Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
〈出産〉を経験するということ
——モン・クメールの人々と近代的〈出産〉——
嶋沢恭子
<出産>を経験するということ
−モン・クメールの人々と近代的<出産>−
嶋澤恭子 (熊本大学大学院社会文化研究科)
Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
はじめに
本稿は、近代化言説としての医療化に絡みとられない出産の経験を、出産におけるリスクの文化的差異を軸にして、ラオスに居住するモン・クメールの人々の語りから提示するものである。医療化とは、かつては病気とみなされていなかった現象が病気とみなされるようになり、近代医療の管轄下で統制されるようになることを指し、この意味において医療化はあくまでも近代西欧的な言説であると認識することができる。
西欧では、女性のコミュニティーにおいて日常の出来事として経験された出産が、科学技術と権威ある専門知によって医療化されていく。そして、この過程をラオスにあてはめると、ここでも近代化言説によって、ラオスの出産を医療化に回収する試みがなされる。しかし、それには回収されないモン・クメールの人々の経験が浮き彫りとなってくる。
医療の中の出産の場面では産婦自身の経験はたいした情報とされないことが多い。「安全な出産のため」、「リスクを回避するため」といった神話を達成するために、多くの不自由を産婦も助産婦も医療者も背負わなければならなかった。本音を飲み込んで、それらしく振舞うことが要求される場でもあった。そして、それは「相手のニーズを尊重したかかわり」なのだからと、当事者の産婦以外は認識していたのかもしれない。
このような姿勢は、私が関わってきた医療開発援助の現場でも似たような形で存在している。私が行ってきた援助の多くは、安全や管理を掲げて出産を医療の内部に囲い込むといった形の実践であった。それは、援助する側の価値観を前提とした「住民のため」であった。援助する側の世界では「援助を必要とする人たち」を作り上げるのである。それは「相手のニーズを尊重するかかわり」であることが望まれる。多くの医療援助で「箱もの」と呼ばれるものから「住民参加型」へと援助のかたちが移行していることからもその傾向はうかがえる。しかし、それは本当に住民が望んでいることなのかが問題にもなっている。
このように、日本で私が学んできた「医療」という枠組みに絡みとられた助産 は医療援助と類似しているように思う。どちらも「助けを求める人、援助が必要な人」がそこにいることを前提としており、この前提は疑う余地のないものと考えられているからである。しかし、「助けを求める人」という前提が「助ける人」の側にあったとするならば「助けを求める人」はいつまでたっても救済されることはないだろう。例えば、この点について岡は次のように言っている。
私たちは自分にとって一番苦痛だと思うことが、他者にとってもそうなのだと思いこんでしまう。それを他者に投影し、他者自身の声として、それを聞き取るのである。そして、言葉なき他者に代わって、私たちがその声を語り出す。彼/女の苦痛として。だが、それは結局のところ、私たち自身の苦痛、私たち自身の声に過ぎない。もしかしたら、彼/女にとっての目下、最大の苦痛とは、私が彼/女に1枚のセーターをやらないことなのかもしれない[岡1996b:194]。
勝手に構築してしまった「助けを求める人」の声に、実際どれだけ耳を傾ける努力をしているのだろうか。ラオスでの医療援助を経験した後、そういった疑問が払拭できないまま何度か個人的にラオスの村に滞在した。そして、2002年に開発コンサルタント会社の委託メンバーとして「ラオス保健省医療保健政策プロジェクト」の開発調査に参加し、辺境地域に住む人々のHealth Behavior(女性の健康に関する行動)調査を担当する機会を得た。そのなかで、調査助手のカイ、運転手のウー、郡保健局の医師とそして私といったメンバーで三週間にわたって南ラオスのモン・クメールの山村に滞在した 。そこで、「医療」の枠には回収されない出産の経験、医療に絡みとられない人々の出産というものがあるように思われた。そしてその経験が言語化を通じて語られるものであるならば、出産についての語りに着目する必要があると考えた。
本論では、その経験を、具体的にはラオスのモン・クメールの村での出産、病院での出産、難産などの異常出産時の対応、出産における死亡の対処などの語りを通して明らかにする。その中で、彼らにとっての出産の経験とはどのようなものか、それはいかなる文化的想像力を媒介として語るのかを考察する。さらに、彼らの語りを通して文化的に構築される出産の場所についてもみていく。彼らにとって、近代の出産場所である病院がどのような場所であるのかを踏まえて近代の出産経験を相対化し、新たにオルタナティブな出産を経験する可能性について考察したい。
