Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
〈出産〉を経験するということ
——モン・クメールの人々と近代的〈出産〉——
嶋沢恭子
<出産>を経験するということ
−モン・クメールの人々と近代的<出産>−
嶋澤恭子 (熊本大学大学院社会文化研究科)
Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
第2章 ラオスにおける出産—近代化言説の輸入—
第2章では、まずラオスにおけるモン・クメール諸語族 (以後モン・クメールとする)の人々の社会・文化的位置を確認しながら、ラオスにおける出産を概観する。そして第1章で確認してきた近代化言説としての出産が、ローカルな場所として位置づけられるであろうラオスにおいて、どのように取り扱われ、表象されているのかを批判的に検討する。具体的には、国家政策の中での言説、出産現場での事例を取り上げて、近代化言説が支配的位置を占めてきていることを示す。そして、そこからこぼれ落ちる言説にも目を向ける。
第1節 ラオスとモン・クメール の人々
1.1.モン・クメールの人々
南ラオス、セコン県D郡のモン・クメールの村の朝は早い。まだ薄暗い朝もやの中で一番鶏が鳴き始める頃、家の軒さきできこえる精米(tam khao)(付録:写真1)をする音ではじまる。霧雨が多く、天気が変わりやすい山では、刈り取った米を天日干しすることができない。よって、この2−3日に食べる分量の米を、家の囲炉裏の上に作ってある吊り棚に竹笊ごと置いて乾かし、翌朝、母と娘、あるいは姉妹が、丸太を掘った木の臼に籾を入れて、先の丸くなった大人の背丈ほどある長い棒でつき時間をかけて精米をする。なれた手つきの拠気味良いリズムで「トン、トン、…」と精米がはじまる。小さな子供たちにとってはこの音が目覚し時計の代わりのようだ。こうして、約2−3時間かけてきれいに精米ができる。精米が終わる頃、狩猟や田畑仕事に出かけていた男たちが村へと戻ってくる。
モン・クメールの村は、多くが標高300から800メートルの山腹の斜面に立っている。家屋は同居する世帯数によって大きさが異なるが、高床のロングハウスに住む。農業は焼畑によるもち米に加えて、他の作物(とうもろこし、大豆、胡麻、さつまいも、タバコ、野菜、時に綿、高所で可能な亜麻、アヘン)を生産している。彼らは定期的に土地を交代させて焼畑農業をおこない、その合間に狩猟採集や漁業を行い、網や罠などをつくる。彼らは、また竹や籐のすばらしい製品を編み、布を織る。家畜は食べ物としてよりも供儀としての価値を持つことが多い[Chazee1999:52−54]。
実際彼らの多くが、地方の山腹部に居住しているのだが、フランス統治や内戦で移動を余儀なくされ低地に暮らすものも多い。現在、モン・クメールはラオス国内では、非常に周辺的な、そして奇異な人々として表象されている一面がある。私とともにフィールドに入った調査助手のカイは、南ラオス出身のラオスの主要民族グループであるラオ・ルム(low lu:m)であり、幼少時同じ村にもモン・クメールがいて、彼らと暮らすことは日常だったという。そんな彼女が、必要だからと魔よけのお守りをくれた。かばんから白い布に包んだお守りの中国製の石鹸と生ニンニクをそっとだして見せてくれた。ラオ・トゥン(low terng )(モン・クメール)の村に行く時は気をつけないと魔術で殺されるかもしれないからね。お守りよ。あんたも持っておきなさい。」とひと包み私にもくれた。ケオは毎夜、布団に入る前になにやらぶつぶつと祈っている。寝ている間に魔術にかかるのを防ぐためお祈りをしているのだそうだ。ある夜中、彼女は今にも泣き出しそうな様相でわたしを揺り起こした。夢に精霊ピー(pi)が出てきたのだそうだ。お祈りを忘れたからだと悔やんでおり、次の日からよりいっそう念入りにお祈りをしていた。そんな彼女の行動はそれほどめずらしいものではなかった。「ラオ・トゥン(low terng)の村に行ってきた」というと、ビエンチャンに住むラオ・ルム(low lu:m)のおばちゃんの驚きようといったら尋常ではない。「大丈夫だったか?怖くなかったか?大変だったねえ」と、とても心配し同情してくれる。ラオ・トゥン(low terng)の村がラオ・ルム(low lu:m)の人にとって、どれほど摩訶不思議な秘境に映るのかということを感じさせてくれる。
中国の雲南から現在のラオスの主要民族であるラオ人がメコン川沿いに南下してくる以前、現在のラオスの地域はクメール帝国の勢力圏であったといわれる。よって、モン・クメールはラオスの先住民族ともいわれている。そして、現在その多くはラオスの北部と南部を中心に居住している(付録:表2※本ウェブヴァージョンにはありません)。しかし、モン・クメールは同時にカー族と呼ばれ奴隷の意を含んだ蔑称を持つ経歴のある民族でもある。
ラオスでは民族構成として、地形の高度に応じて三つの住民呼称があり、それぞれの接頭句にラオが付されている。低地で水稲耕作に従事するタイ・カダイ系諸語の話し手をラオ・ルム(低地ラオ:low lu:m)といい、全人口の68%(1996年)を占め、ラオスにおける政治・文化の主流を担っている。山腹で焼畑耕作する主としてモン・クメール諸語を話すのがラオ・トゥン(中地ラオ:low terng)といい、全人口の22%(1996年)を占めるが国内における地位は低い。彼らは焼畑農業を営んでいる。山頂で換金作物栽培に従事するメオ・ヤオ語、シナ・チベット語を話すのがラオ・スーン(高地ラオ:low sung)であり、全人口の9%(1996年)を占める。移動生活を営み、チベット・ビルマ語、ミャオ・ヤオ語を話す。そして全人口の残り1%を占めるのは、都市部に居住するベトナム系、中国系移民である。五ヶ国と境を接する内陸国で国土の七割が山と高原に覆われたラオスでは、住民の連帯と社会統合を目指してこの分類を採用しており、1950年以来、日常においても事実上の民族指標となってきた。
しかし、政府関連部局は民族の掌握とその政策に苦慮しているという。1975年の解放以後、三分法にかわって個別民族名を採用すべしとする立場とそれは統合を揺るがす原因と見る派との不一致があるからである[林1996a:33]。
