自決 権、分離権をみとめよ2)すべての国民のあらゆる国民主義との闘争を 有利にすすめるためにブルジョアの国民的分派確立の傾向に 反対し、プロレタリアの闘争とプロレタリアの諸組織の統国際的統一体化に 働きかけよ。

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Self-determination

Self-determination[1] refers to a people's right to form its own political entity, and internal self-determination is the right to representative government with full suffrage.[2][3] Self-determination is a cardinal principle in modern international law, binding, as such, on the United Nations as an authoritative interpretation of the Charter's norms.[4][5] As a principle of international law the right of self-determination recognized in the 1960s concerns the colonial context of territories' right to independence or another outcome of decolonization. The principle does not state how the decision is to be made, nor what the outcome should be, whether it be independence, federation, protection, some form of autonomy or full assimilation.[6] The internationally recognized right of self-determination does not include a right to an independent state for every ethnic group within a former colonial territory. While there is ongoing discussion about the rights of minorities and indigenous people who are denied political participation in representative governments and consequently suffer systematic violations of human rights as a group, no right to secession is recognized under international law.[7][8]


Mollucan protesters against the treatment of Suharto's government to East Timor, in The Hague, Netherlands, 1986.

The concept was first expressed in the 1860s, and spread rapidly thereafter.[9] During and after World War I, the principle was encouraged by both Soviet Premier Vladimir Lenin and United States President Woodrow Wilson.[9] Having announced his Fourteen Points on 8 January 1918, on 11 February 1918 Wilson stated: "National aspirations must be respected; people may now be dominated and governed only by their own consent. 'Self determination' is not a mere phrase; it is an imperative principle of action."[10]

During World War II, the principle was included in the Atlantic Charter, jointly declared on 14 August 1941 by Franklin D. Roosevelt, President of the United States, and Winston Churchill, Prime Minister of the United Kingdom, who pledged The Eight Principal points of the Charter.[11] It was recognized as an international legal right after it was explicitly listed as a right in the UN Charter.[12]

Implementing the right to self-determination can be politically difficult, in part because there are multiple interpretations of what constitutes a people group and which groups may legitimately claim the right to self-determination.[13]
ネーションの自決=自己決定権

自決=自己決定権[1]とは、人民が自らの政治的実体を形成する権利の ことであり、内的自決とは、完全な参政権を有する代表制政府を実現する権利のことである[2][3]。自決は近代国際法における主要な原則であり、国連憲 章の規範の権威ある解釈として国連を拘束している[4][5]。この原則は、独立、連邦、保護、ある種の自治、完全な同化など、どのように決定されるの か、またどのような結果をもたらすべきかを述べていない[6]。国際的に認められている自決権には、旧植民地内のすべての民族が独立国家を持つ権利は含ま れていない。代表政府への政治参加を拒否され、結果として集団として組織的な人権侵害を受けている少数民族や先住民族の権利については議論が続いている が、国際法上、分離独立の権利は認められていない[7][8]。


1986年、オランダのハーグで、スハルト政権の東ティモールに対する処遇に反対するモルカンのデモ隊。

この概念は1860年代に初めて表明され、その後急速に広まった[9]。 第一次世界大戦中と戦後、この原則はソ連のウラジーミル・レーニン首相とアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領によって奨励された[9]。1918年1 月8日に14箇条を発表したウィルソンは、1918年2月11日に次のように述べている: 「民族の願望は尊重されなければならない。人々は今や、彼ら自身の同意によってのみ支配され、統治されることができる。自己決定』は単なるフレーズではな く、行動の必須原則である」[10]。

第二次世界大戦中、この原則は、1941年8月14日にアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルが共同宣言 した大西洋憲章に盛り込まれ、憲章の「8つの原則」を誓約した[11]。国連憲章に権利として明記されたことで、国際的な法的権利として認められた [12]。

自決権の行使は政治的に困難な場合があるが、その理由のひとつは、何をもって人民集団とするのか、どの集団が自決権を正当に主張することができるのかについて複数の解釈が存在するためである[13]。
Pre-20th century

The norm of self-determination can be originally traced to the American and French revolutions.[14] The European revolutions of 1848, the post-World War I settlement at Versailles, and the decolonization movement after World War II shaped and established the norm.[15]

Empires

Map of Ottoman Empire in 1683

The world possessed several traditional, continental empires such as the Ottoman, Russian, Austrian/Habsburg, and the Qing Empire. Political scientists often define competition in Europe during the Modern Era as a balance of power struggle, which also induced various European states to pursue colonial empires, beginning with the Spanish and Portuguese, and later including the British, French, Dutch, and German. During the early 19th century, competition in Europe produced multiple wars, most notably the Napoleonic Wars. After this conflict, the British Empire became dominant and entered its "imperial century", while nationalism became a powerful political ideology in Europe.

Later, after the Franco-Prussian War in 1870, "New Imperialism" was unleashed with France and later Germany establishing colonies in Middle East, Southeast Asia, the South Pacific, and Africa. Japan also emerged as a new power. Multiple theaters of competition developed across the world:

Africa: numerous European states competed for colonies in the "Scramble for Africa";
Central Asia: Russia and Britain competed for domination in the "Great Game"
East Asia: colonies and various spheres of influence were established, largely to the detriment of the Qing Empire.
The Ottoman Empire, Austrian Empire, Russian Empire, Qing Empire and the new Empire of Japan maintained themselves, often expanding or contracting at the expense of another empire. All ignored notions of self-determination for those governed.[16]

In the 16th century the Spanish professor of law at the University of Salamanca wrote: "Toda nación tiene derecho a gobernarse a sí misma y puede aceptar el régimen político que quiera, aún cuando no sea el mejor. All nations have the right to govern themselves and can accept the political regime it wants, even if it is not the best."[17]

Rebellions and emergence of nationalism

The American Revolution of the 1770s has been seen as the first assertion of the right of national and democratic self-determination, because of the explicit invocation of natural law, the natural rights of man, as well as the consent of, and sovereignty by, the people governed; these ideas were inspired particularly by John Locke's enlightened writings of the previous century. Thomas Jefferson further promoted the notion that the will of the people was supreme, especially through authorship of the United States Declaration of Independence which inspired Europeans throughout the 19th century.[13] The French Revolution was motivated similarly and legitimatized the ideas of self-determination on that Old World continent.[18][19]

Within the New World during the early 19th century, most of the nations of Spanish America achieved independence from Spain. The United States supported that status, as policy in the hemisphere relative to European colonialism, with the Monroe Doctrine. The American public organized associated groups, and Congressional resolutions, often supported such movements, particularly the Greek War of Independence (1821–29) and the demands of Hungarian revolutionaries in 1848. Such support, however, never became official government policy, due to balancing of other national interests. After the American Civil War and with increasing capability, the United States government did not accept self-determination as a basis during its Purchase of Alaska and attempted purchase of the West Indian islands of Saint Thomas and Saint John in the 1860s, or its growing influence in the Kingdom of Hawaii, that led to annexation in 1898. With its victory in the Spanish–American War in 1899 and its growing stature in the world, the United States supported annexation of the former Spanish colonies of Guam, Puerto Rico and the Philippines, without the consent of their peoples, and it retained "quasi-suzerainty" over Cuba, as well.[13]

Nationalist sentiments emerged inside the traditional empires including: Pan-Slavism in Russia; Ottomanism, Kemalist ideology and Arab nationalism in the Ottoman Empire; State Shintoism and Japanese identity in Japan; and Han identity in juxtaposition to the Manchurian ruling class in China. Meanwhile, in Europe itself there was a rise of nationalism, with nations such as Greece, Hungary, Poland and Bulgaria seeking or winning their independence.

Karl Marx supported such nationalism, believing it might be a "prior condition" to social reform and international alliances.[20] In 1914 Vladimir Lenin wrote: "[It] would be wrong to interpret the right to self-determination as meaning anything but the right to existence as a separate state."[21]

Although President Theodore Roosevelt believed that America had reached great stature because it was ruled by white men, he also believed that individual self-determination was possible and that other races had the potential to rise in status.[22]
20世紀以前

1848年のヨーロッパ革命、第一次世界大戦後のヴェルサイユ和解、第二次世界大戦後の脱植民地化運動がこの規範を形成し、確立した[15]。

帝国

1683年のオスマン帝国の地図

世界には、オスマン帝国、ロシア帝国、オーストリア/ハプスブルク帝国、清帝国など、伝統的な大陸帝国がいくつか存在した。政治学者はしばしば、近代にお けるヨーロッパにおける競争を勢力均衡のための闘争と定義するが、この闘争は、スペインやポルトガルに始まり、イギリス、フランス、オランダ、ドイツな ど、ヨーロッパのさまざまな国家が植民地帝国を追求するきっかけにもなった。19世紀初頭、ヨーロッパにおける競争は、ナポレオン戦争に代表される複数の 戦争を生み出した。この紛争後、大英帝国が支配的となり「帝政の世紀」を迎える一方、ナショナリズムはヨーロッパで強力な政治イデオロギーとなった。

その後、1870年に普仏戦争が勃発すると、フランス、そしてドイツが中東、東南アジア、南太平洋、アフリカに植民地を築き、「新帝国主義」が解き放たれた。日本も新たな大国として台頭した。世界各地で複数の競争舞台が展開された:

アフリカ: 多数のヨーロッパ諸国が「アフリカのためのスクランブル」で植民地を争奪した;
中央アジア: 中央アジア:ロシアとイギリスが "グレート・ゲーム "で支配を競った。
東アジア: 植民地とさまざまな勢力圏が確立され、清帝国に大きな損害を与えた。
オスマン帝国、オーストリア帝国、ロシア帝国、清帝国、そして新しい大日本帝国は、しばしば他の帝国の犠牲の上に自国を維持し、拡大したり縮小したりした。いずれも統治される側の自決という概念を無視していた[16]。

16世紀、スペインのサラマンカ大学法学部の教授は、「すべての国家は自らを統治する権利を有し、たとえそれが最良でないとしても、望む政治体制を受け入 れることができる。すべての国家は自らを統治する権利を持っており、たとえそれが最善でなくても、望む政治体制を受け入れることができる」[17]。

反乱とナショナリズムの出現

1770年代のアメリカ革命は、自然法、人間の自然権、統治される人々の同意と主権を明確に唱えたことから、国家的・民主的自己決定権の最初の主張とみな されている。トーマス・ジェファーソンは、特に19世紀を通じてヨーロッパ人を刺激したアメリカ合衆国独立宣言の著者であることを通して、人民の意志が最 高であるという考え方をさらに推進した[13]。フランス革命も同様の動機で、旧世界の大陸における自己決定の考え方を正当化した[18][19]。

19世紀初頭の新世界では、スペイン領アメリカのほとんどの国々がスペインからの独立を達成した。アメリカはモンロー・ドクトリンによって、ヨーロッパの 植民地主義に対する半球の政策として、その地位を支持した。特にギリシャ独立戦争(1821-29)や1848年のハンガリー革命家の要求などである。し かし、このような支援は、他の国益との兼ね合いから、政府の公式方針となることはなかった。アメリカ南北戦争後、アメリカ政府はその能力を高めながら、 1860年代のアラスカ購入や西インド諸島のセント・トーマス島とセント・ジョン島の購入の試み、あるいはハワイ王国への影響力の拡大、1898年の併合 に至るまで、自決を基本として受け入れなかった。1899年に米西戦争に勝利し、世界における地位が高まるにつれて、アメリカは旧スペイン植民地であった グアム、プエルトリコ、フィリピンの併合を国民の同意なしに支持し、キューバに対しても「準摂政権」を保持した[13]。

伝統的な帝国内部では、以下のような民族主義的な感情が生まれた: ロシアでは汎スラヴ主義、オスマン帝国ではオスマン主義、ケマリスト思想、アラブ民族主義、日本では国家神道と日本人のアイデンティティ、中国では満州支 配階級と対立する漢民族のアイデンティティなどである。一方、ヨーロッパではナショナリズムが台頭し、ギリシャ、ハンガリー、ポーランド、ブルガリアなど の国々が独立を目指したり、勝ち取ったりした。

カール・マルクスはこのようなナショナリズムを支持し、それが社会改革や国際同盟の「先行条件」になると考えていた[20]。 1914年、ウラジーミル・レーニンは「自決権を、独立国家として存在する権利以外の何ものをも意味すると解釈するのは間違っているだろう」と書いている [21]。

セオドア・ルーズベルト大統領は、アメリカは白人男性によって支配されていたからこそ偉大な地位に到達したのだと考えていたが、彼はまた、個人の自決は可能であり、他の人種にも地位向上の可能性があると信じていた[22]。
World Wars I and II

Europe, Asia and Africa


Map of territorial changes in Europe after World War I (as of 1923)

Map of the world in 1945, showing United Nations Trusteeship Council territories in green[23]

Woodrow Wilson revived America's commitment to self-determination, at least for European states, during World War I. When the Bolsheviks came to power in Russia in the October Revolution, they called for Russia's immediate withdrawal as a member of the Allies of World War I. They also supported the right of all nations, including colonies, to self-determination."[21] The 1918 Constitution of the Soviet Union acknowledged the right of secession for its constituent republics.[13]

This presented a challenge to Wilson's more limited demands. In January 1918 Wilson issued his Fourteen Points of January 1918 which, among other things, called for adjustment of colonial claims, insofar as the interests of colonial powers had equal weight with the claims of subject peoples.[13] The Treaty of Brest-Litovsk in March 1918 led to Soviet Russia's exit from the war and the nominal independence of Armenia, Finland, Estonia, Latvia, Ukraine, Lithuania, Georgia and Poland, though in fact those territories were under German control.[citation needed] The end of the war led to the dissolution of the defeated Austro-Hungarian Empire and Czechoslovakia and the union of the State of Slovenes, Croats and Serbs and the Kingdom of Serbia as new states out of the wreckage of the Habsburg empire. However, this imposition of states where some nationalities (especially Poles, Czechs, and Serbs and Romanians) were given power over nationalities who disliked and distrusted them was eventually used as a pretext for German aggression in World War II.

Wilson publicly argued that the agreements made in the aftermath of the war would be a "readjustment of those great injustices which underlie the whole structure of European and Asiatic society", which he attributed to the absence of democratic rule. The new order emerging in the postwar period would, according to Wilson, place governments "in the hands of the people and taken out of the hands of coteries and of sovereigns, who had no right to rule over the people." The League of Nations was established as the symbol of the emerging postwar order; one of its earliest tasks was to legitimize the territorial boundaries of the new nation-states created in the territories of the former Ottoman Empire, Asia, and Africa. The principle of self-determination did not extend so far as to end colonialism; under the reasoning that the local populations were not civilized enough the League of Nations was to assign each of the post-Ottoman, Asian and African states and colonies to a European power by the grant of a League of Nations mandate.[24]

One of the German objections to the Treaty of Versailles was a somewhat selective application of the principle of self-determination as the Republic of German-Austria, which included the Sudetenland, was seen as representing the will to join Germany in those regions, while the majority of people in Danzig wanted to remain within the Reich. However, the Allies ignored the German objections; Wilson's 14 Points had called for Polish independence to be restored and Poland to have "secure access to the sea", which would imply that the German city of Danzig (modern Gdańsk, Poland), which occupied a strategic location where the Vistula River flowed into the Baltic Sea, be ceded to Poland.[25] At the Paris Peace Conference in 1919, the Polish delegation led by Roman Dmowski asked for Wilson to honor point 14 of the 14 points by transferring Danzig to Poland, arguing that the city was rightfully part of Poland because it was Polish until 1793, and that Poland would not be economically viable without it.[25] During the First Partition of Poland in 1772, the inhabitants of Danzig fought fiercely for it to remain a part of Poland,[26] but as a result of the Germanisation process in the 19th century,[27] 90% of the people in Danzig were German by 1919, which made the Allied leaders at the Paris peace conference compromise by creating the Free City of Danzig, a city-state in which Poland had certain special rights.[28] Through the city of Danzig was 90% German and 10% Polish, the surrounding countryside around Danzig was overwhelmingly Polish, and the ethnically Polish rural areas included in the Free City of Danzig objected, arguing that they wanted to be part of Poland.[25] Neither the Poles nor the Germans were happy with this compromise and the Danzig issue became a flash-point of German-Polish tension throughout the interwar period.[29]

During the 1920s and 1930s there were some successful movements for self-determination in the beginnings of the process of decolonization. In the Statute of Westminster the United Kingdom granted independence to Canada, New Zealand, Newfoundland, the Commonwealth of Australia, and the Union of South Africa after the British parliament declared itself as incapable of passing laws over them without their consent. Although the Irish Free State had already gained internationally recognized independence at the conclusion of the Irish War of Independence, as established in the Anglo-Irish Treaty, it was still included in the Statute of Westminster. This statute built on the Balfour Declaration of 1926 which recognized the autonomy of these British dominions, representing the first phase of the creation of the British Commonwealth of Nations. Egypt, Afghanistan, and Iraq also achieved independence from Britain. Other efforts were unsuccessful, like the Indian independence movement. And Italy, Japan and Germany all initiated new efforts to bring certain territories under their control, leading to World War II. In particular, the National Socialist Program invoked this right of nations in its first point (out of 25), as it was publicly proclaimed on 24 February 1920 by Adolf Hitler.

