Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
〈出産〉を経験するということ
——モン・クメールの人々と近代的〈出産〉——
嶋沢恭子
<出産>を経験するということ
−モン・クメールの人々と近代的<出産>−
嶋澤恭子 (熊本大学大学院社会文化研究科)
Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
Copyright Kyoko SHIMAZAWA
第3章 出産を経験するということ
例えば、林[1999]はモン・クメールのひとつであるアラック族 の村を訪ねた際のエピソードをこんな風に書いている。
「炉の周りが親しいものの特別の場所とすれば、ベランダは外部の親しいものを招き入れる場所である。しかし、内戦を経験するまでの時代と現在とでは、家屋にまつわるタブーは大きく変化している。よそ者に対するタブーはとりわけそうである。かつては集落内の成員が見知らぬものは、室内に通されなかったばかりか、ベランダにあがることも容易ではなかった。また、よく見知ったものでも、宿泊できる人間の数は家屋ごとに決められていた」[林1999:16]。
今回訪れた村でも、様々なタブーがあり、それはピー・バーン(pi ban:村の精霊)やピー・フアン(pi heuan:家の精霊) を怒らせないようにしたり、なだめるためのものであったりした。夜中に家の中で大きな音を出さないこと、歌を歌わないこと、明かりをともさないこと、これらは全てピー・フアン(pi heuan)を気遣ってのことであった。家の柱に車がぶつかろうものならキン・クワイ(gi:n kwai:牛を一頭供犠) してピー・フアン(pi heuan)の怒りを沈めなければならかったので、一緒にいったドライバーは車をぶつけないようにとても緊張していた。各家にインタビューにいくときも、ピー・フアン(pi heuan)にお伺いを立ててから始めて家の中に通されるのである。このようにピーは日常に深く根ざしている。
村に入ると、村長と女性同盟ワーカー、保健ボランティア、老人会の面々が迎えてくれる。あらかじめ、郡の保健局が私たちの訪問を知らせていてくれるのだった。こちらは、調査助手のラオ人女性と、運転手、そして郡の副保健局長兼通訳と私の4人である。モン・クメールの男たちはほとんどがラオ語を話すが、今回は女性たちの話を聞くということもあって、モン・クメールの保健局長に通訳をお願いした。彼は、住民にとても信頼されていた。村に到着して、まずは村の概要を聞き、そして妊産婦のいる家を一つ一つ訪ねインタビューをさせてもらう。子供や年寄りが珍しがって家の中は人でいっぱいになる。村長の妻の姉妹や近所の女友達が、ともにくつろいだ姿勢で、巨大な竹筒製の水パイプを片手に超然と煙を揺らせている。ここでは、男女とも5歳くらいから自家製のタバコを喫煙する。ふだん客人がない時は、広間は女性や子供たちの居場所である。
家に入る梯子をあがると、入り口の上方に水牛の頭蓋骨がずらりと並んでいる。日々炉から立ち上る煙でいぶされ、飴色に変色して柱の一部の様に見えるせいか、ベランダに立つ前には、はっきりとその形を確認することはできない。梯子をあがってみてはじめてそれとわかる。柱の上に5つも6つも水牛の頭骨が連ねてあれば、そこの家人の権勢はかなり上位に属するということらしいが、かつてはもっと数多くの頭骨が飾られていたという(付録:写真4※本ウェブヴァージョンにはありません)。
村長がまず家長に私たちの紹介とインタビューの要旨を説明してくれる。そして「産まれるのはいつ頃?」「体調は?」「どうやって産むの?」と、出産に関する出来事を私と助手のカイさんが通訳の医師をとおして色々聞いていく。話しがえらく脱線して、野菜の話になってしまうこともあるが、女性たちはいろんな事を話してくれた。しかし、中には、旦那や姑がしゃべり、産婦は後ろのほうに隠れてしまってほとんど会話に入ってこないというケースもありとまどう場面もあった。「ラオ語が話せないので恥ずかしいのよ。」と助手のカイはいうが、本当にそうだろうかと疑問でもあった。
第1節 モン・クメールの人々にとっての出産経験
モン・クメールの出産という経験とはどのようなものか、モン・クメールの一つであるタリアン(Taliang ) の村(付録:写真3※本ウェブヴァージョンにはありません)で出産を終えて間もない女性に聞いた出産の経験を以下に記述する。