ラオスの創世神話の中ではモン・クメールは次のように登場している。ラオ族 やタイのシャム族はベトナム北部のラオス国境近くにある町ティエンビエンフーをムアン・テーンと呼び、ここから祖先が始まる伝説を持っている。ラオ族が持つ創世神話『クン・ボーロム(Khun Borom)』では洪水説話から始まり、洪水で生き残った3人の首長はムアン・テーンに水牛で降り立ち水稲耕作をはじめる。その後死んだ水牛の鼻の孔から巨大なヒョウタンが育ち、ヒョウタンが割れると人間が飛び降り、地球上に住むようになったという 。
上田は同じ話のモチーフであっても、話の内容が民族ごとに微妙に違っているとし、以下の記述は、国家の統一を目指すラオスにとって多民族を「兄弟」として表現することでの妥当性が必要であることを感じさせる。
ヒョウタンの熱い穴を通って出てきた最初のグループは、皮膚が焦げてしまったので、少し黒くなってしまった。これが、中高地ラオ人で、その次に出てきたグループは、低地ラオ人で、最後に出てきたグループは、穴ももう熱くなかったために皮膚が白かった。これが高地ラオ人である。われわれは一つの瓢箪から生まれてきた兄弟で、中高地ラオ人は長男、低地ラオ人は次男、そして高地ラオ人は末弟なのである[上田1996:147]
政府はフランス独立以後に同化政策を強化し、少数民族をひとつのラオス国民として統一する政策をとっていたが[Chaz_e 1999]、1975年社会主義政権が成立してから少数民族政策が改められた。彼らに市民権を与え、法律上多数派民族と同じ権利を与える政策をとった。つまり、独立国家としてのラオスを発展させるために、少数民族を平等化しつつ統一していくという方針に転換したのである。
政府が示す民族の平等性を表象したい意向がラオスの紙幣のなかにも見て取れる。1,000キープ紙幣には、左からラオ・スーン、ラオ・ルム、ラオ・トゥンの順に並ぶ3分類のラオ女性が刷られている。ラオス政府刊行物などにも、3分類の女性(左からラオ・トゥン、ラオ・ルム、ラオ・スーンの順に並んでいる)が登場する(付録:写真2※本ウェブヴァージョンにはありません)。
このような例からも、民族(so:n pao:) という個々の差異を全民族(banda pao:)たる「民」(pa:sa so:n )に解消して実現困難な同胞化を企てるラオスでこそ、民族の取り扱いが政治的に意識されていることがわかる。当局は「主要民族」を言外の前提とする「山地民」、「少数民族」という語法ないし用語も慎重に避けるのである[林1996a:42]。
「しかし…」とモン・クメールの元軍人だった老人は口を開く。彼はモン・クメールの小さな村の村長をしており、現在まで戦争の傷害年金をもらっている。今日は片道三時間かけて郡役場へ年金を受け取りに行くのだが、年金は農業の傍らに定期的に入る大事な収入源でもある。昔フランス軍の兵士だったモン・クメールの彼は次のような話をしてくれた。
「大きな声では言えないけどな。わしらラオ・トゥンは一番の貧乏くじさ。今の政府の為に戦ったのに、政府からはなんの優遇もなければ、開発の場所になるから今いる村を移れという。移った先がこのあたりぜんぶさ。不発弾が埋まっているかもしれないところさ。その調査をするといってもう1年以上にもなるけど、そのままさ。こんな危険なところでどうやって食っていくんだ(水田をするのか)。獲物がいて、食べるものがある山での暮らしのほうがまだ良かった。ラオ・スーンなんか政府の敵として戦ったのにもかかわらず、外国に亡命した親戚・家族からの送金で贅沢に暮らしている奴もいる。でも、ラオ・トゥンは違う。そんな奴はいないさ」(セコン県での調査村での村長の会話 2002.1.24.)。
ラオスの歴史に翻弄され、政策からも周辺化され取り残されているモン・クメールの一面を見たような気がした。このように、モン・クメールの男たちはラオスの「30年戦争」といわれるゲリラ戦を戦ってきているのである。
もちろん、ラオ・スーンの間でも自分たちがラオスにおいてはマージナルであると話をしてくれる人もいた。たとえばある村の村長は次のように言う。
「昔は勉強が出来てソビエトに5年も留学していた。帰国後もビエンチャンで法務省勤務をしていた。革命後、地方に公務員の人手がなくなって、自分は故郷のこの県に呼び戻された。それからは仕事もなく少ない給料も滞る貧乏公務員だった。どれだけ勉強したって、外国にいったって、政府は私を散々な目にあわせるだけさ。だから公務員はやめて農業をするようになったんだ。もうあんまり政府には期待してないね。外国にいる兄弟や親戚を頼りにして、後は自分で家族を養って生きていくさ。子供たちにもあまり勉強を勧めてない。自分と同じようにつらい思いをして欲しくないからね」(ラオ・スーンの調査村の村長の話 2002.3.10.)。
実際、Chaz_e の著書にも出てくるように、モン・クメールの人々は土地搾取や強制的移住にあう現実が書かれている。
Austro-Asiatic言語グループの人々はラオ・トゥン(lao-theug),ラオ・カーン(lao-Kang)としてタイ・ラオの人に理解されている。以前は、いくつかの州では奴隷という概念を含み、一般的に蔑称であるカーと呼ばれていた。彼らは傷つきやすく、自然災害にあいやすく、低地人からの文化変容や同化の影響から護る強い社会障壁がない。彼らは地理的に隣接するタイ・ラオスのコミュニティーに影響される。1986年以来、経済政策の変更で農地改革も行われ、村の命令で再定住や焼畑の制限がなされた。また、開発計画の加速化でいくつかのAustroasiaグループの文化や言語が終息を迎えている[Chaz_e 1999:52]。
このようにラオスのモン・クメールの人々はマージナルな民として表象されることが多い。あるいは、低地に移住してラオ人の生活様式を積極的に取り入れ、モン・クメールであることを明かさないこともある。しかし、今回、訪れた南部ラオスのセコン県やアタプー県ではモン・クメールコミュニティーが大きく、人口の主流でもあるので他の州よりも少数民族としての文化や伝統を守ることができやすいようである。あるいは観光政策がらみの地域文化保存運動によって彼らの伝統や文化は民族表象の一部として保存されて行くことになるだろう。