In Asia, Japan became a rising power and gained more respect from Western powers after its victory in the Russo-Japanese War. Japan joined the Allied Powers in World War I and attacked German colonial possessions in the Far East, adding former German possessions to its own empire. In the 1930s, Japan gained significant influence in Inner Mongolia and Manchuria after it invaded Manchuria. It established Manchukuo, a puppet state in Manchuria and eastern Inner Mongolia. This was essentially the model Japan followed as it invaded other areas in Asia and established the Greater East Asia Co-Prosperity Sphere. Japan went to considerable trouble to argue that Manchukuo was justified by the principle of self-determination, claiming that people of Manchuria wanted to break away from China and asked the Kwantung Army to intervene on their behalf. However, the Lytton commission which had been appointed by the League of Nations to decide if Japan had committed aggression or not, stated the majority of people in Manchuria who were Han Chinese who did not wish to leave China.

In 1912, the Republic of China officially succeeded the Qing Dynasty, while Outer Mongolia, Tibet and Tuva proclaimed their independence. Independence was not accepted by the government of China. By the Treaty of Kyakhta (1915) Outer Mongolia recognized China's sovereignty. However, the Soviet threat of seizing parts of Inner Mongolia induced China to recognize Outer Mongolia's independence, provided that a referendum was held. The referendum took place on October 20, 1945, with (according to official numbers) 100% of the electorate voting for independence.

Many of East Asia's current disputes to sovereignty and self-determination stem from unresolved disputes from World War II. After its fall, the Empire of Japan renounced control over many of its former possessions including Korea, Sakhalin Island, and Taiwan. In none of these areas were the opinions of affected people consulted, or given significant priority. Korea was specifically granted independence but the receiver of various other areas was not stated in the Treaty of San Francisco, giving Taiwan de facto independence although its political status continues to be ambiguous.
第一次世界大戦と第二次世界大戦

ヨーロッパ、アジア、アフリカ


第一次世界大戦後のヨーロッパにおける領土変更の地図(1923年現在)

1945年の世界地図。国際連合信託統治理事会の領土を緑色で示す[23]。

10月革命でボリシェヴィキがロシアで政権を握ると、ボリシェヴィキは第一次世界大戦の連合国の一員としてロシアの即時撤退を要求した。

これは、ウィルソンのより限定的な要求に対する挑戦となった。1918年1月、ウィルソンは1918年1月の14箇条を発表し、とりわけ植民地支配国の利 益が従属民族の主張と同等の重みを持つ限りにおいて、植民地支配権の調整を求めた[13]。 [戦争終結により、敗戦したオーストリア=ハンガリー帝国とチェコスロバキアは解体され、ハプスブルク帝国の残骸から新しい国家としてスロベニア・クロア チア・セルビア人国家とセルビア王国が統合された。しかし、このように一部の民族(特にポーランド人、チェコ人、セルビア人とルーマニア人)が、自分たち を嫌い、不信感を抱いている民族に対して権力を与えられた国家の押し付けは、最終的には第二次世界大戦におけるドイツの侵略の口実として利用された。

ウィルソンは、戦後の協定は「ヨーロッパとアジアの社会構造の根底にある大きな不公正の再調整」であると公に主張した。ウィルソンによれば、戦後の新しい 秩序は、政府を「人民の手に委ね、人民を支配する権利のない子飼いや君主の手から引き離す」ものであった。国際連盟は戦後秩序の象徴として設立され、その 初期の任務のひとつは、旧オスマン帝国、アジア、アフリカの領土に誕生した新しい国民国家の領土境界を正当化することであった。自決の原則は植民地主義を 終わらせるまでには至らなかった。現地の住民は十分に文明化されていないという理屈のもと、国際連盟は国際連盟の委任統治を付与することによって、オスマ ン帝国、アジア、アフリカのそれぞれの国家と植民地をヨーロッパの大国に割り当てることになっていた[24]。

ヴェルサイユ条約に対するドイツ側の反論のひとつは、自決原則のやや選択的な適用であった。スデーテンラントを含むドイツ=オーストリア共和国は、これら の地域におけるドイツへの加盟の意志を代表するものと見なされた一方で、ダンツィヒでは国民の大多数が帝国内への残留を望んでいたからである。しかし、連 合国はドイツの反対を無視した。ウィルソンの14箇条は、ポーランドの独立を回復し、ポーランドが「海への安全なアクセス」を確保することを求めており、 これは、ヴィスワ川がバルト海に流れ込む戦略的位置を占めるドイツの都市ダンツィヒ(現在のポーランド、グダニスク)をポーランドに割譲することを意味し た。 1919年のパリ講和会議において、ロマン・ドモフスキ率いるポーランド代表団は、ダンツィヒは1793年までポーランド領であったため、正当にポーラン ドの一部であり、ダンツィヒがなければポーランドは経済的に成り立たないと主張し、14項目のうち14項目を尊重し、ダンツィヒをポーランドに譲渡するよ うウィルソンに要請した[25]。 [25]1772年の第1次ポーランド分割の際、ダンツィヒの住民はポーランドの一部であることを求めて激しく争ったが[26]、19世紀にドイツ化が進 んだ結果[27]、1919年までにダンツィヒの人口の90%がドイツ人となり、パリ講和会議の連合国首脳は、ポーランドが一定の特別な権利を有する都市 国家である自由都市ダンツィヒを創設することで妥協した。 [ポーランド人もドイツ人もこの妥協に満足せず、ダンツィヒ問題は戦間期を通じてドイツとポーランドの緊張の火種となった[29]。

1920年代から1930年代にかけては、脱植民地化のプロセスの始まりとして、いくつかの自決運動が成功した。ウェストミンスター憲章において、イギリ スはカナダ、ニュージーランド、ニューファンドランド、オーストラリア連邦、南アフリカ連邦の独立を認めた。アイルランド自由国は、アングロ・アイリッ シュ条約で定められたアイルランド独立戦争の終結時にすでに国際的に認められた独立を獲得していたが、それでもウェストミンスター憲章に含まれていた。こ の法令は、これらのイギリス領の自治を認めた1926年のバルフォア宣言を基礎とするもので、イギリス連邦創設の第一段階を示すものであった。エジプト、 アフガニスタン、イラクもイギリスからの独立を果たした。その他の努力は、インドの独立運動のように失敗に終わった。イタリア、日本、ドイツはいずれも、 特定の領土を自国の支配下に置こうと新たな努力を始め、第二次世界大戦につながった。特に、アドルフ・ヒトラーによって1920年2月24日に公布された 国家社会主義綱領は、その最初のポイント(25のうち)でこの国家の権利を発動した。

アジアでは、日本は日露戦争に勝利して台頭し、欧米列強から尊敬を集めるようになった。日本は第一次世界大戦で連合国に加わり、極東のドイツの植民地領を 攻撃し、かつてのドイツ領を自国の帝国に加えた。1930年代、日本は満州を侵略した後、内モンゴルと満州で大きな影響力を得た。日本は満州と内モンゴル 東部に傀儡国家である満州国を建国した。これは基本的に、日本がアジアの他の地域を侵略し、大東亜共栄圏を確立する際に踏襲したモデルである。日本は、満 州の人々が中国からの脱却を望んでおり、関東軍に彼らのために介入するよう要請したと主張し、満州国が自決の原則によって正当化されると主張するために多 大な労力を費やした。しかし、日本が侵略を行ったか否かを決定するために国際連盟によって任命されたリットン委員会は、満州の人々の大多数は中国からの離 脱を望まない漢民族であると述べた。

1912年、中華民国は正式に清朝を継承し、外モンゴル、チベット、トゥバは独立を宣言した。独立は中国政府には受け入れられなかった。キヤフタ条約 (1915年)によって、外モンゴルは中国の主権を承認した。しかし、ソ連が内モンゴルの一部を占領するという脅威を受けた中国は、住民投票を実施するこ とを条件に、外モンゴルの独立を承認した。住民投票は1945年10月20日に行われ、有権者の100%が独立を支持した(公式発表)。

東アジアの主権と自決をめぐる現在の争いの多くは、第二次世界大戦中の未解決の争いに端を発している。大日本帝国はその崩壊後、朝鮮半島、樺太、台湾を含 む多くの旧領土に対する支配権を放棄した。いずれの地域でも、影響を受けた人々の意見は聞かれず、優先されることもなかった。韓国は具体的に独立を認めら れたが、他の様々な地域の受け皿はサンフランシスコ条約に明記されず、台湾は事実上の独立を果たしたが、その政治的地位はあいまいなままである。
The Cold War world

The UN Charter and resolutions

In 1941 Allies of World War II declared the Atlantic Charter and accepted the principle of self-determination. In January 1942 twenty-six states signed the Declaration by United Nations, which accepted those principles. The ratification of the United Nations Charter in 1945 at the end of World War II placed the right of self-determination into the framework of international law and diplomacy.

Chapter 1, Article 1, part 2 states that purpose of the UN Charter is: "To develop friendly relations among nations based on respect for the principle of equal rights and self-determination of peoples, and to take other appropriate measures to strengthen universal peace."[30]
Article 1 in both the International Covenant on Civil and Political Rights (ICCPR)[31] and the International Covenant on Economic, Social and Cultural Rights (ICESCR)[32] reads: "All peoples have the right of self-determination. By virtue of that right they freely determine their political status and freely pursue their economic, social and cultural development. "
The United Nations Universal Declaration of Human Rights article 15 states that everyone has the right to a nationality and that no one should be arbitrarily deprived of a nationality or denied the right to change nationality.

Western European colonial empires in Asia and Africa disintegrated after World War II

On 14 December 1960, the United Nations General Assembly adopted United Nations General Assembly Resolution 1514 (XV) subtitled "Declaration on the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoples", which supported the granting of independence to colonial countries and people by providing an inevitable legal linkage between self-determination and its goal of decolonisation. It postulated a new international law-based right of freedom to exercise economic self-determination. Article 5 states: Immediate steps shall be taken in Trust and Non-Self-Governing Territories,[33] or all other territories which have not yet attained independence, to transfer all powers to the people of those territories, without any conditions or reservations, in accordance with their freely expressed will and desire, without any distinction as to race, creed or colour, in order to enable them to enjoy complete independence and freedom.

On 15 December 1960 the United Nations General Assembly adopted United Nations General Assembly Resolution 1541 (XV), subtitled "Principles which should guide members in determining whether or nor an obligation exists to transmit the information called for under Article 73e of the United Nations Charter in Article 3", which provided that "[t]he inadequacy of political, economic, social and educational preparedness should never serve as a pretext for delaying the right to self-determination and independence." To monitor the implementation of Resolution 1514, in 1961 the General Assembly created the Special Committee referred to popularly as the Special Committee on Decolonization[34] to ensure decolonization complete compliance with the principles of self-determination in General Assembly Resolution 1541 (XV).[35][36][37]

However, the charter and other resolutions did not insist on full independence as the best way of obtaining self-government, nor did they include an enforcement mechanism. Moreover, new states were recognized by the legal doctrine of uti possidetis juris, meaning that old administrative boundaries would become international boundaries upon independence if they had little relevance to linguistic, ethnic, and cultural boundaries.[38][39] Nevertheless, justified by the language of self-determination, between 1946 and 1960, thirty-seven new nations in Asia, Africa, and the Middle East gained independence from colonial powers.[13][40][41] The territoriality issue inevitably would lead to more conflicts and independence movements within many states and challenges to the assumption that territorial integrity is as important as self-determination.[38]

The communist versus capitalist worlds

See also: Allied intervention in the Russian Civil War
Decolonization in the world was contrasted by the Soviet Union's successful post-war expansionism. Tuva and several regional states in Eastern Europe, the Baltic, and Central Asia had been fully annexed by the Soviet Union during World War II. Now, it extended its influence by establishing the satellite states of Eastern Germany and the countries of Eastern Europe, along with support for revolutionary movements in China and North Korea. Although satellite states were independent and possessed sovereignty, the Soviet Union violated principles of self-determination by suppressing the Hungarian revolution of 1956 and the Prague Spring Czechoslovak reforms of 1968. It invaded Afghanistan to support a communist government assailed by local tribal groups.[13] However, Marxism–Leninism and its theory of imperialism were also strong influences in the national emancipation movements of Third World nations rebelling against colonial or puppet regimes. In many Third World countries, communism became an ideology that united groups to oppose imperialism or colonization.

Soviet actions were contained by the United States which saw communism as a menace to its interests. Throughout the cold war, the United States created, supported, and sponsored regimes with various success that served their economic and political interests, among them anti-communist regimes such as that of Augusto Pinochet in Chile and Suharto in Indonesia. To achieve this, a variety of means was implemented, including the orchestration of coups, sponsoring of anti-communist countries and military interventions. Consequently, many self-determination movements, which spurned some type of anti-communist government, were accused of being Soviet-inspired or controlled.[13]

Asia

In Asia, the Soviet Union had already converted Mongolia into a satellite state but abandoned propping up the Second East Turkestan Republic and gave up its Manchurian claims to China. The new People's Republic of China had gained control of mainland China in the Chinese Civil War. The Korean War shifted the focus of the Cold War from Europe to Asia, where competing superpowers took advantage of decolonization to spread their influence.

In 1947, India gained independence from the British Empire. The empire was in decline but adapted to these circumstances by creating the British Commonwealth—since 1949 the Commonwealth of Nations—which is a free association of equal states. As India obtained its independence, multiple ethnic conflicts emerged in relation to the formation of a statehood during the Partition of India which resulted in Islamic Pakistan and Secular India. Before the advent of the British, no empire based in mainland India had controlled any part of what now makes up the country's Northeast, part of the reason for the ongoing insurgency in Northeast India.[42] In 1971 Bangladesh obtained independence from Pakistan.

Burma also gained independence from the British Empire, but declined membership in the Commonwealth.

Indonesia gained independence from the Dutch Empire in 1949 after the latter failed to restore colonial control. As mentioned above, Indonesia also wanted a powerful position in the region that could be lessened by the creation of united Malaysia. The Netherlands retained its New Guinea part from the previous Dutch East Indies, but Indonesia threatened to invade and annex it. A vote was supposedly taken under the UN sponsored Act of Free Choice to allow West New Guineans to decide their fate, although many dispute its veracity. Later, Portugal relinquished control over East Timor in 1975, at which time Indonesia promptly invaded and annexed it. In 1999, Indonesian president B. J. Habibie was pressured by Australia and the United Nations to give East Timor independence. The people of former Indonesian East Timor were given a choice of either greater autonomy within Indonesia or independence. 78.5% of East Timorese voted for independence, rejecting Indonesia's special autonomy proposal.[43]
冷戦の世界

国連憲章と決議

1941年、第二次世界大戦の連合国は大西洋憲章を宣言し、自決の原則を受け入れた。1942年1月、26カ国が国連宣言に署名し、これらの原則を受け入れた。第二次世界大戦末期の1945年に国際連合憲章が批准され、自決権は国際法と外交の枠組みに組み込まれた。

第1章第1条第2部では、国連憲章の目的は「諸国民の平等の権利及び自決の原則の尊重に基づき、国家間の友好関係を発展させ、その他普遍的平和を強化するために適当な措置をとること」であると述べている[30]。
市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)[31]および経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(ICESCR)[32]の第1条は次 のとおりである: 「すべての人民は、自己決定権を有する。その権利によって、彼らは自由に政治的地位を決定し、自由に経済的、社会的および文化的発展を追求する。"
国連の世界人権宣言第15条は、すべての人は国籍を持つ権利を有し、何人も恣意的に国籍を奪われたり、国籍を変更する権利を否定されたりしてはならないと述べている。

アジアとアフリカにおける西欧の植民地帝国は、第二次世界大戦後に崩壊した。

1960年12月14日、国連総会は「植民地国及び人民への独立付与に関する宣言」と副題のついた国連総会決議1514(XV)を採択し、自決とその目標 である脱植民地化の間に必然的な法的結びつきを与えることで、植民地国及び人民への独立付与を支持した。そして、経済的自決の自由という国際法に基づく新 たな権利を提唱した。第5条にはこうある: 信託統治領および非自治領[33]、またはまだ独立を達成していない他のすべての領土において、完全な独立と自由を享受できるようにするため、いかなる条 件や留保もなしに、自由に表明された意志と願望に従って、人種、信条、肌の色によるいかなる区別もなく、すべての権限をそれらの領土の人々に移譲するため の即時の措置を講じなければならない。