第1章では、西欧における出産の歴史的過程を「痛みのコントロール」と「産科テクノロジーの登場」についての言説を中心にして整理する。具体的には、日常における女性同士のコミュニティーの中にあった出産の経験が、「苦痛のとらえ方」の変化と産科テクノロジー、そして権威ある専門知によって医療化されてきたことを整理する。この整理を通して、権威をもった専門的な技術と知識によって可能になった医療としての出産が、いかに恣意的で歴史的な構築物であるかを検討する。
第2章では、まずラオスにおけるモン・クメールの人々の社会文化的位置を確認しながら、ラオスにおける出産を概観する。そして近代化言説としての出産が、ラオスという国家的枠組みの中でどの様に取り扱われ、表象されているのかを批判的に検討する。さらに近代化言説としての医療化が、ローカルな場所として位置づけられるであろうラオスにおいて、どのように出現しているのかを事例を通してみる。
第3章では実際に出産をめぐる場面で、モン・クメールの人々の出産する当事者や関係者の語りを通して出産の経験について分析する。この点を具体的には彼らの村での出産、病院での出産、難産などの異常出産時の対応、出産時における死亡の対処などの語りを通して考察する。そして、近代化言説としての病院での出産の経験は、彼らにとっていかなる経験となり得るのかも語りから明らかにしたい。それぞれの語りにおける差異や、共通部分を明確にし、それは何によるものかを検討したい。さらに、文化的に構築される出産の場所をめぐって、その意味を彼らの語りを通してみていく。
以上のまとめとして、第4章においては、ラオスのモン・クメールの人々にとって出産の経験は近代が用意するものとは異なったものとして経験されていることを確認し、近代の出産の経験を相対化し、近代のさまざまな暗黙の前提を問題含みのものとして再検討する。さらに、人類学の問題系に即しながら事象についてカテゴリー化することの限界と危険性、近代という支配的な言説が隠蔽するほかの言説について考察する。さらに、自らが文化的拘束から自由にはなりえないという確認、自らの経験を基にフィールドでの出会い方についても考察する。
最後に、第5章においては、医療に絡み取られない出産の経験を明らかにし、近代における出産を自明なものではなく問題含みのものとして提示したことで、さらに新たにオルタナティブな出産を経験する可能性について模索する。そこから新たなる関係性の構築についての課題を明確にしたいと考える。
第1章 医療化をめぐる研究の動向
出産をめぐる言説は多種多様であるが、ここでは出産の歴史的過程を医療化の言説を中心にして整理しておきたい。具体的には、西欧社会において、もともと日常における女性同士のコミュニティーの中にあった出産の経験が、「苦痛のとらえ方」の変化と産科テクノロジー、そして権威ある専門知によって医療化されてきたことの整理である。医療化とは、それまで医療の対象とされていなかった経験が近代医療により治療の対象となり、さまざまな形で統制管轄されるようなことを指す社会現象のことである。したがって、医療化は、西洋の近代社会が生み出した言説実践のひとつとみなすことができる。この出産の医療化をめぐってどのような言説が主流をなし、またオルタナティブな言説がいかにして登場したのかという点を押さえておく。この整理を通して、権威をもった専門的な技術と知識によって可能になった医療としての出産が、いかに恣意的で歴史的な構築物であるのかということを検討する。
第1節 医療化言説 —苦痛のとらえ方と出産—
1.1.出産の医療化に関する先行研究
ここでは、科学的言説のひとつの例として「出産」が医療化(medicalization)に向かうもの、近代化へ向かうものとして促進させてきたであろう言説をあげる。医療化とは、かつては病気とみなされていなかった現象が病気とみなされるようになり、医療の管轄下で統制される様になることを一般にさす。I.イリイチは医療化について、医療専門職が社会の逸脱を「治療」しなければならないと考える傾向のことであり、医療の視点から見ると治療対象の拡大を意味すると述べている。さらにイリイチは医師が病気をつくり、その病気を医師が治療しているのが現代医療のシステムだとも指摘している[イリイチ 1979]。コンラッドとシュナイダーは、社会の逸脱に対して「病気」というカテゴリーが社会の中で制度化され人々の中に定着して行く過程を「悪から病気へ」と呼び、「カテゴリーの政治化」の過程として論じている。そして医療化は一方的な現象ではなく、周期的・動的な現象であるという[Conrad and Schneider 1980]。ヘルマンは、特に女性のライフサイクルの医療化に関して言及している。医療化については、以前から医療の守備範囲でなかった問題を、医療が解決すべき問題として医療の守備範囲内に取り込み、逆に個々人の医療能力や問題の自己解決能力を失わせるとしている[Helman 1990]。フェミニズム的な立場からは、医療専門家を大規模な家父長制と考え、妊娠や出産のような女性特有の領域を男性がコントロールし、女性を相対的不平等の位置に維持するために病気や疾患の定義を使うという医療化のありかたを指摘する[Lupton 1997:94]。