妊娠中はクワン(kwan:魂)が弱っているのでモードゥ(moh du:呪医 )のところにいった。強い陣痛が来て、いよいよ産まれると思ったから囲炉裏のそばへいった。それで膝を床について、夫に後ろから脇を抱えてもらった。しばらくして水が出てきて子供もいっしょにでてきた。姑が胎盤も出てしまった後に、へその緒を綿の糸でくくって、そのあいだに夫が鋭く削っていた竹片でへそを切った。子供は姑が湯で洗った。私はそのあいだに自分の下半身を湯で洗って、着替えて少し湯を飲んだ。そのあと、親戚や家族のものが集まってスー・クワン(seu kwan :魂強化儀礼)をした。ピー・フアン(pi heuan:家の精霊) に新しい住人を知らせるためにカッド・ラオ(kad lao::酒を家族で飲む)、カー・カイ(ka kai: :鶏を殺して産婦はその肝を焼いて生米を焼いたものと一緒に食べる)をして、家族と親戚は一緒に祝う。出産後はクワンが弱っていることとピーから体を守るためにユー・ファイ(yu fai::火にあたること)とカラム(ka:la:m:厳しい食事制限)をだいたい10日ぐらいしつづけた。(22歳、3人目、産後10ヵ月、2002.1.12. )
1.1. リスクとしての精霊ピー
タリアンの人々が暮らすこの村 でも出産においては、クワンを強化する儀礼を行い、ピーを恐れることは、ラオの人々とよく似ていると考えられる。タイの精霊信仰について記述のある綾部によると、クワンとは魂であり、一般に成長とは、体内に宿るとされているクワンが強固になっていく過程であり、これが消滅することが死であるとする[綾部 1969]。人生の通過儀礼にはこのクワンの保護、強化を目的とするスー・クワン(seu kwan)が行われることが多い。また、プアンサバによると、クワンは生命力の源であり、生者にとっては重要な存在ではあるが、非常に抜け出しやすい傾向をもつと考えられている。クワンが抜けた後の人間はいわば抵抗力を失い徐々に衰弱しそのままにしておくと死ぬと考えられている[Phouangsaba and Vongsin 1999:17]。
一方、精霊ピーについて綾部は、両義的な超自然的存在で力のメタファーとして人間に危害を与える畏怖すべき存在であると同時に、健康と幸福をもたらす祈願と崇拝の対象でもあるという。そして仏教と補完的関係にあり排他的ではないことが特徴であると説明する[綾部 1969]。またハルペン[1963]は、モン・クメールに関する記述の中で、ピーをなだめる祈祷師の呪文について言及している。祈祷師は病気からの除去を望む時にピーをなだめる呪文を伴う。
森のピー、山のピー、谷のピー、虹のピー、水のピー、ここへ来て食べなさい、飲んでいきなさい。私があなたに食事を与えてあなたをケアしましょう。わたしがあなたをケアしましょう。一本の酒、1羽の鶏、12のバナナの葉とタバコをあなたのために供議しましょう。そうして病気をなくしてくれるでしょう。どうか、病気にさせないでおくれ[Halpern 1963:191]。
自然の精霊に対する信仰は、ピーと呼ばれる。ピーはいたるところに存在する。さまざまなピーは人の幸福や不運といった運命に影響を及ぼす。あるいはそれらは病気のため失ったクワンを戻し、健康や幸福を確保する。人々は尊敬の表示、ものを捧げる、動物の供犠、個人的あるいは公共の儀式といった方法でピーに慈悲を与える [Westermeyer 1988:770]。タリアンの産婦の語りにはピーを畏怖するような言葉がたくさん入ってくる。妊娠中に、出産時に、そして産後にとピーを意識させるのである。
ラオスのことわざに「子供を宿すこと、母は死を覚悟する(LUK khao tong, me khong tha tai)」[SCF2001:20-21]というのがある。また、タリアンのおばあさんが「お腹の子はトラブルや心配を運んでくるものだ」といっていたのだが、「妊娠」を表すラオス語はメー・マーン(mee maan) 、トゥーパー・マーン(thuphaa maan) であるが、このマーン(maan)は妊娠(pregnancy)のほかに悪(evil)の意味がある。文字とおりメー・マーン (mee maan) は潜在的悪として、お腹の中の子供は母を死へ導くトラブルメーカーということになる。 妊娠がこのような意味を持つとされるなら、妊娠中にクワンを強化するためにモードゥ(moh du:呪医 )のところへ産婦が出かけて行くこともリスクとしてピーを認識していると納得できる。
子供があまり動かないので心配になって姑に言われてモードゥ(moh du:呪医 )のところへパオ(bpow::息を吹きかける呪文)をしてもらいに行った。少しだけ動きが良くなった。お礼は米、タバコ、塩、鶏2羽もっていった。(21歳、2人目、10ヶ月の子供を持つ母、2002.1.15.)