モン・クメールを周辺の人々と言ったある範疇に閉じ込めて語ってしまうラオスの主要民族であるラオの人々も、実は時代と戦乱に翻弄された周辺の民であった。次にそのラオスの歴史を簡単に見ておくことにする。
1.2.ラオスという国
ラオスは東南アジア唯一の内陸国であり、その国土は中国、べトナム、カンボディア、タイ、ミヤンマーの5カ国と国境を接している。国土の90%が山地・丘陵・高原で占められており、山岳地帯という地理的条件とあいまって、地方割拠性の傾向が強い。北部と北東部は、ラオスの最高峰である2818メートルのビア山をはじめ2000メートル級の峻険な高山がいくつも屹立しており、谷が非常に深く両側面が鋭く切り込まれているので、地域全体が起伏の多い地勢になっている。しかし、山岳と山岳との間には渓谷盆地のあるところもあり水田を含む耕地も開けている。南東部は最も高い山が2100メートルであり、その他は1000メートルと低く、メコン川に向けて傾斜した高原が開けている。メコン川領域はメコン平野で、低地になっており経済活動のもっとも活発な地域である。また、同国を南北に流れるメコン川は主要な交通路をなしている。
ラオスの歴史は上東[1989]に詳しい。それよると、8世紀から12世紀ごろにかけて東南アジア大陸部にタイ系所属が南下してくるとされる。しばらくしてラオスにランサーン王国ができるが、シャム、クメール、ビルマなど他の民族からの侵略にさらされつづけ、18世紀ごろには、三王国に分裂することを経過してシャム(現在のタイ)とのあいだにアヌ戦争がおこる。そしてシャムの属国下に位置するも、その頃インドシナに勢力を広げたフランスがタイと協定した結果、ラオスはフランス統治の植民地下に置かれることとなった。林[1998]によると、1893年はラオスにとって伝統的な侵略者であったシャムが姿を消し、フランスが支配者として立ち現れた年であるという。「この年、フランスとシャムとの間の条約によって、シャムがメコン左岸東側に対する領土権を放棄したため」であり、結果的には「これにより現在のラオスが占めている国家領域がほぼ定まった」という[林1998:78-109]。フランスはこの新領土をフランス領インドシナ連邦の一部として正式に編入し、その際、この地域を(ラーオ)の複数形である「ラオス」と呼称した[吉川1992:283] 。その後も、ラオ人は激動の時代を経験した。植民地化、そこから脱却するための1975年からの社会主義化、そして内戦、1986年からの対外経済開放政策への道である。
上東によると、仏政府にとっての植民地ラオスは、当時仏領であったベトナムと、シャム王国との間における緩衝国としての意味しかなさなかったとされる。その為、鉄道や道路といったインフラ整備はもちろんのこと、教育制度の整備もほとんどなされず、ラオス統治には教育を受けさせたベトナム人を多用し、徹底した愚民政策がとられた。それにもかかわらず、過酷な人頭税や労役を仏政府に強いられたラオスでは、カー族の反乱やミャオ族の反乱など各地で反仏の蜂起が絶えなかった[上東:1989]。
政治体制は、1949年フランス連合の枠内での独立が認められ、1953年に立憲君主国としてフランスから完全独立を達成した。1945年以降の「30年戦争」と呼ばれる時期を経た社会主義への道のりは、国内の左派、中立派、右派の対立、ベトナム戦争の激化による内戦が繰り返された時期でもあった。米軍による猛烈な秘密爆撃の傷跡は現在も至るところに見られる。その爆撃機は東北タイのラオ人が住むウボンやウドンの米軍駐留基地から飛来した。林はラオス側での聞き取りでの話として、ラオもその地の民族もこぞって攻撃目標とさせる囮村を作り、日が暮れてから野良で耕作し森の中で結婚式を挙げたという、物理的暴力から逃れる暮らし振りを再現する個人史が多く聞かれたという[林1996a:41]。
1975年12月、革命により現在のラオス人民民主共和国が成立した。自治体国際化協会の資料に、この時期のラオスの詳しい記述がある。
ラオス人民党はソビエト形共産主義をモデルに社会主義国家の建設に乗り出し、中央計画経済への移行、農業の集団経営化、企業の国営化といった政策が強硬に実施されていった。しかしこの時期のラオスは人材と資本の深刻な不足に見舞われていた。旧体制化の政府高官や軍人、知識階級、タイ系・華人系実業家たちが、次々に国外脱出を図ったからである。また国内に残った旧体制化の官僚も相当数が反対分子として強制収容されたため、新体制の基盤確立の重要な時期にラオス行政は麻痺していたとされる。また、ラオスからの大量難民流入を危惧したタイ側の国境封鎖や、社会主義政権の誕生による西側諸国の援助打ち切りのため、国内では物資が不足し、経済は悪化の一途を辿っていた。西側援助のうちきりのあと、やがてソ連やベトナムといった社会主義国からの援助に替わったが、ラオス経済の不振は続き、内政は安定しなかった[自治体国際化協会2000:6]
1986年2月、ラオス人民革命党第4会党大会は、「チンタナカーン・マイ(新思考)政策」に基づく一連の経済改革を採択した。基本的には中央計画経済から市場原理経済への移行を目指すもので、「新経済メカニズム(New Economic Mechanism:NEM)の導入」と称され、国公営企業の民営化、価格統制の廃止、貿易自由化、税制・金融改革が重点目標として挙げられた。1991年には憲法も制定 され、外交面では全方位外交へと転換し、西側諸国や国際援助機関からの援助や投資が急増し、ラオスは市場経済化への道程を着実に歩み始めた。かつては対峙していたASEANにも1997年正式加盟を果たしている[自治体国際化協会2000:6-10]。
現在、ラオスは面積23万6800平方キロメートル(日本の本州ほど)の大きさに約550万人 の人々が暮らす。たび重なる過去の戦乱で、国外に追われた難民たちも少なからず帰還してきている。国家的に抱える問題は山積みであるとされ、ラオスもまたマージナルな国という表象を諸外国から与えられているのである。