医療化によって、過酷な処罰に科学的な治療が取って代わり、人間的な処遇が可能となったとしても、とくに、女性の身体に対する過度の医療化は人間の尊厳・自由な責任主体としての個人の尊厳を侵すものであった。出産の医療化過程にはリッツァのマクドナルド化の理論も影響している。「病院と医療従事者は、出産を扱うための標準的でルーティン化された多数の処置法を開発してきた」とし、最もよく知られたものの一つにジョセフ・ド・リー博士の出産をひとつの疾病(「病理学的過程」)とみなした方法 を挙げる。その方法はマクドナルド化の要素である「効率性、予測可能性、人間によらない技術体系の制御、そして分娩室を非人間的な赤ん坊製造工場に変えてしまう」といった非人間性を含んでいるという[リッツァ・ジョージ 1999:269]。
おもな医療化の概念について確認したが、つぎに出産の医療化に関する研究について少し整理しておく。出産の医療化過程に際しては1970年代以降の社会史研究興隆のもとで、おもに女性史・医学社会史の分野でその成果は蓄積された。出産の医療化は社会の近代化に伴って起こってきていることが多くの論文によって指摘されている[大林1997、松岡1991、落合1987 、長谷川 1990 、Newman 1981、Whittaker 1999]。
落合は欧米における出産の近代化について、中世の出産に関する教会の介入と魔女狩りによる無資格産婆の駆逐に始まり、次いで医師による助産の開始、その後は近代国家が出産に介入することによってすすめられたと社会学の立場から述べている[落合1987]。医療化の動態をとらえる試みとしては医療化に対抗した運動の歴史研究があるが、その運動が反映している社会を照射するという観点から行ったものとして、フランスの国家化に対抗して自分たちで産婆を選び守ろうとしたひとつの村の女たちの行動を取り上げた研究などは興味深い[長谷川1990]。また、ラジェはフランスにおける出産の医療化を「産婆」から「医者」へという出産における専門職の変化から検討している[ラジェ1994]。鈴木は、出産の文化変容という長期的変動を検討するのに19世紀前半のアメリカをとりあげ、出産の医療化プロセスにおける葛藤・変動過程のダイナミズムを解明しようとする[鈴木1997]。そこで明らかとなったのは「産婆から医者へという歴史的変化はそれほど滑らかな変化ではなく、その基底には異なる「自然」観・身体観をめぐる葛藤があり、近代医療という新技術もいまだその威力を発揮するに至らない過渡的状況の中で様々な言説がせめぎあっていた」ということだった[鈴木1997:208]。
一方、日本の出産の歴史的変化に関しては、各地の伝統的出産と明治以降の出産の医療化過程に関しての産婆や産婦への聞き取りを中心とした研究がある[長谷川1993、吉村 1985、西川 1997]。また、大林は第2次世界大戦後の日本におけるGHQ政策を通しての病院出産の確立と助産婦の立場の変遷について大変詳細な研究を行っている[大林1997]。
出産の文化人類学の立場からは、生物学的には普遍的過程とされる出産が、実に多様な実践として存在すること、換言すれば、多様な観念や人間関係を包括する文化の一つであることを明確に示している。また、生物学的には普遍的な過程である出産をめぐる世界の諸地域の観念と習慣が実に多様であることを明らかにしてきた[Jordan 1993, Laderman 1983, McClain 1987]。特にジョーダンの”Birth in Four Cultures”は出産の通文化研究とて草分け的であるだけでなく人類学の方法論的課題の分析においても評価されている[Davis-Floyd and F. Sargent 1997]。ユカタン半島における伝統的出産の民族誌的調査を行ったジョーダンは本書の中で生物医学と土着システムの有益な調和としてのオルタナティブな出産モデルを提案した。また、「二つのシステムの相互的な調和にとっては、単に伝統的な助産婦を近代医学の方向に”改良”する訓練プログラムだけでなく、医学関係者を伝統的な医学の方向に”改良”する訓練プログラムも必要となる。」としている[Jordan1993:ⅹⅵ]。ジョーダンが近代と土着の有益な調和を目指した出産モデルを提案するのに対して、本稿では、そういった近代と土着という二分法から自由になるような医療化に絡みとられない出産の経験を明らかにし、新たな想像力への可能性を示唆するものとしたい。
さらに医療人類学の領域においては、池田は1979年に出たアメリカ人類学協会の医療人類学会の編集による刊行物『医療人類学教本』と呼ばれるマニュアルにある研究分野として「文化と出生」という分野があると紹介し、「出生や家族保健など、低開発国の医療援助の際に必要とされる領域が、独立した研究ジャンルとして登場」しているという[池田2001:15‐16]。医療の対象でなかった出産が医療人類学の枠内で取り上げられるようになったことで、医療化批判の視点からいわゆる伝統的社会の出産をモデルとして脱医療化の研究がなされているが[Pigg 1997、Davis-Floyd 1997、Witteker 1999]、その研究が医療化にからみとられた言説を再生産しているのではないだろうかという疑問が生じるが、この問題についての考察は今後の課題としたい。