モードゥとはクワンがいなくなったとき呼び寄せることができ、病気がピーによるものか、そうでないのかを診断できる能力をもつ人のことだという。メータイ(45歳)はD村の有名なモードゥであり、4人の子供を持つ母である。以前は学校の教師をしていたが、ある日大病をしたとき夢のお告げでモードゥになるよう言われたという。メータイのところには、なにか症状がある4−6ヶ月の妊婦がやってきてパオを受ける。ラオ語のパオ(bpow:)とは息を吹きかけることを言うが、メータイは茶碗に入った水に唾液を落としたものを口に含み妊婦の腹部に吹きかける。その後、腹部の状態を修正し妊婦が調子のいいようにする。そして残った水を妊婦が飲むことでクワンが戻るという 。
モードゥはモン・クメールが一般に行う水牛供犠の時にも執行者を務める。同じモン・クメールでアラック族の調査をした中田によると、ピーのなかでもピー・フアン(pi heuan:家の精霊)は最も重要なピーであるとする。ピー・フアン(pi heuan)とはその家にかつて住んでいたが現在では亡くなっている祖先の霊であり、その家と家族の守護霊であるという。そして水牛供儀は一般に祖霊の怒りを鎮めるための方法として最も負担が重いものだという[中田2002:26-27]。
二夜陣痛が続いて長い陣痛だったのでモードゥによって水牛を供犠した後産まれた。母親が後ろから支え、自分は前で子供を取り上げた。(40歳、10人目、妊娠6ヶ月、2002.1.11.)
初産の時も陣痛が3日も続くほど長く豚を2頭供儀した結果生まれた。2回目の出産は3日間陣痛が続き、モードゥは水牛1頭、豚1頭を供儀した。でも、これだけ供儀して助からないのだからピーではなく子供が原因だと思う。 (死亡した妊産婦の弟の話、2002.1.13.)
モードゥは陣痛が長引いて出産に時間がかかると、産婦の家族のものに呼ばれて水牛供犠の準備をする。分娩が長引くことは悪魔か邪悪なピーの仕業であり、出産の邪魔をしていると理解されており、モーが呼ばれるという[SCF2001:39]。つまり、専門家が家族によって呼ばれる。両義的なピーの存在が意識されることを中心に出産が経験されているようである。
1.2.出産とユー・ファイ(火にあたること)とカラム(食事制限)の関係
タリアンの女性の語りの中には産後のユー・ファイ(付録:写真5)とカラム(ka:la:m)のことがあげられていたが、これもモン・クメールの出産にとってはかかせない産後慣習であるので見ておくことにする。
東北タイの出産研究をするウィッタカ—によると、ユー・ファイ(yu fai:) とは産後5−11日間、産婦は火のそばで過ごすことをいい、この習慣は母親を「火にあぶること:roasting mother」と呼ばれるという。しかし 「あぶる:roasting」というよりは「火のそばにいる:staying by the fire」のほうが適当であるとする。また、その時期に母は薬草をいれた大量の湯を飲むとされる[Wittaker:1999]。また、チラワックルによると、ユー・ファイ(yu fai:)は悪い血を流す為の習慣であるという。これは子宮を乾燥させるとともにもとの位置に回復させる。ユー・ファイ(yu fai:)は7‐15日間定期的に火のそばのベッドで過ごすことをいう。火で暖めると子宮は乾燥し、もしこれを行わなかったら、健康になりにくく、病気に影響を受けやすく、重労働もできないとされる[Chirawatkul 1996:225]。
ユー・ファイ(yu fai:)はターット(tat) と呼ばれる、人間の身体の構成要素である地、水、日、風の4つの要素を意味し、これらのバランスが崩れることによって病気になると考えられていることに関係していてMother roastingは産後に熱が奪われることや冷や風から母を守ることを目的にする[Manderson 1981:509]。
出産は問題なし。生後20日で乳児が死亡。原因は家のピーの仕業とのこと。なぜならユー・ファイ(yu fai:)の時期に夫が木を切り出しに森へ行ってしまったから。このタブーを犯したためピーが怒った。ユー・ファイ(yu fai:)の時期は夫婦とも森に入ることはタブーとされている。(26歳、2人目、ンゲ族 、乳児死亡、2002.1.25.)
ユー・ファイ(yu fai:)のとき薬草を煎じたお湯ヤー・ピッカム(ya pi:t kam :タブーの食材を食べた場合に解毒剤になると信じられている薬草)を一日鍋に四杯飲む。湯浴びもヤー・ピッカムいりを三回する。ユー・ファイ(yu fai:)は四日間つづく。その間は横になれず、ずっとお湯をのんで湯を浴びて授乳する。もし眠たくなったらタバコをすって眠気を我慢する。もし寝てしまったらピーがやってきて死に誘う。体が弱っている時は危ない。(18歳、1人目、産後5ヶ月、ンゲ族、乳児死亡、2002.1.21)
SCF(2001)の調査では、ユー・ファイ(yu fai:)はルアッド・ハイ(leuad hai:邪悪な血) とされる悪露(産後の性器出血)を早く出してしまうことと、産婦の健康回復を早めるためだと書かれている。また、厳しい食事制限と火にあたることで子宮が早く乾き、子供ができにくくなるという。もし、ユー・ファイ(yu fai:)を十分にせず乾かすのを怠るとすぐに子供ができるという。このことからユー・ファイ(yu fai:)を一種の自然避妊法と考えているようだ[SCF 2001:24]。
上の二人の語りからは、ピーの存在を意識していることが伺える。産後のユー・ファイ(yu fai:)の時期はクワンが非常に弱っていることは文献でも出てくるが[Manderson 1981]、それを良いことに伴って、ピーが弱ったクワンを死にさそうと恐れられている。また、自然のいたるところにいるピーはユー・ファイ(yu fai:)の時期の産婦にとっては危険な場所といえるのだろう。だからこのユー・ファイ(yu fai:)の期間には産婦は外出や労働が制限されている。上の例は夫までが制限されていたにもかかわらず、森へ行ってしまったことから、ピーの怒りに触れたと説明する。ここでもピーとの関係が注目される。
カラム(ka:la:m)は親戚の人がピッカム(pi:t kam)をして死にかけたのを見たので自分は守ることにしている。(36歳、5人目、3ヶ月の子を持つ女性、アラック族、2002.1.23.)