ここで、少しだけラオスでの人類学研究の動向についても整理しておきたい。多様な民族によって構成されるラオスは、これまで人類学と民族学の分野で注目され古くから研究が蓄積されてきた。古くは民族誌としてインドシナの少数民族のひとつ、ピー・トゥン・ルワンの精霊信仰を描いたベルナツィークの『黄色い葉の精霊—インドシナ山岳民族誌』[1968]がある。日本からは日本民族学協会によって結成された1957年の「東南アジア稲作民族文化総合調査」調査団による長期滞在型の村落調査が実施されており、ラオスの村落社会・生業構造の解明に多大な貢献を果たしている。それはメコン流域における諸民族の文化調査であり、ラオスに関しては岩田[1959]や綾部[1959]などの報告がある。
ところが、1975年の共産主義政権発足以降、1986年のチンタナカーン・マイ政策に基づくNEM(New Economic Mechanism)までの間、ラオス政府の規制によって外国人研究者による村落研究の実施は困難となった[長谷川1978:89‐107]。社会主義体制で外国の研究者がラオス国土に長い間足を踏み入れるのが困難であったため、ラオスの民族に関する文献はほとんどないといってよい。わずかにフランス植民地時代において、極東学院(L’Ecole Fran_aise d’Extr_m Orient)による民族的研究が行われた形跡があるとされる[上東1989]。エバンズによると、ラオスの民族誌家は「ゲリラ との争いにおいて大変重要な政治的偵察を実行するもの」であり、その「多くをベトナムから学んだ」という[Evans1999:164]。また、「1975年以来、ラオスの民族誌はベトナム共産党と提携したラオス政府によって作成されてきており、ラオスの民族誌の出版は党の権力者による検閲や党に従うことを命じ、未だにその統制下にある」と続ける。その例として「NGOがダム建設の際に土地の精霊への供犠をしたことについての記載は、プロジェクトに反対する刺激となる恐れがあるので取り下げた」[Evans1999:178]ことをあげている。ラオス政府はなんとかして国民全体を神聖な小乗仏教の傘下に編入させようとしているのだが、それは、少数民族の迷信や精霊崇拝は小乗仏教化に抗触するとされているからである。しかし、1990年代以降は、多様な開発援助に関係する調査がラオス政府公認で実施されるようになり、学術調査にも門戸が開かれつつある 。本稿も、その恩恵にあずかることのできたひとつであると位置づけられる。
第2節 医療政策と出産をめぐる言説
「彼らは、「森の中で出産(kuud jyu pha)」するから、とっても不衛生で危険なのです。病院にも遠くて専門家もいないところで、しかもたった一人で産むんですよ。焼畑(hai)で作業をした帰りに途中で産気づいて道端で産むこともあるんです。山刀とか、竹刀でへその緒を切るんです。病院で産むにはお金もいるから、貧しい彼らにとっては難しい選択なんです。だから、せめて訓練を受けた介助者のいるところで産めるようにわれわれは努力しないといけないんです」(母子保健政策戦略会議での政策担当者の談話より2002,2,18)。
モン・クメールの存在を周辺化したこのような語りは、保健省や、援助団体の間で紋切り型に語られることが多い。私自身、ビエンチャンに住む一般の人からも何度となく聞いたことがあり、実際に話を聞いてみたいものだと好奇心をかきたてられてもいた。この中に出てくる「森のなかで出産」をする「彼ら」とは、南ラオスに住むモン・クメールのことである。彼らのような医療へのアクセスが困難で「貧しい」、「気の毒な」人をなんとか助けねばならないというのが、保健省の保健政策に必ず現われてくるのは、「死亡率」をさげ「母子保健を向上」させるためなのである。
2.1.政策における医療化を促進する言説
ここでは、ラオス国家の保健政策の中で出産がどのように取り扱われ、また表象されているのかを、保健省の公的資料や各種援助機関の報告書などの文献や現地での政府高官との会話などをもとに検討する。
1975年以降、ラオス国の政策は、第一に防衛と領土問題の解決、第二に経済成長を優先し、経済インフラ整備に力を入れてきたが、経済政策の変化に伴い、社会セクターの政策も変化してきている。ラオス政府は、2020年には、最貧国(Least Developing Country)の状況から脱することを目標としているのである。第三に教育や保健といった人的開発に関する情況も大幅に改善したいと考えている。第四に国家開発計画(1996-2000)においては、安全な飲料水供給と衛生面の改善を主要項目の一つに挙げており、それと平行して、2020年へ向けて乳児死亡率の大幅引き下げ、平均寿命の引き上げを目標とした保健戦略も策定された[PCI 2001:2-8]。
それまでの保健政策は、WHOのHealth For All 2000 に基づいたものであったが、2000年5月、保健省は「Health Strategy up to the 2020」 を完成した。材料としては、各援助団体が実施してきたさまざまなプロジェクトからの情報や考え方が元になってはいるが、保健省が主導権を発揮した結果といえる。
まずは、その保健省の資料である「Health Strategy up to the 2020」の出産のとらえ方について概観する。「妊産婦死亡率は 650 とこの地域で最も高いひとつである。高い妊産婦死亡率は高いfertility ratesとヘルスサービスの利用や質の悪さに関連している。妊娠に生ずる死亡は28% 、産後に生ずる死亡は72%である。死亡の73%以上が直接的産科原因(産後出血)で死亡し、21%が間接的産科死亡(マラリア)で死亡している。訓練されたTBA(Trained Birth Attendants) による出産は15%以下である。70%は誰も介助していない。妊娠や産後のサービスのための施設へのアクセスは大変低くサービスの利用には限界がある」[MOH 2001:ⅲ]と指摘し、妊娠におけるケアの項では「適当な妊娠分娩ケアを受ける女性は大変少なく、女性の74%以上が妊婦健診を受けていない。家で出産をするのが62%で、その多くが訓練を受けていない親戚や友人、あるいは少ないケースではTBAに介助してもらっている。」[MOH 2001:ⅴ] とある。