1960年12月15日、国際連合総会は国際連合総会決議1541(XV)を採択した。この決議には、「国際連合憲章第3条73eに基づき要請される情報 を伝達する義務が存在するか否かを決定する際に加盟国を導くべき原則」という副題が付され、「政治的、経済的、社会的および教育的準備の不備が、自決権お よび独立を遅らせる口実となることがあってはならない」と規定されていた。決議1514の履行を監視するため、総会は1961年に脱植民地化特別委員会 [34]と一般に呼ばれる特別委員会を設置し、脱植民地化が総会決議1541(XV)の自決の原則を完全に遵守していることを確認した[35][36] [37]。

しかし、憲章やその他の決議は、自治を獲得する最良の方法として完全な独立を主張するものではなく、強制メカニズムを含むものでもなかった。さらに、新国 家はuti possidetis jurisの法理によって承認され、言語的、民族的、文化的な境界線との関連性が低い場合には、独立と同時に古い行政境界線が国際的な境界線となることを 意味していた。 [38][39]にもかかわらず、自決の言葉によって正当化され、1946年から1960年の間にアジア、アフリカ、中東の37の新しい国家が植民地支配 国から独立した[13][40][41]。領土問題は必然的に多くの国家における紛争や独立運動、そして領土保全が自決と同じくらい重要であるという仮定 に対する挑戦をさらに引き起こすことになる[38]。

共産主義〈対〉資本主義の世界

以下も参照: ロシア内戦への連合国の介入
世界における脱植民地化は、ソビエト連邦が戦後拡張主義に成功したことと対照的であった。トゥバと東欧、バルト海、中央アジアのいくつかの地域国家は、第 二次世界大戦中にソ連に完全に併合された。そして今、東ドイツと東欧諸国の衛星国家を設立し、中国と北朝鮮の革命運動を支援することによって、その影響力 を拡大した。衛星国は独立し、主権を有していたが、ソ連は1956年のハンガリー革命や1968年の「プラハの春」チェコスロバキア改革を弾圧し、自決の 原則に違反した。しかし、マルクス・レーニン主義とその帝国主義理論は、植民地政権や傀儡政権に反抗する第三世界の国々の民族解放運動にも強い影響を与え た。多くの第三世界諸国において、共産主義は、帝国主義や植民地化に反対するグループを団結させるイデオロギーとなった。

ソ連の行動は、共産主義を自国の利益に対する脅威と見なしたアメリカによって封じ込められた。冷戦期を通じて、アメリカは経済的、政治的利益にかなうさま ざまな成功を収めた政権を作り、支援し、後援した。その中には、チリのアウグスト・ピノチェトやインドネシアのスハルトのような反共政権も含まれていた。 これを実現するために、クーデターの組織化、反共産主義国のスポンサー、軍事介入など、さまざまな手段が用いられた。その結果、ある種の反共政権に背を向 けた多くの自決運動は、ソ連に影響された、あるいは支配されていると非難された[13]。

アジア

アジアでは、ソ連はすでにモンゴルを衛星国に転換していたが、第二東トルキスタン共和国への支援を放棄し、満州の領有権を中国に放棄した。新中華人民共和 国は、中国内戦で中国大陸の支配権を獲得していた。朝鮮戦争によって、冷戦の焦点はヨーロッパからアジアへと移り、競合する超大国は脱植民地化を利用して 影響力を拡大した。

1947年、インドは大英帝国から独立した。大英帝国は衰退の一途をたどっていたが、対等な国家による自由連合体である英連邦(1949年以降は英連邦) を創設することで、この状況に適応した。インドが独立を果たすと、イスラム教国パキスタンと世俗国インドが誕生したインド分割の際、国家形成に関連して複 数の民族対立が生じた。1971年、バングラデシュがパキスタンから独立。

ビルマも大英帝国から独立したが、英連邦への加盟は辞退した。

インドネシアは1949年、オランダ帝国が植民地支配の回復に失敗したため、オランダ帝国から独立した。前述したように、インドネシアもまた、統一マレー シアの誕生によって軽減される可能性のある、この地域における強力な地位を欲していた。オランダは旧オランダ領東インドからニューギニア領を保持したが、 インドネシアはこれを侵略し併合すると脅した。国連が後援する自由選択法に基づき、西ニューギニア人が自分たちの運命を決めるための投票が行われたとされ るが、その真偽については異論が多い。その後、ポルトガルは1975年に東ティモールの支配権を放棄し、インドネシアは直ちに東ティモールに侵攻し併合し た。1999年、インドネシアのB・J・ハビビ大統領はオーストラリアと国連から圧力を受け、東ティモールを独立させた。旧インドネシア領東ティモールの 人々は、インドネシア国内での自治を拡大するか、独立するかの選択を迫られた。東ティモール人の78.5%が独立に投票し、インドネシアの特別自治案は拒 否された[43]。
After the Cold War


Changes in national boundaries after the end of the Cold War

The Cold War began to wind down after Mikhail Gorbachev assumed power as Soviet General Secretary in March 1985. With the cooperation of the U.S. President Ronald Reagan, Gorbachev wound down the size of the Soviet Armed Forces and reduced nuclear arms in Europe, while liberalizing the Soviet economy.

In the revolutions of 1989 – 90, the communist regimes of Soviet satellite states collapsed in rapid succession in Poland, Hungary, Czechoslovakia, East Germany, Bulgaria, Romania, and Mongolia. East and West Germany united, Czechoslovakia peacefully split into Czech Republic and Slovakia, while in the 1990s Yugoslavia began a violent break up into 6 states. Macedonia became an independent nation and broke off from Yugoslavia peacefully. Kosovo, which was previously an autonomous unit of Serbia declared independence in 2008, but has received less international recognition.[13]

In December 1991, Gorbachev resigned as president and the Soviet Union dissolved relatively peacefully into fifteen sovereign republics, all of which rejected Communism and most of which adopted democratic reforms and free-market economies. Inside those new republics, four major areas have claimed their own independence, but not received widespread international recognition.

After decades of civil war, Indonesia finally recognized the independence of East Timor in 2002.

In 1949, the Communist Party won the Chinese Civil War and established the People's Republic of China in Mainland China. The Kuomintang-led Republic of China government retreated to Taipei, its jurisdiction now limited to Taiwan and several outlying islands. Since then, the People's Republic of China has been involved in disputes with the ROC over issues of sovereignty and the political status of Taiwan.

As noted, self-determination movements remain strong in some areas of the world. Some areas possess de facto independence, such as Taiwan, North Cyprus, Kosovo, and South Ossetia, but their independence is disputed by one or more major states. Significant movements for self-determination also persist for locations that lack de facto independence, such as East Turkistan ("Xinjiang"), Kurdistan, Balochistan, Chechnya, and the State of Palestine
冷戦後


冷戦終結後の国境の変化

1985年3月にミハイル・ゴルバチョフがソ連書記長に就任すると、冷戦は終結に向かった。レーガン米大統領の協力を得て、ゴルバチョフはソ連軍の規模を縮小し、ヨーロッパにおける核兵器を削減する一方、ソ連経済を自由化した。

1989年から90年にかけての革命では、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア、モンゴルで、ソ連衛星国の共産 主義体制が次々と崩壊した。東西ドイツは統一し、チェコスロバキアはチェコ共和国とスロバキアに平和的に分裂したが、1990年代にユーゴスラビアは6つ の国家に激しく分裂し始めた。マケドニアは独立国となり、ユーゴスラビアから平和的に分離した。以前はセルビアの自治単位であったコソボは2008年に独 立を宣言したが、国際的な認知度は低い[13]。

1991年12月、ゴルバチョフは大統領を辞任し、ソビエト連邦は比較的平和的に、共産主義を否定し、民主的改革と自由市場経済を採用した15の主権共和 国に解体した。これらの新しい共和国の内部では、4つの主要地域が独自の独立を主張しているが、国際的に広く認められてはいない。

数十年にわたる内戦を経て、インドネシアは2002年にようやく東ティモールの独立を承認した。

1949年、中国共産党は内戦に勝利し、中国大陸に中華人民共和国を樹立した。国民党率いる中華民国政府は台北に退き、その管轄権は台湾といくつかの離島 に限定された。それ以来、中華人民共和国は台湾の主権と政治的地位の問題をめぐり、中華民国との紛争に巻き込まれてきた。

前述の通り、世界の一部の地域では自決運動が依然として根強い。台湾、北キプロス、コソボ、南オセチアなど事実上の独立を保っている地域もあるが、その独 立は1つ以上の主要国によって争われている。また、東トルキスタン(「新疆」)、クルディスタン、バロチスタン、チェチェン、パレスチナなど、事実上の独 立を欠いている地域でも、重要な自決運動が続いている。
Current issues


Southern Sudanese expressed joy and jubilation on their day of independence, July 9, 2011, from Sudan.

Since the early 1990s, the legitimatization of the principle of national self-determination has led to an increase in the number of conflicts within states, as sub-groups seek greater self-determination and full secession, and as their conflicts for leadership within groups and with other groups and with the dominant state become violent.[44] The international reaction to these new movements has been uneven and often dictated more by politics than principle. The 2000 United Nations Millennium Declaration failed to deal with these new demands, mentioning only "the right to self-determination of peoples which remain under colonial domination and foreign occupation."[39][45]

In an issue of Macquarie University Law Journal Associate Professor Aleksandar Pavkovic and Senior Lecturer Peter Radan outlined current legal and political issues in self-determination.[46]

Defining "peoples"

There is not yet a recognized legal definition of "peoples" in international law.[47] Vita Gudeleviciute of Vytautas Magnus University Law School, reviewing international law and UN resolutions, finds in cases of non-self-governing peoples (colonized and/or indigenous) and foreign military occupation "a people" is the entire population of the occupied territorial unit, no matter their other differences. In cases where people lack representation by a state's government, the unrepresented become a separate people. Present international law does not recognize ethnic and other minorities as separate peoples, with the notable exception of cases in which such groups are systematically disenfranchised by the government of the state they live in.[39] Other definitions offered are "peoples" being self-evident (from ethnicity, language, history, etc.), or defined by "ties of mutual affection or sentiment", i.e. "loyalty", or by mutual obligations among peoples.[48] Or the definition may be simply that a people is a group of individuals who unanimously choose a separate state. If the "people" are unanimous in their desire for self-determination, it strengthens their claim. For example, the populations of federal units of the Yugoslav federation were considered a people in the breakup of Yugoslavia, although some of those units had very diverse populations. Another example are the Macedonians in Macedonia. Bulgaria and Greece are now arguing against the Macedonians’ right to self determination under international law. Many of the Macedonians who live in the region have ancestors that date thousands of years and they have the right to identify as Macedonians.[46] Although there is no fully accepted definition of peoples, references are often made to a definition proposed by UN Special Rapporteur Martínez Cobo in his study on discrimination against indigenous populations.[49] UN Independent Expert on the Promotion of a democratic and equitable International Order, Alfred de Zayas, relied on the "Kirby definition"[50] in his 2014 Report to the General Assembly A/69/272 as "a group of persons with a common historical tradition, racial or ethnic identity, cultural homogeneity, linguistic unity, religious or ideological affinity, territorial connection, or common economic life. To this should be added a subjective element: the will to be identified as a people and the consciousness of being a people."[51]

Abulof suggests that self-determination entails the "moral double helix" of duality (personal right to align with a people, and the people's right to determine their politics) and mutuality (the right is as much the other's as the self's). Thus, self-determination grants individuals the right to form "a people," which then has the right to establish an independent state, as long as they grant the same to all other individuals and peoples.[52]

Criteria for the definition of "people having the right of self-determination" was proposed during 2010 Kosovo case decision of the International Court of Justice: 1. traditions and culture 2. ethnicity 3. historical ties and heritage 4. language 5. religion 6. sense of identity or kinship 7. the will to constitute a people 8. common suffering.[53]

Self-determination versus territorial integrity


Celebration of the Declaration of Independence of Kosovo in 2008

National self-determination appears to challenge the principle of territorial integrity (or sovereignty) of states as it is the will of the people that makes a state legitimate. This implies a people should be free to choose their own state and its territorial boundaries. However, there are far more self-identified nations than there are existing states and there is no legal process to redraw state boundaries according to the will of these peoples.[46] According to the Helsinki Final Act of 1975, the UN, ICJ and international law experts, there is no contradiction between the principles of self-determination and territorial integrity, with the latter taking precedence. [54][55][56][57]


Donetsk status referendum organized by separatists in Ukraine. A line to enter a polling place, 11 May 2014

Allen Buchanan, author of seven books on self-determination and secession, supports territorial integrity as a moral and legal aspect of constitutional democracy. However, he also advances a "Remedial Rights Only Theory" where a group has "a general right to secede if and only if it has suffered certain injustices, for which secession is the appropriate remedy of last resort." He also would recognize secession if the state grants, or the constitution includes, a right to secede.[39]

Vita Gudeleviciute holds that in cases of non-self-governing peoples and foreign military occupation the principle of self-determination trumps that of territorial integrity. In cases where people lack representation by a state's government, they also may be considered a separate people, but under current law cannot claim the right to self-determination. On the other hand, she finds that secession within a single state is a domestic matter not covered by international law. Thus, there are no on what groups may constitute a seceding people.[39]


During the 2019-20 Hong Kong protests, calls rose for self-determination by Hongkongers.

A number of states have laid claim to territories, which they allege were removed from them as a result of colonialism. This is justified by reference to Paragraph 6 of UN Resolution 1514(XV), which states that any attempt "aimed at partial or total disruption of the national unity and the territorial integrity of a country is incompatible with the purposes and principles of the Charter". This, it is claimed, applies to situations where the territorial integrity of a state had been disrupted by colonisation, so that the people of a territory subject to a historic territorial claim are prevented from exercising a right to self-determination. This interpretation is rejected by many states, who argue that Paragraph 2 of UN Resolution 1514(XV) states that "all peoples have the right to self-determination" and Paragraph 6 cannot be used to justify territorial claims. The original purpose of Paragraph 6 was "to ensure that acts of self-determination occur within the established boundaries of colonies, rather than within sub-regions". Further, the use of the word attempt in Paragraph 6 denotes future action and cannot be construed to justify territorial redress for past action.[58] An attempt sponsored by Spain and Argentina to qualify the right to self-determination in cases where there was a territorial dispute was rejected by the UN General Assembly, which re-iterated the right to self-determination was a universal right.[59][60]

Methods of increasing minority rights

In order to accommodate demands for minority rights and avoid secession and the creation of a separate new state, many states decentralize or devolve greater decision-making power to new or existing subunits or autonomous areas.

Self-determination versus majority rule/equal rights
Self-determination can be at odds with the principle of majority rule and equal rights, especially when there is a sizable minority group. In democratic societies, majority rule is often used to determine the outcome in electoral and voting processes. However, a major critique of majority rule is that it may result in the tyranny of the majority, especially in cases in which a simple majority is used in order to determine outcome. This flaw is particularly poignant when there is a large minority group whose interests are not being represented, and who may then seek to secede.

The right to self-determination by a minority has long been contested in democracies with majority rule. For instance, in his first inaugural speech Abraham Lincoln argued that:

Plainly the central idea of secession is the essence of anarchy. A majority held in restraint by constitutional checks and limitations, and always changing easily with deliberate changes of popular opinions and sentiments, is the only true sovereign of a free people. Whoever rejects it does of necessity fly to anarchy or to despotism. Unanimity is impossible. The rule of a minority, as a permanent arrangement, is wholly inadmissible; so that, rejecting the majority principle, anarchy or despotism in some form is all that is left.[61]

However, liberal proponents for the right to self-determination by minority groups contradict this notion by arguing that, in cases where the minority is not able to become the majority, and that minority is territorially concentrated and does not want to be governed by the majority, it may serve the best interest of the state to allow the secession of this group.[62]

Constitutional law

Most sovereign states do not recognize the right to self-determination through secession in their constitutions. Many expressly forbid it. However, there are several existing models of self-determination through greater autonomy and through secession.[63]

In liberal constitutional democracies the principle of majority rule has dictated whether a minority can secede. In the United States Abraham Lincoln acknowledged that secession might be possible through amending the United States Constitution. The Supreme Court in Texas v. White held secession could occur "through revolution, or through consent of the States."[64][65] The British Parliament in 1933 held that Western Australia only could secede from Australia upon vote of a majority of the country as a whole; the previous two-thirds majority vote for secession via referendum in Western Australia was insufficient.[46]

The Chinese Communist Party followed the Soviet Union in including the right of secession in its 1931 constitution in order to entice ethnic nationalities and Tibet into joining. However, the Party eliminated the right to secession in later years and had anti-secession clause written into the Constitution before and after the founding the People's Republic of China. The 1947 Constitution of the Union of Burma contained an express state right to secede from the union under a number of procedural conditions. It was eliminated in the 1974 constitution of the Socialist Republic of the Union of Burma (officially the "Union of Myanmar"). Burma still allows "local autonomy under central leadership".[63]

As of 1996 the constitutions of Austria, Ethiopia, France, and Saint Kitts and Nevis have express or implied rights to secession. Switzerland allows for the secession from current and the creation of new cantons. In the case of proposed Quebec separation from Canada the Supreme Court of Canada in 1998 ruled that only both a clear majority of the province and a constitutional amendment confirmed by all participants in the Canadian federation could allow secession.[63]

The 2003 draft of the European Union Constitution allowed for the voluntary withdrawal of member states from the union, although the State which wanted to leave could not be involved in the vote deciding whether or not they can leave the Union.[63] There was much discussion about such self-determination by minorities[66] before the final document underwent the unsuccessful ratification process in 2005.