カラム(ka:la:m)とはユー・ファイ(yu fai:)のときに行われる大変厳しい食事制限である。地域によって多少異なるが、野菜、白い水牛の肉、蛙肉、豚肉などが禁忌であり、それを破ると病気になり死に至ると恐れられる。ピッカム(pi:t kam)とは、その禁忌を破ることであるが、ここの村では、ピッカム(pi:t kam)を解くために食べる薬草もあるということであった。
この食事制限は体の要素間のバランスを維持するために注意深く選択される。もち米と塩、干魚、湯、薬草(普通、タマリンドの木の心材わかしたもの)が、一般的な飲食物である。これらのものが身体を回復させ、子宮を乾燥させると信じられている[Chirawatkul 1996:225]。今回の調査を行った村においても皆が厳しく食事制限を守っており、その理由を聞くと死や病気が怖いからというものであった。
以上見てきたように、モン・クメールにとっての出産経験はピーとの関係がとても重要になっていることが分かる。また、このユー・ファイ(yu fai:)はラオ・ルムの世界にも産後慣習のひとつとして、どんな知識人も、あるいは都市部で病院出産する人たちのあいだでも積極的に行われる傾向にある。政府も、ユー・ファイ(yu fai:)のポスターを保健指導に組み入れたほど認知されたものでもある(付録:図4)。しかし、カラム(ka:la:m)においては栄養調査によって、授乳の時期の栄養失調を危険視して改善すべきこととして課題となっている。
第2節 病院での出産という近代の経験
それでは、モン・クメールの人にとって、近代が用意した「病院」とはどのようなところであり、病院で出産するということはいかなる経験であるのかを考察していきたい。今回の調査を行った村では病院で出産した人は皆無であり、介助者としてTBAや専門家をつけておく人もなかった。ほとんどが一人で産むか、あるいは夫や、家族の手伝いで産んでいた。彼らは病院で産むことを「お金がないから」、「病気ではないから」、「遠い」、「恥ずかしい」など言うが、ここでは、病院のとらえ方について考察する。
2.1.死を扱う病院と出産
病院とはどんなところなのか?モン・クメールの産婦の出産経験から、「病院出産」という経験について考察することにする。以下は、セコン県の病院で出産した18歳の初産婦の語りである。彼女は、叔母さんが病院の職員ということで、病院での出産を決めた。しかし、難産だったうえに叔母さんは常時そばにいてくれるわけではなかったことが不安だったと出産のあとで話してくれた。タリアンの彼女はラオ語があまり得意ではなく、叔母さんがいてくれなかったので産科スタッフうまく伝わらなくて困ったという。
そして30分もしない間に身支度をして私たちに向かって、「まだいるのか?私たちはもうかえるわ。じゃあね。」という。どして大丈夫なのか?というと「早く帰ってこの子にスー・クワン(魂強化儀礼)をしないと、病院で生まれているから心配だと姑が言うのよ。私もユー・ファイ(囲炉裏の火のそばで過ごすこと)しないと。」といい、足早におばさんと歩いていってしまった。(18歳、1人目、タリアン族、筆者が出産に立ち会った時のノートから、2002.1.7.)