「高い死亡率」と「医療サービスの利用と質の低さ」を結びつけており、「介助のない」「家」での出産を危険視している。そして「政府の医療施設は女性が出産のとき周辺的な役割しか果たさない」[MOH 2001:12]とあり、ほとんどが家で出産しているという事実を認識している。
妊産婦死亡の調査結果としてフォーヴュの調査結果が用いられている。フォーヴュの行った全県調査300村(1992-1993年)では「15-49歳女性の380人の死亡例のうち127人(33.4%)が妊娠に関係する死亡」であるとする。そのうちの「28%は妊娠中の死亡、72%が産後6週間以内の死亡で、原因は出血が最も多い。これらは貧しく、地方、家庭で起こっている。」とし、「ヘルスサービスシステムの強化、病院の助産婦看護婦は妊娠の管理サポートを行う」ことを対策としてあげている[Fauveau1995:44-46]。
そして、具体的な対策としてはTBA(Trained Birth Attendants)の養成があげられる。
TBAは出産の時、卓越した役割を果たす。村人たちは彼女が公式の訓練を受けてないにもかかわらず、TBAを尊敬し、その技術を信頼している。TBAトレーニングは出産だけではなく地域の母子保健計画を普及させる。TBAは一人では家庭での出産を助けることはできない。TBAは健康スタッフを助け、ハイリスクの早期確定により潜在的な産科問題を減らすことができる。彼らはまた医療施設に運び、清潔で安全な出産技術を提供することで出産による敗血症を減らす[MOH 2001:14]。
しかし、TBA養成というのは最近の動きであり、1990年代前半はラオス女性同盟(Lao Woman’s Union:LWU)の存在が母子保健活動の展開には欠かせなかった。ラオスの独立後、母子保健活動の展開にはLWUが多大な貢献をしてきている。LWUと母子保健政策との関係についてUNICEF[1992]の資料からみてみる。
1955年7月にラオス革命党により設立されたラオス愛国女性同盟は、諸外国の支配に対して苦闘したすべての民族集団、社会階級の女性たちを立ち直らせる目的で計画された。独立後、ラオス女性同盟(LWU)と改名。国家的立場での女性解放の役割を持ち以下の務めがある。(1)国家防衛と社会構築という二つの国家目的を遂行するための努力:中央と地方の政府は情報システムを改善しなければならず、女性の教育機関とプロバガンダのため女性のラジオ放送と女性新聞の発行、(2)国家社会の経済管理に女性の参加を高める。:食物生産と動物家畜の促進。家族の生活水準向上と所得増加のための植物、植林、薬草を育てること、(3)文化・社会的作業への参加:文盲と疾病の根絶に努力、(4)女性と子供の人権保護と増進、新しい家族形式の創造:家族計画、夫婦関係など、(5)女性組織運営と支部女性役員の育成の改善と強化。
メンバーは中央から各村にまでネットワークシステムが行き届いている。そして、1987以降、各地域において、UNICEFやUNDP、NGOsの介入によりさまざまな母子の健康に関するプロジェクトが展開さている[UNICEF 1992:95]。
ここで、保健を普及させる為にTBAやLWUワーカーが利用される。ラオスの母子保健分野を含めたPHCは、年代を追うごとに、ますます援助団体によるプロジェクト形式の活動が主流を占めて現在に至っている。それは、LWUのような女性組織を巧みに利用して、トップダウン形式でよく機能した。LWUのネットワーク網やTBA養成などを利用することによって、人々と医療とのあいだのつなぎ役として利用しようとする意図が見て取れる。しかし、これは、数多くのプログラム(例えば、予防接種、動物銀行、植樹啓蒙など)が地域末端では1人のLWUスタッフの手にゆだねられてしまい、個人の役割としてはかなりの負担となってしまう。あるいは各プロジェクトによって内容や賃金が異なることから、不満の声がではじめ、限界が出てきているらしい。TBA養成に関しても、女性が求めているのは年配で知り合いの熟練した介助者であるのに対し、政府が要請の条件に挙げるのは若い女性であったり、教育レベルが中学卒業以上だったりというようなものである。女性が求める介助者は政府の要請条件としてふさわしくないものとして位置づけられる。このように役所と当事者のあいだで齟齬がおこっていることから見なおしが求められている。
次の結果はラオス保健省[2000]の調査であり、多くの公的政府資料にも用いられる基礎データといえる。これに先行する形で1998-1991年にも同様に妊産婦死亡の調査が行われている[IMCH 1994]。
「産婦の65%が妊婦健診を受けない、そして62%が親戚や友人の立会いで出産というのは多くの調査によってあきらかであり、さらに文化的選好の観点も重要であることを示す。以下は妊娠に関する理由で毎年1000人以上の女性が死んでいるということを暗に含む値である。妊娠に起こる死亡が28%、産後6週間に起こる死亡が72%である。死亡の73%以上が直接産科原因によるもので、それらの死亡の多くの原因は産後出血(胎盤遺残、子宮収縮不全、子宮破裂、子宮頚管裂傷)、感染症、誘発と自然な中絶の合併症である。そして、妊娠死亡の21%の殆どが間接的産科原因の妊娠によって悪化した病気や合併症(マラリアなど)によるものである。これらの死亡の殆ど(90%)が自宅で生じており、重大な合併症を引き起こした場合でさえも女性たちは治療のための施設にはいかない」[UNICEF 2001:45]。
このなかで、ラオスにおいて「保健医療施設におけるサービスの質が良くないこと、保健医療従事者に対して住民が信用や尊敬を抱いてないことを問題」とし、さらには、「県立病院の産科での出産件数が少ない、特に遠隔地域の女性は利用が少ない。例えば交通が不便であること、住民自身の健康への自己責任意識が低いこと、医療器具が少ないこと」をあげる。しかし、最も根本的な問題としては健診や出産にくる妊産婦に対して助産婦の能力の問題をあげている。よって、「特に郡レベルにおいて、医療器具の充足、スタッフの研修とフォローが重要課題である。」と課題をあげている[UNICEF 2001]。