As a result of the successful constitutional referendum held in 2003, every municipality in the Principality of Liechtenstein has the right to secede from the Principality by a vote of a majority of the citizens residing in this municipality.[67]

Drawing new borders


Indigenous march right to self-determination (2008). Lumads from all over Mindanao march through the streets of Davao City at the end of a three-day conference.

In determining international borders between sovereign states, self-determination has yielded to a number of other principles.[68] Once groups exercise self-determination through secession, the issue of the proposed borders may prove more controversial than the fact of secession. The bloody Yugoslav Wars in the 1990s were related mostly to border issues because the international community applied a version of uti possidetis juris in transforming the existing internal borders of the various Yugoslav republics into international borders, despite the conflicts of ethnic groups within those boundaries. In the 1990s indigenous populations of the northern two-thirds of Quebec province opposed being incorporated into a Quebec nation and stated a determination to resist it by force.[46]

The border between Northern Ireland and the Irish Free State was based on the borders of existing counties and did not include all of historic Ulster. A Boundary Commission was established to consider re-drawing it. Its proposals, which amounted to a small net transfer to the Free State, were leaked to the press and then not acted upon. In December 1925, the governments of the Irish Free State, Northern Ireland, and the United Kingdom agreed to accept the existing border.
現在の問題


2011年7月9日、スーダンからの独立の日に喜びと歓喜をあらわにした南部スーダンの人々

1990年代初頭以降、民族自決の原則が正当化されたことで、小集団がより大きな自決や完全な分離独立を求めるようになり、集団内や他の集団、支配国家と の指導権をめぐる対立が激しくなるにつれ、国家内での紛争が増加した[44]。こうした新しい動きに対する国際的な反応は一様ではなく、しばしば原則より も政治的な判断に左右されてきた。2000年の国連ミレニアム宣言は、「植民地支配と外国の占領下にある民族の自決権」に言及したのみで、こうした新たな 要求を扱うことはできなかった[39][45]。

マッコーリー大学のロー・ジャーナル誌の一号において、アレクサンダル・パヴコヴィッチ准教授とピーター・ラダン上級講師は、自決における現在の法的・政治的問題について概説している[46]。

"人民"の定義

ヴィタウタス・マグヌス大学法科大学院のヴィタ・グデレヴィシウテは、国際法と国連決議を検討した結果、非自治民族(被植民地および/または先住民)およ び外国の軍事占領の場合、「民族」とは、他の相違にかかわらず、占領された領土単位の全人口を指すとしている[47]。国民が国家政府による代表権を持た ない場合、代表権を持たない人々は別個の国民となる。現在の国際法では、民族やその他の少数民族を独立した民族として認めていないが、そのような集団が居 住する国家の政府によって組織的に権利を剥奪されている場合は例外である。 [民族」とは、(民族性、言語、歴史などから)自明である、あるいは「相互の愛情や情緒の絆」、すなわち「忠誠心」によって定義される、あるいは民族間の 相互義務によって定義される[48]という他の定義もある。自決を望む「国民」が一致していれば、その主張はより強固なものとなる。例えば、ユーゴスラビ ア連邦の連邦単位の人口は、ユーゴスラビアの解体において国民とみなされたが、その中には非常に多様な人口を抱える単位もあった。もうひとつの例は、マケ ドニアのマケドニア人である。ブルガリアとギリシャは現在、マケドニア人の国際法上の自決権に反対している。この地域に住むマケドニア人の多くは、数千年 前の祖先を持ち、マケドニア人であることを認識する権利を持っている[46]。完全に認められた民族の定義はないが、国連特別報告者マルティネス・コボが 先住民族に対する差別に関する研究で提案した定義に言及することが多い。 [49]国連の民主的で公平な国際秩序の促進に関する独立専門家であるアルフレッド・デ・ザヤスは、2014年の総会報告書A/69/272において、 「共通の歴史的伝統、人種的または民族的アイデンティティ、文化的同質性、言語的統一性、宗教的またはイデオロギー的親和性、領土的つながり、または共通 の経済生活を有する人々の集団」として「カービー定義」[50]に依拠している。これには主観的な要素、すなわち民族として識別されたいという意志と民族 であるという意識が加えられるべきである」[51]。

アブロフは、自決には二重性(民衆に同調する個人の権利と、民衆がその政治を決定する権利)と相互性(権利は自己のものであると同時に他者のものでもあ る)という「道徳的二重らせん」が伴うことを示唆している。したがって、自決は個人に「民族」を形成する権利を付与し、その民族は他のすべての個人と民族 に同様の権利を付与する限り、独立国家を樹立する権利を有する[52]。

自決権を有する民族」の定義の基準は、2010年の国際司法裁判所のコソボ事件判決において提案された:1.伝統と文化 2.民族性 3.歴史的絆と遺産 4.言語 5.宗教 6.アイデンティティや親族意識 7.民族を構成する意志 8.共通の苦しみ[53]。

自決〈対〉領土保全


2008年のコソボ独立宣言の祝典

民族自決は、国家の領土保全(または主権)の原則に挑戦しているように見える。つまり、国民は自分たちの国家とその領土境界線を自由に選択できるというこ とだ。1975年のヘルシンキ最終法、国連、ICJ、国際法の専門家によれば、自決の原則と領土保全の原則の間には矛盾はなく、後者が優先される。 [54][55][56][57]


ウクライナの分離主義者によって組織されたドネツクの地位の住民投票。投票所に入るための列(2014年5月11日

自決と分離独立に関する7冊の著書を持つアレン・ブキャナンは、立憲民主主義の道徳的・法的側面として領土保全を支持している。しかし、彼は「救済権のみ 理論」も提唱しており、そこでは「ある集団がある不正を被った場合に限り、その集団は分離独立する一般的権利を有し、それに対して分離独立は最後の手段と して適切な救済手段である」としている。また、国家が分離独立の権利を認めているか、憲法に分離独立の権利が含まれている場合には、分離独立を認めるとす る[39]。

ヴィタ・グデレヴィシウテは、自治権を持たない民族や外国の軍事占領の場合、自決の原則が領土保全の原則に優先するとしている。国家政府による代表権を持 たない場合も、独立した民族とみなされるが、現行法では自決権を主張することはできない。一方、単一国家内での分離独立は、国際法ではカバーされない国内 問題であるとしている。したがって、どのような集団が分離民族を構成することができるのかについては決まっていない[39]。


2019年から20年にかけての香港の抗議行動では、香港人による自決を求める声が高まった

多くの国家が、植民地主義の結果として奪われたと主張する領土の領有権を主張している。これは、国連決議1514(XV)第6項を参照することで正当化さ れる。この決議では、「一国の国民統合と領土保全の一部または全部の崩壊を目的とするいかなる試みも、憲章の目的と原則と相容れない」とされている。これ は、植民地化によって国家の領土保全が破壊され、歴史的な領有権を主張する地域の人々が自決権を行使できなくなった場合に適用されると主張する。この解釈 は多くの国によって否定されており、国連決議1514(XV)第2項は「すべての人民は自決権を有する」と述べており、第6項は領土主張を正当化するため に用いることはできないと主張している。第6項の本来の目的は、「自決行為が小地域内ではなく、植民地の確立された境界内で行われるようにすること」であ る。さらに、第6項における試みという言葉の使用は将来の行為を意味するものであり、過去の行為に対する領土的救済を正当化するものと解釈することはでき ない[58]。スペインとアルゼンチンが提唱した、領土紛争がある場合に自決権を修飾する試みは国連総会によって否決され、自決権は普遍的な権利であると 改めて強調された[59][60]。

マイノリティの権利拡大の方法
マイノリティの権利に対する要求を受け入れ、分離独立や独立した新しい国家の創設を回避するために、多くの国家は、より大きな意思決定権を新規または既存の小部分や自治地域に分散または委譲している。

自己決定〈対〉多数決・平等権

自己決定は、特にかなりの少数派が存在する場合、多数決や平等権の原則と対立することがある。民主主義社会では、選挙や投票プロセスにおいて、多数決が結 果を決定するために用いられることが多い。しかし、多数決の主な批判は、特に単純多数決で結果を決定する場合、多数派の専制につながる可能性があるという ことである。この欠点は、利害が代表されない大規模な少数派が存在する場合に特に顕著であり、その少数派は脱退を求めるかもしれない。

少数派による自決権は、多数決の民主主義国家では長い間争われてきた。例えば、エイブラハム・リンカーンは最初の就任演説で次のように主張した:

分離独立の中心的な考え方は、明らかに無政府状態の本質である。憲法のチェックと制限によって抑制され、民衆の意見と感情の意図的な変化によって常に容易 に変化する多数派こそが、自由な人民の唯一の真の主権者である。これを拒否する者は、必然的に無政府主義か専制主義に移行する。全会一致は不可能である。 永続的な取り決めとしての少数派の支配は完全に許されない。したがって、多数決原理を否定すれば、何らかの形で無政府主義か専制主義が残されることになる [61]。

しかしながら、少数派の自決権を支持するリベラル派は、少数派が多数派になることができず、その少数派が領土的に集中しており、多数派に統治されることを 望まない場合には、この集団の分離独立を認めることが国家の最善の利益になる可能性があると主張することによって、この考え方に矛盾している[62]。

憲法

ほとんどの主権国家は、憲法において分離独立による自決権を認めていない。多くの国が明確に禁止している。しかし、より大きな自治権や分離独立を通じた自決の既存のモデルがいくつか存在する[63]。

自由主義立憲民主主義国家においては、多数決の原則が少数派が分離独立できるかどうかを決定してきた。アメリカ合衆国では、エイブラハム・リンカーンが合 衆国憲法を改正することによって分離独立が可能であることを認めていた。テキサス州対ホワイト州の最高裁は、分離独立は「革命によっても、州の同意によっ ても」起こり得るとした[64][65]。1933年のイギリス議会は、西オーストラリア州がオーストラリアから分離独立できるのは、国全体の過半数の投 票による場合のみであり、西オーストラリア州の住民投票による分離独立には、それまでの3分の2以上の賛成票では不十分であるとした[46]。

中国共産党は、民族とチベットを誘引するために、ソ連に続いて1931年の憲法に分離独立の権利を盛り込んだ。しかし、同党は後年、分離独立の権利を排除 し、中華人民共和国建国前後の憲法に分離独立反対条項を書き込ませた。1947年に制定されたビルマ連邦憲法には、いくつかの手続き的条件のもとで連邦か ら分離独立する国家的権利が明示されていた。これは1974年のビルマ連邦社会主義共和国(正式には「ミャンマー連邦」)憲法で廃止された。ビルマは現在 でも「中央の指導の下での地方自治」を認めている[63]。

1996年現在、オーストリア、エチオピア、フランス、セントクリストファー・ネイビスの憲法は、分離独立の権利を明示的または黙示的に認めている。スイ スは、現在の州からの分離独立と新しい州の設立を認めている。ケベック州がカナダから分離独立することを提案した場合、1998年、カナダ最高裁判所は、 分離独立を認めることができるのは、州民の明確な多数決と、カナダ連邦参加者全員による憲法改正の両方が確認された場合のみであるとの判決を下した [63]。

2003年の欧州連合憲法草案では、加盟国の自発的な離脱が認められていたが、離脱を希望する国は離脱の可否を決定する投票に関与することはできなかった [63]。2005年に最終文書が批准手続きに入るまで、少数民族によるこのような自己決定について多くの議論があった[66]。

2003年に行われた憲法に関する住民投票の結果、リヒテンシュタイン公国のすべての自治体は、その自治体に居住する市民の過半数の投票によって公国から分離独立する権利を有する[67]。

新たな国境画定


先住民の自決権(2008年)。3日間の会議の終わりにダバオ市の通りを行進するミンダナオ島全土のルマド。

主権国家間の国際国境を決定する際、自決権は他の多くの原則に譲歩してきた[68]。ひとたび集団が分離独立によって自決権を行使すれば、提案された国境 線の問題は分離独立の事実以上に物議を醸すことになるかもしれない。1990年代の流血のユーゴスラビア戦争は、そのほとんどが国境問題に関連したもので あった。なぜなら、国際社会は、ユーゴスラビア各共和国の既存の国内国境を、その境界線内での民族集団の対立にもかかわらず、国際国境に変換する際に、 uti possidetis jurisを適用したからである。1990年代には、ケベック州の北部3分の2の先住民がケベック国家に編入されることに反対し、武力で抵抗する決意を表 明した[46]。

北アイルランドとアイルランド自由国の境界は、既存の郡の境界に基づいており、歴史的なアルスターのすべてを含んでいなかった。境界線の引き直しを検討す るために境界委員会が設置された。自由州へのわずかな純移転に相当するその提案は、マスコミにリークされた後、実行に移されることはなかった。1925年 12月、アイルランド自由国、北アイルランド、イギリスの政府は、現行の国境を受け入れることに合意した。
Notable cases

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There have been a number of notable cases of self-determination. For more information on past movements see list of historical separatist movements and lists of decolonized nations. Also see list of autonomous areas by country and lists of active separatist movements.

Artsakh

Main article: Republic of Artsakh

The first major demonstration in Stepanakert on February 13, 1988. Traditionally considered the start of the Artsakh movement.

The Republic of Artsakh (also known as the Nagorno-Karabakh Republic), in the Caucasus region, declared its independence in a 1991 referendum, which had an approval of 99% of voters; however, the breakaway state remained unrecognized by UN states and was disbanded on January 1, 2024 after Azerbaijan's military offensive and the evacuation of 99% of the population. It was a member of the Community for Democracy and Rights of Nations along with three other Post-Soviet disputed republics.

Assyria

Main articles: Assyrian independence movement, Assyrian People, and Assyria
The Assyrian independence movement is a political movement and nationalist desire of the Assyrian people to live in their traditional Assyrian homeland under the self-governance of an Assyrian state. The Assyrian territory is currently in parts of Syria, Iraq, Iran, and Turkey.

Australia

Main article: Indigenous Australian self-determination
Self-determination has become the topic of some debate in Australia in relation to Aboriginal Australians and Torres Strait Islanders. In the 1970s, Aboriginal requested the right to administer their own remote communities as part of the homelands movement, also known as the outstation movement. These grew in number through the 1980s, but funding dried up in the 2000s.

Azawad
Main article: Mali War

Tuareg rebels in the short-lived proto-state of Azawad in 2012
The traditional homeland of the Tuareg peoples was divided up by the modern borders of Mali, Algeria and Niger. Numerous rebellions occurred over the decades, but in 2012 the Tuaregs succeeded in occupying their land and declaring the independence of Azawad. However, their movement was hijacked by the Islamist terrorist group Ansar Dine.

Basque Country

Main article: Basque nationalism

2014 human chain for Basque Country's right to decide
The Basque Country (Basque: Euskal Herria, Spanish: País Vasco, French: Pays Basque) as a cultural region (not to be confused with the homonym Autonomous Community of the Basque country) is a European region in the western Pyrenees that spans the border between France and Spain, on the Atlantic coast. It comprises the autonomous communities of the Basque Country and Navarre in Spain and the Northern Basque Country in France. Since the 19th century, Basque nationalism has demanded the right of some kind of self-determination. [citation needed] This desire for independence is particularly stressed among leftist Basque nationalists. The right of self-determination was asserted by the Basque Parliament in 1990, 2002 and 2006.[69] Since[citation needed] self-determination is not recognized in the Spanish Constitution of 1978, some Basques abstained and some voted against it in the referendum of December 6 of that year. It was approved by a clear majority at the Spanish level, and with 74.6% of the votes in the Basque Country.[70] However, the overall turnout in the Basque Country was 45% when the Spanish overall turnover was 67.9%. The derived autonomous regime for the BAC was approved by Spanish Parliament and also by the Basque citizens in referendum. The autonomous statute of Navarre (Amejoramiento del Fuero: "improvement of the charter") was approved by the Spanish Parliament and, like the statutes of 13 out of 17 Spanish autonomous communities, it did not need a referendum to enter into force.