病院は「ピーがいる場所」であるということは日常の会話にも時々出てくる。私が1994年当時、配属されていた地方病院で当直をしていた時にも「ピーが怖くないのか」とよく聞かれたものである。どこの国でも同じだろうけれど、ラオスの、それも大きな病院というところは、重症の患者が多い。そして亡くなる患者も多いのである。毎週ある病院の会議では前の週の患者数や死亡数が読み上げられた。76床しかない地方病院だったが、だいたい週に2−3人は亡くなっていた。ある時外科医があきらめの入り混じった調子で話してくれた。
パサソン(pa:sa so:n :人々)は、病気になったとしてもモーピー(moh pi:呪医) のところへいったり、自分で薬を買ったりしてしまうから、病院に来るときには病気がかなり重い状態であることが多いんだ。それに加えて、病院には医者が少ないうえに薬や電気がなかったりする。どう考えったって助けられないよ。でも、パサソン(pa:sa so:n )にいわせると「病院に行く人は死ぬらしい」ってことになるんだ。(X県、外科医、筆者が同席した病院の定期会議にて、1995,12月)
ラオ人は病院で死ぬことを嫌うのは、村の外で死んでしまうと、その遺体を家に連れて帰ってくることができないからだという。事実、何らかの病気で入院すると、2、3日で退院を希望するケースがよくある。金銭的な理由も考えられるが、「病院でなくなると村に連れて帰れない」という話も聞く。ピー・バーン(pi ban)や、ピー・フアン(pi heuan)が、外部のピーを忌み嫌うことから、村の外部でなくなった人のピー(死体)は村に戻れずに、そのまま村の墓に葬られる。人々が病院で産むことを嫌うのには、「重症になってから行く」、「助からない」、「死ぬ」、「村にかえって来られない」といった死を象徴する病院のイメージがあるからではないだろうか。そう考えると、先述のタリアン族の産婦がいう「病院で産まれているから心配だ」という発話と、家に早く帰ろうとすることにも納得がいくような気がする。
次の語りは、村で出産したけれど胎盤が出なくて病院に運ばれた産婦の経験である。
家で出産したあと、しばらくしても胎盤が出てこず、朝8時頃に出産して昼の3時に病院に到着した。モーターボートで川を下り、そこからトゥクトゥク(三輪タクシー)で病院へいった。村の人は親戚や家族が4、5人付き添っていった。病院では医師が1時間ほどで胎盤の処置を終え、点滴もした。しかし早く家に帰ってユー・ファイをしないと身体はよくならないと思い、点滴が半分も終わらないうちに医師に退院を願いでた。医師は「今帰ったら、あなたの健康に責任はもてない」といわれるも反対を押し切って帰宅した。姑は「ユー・ファイをすることが一番効く」といい、自分も「村で産んだ妹の体調がユー・ファイをすることで回復していったことを見て知っている」こともあって帰ってきたかった。 (26歳、3人目、1ヶ月の子を持つ女性、ンゲ族、2002.1.25.)
モン・クメールのこの事例からも、家での出産で胎盤が出ず、親戚一同で病院へ運んでもらい処置を受けるのだが、結局は医師の許可も出ないままに村へと戻ってくる。ユー・ファイはクワンを強化しピーから守る機能があるとされていることからも、ピーのうごめく危険な病院から早く安全な家に戻りたいという思いから生じた行動ととることもできる。
2.2.妊婦健診と病院
しかし、病院出産を確立することは政府の保健政策の主要な目的(2章)でもあり、それは医療における出産こそが安全な環境を提供できるということである。よって、病院での出産に向けて戦略の入り口とするために妊婦健診を活用できないだろうかということが可能性として浮上する。その調査として、実際に受け手である女性たちのインタビューをとる機会があった。以下は、セコン県にて妊婦健診を受けにやってきた妊婦に対して、一緒に調査に回っていた助手のカイとともにインタビューをした時の事例の一部である。場所は県立病院、郡病院、ヘルスセンターでともに診察に入りながら、その後それぞれに聞いたものである。
3番目の子供は現在妊娠中で、今までに2回健診を受けた。初めての健診は3ヶ月目のときだった。出産のときに難産になるのではと心配だったから健診にきたわ。うちの村で難産のせいで子供が死産して母親が病院に連れてこられたのを見たのよ。自分もそうなるのかと怖かったわ。みんな病院では産まないし健診しないわねえ。怠け者なのよ。私もそうだけど、やっぱり難産が怖いわ、うちの村の女性は皆怖がっていると思う。(25歳、3人目、3回目の健診 2002.1.7.)
最近尿をするときにお腹が痛くなるし、もともとからだも丈夫なほうではないので診察を受けにきた。お産なんて病院でするもんじゃないわよ。わたしも出産にトラブルがあったら病院に来るわ。でも、問題ないなら病院には来ないで、家で産みたいの。(28歳、2人目、初診 2002.1.17.)
彼女は双子ではないかと心配していたが医師の診察で一人だと知り、安心したとの事。(26歳、2人目、初診 2002.1.17.)
5人目の時、早めに破水してしまって病院で生んだ。その時は健診にも2回行ったが、どちらも熱が出たのと腹痛があって心配だったのでいった。ピーのいる病院なんてそんなに関わりたくない。今回は問題がなければ家で産もうと思っている。(40歳、7人目、妊娠8ヶ月、2回目の健診 2002.1.15.)
