Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
〈出産〉を経験するということ
——モン・クメールの人々と近代的〈出産〉——
嶋沢恭子
<出産>を経験するということ
−モン・クメールの人々と近代的<出産>−
嶋澤恭子 (熊本大学大学院社会文化研究科)
Copyright (c) Kyoko SHIMAZAWA, 2003
第5章 結論と課題 —新たな関係性の想像力として—
ここではまとめとして、各章を振り返りながら、最終的な結論と課題を明らかにする。本稿は、近代化言説としての医療化に絡みとられない出産の経験を、出産におけるリスクの文化的差異を軸にして、ラオスに居住するモン・クメールの人々の語りから提示した。西欧では、もともと女性のコミュニティーにおいて日常の出来事として経験された出産が、科学技術と権威ある専門知によって医療化されていく。この過程をラオス国家レベルにあてはめると、ここでも近代化言説によって、ラオスの出産を「不潔な」、「遅れている」、「知識のない」人々として「安全」、「管理」を理由に医療化に回収する試みがなされていた。しかし、それには回収されないモン・クメールの経験が存在し、本論はその経験について考察するものであった。その経験が言語化を通じて語られるものであるならば、出産についての語りに着目する必要があると考えた。それはいかなる文化的想像力を媒介として語るのかを考察することによって、近代の出産経験を相対化し、新たにオルタナティブな出産を経験する可能性を見出すものであった。さらに、自らを近代側に置き、彼らを隔絶した規定された存在として他者化していたフィールドの経験についても考察を試みた。
以上の動機のもとにあったのは、日本の「医療」という枠組みの中で助産婦教育を受け実践を経験し、それをラオスでの医療援助にも持ち込んだ近代的主体としての自らの内省的批判からである。どちらも「助けを求める人、援助が必要な人」がそこにいることを前提としており、この前提は疑う余地のないものとして考えていた。しかし、「助けを求める人」という前提が「助ける人」の側にあったとするならば「助けを求める人」はいつまでたっても救済されることはないのだから。
第1章では、西欧における出産の歴史的過程を「痛みのコントロール」と「産科テクノロジーの登場」についての言説を中心にして整理した。具体的には、もともと日常の中にあった出産の経験が、「苦痛のとらえ方」の変化と産科テクノロジー、そして権威ある専門知によって医療化されてきたことを明らかにした。この出産の医療化に対応しさまざまな形のオルタナティブな言説が登場したが、そのオルタナティブな言説は医療化に抵抗しながらも、医療の内部に共存する形で存在しているに過ぎないことがわかった。また、身体的痛みの除去をある程度獲得したであろう出産の医療化が、医療者側には「訴訟の恐れ」という形で、産婦側には「精神的・社会的」という形で、両方に新たな苦痛を産み出していた。安全という神話と権威をもった専門的な技術と知識によって可能になった医療としての出産が、いかに恣意的で歴史的な構築物であり、かつ問題を含んだままのものであるかを見ることができた。
第2章では、ラオスにおけるモン・クメールが社会的・文化的に周縁化して表象されるという位置を確認した。そして、ラオスの国家レベルにおいて、近代化言説としての出産が、救済するという開発言説と共謀関係にある中で、出産の医療への取り込みがおこっている。そこには、あるカテゴリーの枠に出産を留めておき、意味を与えようとする支配と権威を備えた近代医療のありようもみられる。ローカルな実践場面においても、産科テクノロジーは緩慢に、そして確実に侵入している。