Euskadi Ta Askatasuna or ETA (English: Basque Homeland and Freedom; pronounced [ˈeta]), was an armed Basque nationalist, separatist and terrorist organization that killed more than 800 people. Founded in 1959, it evolved from a group advocating traditional cultural ways to a paramilitary group with the goal of Basque independence. Its ideology was Marxist–Leninist.[71][72]

Biafra

Main article: Biafra

A girl during the Nigerian Civil War of the late 1960s. Pictures of the famine caused by Nigerian blockade garnered sympathy for the Biafrans worldwide.
The Nigerian Civil War was fought between Biafran secessionists of the Republic of Biafra and the Nigerian central government. From 1999 to the present day, the indigenous people of Biafra have been agitating for independence to revive their country. They have registered a human rights organization known as Bilie Human Rights Initiative both in Nigeria and in the United Nations to advocate for their right to self-determination and achieve independence by the rule of law.[73]

Catalonia

Main articles: Catalonia, Catalan Countries, Catalan independence movement, and Catalan declaration of independence
After the 2012 Catalan march for independence, in which between 600,000 and 1.5 million citizens marched,[74] the President of Catalonia, Artur Mas, called for new parliamentary elections on 25 November 2012 to elect a new parliament that would exercise the right of self-determination for Catalonia, a right not recognised under the Spanish Cortes Generales. The Parliament of Catalonia voted to hold a vote in the next four-year legislature on the question of self-determination. The parliamentary decision was approved by a large majority of MPs: 84 voted for, 21 voted against, and 25 abstained.[75] The Catalan Parliament applied to the Spanish Parliament for the power to call a referendum to be devolved, but this was turned down. In December 2013 the President of the Generalitat Artur Mas and the governing coalition agreed to set the referendum for self-determination on 9 November 2014, and legislation specifically saying that the consultation would not be a "referendum" was enacted, only to be blocked by the Spanish Constitutional Court, at the request of the Spanish government. Given the block, the Government turned it into a simple "consultation to the people" instead.

The question in the consultation was "Do you want Catalonia to be a State?" and, if the answer to this question was yes, "Do you want this State to be an independent State?". However, as the consultation was not a formal referendum, these (printed) answers were just suggestions and other answers were also accepted and catalogued as "other answers" instead as null votes. The turnout in this consultation was about 2·3m people out of 6·2m people that were called to vote (this figure does not coincide with the census figure of 5·3m for two main reasons: first, because organisers had no access to an official census due to the non-binding character of the consultation, and second, because the legal voting age was set to 16 rather than 18). Due to the lack of an official census, potential voters were assigned to electoral tables according to home address and first family name. Participants had to sign up first with their full name and national ID in a voter registry before casting their ballot, which prevented participants from potentially casting multiple ballots. The overall result was 80·76% in favor of both questions, 11% in favor of the first question but not of the second questions, 4·54% against both; the rest were classified as "other answers". The voter turnout was around 37% (most people against the consultation did not go to vote). Four top members of Catalonia's political leadership were barred from public office for having defied the Constitutional court's last-minute ban.


Protest in Barcelona on 1 October 2018

Almost three years later (1 October 2017), the Catalan government called a referendum for independence under legislation adopted in September 2017, despite this legislation had been suspended by the Constitutional Court for "violating fundamental rights of citizens",[76] with the question "Do you want Catalonia to become an independent state in the form of a Republic?". On polling day, the Catalan regional police, which had been accused in the past of police brutality and impunity during the 15-M protests,[77][78] prevented voting in over 500 polling stations without incidents. In some voting stations, the Catalan regional police did not intervene,[79] while in other stations they directly confronted the Spanish CNP (National Police Corps) to allow voters to participate.[80] The CNP confiscated ballot boxes and closed down 92,[81] voting centres with violent truncheon charges. The opposition parties had called for non-participation. The turnout (according to the votes that were counted) was 2.3m out of 5.3m (43.03% of the census), and 90.18% of the ballots were in favour of independence.[82] The turnout, ballot count and results were similar to those of the 2014 "consultation".

Chechnya

Main article: Chechen Republic of Ichkeria
Under Dzhokhar Dudayev, Chechnya declared independence as the Chechen Republic of Ichkeria, using self-determination, Russia's history of bad treatment of Chechens, and a history of independence before invasion by Russia as main motives. Russia has restored control over Chechnya, but the separatist government functions still in exile, though it has been split into two entities: the Akhmed Zakayev-run secular Chechen Republic (based in Poland, the United Kingdom, and the United States), and the Islamic Caucasus Emirate.

East Turkistan

Main article: East Turkestan independence movement
On November 12, 1933, Uyghurs, Kazakhs, Kyrgyz, and Uzbeks declared independence, establishing the First East Turkestan Republic, and again on November 12, 1944, forming the Second East Turkestan Republic. Their primary motivations included self-determination, a history of Chinese colonization and oppression in East Turkistan, and a legacy of independence prior to the invasion by China (the Manchu Qing Dynasty). The People’s Republic of China assumed control over East Turkistan in late 1949. However, the Turkic peoples of East Turkistan, predominantly Uyghurs and Kazakhs, have persistently fought for their independence. There is a robust movement advocating East Turkistani sovereignty, challenging the Chinese occupation since 1949. The East Turkistan Government in Exile is at the forefront of the East Turkistan Independence Movement.

Eastern Ukraine

Main article: War in Donbas (2014–2022)

Pro-Russian separatists in Donetsk, April 2015
There is an active secessionist movement based on the self-determination of the residents of the eastern part of Donetsk and the south-eastern part of the Luhansk regions of eastern Ukraine. However, many in the international community assert that referendums held there in 2014 regarding independence from Ukraine were illegitimate and undemocratic.[83][84] Similarly, there are reports that presidential elections in May 2014 were prevented from taking place in the two regions after armed gunmen took control of polling stations, kidnapped election officials, and stole lists of electors, thus denying the population the chance to express their will in a free, fair, and internationally recognised election.[85] There are also arguments that the de facto separation of Eastern Ukraine from the rest of the country is not an expression of self-determination, but rather, motivated by revival of pro-Soviet sentiment and an invasion by neighbouring Russia, with Ukrainian President Petro Poroshenko claiming in 2015 that up to 9,000 Russian soldiers were deployed in Ukraine.[86]

Ethiopia

Main article: Government of Ethiopia
The Federal Democratic Republic of Ethiopia is run as a federation of semi-self-governing nation states. The Constitution of Ethiopia firmly mentions the self-determining nature of its states. The actual implementation of its states self-governance is debate-able.

Falkland Islands

Main article: Falkland Islands sovereignty dispute
Self-determination is referred to in the Falkland Islands Constitution[87] and is a factor in the Falkland Islands sovereignty dispute. The population has existed for over nine generations, continuously for over 190 years.[88] In the 2013 referendum, organised by the Falkland Islands Government, 99.8% voted to remain British.[89] As administering power, the British Government deemed that transfer of sovereignty to Argentina would be counter to the Falkland Islander right to self-determination, since the majority of Falkland Island inhabitants wished to remain British.[90]


Malvinas and South Atlantic Islands Museum in Buenos Aires, 2015
Argentina states the principle of self-determination is not applicable to the islands since the current inhabitants are not aboriginal and were brought to replace the Argentine population, which was expelled by an 'act of force', compelling the Argentinian inhabitants to directly leave the islands.[91] This refers to the re-establishment of British rule in the year 1833[92] during which Argentina claims the existing population living in the islands was expelled. Argentina thus argues that, in the case of the Falkland Islands, the principle of territorial integrity should have precedence over self-determination.[93] Historical records dispute Argentina's claims and whilst acknowledging the garrison was expelled note the existing civilian population remained at Port Louis.[94][95][96][97] and there was no attempt to settle the islands until 1841.[98]

Gibraltar

Main article: Status of Gibraltar

Gibraltar National Day, September 2013
The right to self-determination is referred to in the pre-amble of Chapter 1 of the Gibraltar constitution,[99] and, since the United Kingdom also gave assurances that the right to self-determination of Gibraltarians would be respected in any transfer of sovereignty over the territory, is a factor in the dispute with Spain over the territory.[100] The impact of the right to self-determination of Gibraltarians was seen in the 2002 Gibraltar sovereignty referendum, where Gibraltarian voters overwhelmingly rejected a plan to share sovereignty over Gibraltar between the UK and Spain. However, the UK government differs with the Gibraltarian government in that it considers Gibraltarian self-determination to be limited by the Treaty of Utrecht, which prevents Gibraltar achieving independence without the agreement of Spain, a position that the Gibraltarian government does not accept.[101][102]

The Spanish government denies that Gibraltarians have the right to self-determination, considering them to be "an artificial population without any genuine autonomy" and not "indigenous".[103] However, the Partido Andalucista has agreed to recognise the right to self-determination of Gibraltarians.[104]

Greenland

Main article: Greenlandic independence
Hong Kong
Main article: Hong Kong independence
Before the United Nations's adoption of resolution 2908 (XXVII) on 2 November 1972, The People's Republic of China vetoed the former British colony of Hong Kong's right to self-determination on 8 March 1972. This sparked several nations' protest along with Great Britain's declaration on 14 December that the decision is invalid. Decades later,[when?] an independence movement, dubbed as the Hong Kong independence movement emerged in the now Communist Chinese controlled territory. It advocates the autonomous region to become a fully independent sovereign state.

The city is considered a special administrative region (SAR) which, according to the PRC, enjoys a high degree of autonomy under the People's Republic of China (PRC), guaranteed under Article 2 of Hong Kong Basic Law[1] (which is ratified under the Sino-British Joint Declaration), since the handover of Hong Kong from the United Kingdom to the PRC in 1997. Since the handover, many Hongkongers are increasingly concerned about Beijing's growing encroachment on the territory's freedoms and the failure of the Hong Kong government to deliver 'true' democracy.[2]


Pro-independence Hong Kong flag put up before a football match between the Hong Kong Football Team and the China national football team
The 2014–15 Hong Kong electoral reform package deeply divided the city, as it allowed Hongkongers to have universal suffrage, but Beijing would have authority to screen the candidates to restrict the electoral method for the Chief Executive of Hong Kong (CE), the highest-ranking official of the territory. This sparked the 79-day massive peaceful protests which was dubbed as the "Umbrella Revolution" and the pro-independence movement emerged on the Hong Kong political scene.[2]

Since then, localism has gained momentum, particularly after the failure of the peaceful Umbrella Movement. Young localist leaders have led numerous protest actions against pro-Chinese policies to raise awareness of social problems of Hong Kong under Chinese rule. These include the sit-in protest against the Bill to Strengthen Internet Censorship, demonstrations against Chinese political interference in the University of Hong Kong, the Recover Yuen Long protests and the 2016 Mong Kok civil unrest. According to a survey conducted by the Chinese University of Hong Kong (CUHK) in July 2016, 17.4% of respondents supported the city becoming an independent entity after 2047, while 3.6% stated that it is "possible".[3]

Indigenous peoples

Indigenous peoples have claimed through the 2007 Declaration on the Rights of Indigenous Peoples the term peoples, and gaining with it the right to self-determination. Though it was also established that it is merely a right within existing sovereign states, after all peoples also need territory and a central government to reach sovereignty in international politics.[105]

Israel

Main articles: Israel, Jewish national movements, and Jewish history
Zionism is a nationalist ideology founded by Theodor Herzl which claims a right of historic entitlement by descent as a nation, to exercise self-determination for all Jewish people in the region of Palestine/ancient Israel.[106] The successful implementation of this vision led to the establishment of the State of Israel in 1948. [107]

Kashmir

Main article: Kashmir conflict
Ever since Pakistan and India's inception in 1947 the legal state of Jammu and Kashmir, the land between India and Pakistan, has been contested as Britain was resigning from their rule over this land. Maharaja Hari Singh, the ruler of Kashmir at the time of accession, signed the Instrument of Accession Act on October 26, 1947, as his territory was being attacked by Pakistani tribesmen. The passing of this Act allowed Jammu and Kashmir to accede to India on legal terms. When this Act was taken to Lord Mountbatten, the last viceroy of British India, he agreed to it and stated that a referendum needed to be held by the citizens in India, Pakistan, and Kashmir so that they could vote as to where Kashmir should accede to. This referendum that Mountbatten called for never took place and framed one of the legal disputes for Kashmir. In 1948 the United Nations intervened and ordered a plebiscite to be taken in order to hear the voices of the Kashmiris if they would like to accede to Pakistan or India. This plebiscite left out the right for Kashmiris to have the right of self-determination and become an autonomous state. To this date the Kashmiris have been faced with numerous human rights violations committed by both India and Pakistan and have yet to gain complete autonomy which they have been seeking through self-determination.[neutrality is disputed] [citation needed]

The insurgency in Kashmir against Indian rule has existed in various forms. A widespread armed insurgency started in Kashmir against India rule in 1989 after allegations of rigging by the Indian government in the 1987 Jammu and Kashmir state election. This led to some parties in the state assembly forming militant wings, which acted as a catalyst for the emergence of armed insurgency in the region. The conflict over Kashmir has resulted in tens of thousands of deaths.


Indian soldiers on the streets of Kashmir during the 2016 unrests
The Inter-Services Intelligence of Pakistan has been accused by India of supporting and training both pro-Pakistan and pro-independence militants to fight Indian security forces in Jammu and Kashmir, a charge that Pakistan denies. According to official figures released in the Jammu and Kashmir assembly, there were 3,400 disappearance cases and the conflict has left more than 47,000 to 100,000 people dead as of July 2009. However, violence in the state had fallen sharply after the start of a slow-moving peace process between India and Pakistan. After the peace process failed in 2008, mass demonstrations against Indian rule, and low-scale militancy emerged again.

However, despite boycott calls by separatist leaders in 2014, the Jammu and Kashmir Assembly elections saw highest voters turnout in last 25 years since insurgency erupted. As per the Indian government, it recorded more than 65% of voters turnout which was more than usual voters turnout in other state assembly elections of India. It considered as increase in faith of Kashmiri people in democratic process of India. However, activists say that the voter turnout is highly exaggerated and that elections are held under duress. Votes are cast because the people want stable governance of the state and this cannot be mistaken as an endorsement of Indian rule.[108][109]

Kurdistan

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Kurdish YPG's female fighters during the Syrian War
Main articles: Kurdish–Turkish conflict (1978–present), Iraqi–Kurdish conflict, Kurdish separatism in Iran, and Rojava conflict

Pro-independence rally in Erbil, Iraqi Kurdistan in September 2017
Kurdistan is a historical region primarily inhabited by the Kurdish people of the Middle East. The territory is currently part of Turkey, Iraq, Syria and Iran. There are Kurdish self-determination movements in each of the 4 states. Iraqi Kurdistan has to date achieved the largest degree of self-determination through the formation of the Kurdistan Regional Government, an entity recognised by the Iraqi Federal Constitution.

Although the right of the creation of a Kurdish state was recognized following World War I in the Treaty of Sèvres, the treaty was then annulled by the Treaty of Lausanne (1923). To date two separate Kurdish republics and one Kurdish Kingdom have declared sovereignty. The Republic of Ararat (Ağrı Province, Turkey), the Republic of Mehabad (West Azerbaijan Province, Iran) and the Kingdom of Kurdistan (Sulaymaniyah Governorate, Iraqi Kurdistan, Iraq), each of these fledgling states was crushed by military intervention. The Patriotic Union of Kurdistan which currently holds the Iraqi presidency and the Kurdistan Democratic Party which governs the Kurdistan Regional Government both explicitly commit themselves to the development of Kurdish self-determination, but opinions vary as to the question of self-determination sought within the current borders and countries.

Efforts towards Kurdish self-determination are considered illegal separatism by the governments of Turkey and Iran, and the movement is politically repressed in both states. This is intertwined with Kurdish nationalist insurgencies in Iran and in Turkey, which in turn justify and are justified by the repression of peaceful advocacy. In Syria, a self-governing local Kurdish-dominated polity was established in 2012, amongst the upheaval of the Syrian Civil War, but has not been recognized by any foreign state.