妊婦健診に来ている妊婦たちは「双子かもしれない」、「難産になるのが不安」、「熱が出る」などの時に、受診しているようである。症状も不安もなく健診に来るという人にはであわなかった。また、彼女らは口をそろえたかのように、「病院では産まない」、あるいは「家で産みたい」という。妊婦健診としてなら病院に行くが、出産するのはピーとの関係上好まれないということだろうか。
2.3.ピーのいる場所と「出産を待つ家(Maternity Waiting Homes)」
以上に説明したように、ピーとの関係において病院は出産するのにふさわしくないとしている。にもかかわらず、政府は施設分娩の方向性を持っており、現状のハイリスク妊婦をいかに管理するのかという観点からWHOの政策を受け入れて、「出産を待つ家(Maternity waiting homes:MWH)」の導入を考えている。出産を待つ家 とは、「居住型の施設であり、適当な医療施設に近い場所で「ハイリスク」とみなされた女性は出産を待つことができ、出産前にあるいは合併症が発症する前にすぐに近くの医療施設に移送することができる」施設である[WHO 1996]。WHOが提案するこの出産を待つ家は「妊産婦死亡率の99%が途上国でおこり、その4分の3が直接産科的合併症(出血、敗血症、陣痛、妊娠による高血圧の不調、中絶による敗血症)である」現状認識をふまえたうえで、WHOのSafe Motherhood Initiative初期目標として妊産婦死亡の減少につとめることを設定し、そのターゲットとして出産を待つ家がモデル化された。これは僻地と産科ケアの「地理的な隔たりへの掛け橋」としての戦略の鍵成分となる」という[WHO1996:1]。
MWHはナイジェリア、ウガンダ、キューバなどで取り入れられ、特に辺境地の妊産婦死亡率が減少するという成果をあげていることから、ラオスでも導入のための試験的運用が地域的で行われている。
MWHの目的はハイリスクの女性が、基本的な産科施設のある病院の近くで妊娠の最終週の間居住できる場所を提供するものである。いくつかのMWHは妊産婦死亡率の減少の目的だけではなく妊婦・新生児の健康改善を含めたものとしている。この家の追加の要点は妊娠出産や新生児の世話についての教育や相談においている[WHO2002:2]。
WHOはこのように提案しており、ただハイリスクの為の施設ではなく、そこで教育活動も行おうというものである。そして、このパッケージ化されたプログラムはラオスにおいてまもなく導入される予定である。
しかし、病院をピーのいるところと認識し、出産を敬遠している現状があることに対して、MWHの施設を病院の敷地内に建設しようというこの計画の未来はどのようなものなのだろうか?病院と出産はあまり相性の良いものではないとわかってはいても、それは「知識の低い迷信を信じる人」を「教育」するという、課題にすりかえてしまわれる可能性をもつものだろう。
地方の担当者はいう。「出産を待つ家だって?そもそも、病院は悪いピーがいるからそんなところで産めないって人がいるのに、病院の近くにそんなもの建てたって誰も行かないよ。その間、家の仕事や子供の世話は誰がするって言われるよ。まあ、無駄遣いだけど建てるんならどうぞって感じだね」。たしかに、妊婦が村を離れてそとに行くということは余り簡単なことではない。S県の調査に入った村でも、何か症状があるときに「薬を買う」、「医者に診てもらう」など、外部との接触をするときには、ほとんどの女性が家族の年寄りや夫への相談を必要としている。つまり、男社会のモン・クメールにとって自己決定権が彼女たちにはないことが多い。それに、このMWHがラオスに定着していくとするならば、病院にピーがいなくなったときなのだろうか。しかし、ピーの集まる場所を作ったのは紛れもなく「近代」という病院である。モン・クメールにとって病院はリスクの高い出産場所となる。それはピーというリスクであった。
第3節 ピーから隔絶された場所をめぐって
モン・クメールにとって出産はピーとの関係性が重要視されることが、これまでにわかった。 ここでは、出産の場所ということと、ピーとの距離ということに焦点を絞り、彼らの出産についてさらに詳細にみていく。
3.1.出産の場所の再考
セコン県で訪れたモン・クメールの出産場所はいくつかに分かれる。カトゥ の人は家の外を好み、ンゲ の人は家の裏に小さな小屋を建て、そこで産むことを好む。また、タリアンの人は家の囲炉裏横や調理場で産むことが好まれているようだ。ここではそれぞれの出産場所から、ピーを中心としたスペースの問題について考えてみることにする。
出産は裏のコーヒー畑のなかで産んだ。背の丈ほどあるコーヒーの木の畑は中ほどに進むと、外部からは見えない状態となる。姑と母が土の上に竹で編んだ敷物を追いといてくれて、産まれそうなほど痛くなったら畑の中に行く。何かがあったら声を出して呼ぶが、子供を生み出すまでは一人で産む。産んだあと、煙草を吸って待っている母と姑を呼んでお腹を押してもらい胎盤を出す。へそを巻き切ってもらう。子供の湯あびはそのままコーヒー畑でする。家に戻ったあと、出産の場所には灰をかけておく。(20歳、2人目、6ヶ月の子を持つ母、カトゥ族、2002.1.22.)