WHOのリプロダクティブヘルス研究部(Department of Reproductive Health and Research :RHR)のラオス報告書[WHO online :Laos.en.html] によると、高い妊産婦死亡率の原因として「最も多い原因は分娩中に起こる出血および伝染病である。両方は、医療の下で容易に予防可能あるいは処理可能だ」とし、出血のおもな二つの原因として「出産後の弛緩出血、胎盤遺残」をあげる。そして、「これは、容易に単純な介在で扱うことができる。また、熟練した出産介助者は、胎盤の遺留を扱うことができる」とする。さらに「ほとんどの伝染病は、陣痛と分娩の間に、あるいは適切な抗生物質を備えた適時の処理、基礎的な衛生の慣習によって防ぐことができる。」とし、問題点として「これらの高い統計はほとんどの誕生が医療から放置されているという事実による」とする。この理由は、僻地(多くのコミュニティーが最も近い健康センターからの徒歩で3〜4日かかること)、高い輸送コスト、医療施設へのアクセスする困難を含んでいる。」と報告している。
「自宅出産」と「高い死亡率」、「施設分娩とスタッフの能力向上」と「死亡率低下」という関連性を暗に示す記述が繰り返されるが、それに到達する根拠が示されない。自宅から施設へのアクセスが悪くて緊急措置が間に合わず死亡しているとか、病院で出産してすぐ自宅に戻って急変したとか、そういった事例もここでは「自宅」の枠内に入れられる。必然的に「自宅」での死亡率は高くなると考えられる。過度に強調され解釈された記述は、人々の間でそれを周知の事実化のように認識させてしまう力があるのではないだろうか。あることとあることの関係性を言った瞬間に、その科学的根拠のないこと恣意的に意味を見つけ、その言説が揺るぎのない事実として存在し、語られることでさらに強化され、それに呪縛されていってしまう。そのことが問題としてとらえられるべきではないか。
さらに開発援助のレポートのなかには知識のない人を助けるために教育が必要という言説がある。以下では、ラオスの母子保健に関する研究報告書をみていく。
ポサイら[2001]の調査は、南ラオスにおける女性の知識と妊産婦保健ケア(Maternity Health Care :MHC)の利用への態度との関係を調べている。仮説要因として女性の知識、社会文化的信念、医療施設とのアクセスをあげ、結果として「社会文化的信念」がMHCの利用を阻害する主要要因であったとする。「出産の知識は知っているが、何人かの女性は強い迷信を信じている。また、妊娠中の食事や合併症に関して少数民族は知識が低い。つまり、MHCの利用を低くする要因は医学的経済的障害に加えて、女性の知識が低いことと文化的阻害要因 である」とする。さらに、その考察とまとめにおいて「近代医療を遠ざける要因の1つとして彼らは伝統的習慣を重んじる傾向があり、多くの女性はコミュミティの年寄りのアドバイスを尊重する。これは少数民族の女性が近代医療に精通していないことを表す」。よって、「課題としてはMHCの阻害となる文化的要因を取り除く教育の向上」が重要であるとまとめている[Phoxay et al. 2001]。
ここでは、死亡率が高いこととMHCのサービス(専門職立会いの出産が少ないことを含む)を受けていないことが結びつけられている。よって「知識のない彼らに対してMHCサービスの向上を目指すことが大切」という論調になる。MHCそれ自体の検討はされないままに、MHCを阻害するものを見つけ出し、改善すると言う趣旨なのである。MHCを望んでいるのはいったい誰なのか?MHCをうければ妊産婦死亡率は下がるのか?ということは棚上げにしたまま、彼らを医療に引き寄せる。そして、彼らには妊婦健診の「知識がない」ので、教育が必要だという。つまり、近代化を必然的、合理的なプロセスであるということを前提とするばかりか、それが誰にとっても妥当する普遍的な善であるととらえる。
以上のように、ラオス保健省の公的資料には出産はリスクのあるものという前提において「医療管理すること」が「安全であること」と結びつけられている。また公的資料の多くは、調査資金などの問題も絡んでいて主に援助団体が行った調査結果や計画立案がおおいに参考にされる。ここに、近代化言説としての医療化が、人道的、開発といった名のもとに比較的容易に輸入されやすいことが想像できる。そして、その調査は「開発すること」や、「介入すること」を前提にされることが多いのである。そこでは、「知識の低い」、「貧しい人」がいなければならないのである。同じ理由で「死亡率が高い」ことと「村での出産」も結びつけられてしまう。こういった関係性を可視化することによって、科学的に根拠のないことであるにもかかわらず、恣意的に意味を見つけ、その言説を揺るぎのない事実として存在させてしまう。それは、人々のあいだで語られることでさらに強化され、そのことに呪縛されていってしまう種類のものであり、他の可能性を排除させるものとして充分に議論されるものであると考える。
2.2.民族カテゴリーと出産
ここでは、ラオスでの民族カテゴリーと「出産」の表象との関係について、ラオスでの行政区分として使われている3つの民族区分と出産との関係において考察する。そこには民族のカテゴリーの中に出産を閉じ込めてしまおうとする外部からの想像力の押し付けがあり、さらに、それが正当化されていく構築の過程についてとりあげる。
繰り返しになるがここで民族構成についてもういちど確認しておくことにする。一般的にラオスでは低地ラオ族(low lu:m : Tai-Kadai言語グループ)、中地ラオ族(low terng: Mon‐Khmer言語グループ)、高地ラオ族(low sung: Sino-TibetanとHmong-Myan言語グループ)という3つの民族に分ける方法が長い間使用されている。この分類は、(1)言語グループ、(2)伝統・慣習的な居住地域 (高度)、(3)伝統・慣習的な農業耕作形態 (水田稲作あるいは山間地の焼畑)に基づくとされている 。