Nagalim

Main article: Naga nationalism
Naga refers to a vaguely defined conglomeration of distinct tribes living on the border of India and Burma. Each of these tribes lived in a sovereign village before the arrival of the British but developed a common identity as the area was Christianized. After the British left India, a section of Nagas under the leadership of Angami Zapu Phizo sought to establish a separate country for the Nagas. Phizo's group, the Naga National Council (NNC), claimed that 99. 9% of the Nagas wanted an independent Naga country according to a referendum conducted by it. It waged a secessionist insurgency against the Government of India. The NNC collapsed after Phizo got his dissenters killed or forced them to seek refuge with the Government.[110][111] Phizo escaped to London, while NNC's successor secessionist groups continued to stage violent attacks against the Indian Government. The Naga People's Convention (NPC), another major Naga organization, was opposed to the secessionists. Its efforts led to the creation of a separate Nagaland state within India in 1963.[112] The secessionist violence declined considerably after the Shillong Accord of 1975. However, three factions of the National Socialist Council of Nagaland (NSCN) continue to seek an independent country which would include parts of India and Burma. They envisage a sovereign, predominantly Christian nation called "Nagalim".[113]

North Borneo and Sarawak

Another controversial episode with perhaps more relevance was the British beginning their exit from British Malaya. An experience concerned the findings of a United Nations Assessment Team that led the British territories of North Borneo and Sarawak in 1963 to determine whether or not the populations wished to become a part of the new Malaysia Federation.[114] The United Nation Team's mission followed on from an earlier assessment by the British-appointed Cobbold Commission which had arrived in the territories in 1962 and held hearings to determine public opinion. It also sifted through 1600 letters and memoranda submitted by individuals, organisations and political parties. Cobbold concluded that around two thirds of the population favoured to the formation of Malaysia while the remaining third wanted either independence or continuing control by the United Kingdom. The United Nations team largely confirmed these findings, which were later accepted by the General Assembly, and both territories subsequently wish to form the new Federation of Malaysia. The conclusions of both the Cobbold Commission and the United Nations team were arrived at without any referendums self-determination being held.[115][116][117] Unlike in Singapore, however, no referendum was ever conducted in Sarawak and North Borneo.[118] they sought to consolidate several of the previous ruled entities then there was Manila Accord, an agreement between the Philippines, Federation of Malaya and Indonesia on 31 July 1963[119][120] to abide by the wishes of the people of North Borneo and Sarawak within the context of United Nations General Assembly Resolution 1541 (XV), Principle 9 of the Annex[121][122] taking into account referendums in North Borneo and Sarawak that would be free and without coercion.[119] This also triggered the Indonesian confrontation because Indonesia opposed the violation of the agreements.[123][124]

Northern Cyprus

Main article: Northern Cyprus

Atatürk Square, North Nicosia in 2006, with the Northern Cyprus and Turkish flags.
Cyprus was settled by Mycenaean Greeks in two waves in the 2nd millennium BC. As a strategic location in the Middle East, it was subsequently occupied by several major powers, including the empires of the Assyrians, Egyptians and Persians, from whom the island was seized in 333 BC by Alexander the Great. Subsequent rule by Ptolemaic Egypt, the Classical and Eastern Roman Empire, Arab caliphates for a short period and the French Lusignan dynasty. Following the death in 1473 of James II, the last Lusignan king, the Republic of Venice assumed control of the island, while the late king's Venetian widow, Queen Catherine Cornaro, reigned as figurehead. Venice formally annexed the Kingdom of Cyprus in 1489, following the abdication of Catherine. The Venetians fortified Nicosia by building the Walls of Nicosia, and used it as an important commercial hub.

Although the Lusignan French aristocracy remained the dominant social class in Cyprus throughout the medieval period, the former assumption that Greeks were treated only as serfs on the island is no longer considered by academics to be accurate. It is now accepted that the medieval period saw increasing numbers of Greek Cypriots elevated to the upper classes, a growing Greek middle ranks, and the Lusignan royal household even marrying Greeks. This included King John II of Cyprus who married Helena Palaiologina.

Throughout Venetian rule, the Ottoman Empire frequently raided Cyprus. In 1539 the Ottomans destroyed Limassol and so fearing the worst, the Venetians also fortified Famagusta and Kyrenia.

Having invaded in 1570, Turks controlled and solely governed all of the Cyprus island from 1571 until its leasing to the British Empire in 1878. Cyprus was placed under British administration based on Cyprus Convention in 1878 and formally annexed by Britain at the beginning of World War I in 1914. While Turkish Cypriots made up 18% of the population, the partition of Cyprus and creation of a Turkish state in the north became a policy of Turkish Cypriot leaders and the Republic of Turkey in the 1950s. Politically, there was no majority/minority relation between Greek Cypriots and Turkish Cypriots;[125][126] and hence, in 1960, Republic of Cyprus was founded by the constituent communities in Cyprus (Greek Cypriots and Turkish Cypriots)[127] as a non-unitary state; the 1960 Constitution set both Turkish and Greek as the official languages.[128][129] During 1963–74, the island experienced ethnic clashes and turmoil, following the Greek nationalists' coup to unify the island to Greece, which led to the eventual Turkish invasion in 1974.[130] Turkish Republic of Northern Cyprus was declared in 1983 and recognized only by Turkey.[131] Monroe Leigh, 1990, The Legal Status in International Law of the Turkish Cypriot and the Greek Cypriot Communities in Cyprus. The Greek Cypriot and Turkish Cypriot regimes participating in these negotiations, and the respective communities which they represent, are presently entitled to exercise equal rights under international law, including rights of self-determination.[132] Before the Turkey's invasion in 1974, Turkish Cypriots were concentrated in Turkish Cypriot enclaves in the island.

Northern Cyprus fulfills all the classical criteria of statehood.[133] United Nations Peace Force in Cyprus (UNFICYP) operates based on the laws of Northern Cyprus in north of Cyprus island.[134] According to European Court of Human Rights (ECtHR), the laws of Northern Cyprus is valid in the north of Cyprus.[135] ECtHR did not accept the claim that the Courts of Northern Cyprus lacked "independence and/or impartiality".[136] ECtHR directed all Cypriots to exhaust "domestic remedies" applied by Northern Cyprus before taking their cases to ECtHR.[137] In 2014, United States' Federal Court qualified Turkish Republic of Northern Cyprus as a "democratic country".[138][139][140] In 2017, United Kingdom's High Court decided that "There was no duty in UK law upon the UK's Government to refrain from recognising Northern Cyprus. The United Nations itself works with Northern Cyprus law enforcement agencies and facilitates cooperation between the two parts of the island."[141] UK's High Court also dismissed the claim that "cooperation between UK police and law agencies in northern Cyprus was illegal".[142]

Palestine

A republican mural in Belfast showing support for Palestine
Main articles: Palestinian self-determination, State of Palestine, and Palestinian nationalism
Palestinian self-determination is the aspiration of some Palestinians and Palestinian nationalists for increased autonomy and sovereign independence,[143] as well as to the international right of self-determination applied to Palestine. Such sentiments are features of both the one state solution and the two state solution. In the two state solution this usually denotes territorial integrity initiatives, such as resisting occupation in the West Bank, annexation efforts in East Jerusalem or freedom of movement along borders, as well the preservation of important sites such as al-Aqsa mosque.[144]

Quebec

Main article: Quebec sovereignty movement
In Canada, many Francophone citizens in the Province of Quebec have wanted the province to separate from Confederation. The Parti Québécois has asserted Quebec's "right to self-determination. " There is debate on under which conditions would this right be realized.[145] French-speaking Quebec nationalism and support for maintaining Québécois culture would inspire Quebec nationalists, many of whom were supporters of the Quebec sovereignty movement during the late-20th century.[146]

Scotland

Main article: Scottish independence
Scotland ceased to exist as a sovereign state in 1707, as did England, when the Acts of Union (1707) created the unified Kingdom of Great Britain, but has a long-standing Scottish independence movement,[147] with polls suggesting in January 2020 that 52% of eligible voters would vote for an independent Scotland.[148] The country's largest political party, the Scottish National Party,[149] campaigns for Scottish independence. A referendum on independence was held in 2014, where it was rejected by 55% of voters.[150] The Independence debate continued throughout the UK referendum on EU membership where the electorate in Scotland voted by 62% to remain a member of the EU, as did Northern Ireland.[151] Results in England and Wales, however, led to the whole of the United Kingdom leaving the EU.[152] In late 2019 the Scottish Government announced plans to demand a second referendum on Scottish Independence. This was given assent by the Scottish Parliament but, as of July 2022, British Prime Minister Boris Johnson has refused to grant the Section 30 powers required to hold another referendum on the argument that both sides accepted beforehand that the 2014 vote would settle the matter for a generation.[153]

South Africa

Main article: Volkstaat
Section 235 of the South African Constitution allows for the right to self-determination of a community, within the framework of "the right of the South African people as a whole to self-determination", and pursuant to national legislation.[154] This section of the constitution was one of the negotiated settlements during the handing over of political power in 1994. Supporters of an independent Afrikaner homeland have argued that their goals are reasonable under this new legislation.[154]

South Tyrol

In Italy, South Tyrol/Alto Adige was annexed after the First World War. The German-speaking inhabitants of South Tyrol are protected by the Gruber-De Gasperi Agreement, but there are still supporters of the self determination of South Tyrol, e.g. the party Die Freiheitlichen and the South Tyrolean independence movement. At the end of WWII, Italian resistance troops entered South Tyrol and took over the administration against the wishes of the South Tyrolean resistance movement.[155] The Allies subsequently granted South Tyrol to Italy, with the British foreign minister remarking that "in theory the Austrians have the better argument, however handing over the power stations of South Tyrol to them could openly give the Russians a helping hand with which they could pressurise Italy".[156] The Allies pushed Italy to grant the region a high degree of autonomy, culminating in the Gruber–De Gasperi Agreement of 1946.

Székely Land

Main article: Székely autonomy movement
Following the First World War, large areas of the Kingdom of Hungary were annexed by Romania. Some of these areas were inhabited by an ethnic Hungarian population called Székelys. Ever since their homes were integrated into Romania, these people were trying to achieve some form of autonomy or self-governance.

Taiwan

Main article: Taiwan independence movement

Tibet

Main article: Tibetan independence movement

There are several movements in advocacy of the Tibetan sovereignty from the Chinese occupation since 1950. The Tibetan Government in-Exile is a notable example.

United States

A Native American woman in traditional dress
The colonization of the North American continent and its Native American population has been the source of legal battles since the early 19th century. Many Native American tribes were resettled onto separate tracts of land (reservations), which have retained a certain degree of autonomy within the United States. The federal government recognizes Tribal Sovereignty and has established a number of laws attempting to clarify the relationship among the federal, state, and tribal governments. The Constitution and later federal laws recognize the local sovereignty of tribal nations, but do not recognize full sovereignty equivalent to that of foreign nations, hence the term "domestic dependent nations" to qualify the federally recognized tribes.

Certain Chicano nationalist groups seek to "recreate" an ethnic-based state to be called Aztlán, after the legendary homeland of the Aztecs. It would comprise the Southwestern United States, historic territory of indigenous peoples and their descendants, as well as colonists and later settlers under the Spanish colonial and Mexican governments.[157] Supporters of the proposed state of New Afrika argue that the history of African-Americans living in and making productive of several U.S. states in the Black Belt entitles them to establish an African-American republic in the area, alongside $400 billion as reparations for slavery.[158]

There are several active Hawaiian autonomy or independence movements, each with the goal of realizing some level of political control over single or several islands. The groups range from those seeking territorial units similar to Indian reservations under the United States, with the least amount of independent control, to the Hawaiian sovereignty movement, which is projected to have the most independence. The Hawaiian Sovereignty movement seeks to revive the Hawaiian nation under the Hawaiian constitution.


Native Americans and their supporters protest during the Washington Redskins name controversy.
Since 1972, the U.N. Decolonization Committee has called for Puerto Rico's "decolonization" and for the US to recognize the island's right to self-determination and independence. In 2007 the Decolonization Subcommittee called for the United Nations General Assembly to review the political status of Puerto Rico, a power reserved by the 1953 Resolution.[159] This followed the 1967 passage of a plebiscite act that provided for a vote on the status of Puerto Rico with three status options: continued commonwealth, statehood, and independence. In the first plebiscite, the commonwealth option won with 60.4% of the votes, but US congressional committees failed to enact legislation to address the status issue. In subsequent plebiscites in 1993 and 1998, the status quo was favored.[160]

In a referendum that took place in November 2012, a majority of Puerto Rican residents voted to change the territory's relationship with the United States, with the statehood option being the preferred option. But a large number of ballots—one-third of all votes cast—were left blank on the question of preferred alternative status. Supporters of the commonwealth status had urged voters to blank their ballots. When the blank votes are counted as anti-statehood votes, the statehood option would have received less than 50% of all ballots received.[161] As of January 2014, Washington has not taken action to address the results of this plebiscite.

Many current U.S. state, regional and city secession groups use the language of self-determination. A 2008 Zogby International poll revealed that 22% of Americans believe that "any state or region has the right to peaceably secede and become an independent republic."[162][163]

On December 15, 2022, the U.S. House of Representatives voted in favor of the Puerto Rico Status Act. The act sought to resolve Puerto Rico's status and its relationship to the United States through a binding plebiscite.[164]

Since the late 20th century, some states periodically discuss desires to secede from the United States. Unilateral secession was ruled unconstitutional by the U.S. Supreme Court in Texas v. White (1869).

Western Sahara

Main article: Sahrawi Arab Democratic Republic
There is an active movement based on the self-determination of the Sahrawi people in the Western Saharan region. Morocco also claims the entire territory, and maintains control of about two-thirds of the region.


A demonstration in Madrid for the independence of Western Sahara, 2007

West Papua

Main article: Papua conflict
The self-determination of the West Papuan people has been violently suppressed by the Indonesian Government since the withdrawal of Dutch colonial rule under the Dutch New Guinea in 1962.

Western Cape

Main article: Cape Independence
Since the late 2000s there has been growing calls for the people of the Western Cape province of South Africa to become an independent state. South Africa in its current form was created in 1910 after the South Africa Act 1909 was passed in the British parliament. The Cape Colony ceased to exist, however many of its unique political and cultural quirks such as the Cape Liberal Tradition nevertheless continued to exist. Recent polling has shown that over 46% of Western Cape voters back independence outright.
注目すべき事例

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自決運動は、これまでにも注目すべき事例がいくつもある。過去の運動については、歴史的な分離主義運動のリストや脱植民地化された国のリストを参照のこと。また、国別の自治区リストや活発な分離主義運動のリストも参照のこと。

アルザフ

主な記事 アルザフ共和国

1988年2月13日、ステパナケルトで行われた最初の大規模デモ。伝統的にアルツァフ運動の始まりと考えられている。

コーカサス地方のアルザフ共和国(別名ナゴルノ・カラバフ共和国)は、1991年の住民投票で独立を宣言し、有権者の99%が賛成した。しかし、この分離 国家は国連加盟国から未承認のままであり、アゼルバイジャンの軍事攻勢と人口の99%の避難を経て、2024年1月1日に解散した。他の3つのソビエト連 邦後の紛争共和国とともに、民主主義と諸国民の権利のための共同体に加盟していた。

アッシリア

主な記事 アッシリア独立運動、アッシリア人、アッシリア
アッシリア独立運動とは、アッシリア国家の自治の下、伝統的なアッシリア人の祖国に住みたいというアッシリア人の政治運動であり、民族主義的な願望である。アッシリア領土は現在、シリア、イラク、イラン、トルコの一部にある。
オーストラリア
主な記事 オーストラリア先住民の自決
オーストラリアでは、アボリジニとトレス海峡諸島民との関係で、自決が議論の的となっている。1970年代、アボリジニは、アウトステーション運動として も知られるホームランド運動の一環として、自らの遠隔地コミュニティを管理する権利を要求した。1980年代にかけてその数は増加したが、2000年代に は資金が枯渇した。

アザワド

主な記事 マリ戦争

2012年、短命に終わったアザワド原始国家のトゥアレグ反乱軍
トゥアレグ族の伝統的な故郷は、マリ、アルジェリア、ニジェールの国境によって分断されていた。数十年にわたり何度も反乱が起こったが、2012年、トゥ アレグ族は自分たちの土地を占領し、アザワドの独立を宣言することに成功した。しかし、彼らの運動はイスラム主義テロリスト集団アンサール・ディーンに 乗っ取られた。

バスク

主な記事 バスク民族主義

2014年、バスクの決定権を求める人間の鎖
文化圏としてのバスク(バスク語: Euskal Herria、スペイン語: País Vasco、フランス語: Pays Basque)は、ピレネー山脈西部、大西洋岸のフランスとスペインの国境にまたがるヨーロッパの地域である。スペインのバスク自治州とナバーラ自治州、 フランスの北部バスク自治州からなる。19世紀以降、バスクのナショナリズムは何らかの自決権を要求してきた。[特に左派のバスク民族主義者の間では、こ の独立願望が強調されている。自決権は1990年、2002年、2006年にバスク議会によって主張された[69]。1978年のスペイン憲法では自決は 認められていないため[要出典]、同年12月6日の住民投票ではバスク人の一部が棄権し、一部が反対票を投じた。しかし、スペイン全体の投票率が 67.9%であったのに対し、バスク全体の投票率は45%であった[70]。派生したBACの自治制度はスペイン議会によって承認され、バスク市民による 住民投票でも承認された。ナバーラ自治州規約(Amejoramiento del Fuero:「憲章の改善」)はスペイン議会で承認され、スペイン17自治州のうち13自治州の規約と同様、発効に住民投票は必要なかった。