これは、2章の最初にあげたような外部による表象によって、いわゆる野蛮で不潔なお産とされている実例(delivery in forest)といえるだろう。こういった出産はラオス南部のサラワンやアタプーなどの地域でも行われている。声が聞こえる程度の距離なので異常があれば家のものが行く。外で産むというのは家の中が汚れず後始末も便利だという点から好まれるという。また、家族のものの目に触れないようにすることで、家族のものが驚いて熱を出したりうなされたりすることを避けるという配慮がある。ここでは、ピーのいる場所から身を隠すことが可能となっているのだろうか。その点は、今ひとつ不明確だが、血が汚いという理由によって家で産まないのであれば、ラオやタイの人が恐れるような「出産の血がピー・クラスー(胎児や出産児の血液を食べる老婆のピー)を呼ぶもの」[綾部1969:109]として考えられるだろう。よって、この場合、外で産むことが選択されたのかもしれないが、あくまでも筆者の解釈であるということを付け加えておきたい。
フアン・ノーイ(heuan noy::高床で大人の膝丈の高さで、幅は両手を伸ばしたくらいの大きさのスモールハウス)で産む。出産間近になったら姑と夫に告げてからフアン・ノーイ(heuan noy:)へ行く。夫は一緒についていき、後ろから産婦の脇を支えて手伝う。産婦は両ひざをついてすわり、紐を引っ張って産む。12時くらいにとても痛くなり3時には産まれた。逆子だった。姑もやってきて床に置かれた子供を抱き上げて、胎盤が出たあとへそを縛り切った。(17歳、1人目、4ヶ月の女児を持つ母、ンゲ族、2002.1.25.)
この場合、フアン・ノーイ(heuan noy:)もまた家とは別に建てられることから考えると、家にピーを近づけない策なのかもしれない。つまり、ピーを刺激したくない。村の人に話を聞くと、「田植えから稲刈りの間は村のタブーとして家で生むことはあまり良くない(稲が実らない)とされているので、フアン・ノーイ(heuan noy:)で産むように習慣化された。だから、12—3月は農閑期なので家での出産も構わない。」ということであった。
出産は囲炉裏のそばで生んだ。母と姑と親戚のおばちゃんが手伝ってくれた。1時間ぐらいで生まれた。紐を引っ張って、いすに腰掛け、姑が背中のほうからお腹を押してくれた。子供が出てから胎盤も出すので再びお腹を押した。おばちゃんが子供も、胎盤も受けてくれた。へそは綿でくくり、竹で切る。子供を湯で洗ってくれて、自分は身体を洗って横になり、姑が石をお腹に当ててくれた。(36歳、5人目 生後10日目男児を持つ母、タリアン族、2002.1.15.)
囲炉裏端で産むのはモン・クメールだけではなくてラオの人々にも共通している。ラオにおける解釈としては「家族:kohp kua 」の意味が「囲む:kohp」と「火すなわち調理場:kua 」であることから、火のそばで産むのだということらしいのだが、モン・クメールの場合はどうなのか不明である。モン・クメールはピー・フアン(pi heuan )、すなわち祖霊を重要視しているためか、出産後すぐにピー・フアン(pi heuan )に対して新しい家族ができたことを儀礼にて報告する習慣がある。ピット・ヒート(pi:t hit)は「慣習・法に反する」ということであり、このピー・フアンへの報告を怠ることはピー・フアンの大変な怒りをかうということである。また、ピーからの攻撃を避けるために、産まれてすぐに母と子はスー・クワンをすることで魂を強化するのであろう。
これらの例はあくまで異なる3つの「産む場所」を提示しただけであって、それぞれの民族は必ずこの場所で産むなどというものではないことを付け加えておく。特に、セコン県のあたりは60‐70年代の戦火を逃れて移動してきている歴史があり、各民族の村がモザイク状に散らばっている。ここでの整理としては、産むスペースがそれぞれにピーとの距離において意味をもつと考えられる。「ブッシュの中」、「スモールハウス」といった自分や家がピーから見つからない場所、あるいは「囲炉裏のそば」、「スー・クワン」といったピー・フアンによって守られ、ピーからの攻撃を避けることのできる位置であることが重要視されているようだ。
では、ピーとの関係において胎児はどのようなものと解釈されるのかについてみると、タイでは出産後においては「3日まではピーの子、それからは人間の子」と言われており、4日目にクワンの強化儀礼が行われるとされる[丸山1972、アヌマーンラチャトーン1984]。モン・クメールの村においても胎児をピーとして解釈しているのではないかと思われる出産時に母子ともに死亡した例がある。死亡した産婦の弟嫁と甥にはなしを聞いたところによると、原因は不明だが、ひどい難産で水牛供儀をしても結局子供が出ず、母子ともに死亡してしまったという。以下は、その時の対処についての記述である。
皆はあきらめて身ごもったままの産婦を家の外へ運び出す。家の中で悪い死があると家を潰さないといけないので、別に小さな家を建ててそこに死体をおいた。このように出産時の死は事故で死んだ人と同じようにピー・フン(pi hu:g:事故による死)といって悪い死に方であり、ピー・フン(pi hu:g)専用の特別な墓場に埋められた。村人が墓に埋めにいった後は水牛の血を手に付けなければならない。こうすることで同じような不幸が村の中で起こらないとされている。3日間は家族のものは村から外出できないとされる。(死亡した産婦の甥の話から、タリアン族、2002.1.13.)