第3章では実際に出産をめぐる場面で、モン・クメールの出産当事者や関係者の語りを通して出産の経験について分析した。彼らにとって出産の経験は西欧の用意した近代化言説とは異なるものであった。近代における出産のリスクが身体的苦痛であるとするなら、モン・クメールにとってのリスクは精霊ピーとの関係(距離)で表された。この点を具体的には彼らの村での出産、病院での出産、難産などの異常出産時の対応、出産時における死亡の対処などの語りを通してみたが、そこではピーを意識する経験の語りが現われてくる。そして、近代化言説としての病院での出産の経験は、ピーのうごめく場所として認識される場所での出産である。つまり、彼らにとって病院での出産は大変リスクの高い経験となり得るのである。さらに、文化的に構築される出産の場所をめぐって、消極的な出産場面での介助という夫の存在を考察した。また、病院以外においても、出産場所がピーとの関係をめぐって選ばれるのではないかという点は興味深いが、明らかにするところまではいかなかった。
以上の考察として、第4章では近代の出産の経験を相対化し、近代のさまざまな暗黙の前提を問題含みのものとして再検討した。完全な抑圧という形はない見えにくいものではあっても存在する出産をめぐる近代医療という支配的イデオロギーの解体をしていくためのひとつの経験として、モン・クメールの出産の経験のあり方は、自明視してきた近代の出産、つまりここでは医療化された出産の経験を問題含みのあるものとして提示してくれる。彼らは支配的言説が指定する形での「近代への統合」を拒み、「近代への別の入り方」を実践しているとも解釈できる。そしてその際に重要な役割を演ずるのが、文化的差異について別様に語ることである。結論として、彼らは我々とは異なる、しかも医療化に絡みとられない形で出産を経験していることを明らかにした。そしてまた、出産を経験することで自らとピーの関係を再解釈しているとも考えられた。このような文化的想像力を可視化することは、新たな可能性としての出産の経験を提示できる。それが、どのようなものなのかは断定できないが、それでも医療化に絡みとられない経験の空間があることを認識できたことは、近代化言説としての出産の医療化という正当性を脱構築できると考える。
しかし、課題も多く残る。ひとつは、彼らはピーとの関係を出産の経験としてとらえていると認識しているのだろうかということである。これも、私の過剰な解釈の域を越えないのだろうか。そして、医療化を再検討したいために彼らの出産の経験をデータにするだけなのかという批判からも免れることはできない。こういった疑念に対してロザルドは社会分析の再構築に関して次のように書いている。
社会分析をする主体も、実は分析の対象である客体と同じく位置づけられた主体であり、時間のかなで絶え間なく位置づけしなおされる存在である。分析される客体も、分析者とのかかわりの中では分析する主体となる。そこに対話が生まれ、相互批判的な解釈が交換される。まさにそういう場でこそ相対的な知が得られるのだ[ロザルド1998:199]。
調査者とモン・クメール、日本の助産婦とモン・クメールの産む人、そして日本の女性とモン・クメールの女性といった三つのそれぞれの関係においてのしばしば不平等な相互連結があるにもかかわらず、それを不要な剰余として圧縮し、両者のあいだに介在する「不平等なつながり」を、雑音として抹消せずに、わたしはあえて書き出すよう努めたが充分でなかったかもしれない。彼らとの「不平等な繋がり」によって、なされていることから逃れることはできない。モン・クメール女性の出産を語ることが「第三世界の女性」や「開発と女性」といった特定の枠組みに囲い込まれることを避け、社会背景や日々の現実はどんなに異なっていようとも、現代の日本の女性が直面する状況と一続きのものとしてとらえうるような語り方を試みることができないだろうか。そうすることで、差異を見据えながらも「エキゾチックな他者」ではない対話可能な相手として向き合う可能性が開けるのではないかと考えている。そして、川橋の言葉を借りれば、「絶えず自分とフィールドの女性たちとの間に部分的に共有するものがあると知ると同時に、しかし自分たちと彼女達との間には差異が横たわっていることも知るべきである」[川橋1996:78]。課題はどのようにその差異をお互いに認め合った上で連帯していくかであろう。