1.2.出産における苦痛のとらえ方と産科テクノロジー
さて、それでは出産の医療化はどのように推進され、また出産の医療化はなぜ必要とされたのか。ここでは、断片的ではあるがその過程や歴史をみていくことにする。
もともと、出産とは日常の出来事だったのであり、出産は「女たちのコミュニティー」に支えられていたものである。出産は女性の仕事であると考えられていて、その見方には宗教的、法律的制裁が伴ったことが、1522年にハンブルグで出産を観察しようと女装をしたあるドイツ人医師が火あぶりの刑にされたことからも明らかである [Myles1971 :698]。鈴木の著書『出産の歴史人類学』によると、アメリカでも植民地時代の出産は「ウエルカム・コンパニオンズ」と呼ばれる親類・友人・近所の女達が集まる女性コミュニティーの経験だったとされている。また、元来「出産マニュアルの系譜学は養生術の系譜学、つまり人々の生活様式についての考え方(生活文化)への系譜学へと開かれ、その中で意味を持った」という[鈴木1997:21]。つまり、出産とは女性たちの出来事だったのであり、日常の生活文化のなかで意味を持つものであった。
しかしながら「女性たちの」社会的な経験であった出産は、より専門的な発展を遂げた医療の制度と結びつくことで医療化を加速化させるのである。
出産を医療化に向かわせた要因はさまざまあるが、その重要な要素のひとつに出産時の痛みのとらえ方の変化が挙げられるだろう。例えば鈴木はアメリカにおいて出産が産婆の世界から医師の世界へ移行していくときの痛みのとらえ方の変化について、やや長文になるがわかりやすい記述をしている。
「産婆の時代の出産観として産婆術とは「痛み」を含む「自然」の働きを見つめ、必要なときに援助することとされる。「自然」が出産を進行させる。産婆の時代には、「自然」が出産を進行させるとされていた。「自然」な出産は痛みをも包含し、<痛み>は援助する者たちに「出産の本当の時」を知らせるためになくてはならない兆候として重要視されていた。産婆術とは、<痛み>を含む「自然」の働きを見つめ、必要な時に援助することであった。出産に立ち会うのは産婆をはじめとする近隣の女性であり、自分たちの手で用意した食物やハーブを用いて産婦が自らの内にある「自然」の力を発揮できる様に援助していた」[鈴木1997:200]。
産婆の時代では、<痛み>を自明なものとしてとらえており、<痛み>は出産の時を教えてくれる「自然」として操作不可能なものとして考えられていたことが分かる。それに対して、医師の登場により<痛み>は、産婆の時代とはことごとく相反するものとしてとらえられた。
「1770年以降、レギュラー・ドクターの時代には出産の<痛み>を否定しており、「自然」の力を全面的信頼に値するものとは考えておらず、病気の治療と同じように出産の「痛み」をも治療しようとした。つまり、出産は「病気」化されたのである。そこでは、<痛み>の対症療法として喀血、下剤、アヘンなどが使用されるため、産婦が自分で生む力は弱まることとなった。助産者について医者たちは、「自然」の力が充分であるか否かを見極めるためにも、医学教育を受けた専門知識を持つレギュラー・ドクターが、問題のあるなしに関わらず分娩の最初から最後まで助産にあたるのが望ましいと主張していた。さらに、産婆をはじめとする女たちは専門職者ではなく、また助産を担うに充分な精神力をもたないと言う理由で、彼女らが出産に立ち会う習慣を批判し、産室から女たちを排除しようとした」[鈴木1997:202]。
痛みのとらえ方が産婆の時代は「必要なもの」として肯定されてきたことに対して、医師の時代は「除去するもの」として否定されるようになった。このように、痛みは除去とコントロールが必要なものとして男性医師の監視下に置かれていくようになり、出産は病気化されるのである。この過程において医師という専門知の介入とそれを可能にした産科テクノロジーの進化によって、ますます出産の医療化を助長していくこととなり、無知で<痛み>を科学的にコントロールできない産婆も出産の場から排除されていくようになった 。
痛みの除去に向けて多くの産科テクノロジーが動員される歴史が始まる。具体的には、鉗子分娩や麻酔分娩、外科用メス、そして分娩監視装置といった分娩の際に使用される技術や道具の変遷がある。その変遷の過程に対応する形でオルタナティブな出産が——多くの場合、それは出産改革者たちによって——提示されるのだが、まずは産科テクノロジーの変遷について見ていきたい。
「イギリスにおいて17世紀までは男性医師が、助産婦なしに出産に立ち会うことはなく、助産婦の付き添いもしくは協力者という立場で臨むのが普通だった」[出口1999:206]。