このように悪い死の場合は、家で亡くなることを嫌い、また墓地も一般的な村の墓とは別に設けており、ピー・フン(pi hu:g)は特別に恐れられているといわれる。また、一歳以下の子供が病気や事故で亡くなった時もピー・フン(pi hu:g)として扱われる。
3.2.出産における夫の存在
今回の調査に限ってなのかもしれないが、モン・クメールの出産では、夫が出産の介助者として登場してくる例が多く見られた。以下にその語り群を列挙し、出産における夫の存在について考察する。
陣痛は1日半続いてやっと生まれた。家の外の縁側でひざ立ちの姿勢で産んだ。家の中はなんだか汚れるのがいやで外で産んだ。その時は夫が手伝ってくれた。子供が出てきて床に落ちたので夫が支えてくれた。胎盤が出てへそを切るのは自分でやった。胎盤は夫が埋めにいった。子供を湯で洗い、自分も洗って乳をやった。(27歳、5人目、2ヶ月の男児を持つ母、タリアン族、2002.1.16.)
妊娠7、8ヶ月頃になると、夫が簡租な2平方メートルくらいのフアン・ノーイ(heuan noy:バナナの葉で葺いた屋根で造りは竹でできている高床のハウス)を家のうらにつくり、本格的な陣痛が来ると、夫(家族)に知らせてからフアン・ノーイ(heuan noy)にいく。入って30分もしないうちに床に膝をつけてたつような姿勢で産み落とした。子供は元気よく泣いていたが、待っていても胎盤が出ないので姑と夫を呼んだ。(子供の泣き声で夫は覗きにきていた)夫が竹刀でへそを切り、へその断端は木切れ(竹)にくくりつけて太ももに縛り子宮の中に戻っていかないようにした。(26歳、2人目、産後15日目、ンゲ族、2002.1.24.)
ティエンナー(tieng na:農繁期に焼畑で生活するための粗末な小屋のこと)で誰もいないから夫に後ろから支えてもらって、子供を産み落とした。自分でくくってはさみでへそを切った。泣かなくて心配した。足を持って逆さにしてお尻をたたいたら泣いた。昔、村のおばさんがしていたのを見て知っていた。そのあと夫が林に胎盤をうめにいった。(28歳、7人目、9ヶ月の女児を持つ母、タリアン族、2002.1.12.)
夫は、「支える」、「胎盤を埋める」などの補助的な手伝いをするのであって、TBAや老女が出産の時にするような子供を取り上げるとか、胎盤を出すなどの直接的な行為をするわけではなかった。しかし、それはとても協力的なものであった。また、座産でシン(巻きスカート)をつけたままその中に産み落とす形となるので、子供が出てくるところが周囲にさらされているわけではない。これに対して、病院での出産はベッドに寝て、医療者の目にさらされて、ピーからも逃れられないといった環境での出産になるのである。
陣痛が始まったと、病院から20キロメートルほど離れた村から産婦がきた。それも村人に軍人がいるのだろうか、軍のトラックにのって老若男女あわせて20人近い人数が1度に夜中の産婦人科病棟にやってきた。陣痛の様子を見ていると、その間にも家族や親戚、村人が病院の待合場で宴会をはじめ出した。「子供が産まれるのでお祝いだ。あんたも一緒にどうかいね。」といった具合で、産まれる前からすでに酔っ払っている男性もいた。女性たちもその宴会の端のほうで参加しつつ、入れ替わり立ち代り産婦の様子をみにいっていた。結局、産婦は分娩台で仰向けになって産むことはなかった。もういよいよというとき、分娩室のベッドの柵につかまり、そのまましゃがんで床の上に赤ん坊を産み落としたのである。分娩台にはあがらなかった。彼女は、「上の子もこうしてしゃがんで産んだから」とそのしゃがんだ姿勢のままいった。(JOCV配属先病院にて筆者が当直のときの事例、1994.5月)
これは、病院で出産したにもかかわらず、床にしゃがんで出産した産婦の例である。彼女は「何が問題あるの」とでもいわんばかりで、彼女にとっては当たり前の出産方法だったようである。しかし、大多数の病院出産は近代の病院出産と同じくベッドで出産させられて、近親とのネットワークも切断された状況で出産を経験することのほうが普通であろう。上記の例は、病院で産むというステイタスだけを確保した形で、自分にとって当たり前の出産方法を選んだといえるのだろうか。 さて、モン・クメールにとって、出産の経験とはどのようなものだったのかを彼らの語りを中心に考察してきた。そこには、近代医療に絡みとられない形で、ピーとの関係性を重要視するといった出産の経験があった。