Euskadi Ta AskatasunaまたはETA(英語:Basque Homeland and Freedom、発音[ˈeta])は、800人以上を殺害したバスクの武装民族主義、分離主義、テロ組織である。1959年に結成され、伝統的な文化様 式を主張するグループから、バスク独立を目的とする準軍事組織へと発展した。そのイデオロギーはマルクス・レーニン主義であった[71][72]。

ビアフラ

主な記事 ビアフラ
1960年代後半のナイジェリア内戦時の少女。ナイジェリアの封鎖によって引き起こされた飢饉の写真は、世界中のビアフラ人への同情を集めた。
ナイジェリア内戦は、ビアフラ共和国の分離独立派とナイジェリア中央政府との間で争われた。1999年から現在に至るまで、ビアフラの先住民族は祖国復活 のために独立運動を続けている。彼らはナイジェリアと国連の両方でビリエ人権イニシアチブとして知られる人権団体を登録し、自決権を主張し、法の支配によ る独立を達成している[73]。

カタルーニャ

主な記事 カタルーニャ、カタルーニャ諸国、カタルーニャ独立運動、カタルーニャ独立宣言
2012年、60万人から150万人の市民が行進したカタルーニャ独立行進の後[74]、カタルーニャ州大統領アルトゥール・マスが2012年11月25 日、スペインのコルテス・ジェネラルズでは認められていないカタルーニャの自決権を行使する新たな議会を選出するため、新たな議会選挙を呼びかけた。カタ ルーニャ州議会は、次期4年制議会で自決の是非を問う投票を実施することを決議した。カタルーニャ州議会はスペイン議会に住民投票の権限委譲を申請した が、却下された[75]。2013年12月、アルトゥール・マス州知事と連立政権は、自決のための住民投票を2014年11月9日に設定することに合意 し、協議は「住民投票」ではないと明記した法律が制定されたが、スペイン政府の要請によりスペイン憲法裁判所によって阻止された。ブロックされたため、政 府は代わりに単純な「国民への協議」に変更した。
協議での質問は、「カタルーニャを国家にしたいのか」、そしてこの質問に対する答えがイエスであった場合、「この国家を独立国家にしたいのか」というもの であった。しかし、この協議は正式な住民投票ではなかったため、これらの(印刷された)回答は単なる提案であり、その他の回答も受け入れられ、無効票では なく「その他の回答」として目録に記載された。この協議の投票率は、投票に呼ばれた600万~200万人のうち、およそ200万~300万人であった(こ の数字が国勢調査の5~300万人という数字と一致しないのは、2つの主な理由がある:第1に、協議の拘束力がないために主催者側が公式の国勢調査を入手 できなかったこと、第2に、法定投票年齢が18歳ではなく16歳に設定されていたためである)。公式な国勢調査がなかったため、潜在的な有権者は自宅の住 所と姓によって選挙人名簿に割り当てられた。参加者は投票する前に、まず有権者登録簿にフルネームと国民IDを登録しなければならず、これにより参加者が 複数回投票する可能性を防ぐことができた。全体の結果は、両質問に賛成が80~76%、最初の質問に賛成で2番目の質問には反対は11%、両方に反対が 4~54%で、残りは「その他の回答」に分類された。投票率は約37%であった(協議に反対する人のほとんどは投票に行かなかった)。カタルーニャ州の政 治指導部のトップ4人は、憲法裁判所の直前の禁止令に反抗したため、公職から追放された。


2018年10月1日、バルセロナでの抗議デモ

それから約3年後(2017年10月1日)、カタルーニャ州政府は、2017年9月に採択された法律に基づき、この法律が憲法裁判所によって「市民の基本 的権利を侵害している」として停止されていたにもかかわらず[76]、「カタルーニャが共和国という形で独立国家になることを望みますか」という設問で独 立を問う住民投票を呼びかけた。投票日当日、過去に15-Mデモの際に警察の蛮行と不処罰で非難されていたカタルーニャ地方警察は[77][78]、事件 もなく500以上の投票所で投票を阻止した。一部の投票所ではカタルーニャ地方警察は介入しなかったが[79]、他の投票所では有権者の参加を認めるため にスペインのCNP(国家警察隊)と直接対決した[80]。CNPは投票箱を没収し、92の投票所を閉鎖した[81]。野党は不参加を呼びかけていた。投 票率(集計された票による)は530万票中230万票(国勢調査の43.03%)、独立賛成は90.18%であった[82]。投票率、投票数、結果は 2014年の「協議」と同様であった。

チェチェン

主な記事 チェチェン共和国
ドゥダエフの下、チェチェンは自決、ロシアによるチェチェン人への悪虐待の歴史、ロシアによる侵略前の独立の歴史を主な動機として、チェチェン共和国イッ ケリアとして独立を宣言した。ロシアはチェチェンに対する支配を回復したが、分離主義政府は亡命したままであり、アクメド・ザカエフが運営する世俗的な チェチェン共和国(ポーランド、イギリス、アメリカを拠点)と、イスラム的なコーカサス首長国の2つに分裂している。

東トルキスタン

主な記事 東トルキスタン独立運動
1933年11月12日、ウイグル人、カザフ人、キルギス人、ウズベク人が独立を宣言し、東トルキスタン第一共和国を樹立。彼らの主な動機は、自決、東ト ルキスタンにおける中国の植民地化と抑圧の歴史、中国(満州清朝)による侵略以前の独立の遺産などであった。中華人民共和国は1949年末に東トルキスタ ンを支配下に置いた。しかし、東トルキスタンのテュルク系民族(主にウイグル族とカザフ族)は、独立を求めて粘り強く戦ってきた。東トルキスタンの主権を 主張し、1949年以来の中国の占領に異議を唱える強固な運動がある。東トルキスタン亡命政府は東トルキスタン独立運動の先頭に立っている。

東ウクライナ

主な記事 ドンバス戦争(2014年~2022年)

ドネツクの親ロシア分離主義者(2015年4月
ウクライナ東部のドネツク州東部とルハンスク州南東部の住民の自決に基づく分離独立運動が活発だ。同様に、2014年5月に行われた大統領選挙は、武装し た武装集団が投票所を占拠し、選挙関係者を誘拐し、選挙人名簿を盗んだため、両地域で実施されず、自由で公正かつ国際的に認められた選挙で住民の意思を表 明する機会が奪われたという報告もある[83][84]。 [85]また、ウクライナ東部の事実上の分離は自決の表現ではなく、むしろ親ソ感情や隣国ロシアによる侵略の復活が動機となっているという議論もあり、ウ クライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は2015年に、ウクライナに最大9,000人のロシア兵が配備されていると主張している[86]。

エチオピア

主な記事 エチオピア政府
エチオピア連邦民主共和国は、半自治国家の連合体として運営されている。エチオピア憲法は、各州の自己決定性についてしっかりと言及している。エチオピア連邦民主共和国は、半自治国家連合体として運営されている。

フォークランド諸島

主な記事 フォークランド紛争
自決はフォークランド諸島憲法[87]で言及されており、フォークランド諸島の主権争いの要因となっている。フォークランド諸島政府が主催した2013年 の住民投票では、99.8%が英国領残留に投票した[89]。統治国である英国政府は、フォークランド諸島住民の大半が英国領残留を希望していることか ら、アルゼンチンへの主権移譲はフォークランド諸島住民の自決権に反すると判断した[90]。


2015年、ブエノスアイレスのマルビナスと南大西洋諸島博物館
アルゼンチンは、現在の住民は原住民ではなく、「武力行為」によって追放されたアルゼンチン住民に代わって連れてこられたものであり、アルゼンチン住民が 直接島を離れることを余儀なくされたため、自決の原則は島には適用されないとしている[91]。 これは1833年にイギリスの支配が再確立されたことを指しており[92]、その間にアルゼンチンは島に住む既存の住民が追放されたと主張している。アル ゼンチンはフォークランド諸島の場合、領土保全の原則が自決よりも優先されるべきであると主張している[93]。歴史的記録はアルゼンチンの主張に異議を 唱えており、駐屯地が追放されたことを認めながらも、既存の民間人がポートルイスに残っていたことを記している[94][95][96][97]。

ジブラルタル

主な記事 ジブラルタルの地位

ジブラルタル建国記念日(2013年9月
自決権はジブラルタル憲法第1章の前文で言及されており[99]、イギリスもジブラルタルの主権が移譲される際にはジブラルタル人の自決権が尊重されると の保証を与えているため、領土をめぐるスペインとの紛争の要因となっている[100]。 [100] ジブラルタル人の自決権の影響は、2002年のジブラルタルの主権を問う住民投票でも見られ、ジブラルタルの有権者は、英国とスペインの間でジブラルタル の主権を共有する計画を圧倒的多数で否決した。しかし、イギリス政府は、ジブラルタルの自決はユトレヒト条約によって制限されており、スペインの合意なし にジブラルタルが独立を達成することはできないと考えており、ジブラルタル政府はこの立場を受け入れていないという点でジブラルタル政府とは異なっている [101][102]。

スペイン政府はジブラルタル人の自決権を否定しており、ジブラルタル人は「真の自治権を持たない人工的な人口」であり「先住民」ではないとみなしている[103]。

グリーンランド

主な記事 グリーンランドの独立
香港
主な記事: 香港 香港の独立
1972年11月2日に国連決議2908(XXVII)が採択される前、中華人民共和国は1972年3月8日に旧英国植民地である香港の自決権に拒否権を 発動した。これは、12月14日に英国が「この決定は無効である」と宣言したことと共に、数カ国の抗議を呼び起こした。それから数十年後[いつ?]、香港 独立運動と呼ばれる独立運動が、現在共産主義中国が支配する香港で起こった。独立運動は、香港自治区を完全に独立した主権国家にすることを提唱している。

中華人民共和国によれば、1997年に香港がイギリスから中華人民共和国に返還されて以来、香港基本法[1]第2条(中英共同宣言に基づき批准)で保証さ れた、中華人民共和国(PRC)の下での高度な自治を享受する特別行政区(SAR)とみなされている。返還以来、多くの香港人は、北京が香港の自由を侵害 し、香港政府が「真の」民主主義を実現できていないことを懸念するようになっている[2]。


サッカー香港代表対中国代表の試合前に掲げられた香港独立派の旗
2014年から15年にかけての香港選挙制度改革案は、香港人の普通選挙権を認める一方で、北京が候補者を選別する権限を持ち、香港の最高位である香港行 政長官(CE)の選挙方法を制限するというもので、香港を深く分裂させた。これが「雨傘革命」と呼ばれる79日間にわたる大規模な平和的抗議行動の発端と なり、香港の政界に独立派が台頭した[2]。

それ以来、特に平和的な雨傘運動が失敗した後、地方主義は勢いを増している。若いローカリズムの指導者たちは、中国統治下の香港の社会問題に対する認識を 高めるため、親中国政策に対する数多くの抗議行動を主導してきた。インターネット検閲強化法案に反対する座り込み抗議行動、香港大学への中国の政治干渉に 反対するデモ、返還元朗抗議行動、2016年の旺角内乱などがそれだ。2016年7月に香港中文大学(CUHK)が実施した調査によると、回答者の 17.4%が2047年以降の独立を支持しており、3.6%は「可能」と回答している[3]。

先住民族

先住民族は、2007年の「先住民族の権利に関する宣言」を通じて、先住民族という言葉を主張し、自決権を獲得した。しかし、それは既存の主権国家内での権利に過ぎず、国際政治において主権を獲得するためには領土と中央政府も必要である[105]。

イスラエル

主な記事 イスラエル、ユダヤ民族運動、ユダヤ人の歴史
シオニズムはテオドール・ヘルツルによって創始された民族主義的イデオロギーであり、パレスチナ/古代イスラエル地域におけるすべてのユダヤ人の自決を行使する、民族としての歴史的資格の権利を主張する[106]。[107]

カシミール

主な記事 カシミール紛争
1947年にパキスタンとインドが建国して以来、インドとパキスタンの間にあるジャンムー・カシミール州の法的地位は、イギリスがこの土地の支配を辞めた ことで争われてきた。1947年10月26日、当時カシミール地方を統治していたマハラジャ・ハリ・シンは、パキスタンの部族に領土を攻撃されていたた め、この法律に署名した。この法律の成立により、ジャンムー・カシミールは合法的にインドに加盟することができた。この法律が英領インド最後の総督マウン トバッテン卿に提出されると、マウントバッテン卿はこの法律に同意し、インド、パキスタン、カシミール地方の市民による住民投票を実施し、カシミール地方 の帰属先について投票できるようにする必要があると述べた。マウントバッテンが呼びかけたこの住民投票は実施されず、カシミールの法的紛争の1つになっ た。1948年、国連が介入し、カシミール人がパキスタンとインドのどちらに加盟したいかの声を聞くために、国民投票を行うよう命じた。この国民投票で は、カシミール人が自決権を持ち、自治国家となる権利は除外された。今日に至るまで、カシミール人はインドとパキスタンの双方による数々の人権侵害に直面 しており、自決を通じて彼らが求めていた完全な自治権を得るには至っていない[中立性が争われている][要出典]。

インドの支配に対するカシミールの反乱は様々な形で存在してきた。1987年のジャンムー・カシミール州選挙でインド政府による不正操作が疑われた後、 1989年にカシミールでインド支配に対する広範な武装反乱が始まった。これがきっかけとなり、州議会の一部の政党が武装勢力の翼を結成し、この地域で武 装反乱が発生するきっかけとなった。カシミールをめぐる紛争は数万人の死者を出した。


2016年の騒乱時のカシミール地方の路上でのインド兵
パキスタンのインター・サービス・インテリジェンスは、ジャンムー・カシミールでインドの治安部隊と戦うために、親パキスタン派と独立派の両方の武装勢力 を支援・訓練しているとインドから非難されているが、パキスタンはこの容疑を否定している。ジャンムー・カシミール州議会で発表された公式の数字による と、失踪事件は3,400件にのぼり、2009年7月現在、紛争によって47,000〜100,000人以上の死者が出ている。しかし、インドとパキスタ ンの間で遅々として進まなかった和平プロセスが始まった後、同州の暴力は激減した。2008年に和平プロセスが失敗した後、インドの支配に対する大規模な デモが発生し、小規模な武装勢力が再び台頭した。

しかし、2014年に分離主義指導者たちがボイコットを呼びかけたにもかかわらず、ジャンムー・カシミール州議会選挙では、反乱が勃発して以来過去25年 間で最高の投票率を記録した。インド政府の発表によると、投票率は65%以上を記録し、これはインドの他の州議会選挙の投票率を上回った。これは、インド の民主的プロセスに対するカシミール国民の信頼が高まったと考えられる。しかし、活動家たちは、この投票率は非常に誇張されたものであり、選挙は強要され た状況で行われるものだと言う。投票が行われるのは、人々が州の安定した統治を望んでいるからであり、これをインドの支配を支持するものと誤解することは できない[108][109]。

クルディスタン

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シリア戦争中のクルドYPGの女性戦闘員たち
主な記事 クルド・トルコ紛争(1978年~)、イラク・クルド紛争、イランのクルド人分離主義、ロジャヴァ紛争

2017年9月、イラク・クルディスタンのエルビルでの独立賛成集会
クルディスタン(Kurdistan)は、中東のクルド人が主に居住する歴史的地域である。現在、トルコ、イラク、シリア、イランの一部となっている。4 つの国家それぞれにクルド人の自決運動がある。イラク・クルディスタンは、イラク連邦憲法によって承認されたクルド地域政府の形成を通じて、現在までに最 大の自決を達成している。

第一次世界大戦後、セーヴル条約でクルド国家樹立の権利が認められたが、その後ローザンヌ条約(1923年)で条約は破棄された。現在までに2つのクルド 共和国と1つのクルド王国が主権を宣言している。アララト共和国(トルコ、アールー州)、メハバード共和国(イラン、西アゼルバイジャン州)、クルディス タン王国(イラク、イラク・クルディスタン州スレイマニヤ県)である。現在イラクの大統領を務めるクルディスタン愛国同盟と、クルディスタン地域政府を統 治するクルディスタン民主党は、ともにクルド人の自決の発展を明言しているが、現在の国境や国の中で自決を求めるかどうかについては意見が分かれている。

クルド人の自決に向けた努力は、トルコとイランの政府によって違法な分離主義とみなされ、この運動は両国で政治的に抑圧されている。これはイランとトルコ におけるクルド人民族主義の反乱と絡み合っており、平和的主張の抑圧を正当化し、正当化されている。シリアでは、シリア内戦の動乱の中、2012年にクル ド人自治政府が設立されたが、外国からは承認されていない。