つまり、この頃の医師は産婆がお手上げ状態の難産のときに呼ばれ、外科としての事後処理班のような仕事をしていたということである。しかし、18世紀に鉗子がチェンバレン一家(理髪外科医)によって発明され、それまで死んだ胎児を引きずり出す役目の医師が、生きたまま出産させるという方向に変わっていった 。そして、金属性のサラダバーのようなはさみを産道に入れて、胎児の頭を挟んで引き出すといった鉗子の使用が男性産科医と助産婦の活動領域を変化させたといえる。アメリカでもその流れを受けて「19世紀後半には医者たちは出産を治療すべく鉗子とヒロイックセラピー(より痛みの少ない短期の出産を目指して喀血や下剤を強力に分娩に用いる治療法)を携えて産室にはいってきていた。しかし、これは産婦を弱らせ死に至らしめることも珍しくなく「おせっかいな助産術」との非難を招いてもいた」[鈴木1997:85]。
まずは、この鉗子の出現が出産の方法を大きく変えたといわれる。座ったり、かがんだりして産む姿勢が、産婦をベッドに寝かせるといった受動的な姿勢へと変えてしまったのもこの頃である。産科医にとって会陰が観察しやすく鉗子がかけやすいことが理由だった。そして体位は両足を曲げて足を広げ足台に乗せるといった砕石位にまでなる。単なる出産時の姿勢の変化に見えるが、これ以後続く女性の「産む」経験が「産まされる」経験に変わっていった契機ととらえることができるだろう。
出口は、この時期の出産における人間関係の変化について「自然」概念の変化を注目して次のようにいう。
「女性の身体と分娩のメカニズムという、それまでは女達が独占していたものが、男性医師のまなざしによって解明されることで、男性の知識の掌握下に収められることになる。女性の身体と分娩の意味は、科学的根拠に欠ける迷信を信棒する(と科学側が考える)「伝統的な」女たちの世界に属するゆえの「自然」から、医学という「理性」によって解明すべき対象としての「自然」へと、変質したのである」[出口1999:220]。
ここで注目すべき点は「自然」のとらえ方が変化していることである。こののち医療化に対抗して出てくる言説においても、「自然」はいつもカッコつきなのである 。そしてこの医療化の過程ではその対抗言説であったはずの「自然」や「自然らしさ」も決して自明のものではない。それは変形しつつ構築されていくとともに、出産は男性の知の内部に追いやられていく。
つぎの画期的な産科テクノロジーの発明は1847年にイギリスでクロロホルムとエーテルの麻酔が分娩に使用されたことである。麻酔分娩は1853年にイギリスのビクトリア女王が出産の際にクロロホルムを使用したことや、医師が痛みで騒ぐ女性を扱いやすくしたかったこと、痛みを恐れる女性たちが望んだことなどの影響で上流階級の女性の間で関心が高まる[Edwaeds and Waldorf 1997:90]。アメリカでは麻酔の使用を女性の側から求めた1910年代の「無痛分娩運動」の存在がある。出産の過程で痛みのない出産を権利として選択することが重視され、出産の変化の中で女性が選び取ったものでもある。ここに出産の医療化への女性の姿があり、女性が医療化に抵抗するだけの主体ではなかったということである。
驚くべき発明はつぎつぎとおこる。経験的には痛みの除去、安全さがテクノロジー至上主義に拍車をかける。そして、消毒薬の発明が外科的処置の出産への介入として「帝王切開」を可能にし、「会陰切開」に正当性を持たせることとなった。また、分娩監視装置は「帝王切開の切り替え時」を判定する機械とさえなってしまった。「痛み」を「除去」することから続いた歴史的出産の経過は、医学的専門知と結びつくことで、ますます出産それ自体を医療化の方向へ導いていくことになった。そして、それは子供を生み出す機械として女性の身体は産む主体から産まされる客体へ変化する過程でもあった。テクノロジーによる医療化の促進は確かに、痛みの除去や合併症への早期対応、出産時間の短縮といったある程度の利益を生み出したといえる。こうして、医療の中の出産は自明のものとなり安全神話をも確立するような強力なイデオロギーとなった。また、その恩恵に授かっているという事実もまた否定できないとしよう。
しかし、一方では出産が医療化されることで新たに弊害がもたらされたことも事実である。「身体的」痛みの除去をある程度克服できた医療化は、産婦の「社会的」、「精神的」痛みといった新たな痛みを生み出すことにも繋がっていったようにもみえる。ここに「痛み」の意味が変わっていく様子をうかがうことができる。つまりは、管理社会・リスク社会のなかで登場してくる「規律」の中に出産が閉じ込められることで、女性たちはそれまでになかった「精神的」、「社会的」な苦痛を経験するようになる。直接的な身体への苦痛から、身体管理の新しい様式によって登場する「苦痛」である。具体的にはワグナーがリスク管理を重要視することの弊害として産婦を受動的な病人にしてしまうことを以下のように記述している。