開発の言説では開発は合理的であるという前提に立脚している。しかし、解決するという問題を解決できないばかりか、新たな問題を創り出すような開発とは、いったい誰にとって合理的なのかと問う必要があるだろう[古谷1999:102]。
この問題系は、そのまま出産の医療化が生み出してきた問題をなぞると考えられる。苦痛という問題を除去することにある程度成功をおさめたかに見える産科テクノロジーと専門的知による医療化は、目に見えにくい形で、例えば、医療者のおびえる訴訟問題、産婦の精神的・社会的苦痛といった新しい苦痛という問題を産み出した。今後も、この現実を問うていく必要は続くだろう。
「産む人」と「第三世界の女性」が周辺化されている点において無意識のうちに共通性をもたせていた。しかし、それは自らが一方的に表象した恣意的なものでしかないということであり、彼女らを表象される側に位置しつづけさせてしまう見方なのである。序章で、私は産む人の声を聞きたいなどと書いたが、それは詭弁であるかもしれない。モン・クメールの女性の経験を通して、犠牲者や弱者という位置を与えてしまうことによって、そうではない可能性を奪ってしまっているという問題性があるのかもしれない。
しかし、産む主体から出産を見つめ返すことの意味は出産の多義性へと繋がる可能性を手放せない。女性のネットワークのあり方や出産の経験についてはローカルな具体的事象から考える実践を今後も注目し続けていきたい。
おわりに
ラオスでなくとも調査地に入ると積極的にしろ、消極的にしろ「開発プロジェクト」に関わらないでいることは不可能である。今回、私は積極的な関わりを通してモン・クメールの人々に出会った。人類学調査ではなく、開発調査として出会ったのである。人類学を学び始めた私は、自らが過去に関わった「開発」と「人類学」の関係について考えざるをえなかった。そして、この開発調査の話があったとき「開発の手先とならずに、私はどのように参加すればよいか」と、いつも考えていたような気がする。
しかし、実際に調査団の会議に出席して、そこで選定された村に入ってみると、JICAとステッカーのついた4WDの新車のパジェロで村に乗り込む私の姿は、自分がどのように考えようとも、彼らにとっては政府役人と一緒に来た日本人としてしか映らず、強制的に協力を要請される存在でしかなかったのだと思う。限られた時間で、多くのデータを採取しなければならないとなると、私は紙に書いてある質問事項を読み上げるだけの人になってしまうときもあった。どこへいっても妊娠や出産の話を聞きたがるので、「誰を中絶しようか調査している」とか「外国に子供を売るために調査している」日本人といった噂まであるぞと村長が笑って教えてくれた。
どこの村にいっても、村長や老婆たちにせっかくこんなに遠い村に来たのだからと、私は何度も村の妊婦たちの診察をせがまれた。他にも、夫婦生活や婦人病の相談から子供の切り傷の手当てまでいろいろと私のもとへやってきた。そのたびに悪戦苦闘をしてなんとかするのだけれど、調査を終えて村を出発するときは、いつも私や郡から来ている保健スタッフの薬と衛生材料はなくなってしまう。
しかし、ジレンマを抱いたままではあったが、開発調査を通してモン・クメールと出会ったことで、彼らの出産の経験を主題化することが可能となったことも事実である。今後は、今回詳しく述べることができなかったモン・クメールの女性ネットワークのあり方や日常におけるピーとの関係について探究したい。
本稿を書き上げてこうした課題に気がつくとともに、出産やモン・クメールに関する先行研究史をもっと把握しておく必要があった。こうした問題点を課題にして今後の研究に活かしていこうと思う。
また最後に、今までご指導いただいた池田光穂先生、慶田勝彦先生にお礼を申し上げます。そして、ラオスでの開発調査の資料や情報を快く提供下さったパシフィック・インターナショナル・コンサルタンツの佐々木英之さん、ラオスでお世話になったセコン県保健局の皆さん、とりわけ今回の調査で話を聞かせてくれた全ての妊産婦さんとその家族、いつも母や姉のように私を気遣ってくれた調査助手のカイに改めてここに御礼と感謝の意を申し上げます。