天職としての人類学
Doing anthropology as vocation (Beruf)
【趣旨】Robert Proctor, Value-free science? : purity and power in modern knowledge. Harvard University Press, 1991 の提案から
「なぜ科学者 は政治から遠ざかり、あるいは自分たちの仕事は価値がないと擁護してきたのか。(ミレニアム四半世紀の現在は逆風が吹き荒れているが、当時は)な ぜ中立とい う理想が科学界を支配するようになったのか。これらは、ロバート・プロクターが現代科学の政治学に関する研究の中で取り上げた中心的な問題 の一部である。本書は、科学思想の政治的起源と影響力を理解することの重要性を強 調している。プロクターは、価値中立性が、政府や産業界による科学の利用、専門分野 の専門化、知的自由を抑圧し学問の世界を政治化しようとする努力など、より大きな政治的発展に対する反応であることを明瞭に示している。本 書の前半では、18世紀以前の価値中立性の起源をたどっている。プラトンやアリスト テレスは、観照的な思考は実践的な行動より優れていると考え、この理論と実践の分離は、今日でも 「中立的な科学」を守るために引き合いに出されることがある。17世 紀には、有用な知識を求めるベーコン主義が、理論と実践を新たに密接に結びつけることを可能にしたが、それは同時に道徳的知識を自然哲学から隔離することにもなった。また、機械論的な宇宙観に よって、中立性の別バージョンが導入され、慈悲深い人間中心の宇宙観が、「切り捨てられた」自然観に取って代わられた。本書の中心は、社会科学の出現に伴 う政治とモラルの排除を探るものである。プロクターは、マルクス主義やフェミニズム などの社会運動を攻撃・擁護しようとする社会科学者によって、価値中立の理想が初めて近代的な形で明示されたドイツの事例を取り上げる。ま た、実証主義の倫理・経済理論の盛衰をたどり、価値なき科学への主張がしばしば具体 的な政治的策略を覆い隠していることを示す。最後に、農業科学、軍事 研究、健康・医療、生物学的決定論などの重要な問題をめぐる最近の議論において語られてきた科学への批判をレビューしている。本書は、科学 的自由と社会的責任の理想を調和させる方法を模索するすべての人々の興味を引くだろう」——ロバート・プロクター。
Why have scientists shied
away from politics, or defended their work as value free? How has the
ideal of neutrality come to dominate the world of science? These are
some of the central questions that Robert Proctor addresses in his
study of the politics of modern science. Value-Free Science? emphasizes
the importance of understanding the political origins and impact of
scientific ideas. Proctor lucidly demonstrates how value-neutrality is
a reaction to larger political developments, including the use of
science by government and industry, the specialization of professional
disciplines, and the efforts to stifle intellectual freedoms or to
politicize the world of the academy. The first part of the book traces
the origins of value-neutrality prior to the eighteenth century. Plato
and Aristotle saw contemplative thought as superior to practical
action, and this separation of theory and practice is still invoked
today in defense of "neutral science." In the seventeenth century the
Baconian search for useful knowledge allowed a new and closer tie
between theory and practice, but it also isolated moral knowledge from
natural philosophy. Another version of neutrality was introduced by the
mechanical conception of the universe, in which the idea of a
benevolent, human-centered cosmos was replaced with a "devalorized"
view of nature. The central part of the book explores the exclusion of
politics and morals with the emergence of the social sciences. Proctor
highlights the case of Germany, where the ideal of value-neutrality was
first articulated in modern form by social scientists seeking to attack
or defend Marxism, feminism, and other social movements. He traces the
rise and fall of positivist ethical and economic theory, showing that
arguments for value-free science often mask concrete political
maneuvers. Finally, he reviews critiques of science that have been
voiced in recent debates over critical issues in agricultural science,
military research, health and medicine, and biological determinism.
This provocative book will interest anyone seeking ways to reconcile
the ideals of scientific freedom and social responsibility. - https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA13217665.