「出産におけるリスクを重視することは、第一に妊娠・出産は危険なものであるという医学モデルの考え方に基づいている。出産は生命を脅かすものと考えることは監視へとつながり、異常の兆候が少しでも見られると即座に介入が行われることになる。また、このアプローチは女性を患者にしてしまう。妊娠した女性は患者なのだからスクリーニング検査の対象として受動的な存在になってしまう。まして、胎児リスクのほうに関心が偏ると女性は赤ちゃんのための単なる「容器」としかみなされなくなる恐れがある」[Wagner 2002:107]。
この身体管理の新しい方式は、たとえば出産時に家族や友人といった親しいものとの隔絶されること、医療者などの他人に監視されること、病院のさまざまな規則に従うこと、産まれた子供と長く過ごせないこと、授乳が制限されることなどが挙げられるであろう。また、病院とは医療介入が多くなる場所であり、多くの医療従事者が異常の治療を目的とした教育をされてきており、いらない手出しをしない術を身につけたものが少ないのである。過剰な医療の中では女性が主体的に産むことがどれほど困難であるかということがうかがえる。
弊害は産婦の側だけではなく、医師の側にも訴訟の危機という形でもたらされる。例えば、エドワースとウォルドルフによると、70年代当時のアメリカの少子化状況から、親たちは「医療介入がきちんと行なわれる限り出産に悲劇はありえない」と思い込むようになった。こうした結果、医師たちは過度の期待に苦しみ始めた。親たちは、不可能な医学奇跡を求めてやってくる。皮肉にも、テクノロジーは、妊婦のためというより、自分たちと病院経営者の防御のために使われるようになった[Edwaeds and Waldorf 1984:193]。このように、当時の医師の苦労とテクノロジーの使われ方の意味の変化が記述されている。また、ワグナーは1985年に行われた出産医療技術に関する世界保健機構(World Health Organization:WHO)勧告のあと「保証された安全な出産などというものはないのに病院出産は全く安全だという考えを広めたために医師は法廷に引き出されてしまった」[Wagner 2002:341]と医療の支配が高くつき、医師たちはそれを払っていると皮肉っている。
第2節 オルタナティブな言説と運動
第1節で見たように、出産の医療化が出産の痛みをコントロールすることを目指した歴史であるととらえるなら、その時々に医療化に対応してオルタナティブな言説が出現している。その実践家として活動してきた人物をここでは取り上げる。オルタナティブな言説は過剰な医療や女性を受動的な客体にしてしまったことに対して、その回復や取り戻しの実践として繰り広げられた。
しかし、そのオルタナティブも、医療に絡みとられたものとしての「医療の内部」におけるオルタナティブと、反医療といったラディカルなものに分けられると思われる。
2.1.医療内部でのオルタナティブ実践
産科テクノロジーの膨張が進展する過程で、麻酔分娩に対してのオルタナティブとして二人の医師による理念と実践を提示する。その一人は、1930年代にイギリスの産婦人科医ディック・リード,グラントリー(Dick-Lead, Grantly)である。彼は、出産は自然で喜ばしい過程であり、決して痛みを伴う苦しいものを意味してはいないと断言していた。痛みは女性が出産を恐れる度合いに従って強くなると考えていたのである。それゆえ、痛みのない出産のために、出産は自然な過程であり恐れる必要はないこと、母親となることが女性にとって最も重要なことであることを教え女性を再教育することを訴えた。痛みはこれを恐れる心が生じさせると説き「恐怖が緊張を作り、緊張が痛みを作り出す」という理念に基づいて仕事をしていたのである。しかし当時、彼の理念は受け入れられず、彼も医療の現場を追われる身となったが、決してこの理念を撤回することはなかった。そして、10年以上もの年月を得て、当時の薬の濫用への危惧からも注目されるに至る。
もう一人の医師はフランスの医師フェルナンド・ラマーズ(Fernande Lamaze:1896-1957)(1896-1957)である。第2次世界大戦後、ロシアの医者たちは痛みを感じさせなくするカウンター・シグナルとして、産婆たちの伝統的な方法に含まれていた深呼吸や腹部をさすることなどを採用した。心理予防法と呼ばれるこの新しい療法を学んだラマーズは、1951年にソ連で普及していたその方法 をフランスに持ち帰った。早く浅い呼吸という彼独自の新しい方法を加えラマーズ法 を確立した。ラマーズは身体的訓練による痛みのない出産を約束した。出産とは、「科学的」に自然を改良し、リハーサルを行い、演じるものとなったのである。とくにトワイライト・バースと呼ばれた麻酔分娩は、新生児の蘇生を低下させ、産婦も半麻酔状態であるという批判がアメリカで高まり、1960年代になってラマーズがそれまで医療に対して従順で、麻酔分娩の被害を受けてきた女性たちを奮い立たせ麻酔の乱用に終止符を打つ効果となった。そして、「『自然出産』という『近代』的な方法で、医学コントロールに挑戦する形でラマーズが位置づけられた」[Davis-Floyd 1997:22]。