ナガリム

主な記事 ナガ民族主義
ナーガとは、インドとビルマの国境に住む、曖昧に定義された部族の集合体を指す。これらの部族は、イギリスが到着する前はそれぞれ独立した村に住んでいた が、キリスト教化が進むにつれて共通のアイデンティティを持つようになった。イギリスがインドを去った後、アンガミ・ザプ・フィゾの指導の下、ナガ族の一 部がナガ族のための独立国の樹立を目指した。フィゾのグループであるナガ民族評議会(NNC)は、ナガ民族の99. NNCはインド政府を相手に分離独立運動を展開した。NNCはフィゾが反対派を殺害したり、政府に避難させたりしたため崩壊した[110][111]。 フィゾはロンドンに逃亡したが、NNCの後継の分離独立派グループはインド政府に対して暴力的な攻撃を続けた。ナガのもう一つの主要組織であるナガ人民会 議(NPC)は分離独立派に反対していた。1975年のシロン合意以降、分離独立派の暴力はかなり減少した。しかし、ナガランド民族社会主義評議会 (NSCN)の3つの派閥は、インドとビルマの一部を含む独立国を求め続けている。彼らは「ナガリム」と呼ばれるキリスト教徒を主体とする主権国家を構想 している[113]。

北ボルネオとサラワク

おそらくより関連性のあるもうひとつの論争的なエピソードは、イギリスが英領マラヤから撤退を始めたことである。1963年に北ボルネオとサラワクのイギ リス領を率いて、住民が新しいマレーシア連邦の一部となることを望むかどうかを決定した国連評価チームの調査結果に関する経験である[114]。国連チー ムの任務は、1962年に同領に到着し、世論を決定するための公聴会を開催した、イギリスが任命したコボルド委員会による以前の評価に続くものであった。 また、個人、団体、政党から提出された1600通の手紙や覚書を精査した。コボルド委員会は、国民の約3分の2がマレーシアの成立を支持し、残りの3分の 1は独立かイギリスによる支配の継続を望んでいると結論づけた。国連チームはこの調査結果をほぼ確認し、後に総会で承認され、両領土はその後、新しいマ レーシア連邦の結成を希望した。コボルド委員会と国連チームの結論は、いずれも住民投票による自決が実施されることなく出された[115][116] [117]。しかしシンガポールとは異なり、サラワクと北ボルネオでは住民投票が実施されることはなかった[118]。 しかし、シンガポールとは異なり、サラワクと北ボルネオでは住民投票は実施されなかった[118]。マニラ合意は、1963年7月31日にフィリピン、マ ラヤ連邦、インドネシアの間で結ばれた合意であり、北ボルネオとサラワクの住民投票が自由で強制のないものであることを考慮して、国連総会決議1541 (XV)、附属書第9原則[121][122]の文脈において北ボルネオとサラワクの住民の意向に従うというものであった[119][120]。 [インドネシアは協定の違反に反対していたため、これはインドネシアの対立の引き金ともなった[123][124]。

北キプロス

主な記事 北キプロス

2006年、北ニコシアのアタテュルク広場。北キプロスとトルコの国旗が掲げられている。
キプロスは紀元前2千年紀にミケーネ・ギリシャ人によって2つの波で定住された。その後、中東の戦略的要衝として、アッシリア、エジプト、ペルシャなどの 大国に占領され、紀元前333年にはアレキサンダー大王に占領された。その後、プトレマイオス朝エジプト、古典ローマ帝国、東ローマ帝国、短期間のアラ ブ・カリフ、フランスのリュシニャン朝が支配した。最後のリュシニャン王ジェームズ2世が1473年に死去すると、ヴェネツィア共和国がこの島を支配する ことになった。カトリーヌの退位後、ヴェネツィアは1489年に正式にキプロス王国を併合した。ヴェネツィア人はニコシア城壁を築いてニコシアを要塞化 し、重要な商業拠点として利用した。

リュシニャン派のフランス貴族は中世を通じてキプロスの支配的な社会階級であり続けたが、ギリシャ人が島で農奴としてのみ扱われていたというかつての仮定 は、もはや学者によって正確であるとは考えられていない。現在では、中世には上流階級に昇格したギリシャ系キプロス人の数が増え、ギリシャ系中産階級が成 長し、リュシニャン王室もギリシャ人と結婚したことが認められている。その中には、ヘレナ・パレオロジーナと結婚したキプロス王ジョン2世も含まれてい る。

ベネチアの支配を通じて、オスマン帝国は頻繁にキプロスを襲撃した。1539年にオスマン帝国はリマソールを破壊したので、最悪の事態を恐れて、ヴェネツィア人はまた、ファマグスタとキレニアを要塞化した。

1570年に侵入したトルコ人は、1571年から1878年に大英帝国に貸し出されるまで、キプロス島のすべてを支配し、単独で統治した。キプロスは 1878年のキプロス条約に基づきイギリスの施政下に置かれ、1914年の第一次世界大戦開戦時に正式にイギリスに併合された。トルコ系キプロス人は人口 の18%を占めたが、キプロスの分割と北部のトルコ国家建設は、1950年代にトルコ系キプロスの指導者とトルコ共和国の政策となった。政治的には、ギリ シャ系キプロス人とトルコ系キプロス人の間に多数派/少数派の関係はなく[125][126]、それゆえ1960年にキプロス共和国がキプロスの構成共同 体(ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人)によって非一元国家として建国された[127]。 [北キプロス・トルコ共和国は1983年に宣言され、トルコによってのみ承認された[131]。1990年、モンロー・リー『キプロスにおけるトルコ系キ プロス人とギリシャ系キプロス人の共同体の国際法上の法的地位』。これらの交渉に参加するギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人の政権、および彼らが 代表するそれぞれの共同体は、現在、自決権を含む国際法上の平等な権利を行使する権利を有している[132]。 1974年のトルコの侵攻以前、トルコ系キプロス人は島内のトルコ系キプロスの飛び地に集中していた。

北キプロスは国家としての古典的な基準をすべて満たしている[133]。国連キプロス平和軍(UNFICYP)はキプロス島北部で北キプロスの法律に基づ いて活動している[134]。欧州人権裁判所(ECtHR)によると、北キプロスの法律はキプロス北部で有効である[135]。ECtHRは北キプロスの 裁判所が「独立性および/または公平性」を欠いているという主張を受け入れなかった[136]。 [136]ECtHRはすべてのキプロス国民に対し、ECtHRに提訴する前に北キプロスによって適用された「国内救済措置」を尽くすよう指示した [137]。 2014年、米国の連邦裁判所は北キプロス・トルコ共和国を「民主主義国家」と認定した[138][139][140]。 2017年、英国の高等法院は「英国政府には北キプロスを承認しない義務は英国法上なかった」と判断した。国連自体が北キプロスの法執行機関と協力し、島 の2つの部分の間の協力を促進している」[141]。 イギリスの高等法院は「北キプロスにおけるイギリスの警察と法執行機関の協力は違法である」という主張も退けた[142]。

パレスチナ

パレスチナ支援を示すベルファストの共和主義者の壁画
主な記事 パレスチナ自決、パレスチナ国家、パレスチナ民族主義
パレスチナ自決は、パレスチナに適用される国際的な自決権[143]と同様に、自治権の拡大や主権独立に対する一部のパレスチナ人やパレスチナ民族主義者 の願望である。このような感情は一国家解決と二国家解決の両方の特徴である。二国家解決策においては、これは通常、ヨルダン川西岸地区における占領への抵 抗、東エルサレムにおける併合努力、国境沿いの移動の自由、アル・アクサ・モスクのような重要な場所の保全といった領土保全のイニシアチブを意味する [144]。

ケベック

主な記事 ケベック主権運動
カナダでは、ケベック州の多くのフランス語圏の市民が同州の連邦からの分離独立を望んできた。ケベック党はケベック州の「自決権」を主張している。「フラ ンス語圏のケベック・ナショナリズムとケベック文化の維持への支持はケベック・ナショナリストを刺激し、その多くは20世紀後半にケベック主権運動を支持 した[146]。

スコットランド

主な記事 スコットランドの独立
スコットランドは連合法(1707年)によって統一されたグレートブリテン王国が誕生し、イングランドと同様に1707年に主権国家として存在しなくなっ たが、スコットランド独立運動が長年続いており[147]、2020年1月の世論調査では有権者の52%がスコットランドの独立に投票するとの結果が出て いる[148]。 同国最大の政党であるスコットランド民族党[149]はスコットランド独立のためのキャンペーンを行っている。2014年に独立の是非を問う住民投票が実 施され、有権者の55%が否決した[150]。独立の議論はEU加盟を問う英国の住民投票を通じて継続され、スコットランドの有権者は北アイルランドと同 様にEU残留に62%の票を投じた[151]。 しかしイングランドとウェールズの結果は英国全体のEU離脱につながった[152]。2019年後半、スコットランド政府はスコットランド独立に関する2 度目の住民投票を要求する計画を発表した。これはスコットランド議会によって同意が与えられたが、2022年7月現在、イギリスのボリス・ジョンソン首相 は、2014年の投票がこの問題を一世代で決着させることを双方が事前に受け入れたという主張のもと、再度の住民投票の実施に必要な第30条の権限を付与 することを拒否している[153]。

南アフリカ

主な記事 ヴォルクシュタート
南アフリカ憲法第235条は、「南アフリカ国民全体の自決権」の枠組みの中で、国内法に従って、共同体の自決権を認めている[154]。独立アフリカーナ民族の祖国を支持する人々は、彼らの目標はこの新しい法律の下でも妥当であると主張している[154]。

南チロル

イタリアでは、第一次世界大戦後に南チロル/アルト・アディジェが併合された。南チロルのドイツ語圏住民はグルーバー=デ・ガスペリ協定によって保護され ているが、政党Die Freiheitlichenや南チロル独立運動など、南チロルの自決を支持する人々も存在する。第二次世界大戦末期、イタリアのレジスタンス軍が南チロ ルに進駐し、南チロルのレジスタンス運動の意向に反して行政を引き継いだ[155]。その後、連合国は南チロルをイタリアに譲渡し、イギリスの外相は「理 論的にはオーストリアの方が有利な議論をしているが、南チロルの発電所を彼らに譲ることは、公然とロシアにイタリアに圧力をかけることができる助けの手を 与えることになりかねない」と発言した[156]。連合国はイタリアに南チロルに高度な自治権を与えるよう働きかけ、1946年のグルーバー・デ・ガスペ リ協定に至った。

セーケリーランド

主な記事 セケリ自治運動
第一次世界大戦後、ハンガリー王国の大部分はルーマニアに併合された。これらの地域の一部には、セケリ人と呼ばれるハンガリー系民族が住んでいた。彼らの居住地がルーマニアに統合されて以来、これらの人々は何らかの形で自治や自治権を獲得しようとしていた。

台湾

主な記事 台湾独立運動

チベット

主な記事 チベット独立運動
1950年以来、中国の占領からチベットの主権を擁護する運動がいくつかある。チベット亡命政府はその顕著な例である。

アメリカ

民族衣装を着たネイティブ・アメリカンの女性
北米大陸の植民地化とネイティブ・アメリカンは、19世紀初頭から法廷闘争の源となってきた。多くのネイティブ・アメリカン部族は、独立した土地(保留 地)に再定住され、合衆国内で一定の自治権を維持している。連邦政府は部族主権を認め、連邦政府、州政府、部族政府間の関係を明確にするために多くの法律 を制定しました。憲法とその後の連邦法は、部族国家の地域主権を認めているが、外国と同等の完全な主権は認めていないため、連邦政府が承認した部族を「国 内従属国家」と呼んでいる。

ある種のチカーノ・ナショナリスト・グループは、アステカの伝説的な故郷にちなんでアズトランと呼ばれる民族ベースの国家を「再創造」しようとしている。 この国家は、先住民族とその子孫、そしてスペイン植民地時代とメキシコ政府下の植民者とその後の入植者の歴史的領土であるアメリカ南西部から構成される [157]。ニュー・アフリカー州の提案の支持者は、ブラックベルトにあるアメリカのいくつかの州にアフリカ系アメリカ人が居住し、その生産性を高めてき た歴史から、奴隷制の賠償金として4000億ドルとともに、この地域にアフリカ系アメリカ人の共和国を設立する資格があると主張している[158]。

ハワイの自治または独立運動はいくつか活発で、それぞれが単一または複数の島をある程度政治的に支配することを目標としている。これらのグループは、アメ リカ合衆国のインディアン居留地のような領土単位を求めるものから、最も独立性が低いと予測されるハワイ主権運動まで様々である。ハワイ主権運動は、ハワ イ憲法の下でのハワイ民族の復活を目指す。


ワシントン・レッドスキンズの名称論争で抗議するネイティブ・アメリカンとその支持者たち。
1972年以来、国連脱植民地化委員会はプエルトリコの「脱植民地化」を求め、アメリカがプエルトリコの自決権と独立を承認するよう求めてきた。2007 年、非植民地化小委員会は国連総会に対し、1953年決議によって留保された権限であるプエルトリコの政治的地位の見直しを求めた[159]。これは 1967年の国民投票法の可決に続くもので、プエルトリコの地位について、連邦の継続、州制、独立の3つの選択肢から投票することを定めたものであった。 最初の国民投票では、連邦の選択肢が60.4%の得票率で勝利したが、米国議会の委員会は地位問題に対処する法案を制定できなかった。その後の1993年 と1998年の国民投票では、現状維持が支持された[160]。

2012年11月に実施された住民投票では、プエルトリコ住民の過半数が米国との領土関係の変更に賛成し、州制の選択肢が優先された。しかし、全投票数の 3分の1にあたる多数の投票が、望ましい代替地位の質問で空白のままだった。連邦制支持者は有権者に空白票を投じるよう促していた。2014年1月現在、 ワシントンはこの国民投票の結果に対処するための行動を起こしていない[161]。

現在、米国の多くの州、地域、都市の分離独立派は、自決という言葉を使っている。2008年のゾグビー・インターナショナルの世論調査では、アメリカ人の 22%が「どの州や地域も平和的に分離独立し、独立した共和国になる権利がある」と考えていることが明らかになった[162][163]。

2022年12月15日、アメリカ下院はプエルトリコ地位法の賛成票を投じた。この法律は、拘束力のある国民投票を通じてプエルトリコの地位と米国との関係を解決しようとするものであった[164]。

20世紀後半から、いくつかの州は定期的にアメリカ合衆国からの分離独立の願望を議論していた。一方的な分離独立は、テキサス対ホワイト事件(1869年)の連邦最高裁判所によって違憲とされた。

西サハラ

主な記事 サハラ・アラブ民主共和国
西サハラ地域では、サハラ人の自決に基づく運動が活発に行われている。モロッコも全領土の領有権を主張し、地域の約3分の2を支配している。


マドリードで行われた西サハラ独立デモ(2007年

西パプア
主な記事 パプア紛争
西パプアの人々の自決は、1962年にオランダ領ニューギニアの下でオランダの植民地支配が撤廃されて以来、インドネシア政府によって暴力的に弾圧されてきた。

西ケープ

主な記事 ケープ独立
2000年代後半から、南アフリカの西ケープ州の人々が独立国家になることを求める声が高まっている。現在の形の南アフリカは、1909年に英国議会で南 アフリカ法が可決された後、1910年に誕生した。ケープ植民地は消滅したが、ケープ・リベラルの伝統など、ケープ独自の政治的・文化的風習の多くは存続 した。最近の世論調査では、西ケープ州の有権者の46%以上が独立を支持している。
Anti-imperialism
Community for Democracy and Rights of Nations
Decolonization
Special Committee on Decolonization
United Nations list of non-self-governing territories
Ethnic separatism
Ethnonationalism
Ethnopluralism
Independence movement
Indigenous peoples
Informational self-determination (German)
International relations theory
Irredentism
Legitimacy
List of countries that have gained independence from the United Kingdom
List of historical unrecognized states and dependencies
List of national liberation movements recognized by intergovernmental organizations
Lists of active separatist movements
National delimitation in the Soviet Union
National personal autonomy
Nation-state
Non-Intervention
Plurinationalism
Religious nationalism
Right to exist
Consent of the governed
Popular sovereignty
Self-governance
Separatism
Stateless nation
Territorial integrity
Unrepresented Nations and Peoples Organization
Wars of national liberation
反帝国主義
民主主義と諸国民の権利のための共同体
脱植民地化
脱植民地化特別委員会
国連非自治領リスト
民族分離主義
民族ナショナリズム
民族主義
独立運動
先住民族
情報的自決(ドイツ語)
国際関係論
独立主義
正統性
イギリスから独立した国のリスト
歴史的に未承認の国家と属国のリスト
政府間組織によって承認された民族解放運動のリスト
活発な分離主義運動のリスト
ソビエト連邦における国家分割
民族自治
国民国家
非介入
多民族国家主義
宗教的ナショナリズム
生存権
被治者の合意
国民主権
自治
分離主義
無国籍国家
領土保全
未代表国・人民機構
国民解放戦争
https://en.wikipedia.org/wiki/Self-determination



●先住民/先住民族の自己決定権

リンク

文献

その他

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

池田蛙