次にラオスにおける少数民族の政策の概要とその歴史的経過についてふれ、政府の少数民族に対する対応についてみておくため、ILO(国際労働機関) [2000]を参照する。
少数民族政策がラオス人民革命党によって具体的な決議書として採択されたのは1981年「さまざまな少数民族(特に Hmong Minority)の状況に関する政治的決議(Hmong Policy 1981)」が最初である。当時の政府は、Hmong族が居住する地域における政治影響力が弱く、また彼らのニーズも把握できていなかった。政府は、それらの地域において政治的基盤を確立し、彼らの生活改善(特に保健衛生と教育)、また国家の安全と防衛の機能を強める政策を打ち出したのである[ILO 2000]
その後、「Hmong Policy 1981は、1992年の『少数民族に関する党の中央政府委員会決議の新段階 (1992年決議)』へ発展した。それによるとHmong族に限らず全ての少数民族を対象とした広範な内容となっている。特に、具体的な実行策として、職業・教育・文化・保健・社会福祉といった人間の基本的ニーズ(Basic Human Needs:BHN)に関する内容に重点が置かれている」ことが特徴である[ILO 2000]。
林は、民族文化保護政策がラオスの民族意識のあり方をさらに複合的なものにする契機を与えているとして、以下のように論じている。
「この政策では医療衛生上合理的ではない各民族の慣習、特に治療儀礼のための供犠の慣習は廃止させるが(治療のために精霊に捧げる水牛を殺す前にその水牛を売って薬を買って与えよ、式の弁法が流布している)、その他の側面には保持すべきことの方針を謳っている。もっとも、個々の民族文化を解消しないままに共存を表明する政治的意図は以前からあった。例として1985年の革命10周年記念の催しのひとつに、県単位で収集されたそれぞれの民族がそれぞれに継承してきた音楽、舞踊、民芸品を披露するコンテスト形式のアトラクションが開催されている」[林1996b:91]。
「文化保護」は民族がそれぞれに継承してきた音楽、舞踊、民芸品といった限定された保護する側にとってのみ都合のよい保護である。「医療衛生上合理的ではない各民族の慣習、特に治療儀礼のための供犠の慣習は廃止させるが、その他の側面には保持すべきことの方針を謳っている。」というものであり、「観光化」に向けた「文化資源としての保護」を優先し、都合の悪い儀礼慣習などは廃止するといった、保護される側にとってはむしろ迷惑な政策であると考えられる。「文化」という言葉が政策側にとってのイデオロギーとして利用されているといえるだろう。早速、2000、2001年を「観光年」としてアピールし、外国人旅行者は200万人をこえたということもあり、多大な外貨を稼いで成功したと政府は評価している。
さて、政府の積極的とも言える少数民族に対する政策について見てきたわけだが、実際に政策や、報告書の中で「出産」との関係において、「民族構成」がどのような局面で用いられているのかを批判的に見ていくこととする。
アジア開発銀行(Asian Development Bank:ADB)が行った保健調査では「ラオ・ルムは他の少数民族よりも郡や県の病院での出産が多い」ことを示している[ADB 1999]。しかしこれは数値で見ると10.87%と3.94%であり、全体からみるとどちらも低く、比較的ラオのほうが病院出産であるといえるだけである。この報告書は少数民族を特化しすぎているのではないだろうか。また、「少数民族グループは家で出産する傾向が高く、医療スタッフを利用する傾向はない。少数民族は家族や友人に手伝ってもらうかあるいは誰にも手伝ってもらわず、家で出産するらしい」といった記述が、少数民族についての負の言説を再生産していると考えることはできないだろうか。
UNICEFの1994年のラオス国内における民族集団に対する保健調査では「異なる文化的慣習は健康の成り行きに影響を及ぼし、それによって疾病率や死亡率に寄与することになる。出産の場所はときに高いMMRに関連する要因となる。出産はそれぞれの民族や文化習慣によって信念が異なる」として、Hmong-Yaoの女性の例を挙げ、妊娠、出産時期の伝統的治療者とのかかわりを重視していることを強調する。よって、近代医学スタッフとのカウンセリングは困難であると結論づける。出産はふつう家で、年配の女性や親戚の介助のもと行われる。また、伝統的な方法として「へその切断方法」を挙げ、はさみなのか、竹片なのか、消毒しているのか、いないのかを問題にする。また、「第1に治療選択として動物の供儀をするのは医療サービスへのアクセスがないからだ」と報告する[UNICEF1994:84]。
こういった言説は、少数民族を啓蒙・開発されるべき人々、あるいは辺境というカテゴリーの中に見方を押しつけてしまう。そしてその多くは、中央の為政者・知識人を通じて増産され、今も続いている。当事者性をまったく欠く外部者のまなざしによって、少数民族と呼ばれる人たちは、自らを表明する場を与えられずに翻弄され、そのイメージを再生産される。もちろん、外国人や援助団体による調査もその例外ではないといえる。そして、研究もそうした国内での言説をさらに補強するために援用される。ラオス語が話せず、知識レベルが低く、貧しく、伝統をかたくなに保持する前近代的な人々は、自明のように死亡率や疾病率の高さと結びつけられる。また、伝統的な民族衣装を身に着けて微笑む少数民族の少女の写真は、旅行者や官民が好むステレオタイプのイコンとなった。そして、少数民族の多く存在する地域は憐憫と蔑みの視線を浴びる場所となる。
しかし、そういった表象の仕方が偏っているということは、実際に彼らの生活に接してみるとすぐにわかる。山ぶかいU県のモン・クメールの村は、最近まで村までの道が整備されていなかった。県保健局の職員は「道が不便だから予防接種や保健活動にもいけてないし、マラリアの多いところで去年は3人亡くなっている危険なところだ。それに彼らはとても貧しい。」という。しかし、実際に村長や村の女性たちに話を聞き、滞在していることで、定期的にバイクでやってくる行商人、そして中国やベトナムからやってくる薬売りや商売人など、村を訪れる人のいることが明らかになった。彼らは、村人と顔なじみであり、町で薬を買ってくるよう頼んだり、診察してもらえるよう手配したりされていた。また、南部S県のある山深い村の老人会のメンバーは軍人の経験者がほとんどで、国内の移動を経験しており、戦時中ベトナム軍医から診察や治療、出産の介助まで手習いを受けたという経験のあるものもいた。