ラマーズは「リード博士の方法は『恐怖のない出産』ですが、私があなたに提供できるのは『痛みのない出産』です」とリード法との違いについて答えている[Karmel 1965:31]。さらにラマーズとリードの違いとして、リードは、母性の理想像について語り、そこでは、女性は自分の原初的本質に触れることで恐怖を、しいては痛みを超越するとした。これに対してラマーズは、身体的・精神的な訓練を重ねることで、痛みの知覚を変えることを提案した。その後、アメリカではラマーズという名はいろいろなものを表すようになった。精神予防性無痛分娩の教義が含まれていなくとも、自然出産の目標——赤ちゃんが誕生する時に覚醒していること、必要最低限の薬物使用、鉗子を使わない、両親学級、父親の立会いなど——あるいはそれらすべてを組み合わせたものを指して「ラマーズ法」と呼ぶようになってきた[Edwaeds and Waldorf 1997:91-92]。
ラマーズ法は、この数十年の間に普及した病院分娩を修正しようとする穏当な試みの中で最もよく知られ、またよく行われている方法である。しかしながら、基本的にはそれらは病院という環境と両立しうるものであって医療を否定するものではなかった。結果的には、あくまでも医療の内部に反医療的出産が登場したということになる。出産に関する人類学的研究の第一人者であるキッシンジャーはインタビュー記事の中で男性医師のフェミニスト振りに嫌悪感を示しており、「ラマーズ法に代表されるように、呼吸法とリラックス法を行いながら麻酔を使わずに出産するというもので、そこには『医療の中で』という但し書きが当然のようについていた。ラマーズ法にしろ、それ以前のリード法にしろ、名前のとおりそれは産科医が作り上げたものだった」としている[きくち1997:80]。
このように、過度の医療行為に異論を唱えたリード法やラマーズ法ではあったが、それは医療と相容れないものではなく共存の関係として位置づけることができる。あくまでも医療内部におけるオルタナティブ、つまり医療に飼いならされた形でのオルタナティブな実践であったということができるだろう。そしてこれは一時の勢力こそ失ったが「医療の中での産婦主体の出産」という形で現在も流通している。
2.2.ラディカルな形のオルタナティブ実践
ここでは、医療とは相容れない形でのオルタナティブな言説、そして実践家として活動してきた人物を取り上げる。それは衛生・栄養・精神的なものとして語られる出産の言説であったり、ヒューマニズムや母乳に象徴されるものとして現われるような言説であったりする。簡単に言うと、それは科学的といわれるような人たちから批判されるような実践である。
WHOで15年間にわたり母子保健部長を勤め、出産の医療化に警鐘をならす研究に力を注いだのは、1985年の出産勧告 の会議の責任者でもあったワグナーである。彼は「変革のためにどうしても欠かせないのは消費者の活動家である。バースマシン に少なくとも何らかの抑制がかかる場合は触媒となってきたのはこうした消費者運動から草の根運動を組織した人達である」と著書に書いている[ワグナー 2002:302]。そしてワグナーのWHOでの活躍は出産の反医療化の実践者たちにはよく知られている。
出産を医療化すること、すなわち女性を慣れ親しんだ環境から引き離し、見慣れない機械を使って彼女らを支援しようと奇妙なことをする見知らぬ人たちに囲まれた中におくことによって、女性の心身の状態は大きな影響を受けるため、出産という個人的な行為の達成の仕方も、生まれた赤ちゃんの状態も同様に影響を受けるものと思われる。その結果、種々の介入が行なわれる以前の出産がどのようなものであったのかを知ることはもはや不可能になってしまった。ほとんどの医療提供者は「医療化されてない出産」とはどのようなものかもはや知らない。現代の産科学及び新生児学の文献は全て、本質的に「医療化された出産」の考え方に基づいている[Wagner2002:375]。
そして、彼は医療化された出産のモデルが教育のなかで再生産されていくことにも苦言を語っている。
さて、心理学者のナイルズ・ニュートンは母乳保育の生理について国際的な名声を得るほどの研究成果をあげ医学の母乳神話に挑戦した科学者として知られている。また30年以上もの歳月を、ナイルズは出産中・授乳中の女性を、依存的で、見下げられる立場においてきた医療への挑戦に身を投じた。彼女はコロンビア大学でマーガレット・ミードの授業をうけ、1967年に”Child Bearing: It’s Social and Psychological Aspect (出産—その社会的・心理的局面)”で、‘Cultural Patterning of Prenatal(周産期における文化様式)’と題する補稿をミードと共に書き上げている。この時期、彼女はミードの人間関係論から大きな影響を受けていた[Edwaeds and Waldorf 1997:149-50]。
母乳での一貫した実践グループとして、ラ・レーチェ・リーグは1956年、アメリカで7人の女性たちによって組織された。「人工栄養で育てる母親たちにはあらゆる援助がされるのに、母乳で育てる母親には牛乳をあげるように言われるだけ」といった不公平を疑問視し、母乳育児推進のための世界的な先駆者として出来上がったグループである。医師たちの反論はあったが、リーダーたちが揺るがなかったのは、自分自身が授乳し離乳させた女性は、医学教育を問わず、どんな男性よりもよく分かっていると知っていたからである。彼女らは母乳は医学的な問題ではなくマザーリング(愛情を通わせることを含めた、子供を育てることのすべて)の問題として掲げ、いかなる政治的なことにも利用されないように、母乳を通じたマザーリングに関してのみの活動を現在も繰り広げている[Edwaeds and Waldorf 1997:156-177]。
ミシェル・オダンは、1983年医学雑誌Lancetに‘Birth Under Water(水の中における出産)’を投稿したフランス人産科医でパリ郊外のピティピエ公立病院産科部長時代、70年代後半に水中出産(1995年に国際ウォーター・バース会議開催:「温水を体を清潔にする目的以外で分娩第1期、第二期の片方か両方に用いること」)を始め、その後世界に広めたことで知られている。現在はロンドンに移住し、自宅出産を介助する。著書『バースリボーン』によると、彼の目的は「水中出産を広めることではなくて女性が自由な姿勢で本能的に出産できることを目指し、そのことによって女性たちが自信を持って出産できるようになって欲しい」と願っていたようだ。彼の出産哲学は産む女性の「本能の開放、感情の開放」を最大限にできる環境を整えることであり、「出産では知性が邪魔になる」と明言する。彼の施設には「野生の部屋」という分娩室が備えてある [オダン 1991:122]。
シーラ・キッシンジャーはイギリスの社会人類学者でありバースエデュケーター(出産準備教育者)である。彼女は自分の出産を通して、陣痛が強烈な性的な感情を生み出すということを感じたという。「子宮、膣、腰、肛門、会陰、クリトリス。それらの性器全部が熱を持って、まるで溶岩のように溢れ、流れ出す[きくち1997:80]と彼女は表現する。妊娠・出産に関する多くの著作を手がけ、自宅出産や自然なお産の運動を常にリードしてきた。彼女は「出産は子宮収縮の、女性が本来備えている大いなるエネルギーによって行われるものであるにもかかわらず、女性たちはその力を信じることができなくなってしまったのだ」とし1987年の第1回国際ホームバース会議での演説で、出産をもういちど女性の手に取り戻そうという演説を行っている。
アイナ・メイ・ギャスキンはアメリカのいわゆる無免許助産婦である。テネシー州「ファーム」というコミューンでベジタリアンとして暮らす。夫はコミューンの代表者である。ヒッピー運動のなかの自然に帰ろうという動きのなかキャラバンで全米移動中に友人の出産を取り上げて以来、独学で学んだ実践的なしろうと助産婦でSpiritual Midwifery[1987]の著者である。「病院の中での出産は、女性の感情や精神性といったものをまったく無視している」[きくち1997:196]と非難し、彼女は自らのファームでの体験から出産時に生じる何かに支えられたスピリチャルなエネルギーの存在を意識しているという。それは感覚的なもので言葉では伝えにくいが助産婦やまわりのものが阻害しなければエネルギーはもっと拡大するという。
このほかにも、多くのオルタナティブ出産の提言者や実践者がいるだろうが、彼らは、それぞれの立場で出産の医療化によって周辺化されてきた、産む女性の人間性の回復といった人権を中心に行動している。よって、医療者からの批判も多く、彼ら自身も医療内部からは周辺に位置している。母乳やスピリチュアル、人間性の回復、出産のエネルギーといった近代で言うところのオカルト的な言説は危険視され、異端視される。池田は彼らのことを、「出産の脱医療化を目指す人たちには、エコロジー運動に代表されるように、有機農業、自然食、ヨガなどの伝統的といわれている価値観から学びとろうとする姿勢を見ることができる。つまり、近代医療の否定的側面を『伝統』の再評価あるいは復古によって改善していこうとする立場である」とする[池田2001:118]。しかし、医療化を対抗軸として意識する限りにおいては、いつ、どのような形で医療化を強化する言説実践を生み出してしまうのかという危惧は絶えず可能性としてあるということは書きとめておくことにする。それほどまでに、医療化という近代化言説は権威のある専門的な技術と知識によって強いイデオロギーを持って存在するということであろう。
そして、「医療化」はあくまでも西欧近代的な言説である。開発言説でつくられた「第三世界」にも、この出産の「医療化」は普遍的なものとして正当化され導入される。しかし、その過程ではさまざまな葛藤や交渉が生じている。次の章では、近代の医療化言説が「輸入」されている、いわゆる第三世界といわれるラオスにおいてどのようにとらえられ、かつ現われているのかをみる。