このような個人から話を聞くと、少数民族を気の毒で啓蒙・開発の必要な人々という表彰の仕方はとても奇妙である。また少数民族というカテゴリーは静的なものではなく、移動や通婚といった形でカテゴリーをはみ出る人たちがいて、自分たちが必要とする彼らにとっての合理的な方法で医療や保健と接続するといえるのではないだろうか。それは、政策側にとって専門家が周到に立案した合理的な開発計画が、実施にあたって予定された成果を充分にあげることができない、社会的・文化的因子が非合理的な障害としてのみ認識されるようなものとしての一面を持つ。しかし、ステレオタイプ的にラオ人が言うような「閉ざされた」南部ラオスの秘境たる山地民世界というは存在しなかった。そして「伝統的」な村落ほど、その外部を通過してきた民族集落との接触や交通の経験が豊富だったということがいえる。
2.3.産科テクノロジーの導入 —会陰切開—
ローカルな場所と位置づけられるであろうラオスにおいても、政策や概念レベルで近代化言説としての「医療化」は、それを必然的なイデオロギーとして正当性が示されていることがわかる。ここでは、その「医療化」の担い手の一つである「産科テクノロジー」が実践レベルでどのように入り込んでいるのかを事例をあげて考察する。
「産科テクノロジー」が当然のように使われるのが近代と言う名を背負った「病院施設」である。中央の病院が新技術を取り入れれば、当然地方の病院にもその影響はやってくる。ここでは、会陰切開について語る地方病院の女性医師の事例を取り上げる。私がその病院を訪問した時、彼女は産婦人科の医長として施設や地域の出産状況を丁寧に説明してくれた 。彼女はベトナムへ留学した後、ここで女医をしている。40歳をすぎたくらいの背のすらりと高いのが印象的な女性であった。彼女はうす暗い病院の廊下の一角にあるスタッフ室に私を案内してくれ、そこで以下のような話をした。
今までずっと会陰切開することはなかった。それは、しなくても裂傷がなかったし、自然にできた裂傷は縫合もしなかった。でも、ここの若いスタッフがビエンチャンの病院での研修から戻ってきて、そこでは全例に会陰切開を施行しているというの。だから、それに倣ってここでもやるようになった。おかげで、縫合糸、抗生剤等、今まで必要なかった費用の負担が産婦に強いられるようになり、苦情がでる。それに、ここらあたりでは、まだ産後にナンファイ(na:ng fai:) をする習慣があって(中略)。傷があると痛くてナンファイ(na:ng fai:) ができないので産後の肥立ちが悪いって。困ったわ。ま、ほとんど切開するまもなく産まれること方が多いんだけれど。できれば昔のままが良いと思うのよ。でも、ビエンチャンのやることだしねえ、新しいことだしねえ、取り入れないわけにはいかないんだろうね(H県立病院にて 2001.9.11)。
彼女は、近代医療のお手本である中心的施設の慣行に従わなければならないという姿勢と、会陰切開がもたらす負の結果である、産婦の料金負担が増えることと、産後の慣習のせいで傷が化膿創になったり、感染したりするかもしれないこととのあいだで葛藤をかかえている様子であった。ルーティン化される会陰切開についてインチ[1991]は、次のように非難している。
会陰切開は膣口と肛門の間の会陰と呼ばれるところにはさみを入れる外科処置である が、これは会陰を切ることで膣口を開けることが目的である。裂傷が起こるのは、会陰組織が延びて薄くなっている発露(児頭が陣痛のない時も隠れなくなったときのこと)の一歩手前の時であるが、実際の切開のタイミングはほとんど介助人の手にゆだねられている。よって、ハイリスクや母体の保護など分娩を早く終わらせるための策ではあるが、無条件に分娩時間を短縮したいであるとか、裂傷よりも切開のほうがよいという介助者側の勝手な思いこみが切開をルーティン化させてしまう[インチ1991:167]。
もちろん、会陰切開が母子を救命する重要な産科テクノロジーのひとつであることは否めない。しかし、それがコントロールされずに使用されてしまう可能性が大いにあることが問題なのであろう。それに、会陰切開が正当に医学的適応で行われたとしても、裂傷よりは合併症を伴うとされる。ナンファイ(na:ng fai: )をする彼らには大きな障害となるだろう。ウィッタカーの東北タイでの出産研究によると、「会陰切開が近代的価値の不明な産後のユー・ファイ(yu fai:)を減少させた」という[Wittaker 2000] 。自らを普遍とし、近代化のプロセスをあたかも自然法則のごときものとして必然化するイデオロギーの強さと、それにスムーズな形ではないが吸収されて行くであろう病院の現実を見たような気がした。
仰臥位の姿勢が会陰に圧力をかけすぎてしまい危険な裂傷をおこすといわれるように、まさに近代の出産方法がさらなる会陰切開というテクノロジーを生み出すのであった。現在、会陰切開で問題とされるのは、切開そのものではなく、産科的流儀となってしまった点である。したがって問われるべきは、ルーティン処置としての会陰切開の地位である。
さて、西洋が持ち込んだ出産の「医療化」をめぐる事象とその表象のされ方について検討してきたが、ここでも出産が医療に導かれることを善とし、そしてそれを正当化していくようなイデオロギーのあり方を見ることになった。しかし、事例や言説から、そこで起こる葛藤やはみ出るものに出会う。さらに近代化言説に巻きこまれない形で出産を経験しているモン・クメールに出会うことになった。では、出産の主体である女性たちはどのような出産の経験をしているのだろうか? 次の章では、出産という事象が繰り広げられているローカルな場所での出産をめぐるモン・クメールの語り口に注目し、出産の経験について考えてみる。