【以下は、旧ページからのインポート】
ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳[1936]岩 波文庫版(Max Weber, Wissenschaft als Beruf, 1919)を手がかりにして、天職としての文化人類学者を考える。
ウェーバーの思想を理解したら、次のステップに進むべし。 ウェーバーは梯子(最初は不可欠だが登ってしまえば不要になるもの)であったことがわかります。
ここで文献をひとつ。
I. 学問の外的条件:
「大学に職を奉ずる者の生活はすべて僥倖の支配下にある」 (p.23)しかし、組織は自浄機能つまり自ら善をなすことも否定できぬ(p.20)。
垂水源之介のコメント:
はいはい、その通りでございます。私の身の回りでも、 私を含めてボンクラな奴が職業人類学者であることもありますし、あまりある能力がありながら、常勤につけない優秀な人もいます。
また、組織が優秀な人類学を育てることも事実です。た だし、人類学者の数が多い組織がよい組織とは限りありません。スタッフがたくさんいるのに、同業者からボンクラな研究教育機関やと噂されているところは少 なからずあります。まあ、数の問題ではなく、自分にあったよい研究者から刺激を受けることですね。
組織の要素よりも、人間的要素がグレートな文化人類学 者になるには重要な気がしますねぇ。
II.学問の内的条件
(a)重箱の隅をつつくことに快感(=「情熱」)を覚えな いものは学者にはなれぬ。
コメント:ふうむ、これは程度の問題やね。学問を続け る情熱は、重箱の隅を隅を穿ることや~、ここから来ます。しかし、隅を穿らない情熱をもって立派になった研究者も、文化人類学ではぎょうさん、いはります (=居ります)。
(b)「情熱」は「霊感」を生み出す基盤である。しかし 「情熱」だけでは事実を構築する(でっちあげる)ことはできない(p.25)。
そこには「思いつき」を媒介とする何らかの?プロセス がある(p.26)。
また「天賦」の要素もある。――「学問に生きる者はこ の点でもかの僥倖の支配に甘んじねばならぬ。」(p.27)
(c)学問の生産のエンジン(=「個性」 Perso"nlichkeitをもつ)のは、仕事に没入することである(p.29)。
なぜなら学問は進歩するからであり、古い生産が陳腐な ものになるから学問の意義はあるのだ(p.31)。
コメント:揚げ足とるのも何ですが、新しいものを追い かけているうちに、古典的修練を失った若い学徒もおりますからねぇ。
(d)呪術からの解放:
主知主義的合理化の根幹は、知識のストックを誇ること ではなくて、欲しさえすれば学びうることができること、知識を意のままにすることができるということ。
※これはより高度な自由主義の主張であると同時に、 学問する人としない人を峻別する記号(=合理化)でもある。
(e)学者の営為は社会性があるかという問題に転じる。
ウェーバーはトルストイの例をあげる。つまり文化人と 民衆の峻別と後者の高揚から、学問は人の生活にいかなる意味をもつのかと問いかける(pp.35-6)。
(f)知の歴史による講釈:
プラトンの洞窟の教訓は、ウェーバーにとっては<真理 =権力>の発見であり、その手段は「概念」を通してである。学問研究の手段のこれが一番目。次にルネサンス時代には第二の手段、つまり「合理的実験」が得 られる。しかしルネサンス時代には実験は真の芸術や自然の真相へいたる道であり、神の道であった。ただし、後者の理念は近代の合理化のなかで否定された。
※<真理=権力>とは「論理の万力を以て人を押しつける 手段」(p.38)。
III.学問の職分
(a)学問の職分
では学問の職分とはなにか?、それは「何をなすべき か」「いかにいくべきか」について答えないことである。より積極的には、答えないことで、別のことに答える(=「貢献する」)のだ(p.43)。
(b)ウェーバーの修辞法:
学問はあることがらについて知ることが重要であるとい う「前提」にたって出発する。しかし、そこで得たものが重要であるかどうかを「学問上の手段」によって論証することはできない。人びとはそのような成果を 受け入れるあるいは拒否することによって「解釈」するだけである(p.44)。
「医学の根本の「前提」は普通には単に生命そのものを 保持すること及び単に苦痛そのものをできうるかぎり軽減することを以て己が使命とするころであると考えられている。だがこれは問題である。医者は、例えば 重態の患者がむしろ死ぬことを欲するような場合にも、またその身寄りの人たちが――彼が生きていても仕方がないという理由で――死によってその苦痛を取り 去ってやることに同意したような場合にも、また例えば患者が貧乏な狂人であって、その身寄りの人たちがこの生きても仕方のない病人を助けるために多大の費 用を出す訳にはいかないという理由で、彼の死を――あからさまに知らそうではなにしろ――欲せざるを得ないような場合にも、あらゆる手だてを尽くして彼の 命を取り留めようとするのである。つまり医学の前提とそうして刑法がこれらの願いをきくことを医者に禁ずるのである。だが、生命が保持する値するものであ るかどうかということ、またどういう場合にはそうであるかということ、――こうしたことは医学の問うところではない」(p.45)
垂水源之介コメント:
医術と知的営為を比喩的に語るやり方は、アリスト テレスやヒポクラテスにも遡れる。
(c)このノートで省略された部分
ここからは延々と社会的実践や理念と、(価値中立 な?)学問の理念との峻別が延々と主張されているが、省略する。当時(ca.1919)学生が学問の社会実践を求める風潮――教師ではなく指導者を求める ――に対する批判として講演されたというウェーバー側の意図もあった(訳者・尾高の解説)。
(d)学問の寄与とは?
学問の寄与とはなにか?。技術――否、ものの考え方や 訓練――否、そうではなく明晰さである(p.60)。
学問によって明晰さを得ることは、学問の限界を知るこ と。究極の内的整合へ到達するために、学問以外の「神」に侮辱を与え、自己の行為の意味について自ら責任を負う(p.62)。
(e)最終審問:学問は天職となりえるか?:
学問が天職となりえるかという価値判断には答えられな い。天職であることは、それ自体の前提になるからだ(p.63)。
垂水源之介コメント:
※これは議論の「オチ」としてはかなり強烈なものだ。 というのは、結局それまで述べた彼の議論は学問論であって、学問は天職たりえるか?というに回答を与えたい読者の気持ちをはぐらかすだけでなく、「それは お前らが、学問の外側で自分で決めることだから」と門前払いすることだからだ。垂水源之介「たすけて~師匠!」、ウェーバー師「Noli me tangere」(=アホか?~俺にすがるなよ、まだ偉くなってないからな~:ボクサー亀田風の語り口で:ヨハネ福音書20章を参照)。
【批判的解釈】
・当時の社会科学をめぐる状況:当時の学生のあいだでの、 理想主義の蔓延(指導者を求める)、学問を現実に対する批判に直結する(政策を論じる)という当時の社会状況に対して、ウェーバーは現実主義で臨む(教師 であることを確認させる)、学問を理想的な論理空間のなかで明晰さを追求する(概念<理念?>を論じる)。
・ウェーバーは、自分の言っていることが当時の状況に対す る対抗言説であることを理解していたかどうか(つまり確信犯であったか否か)は別にして、学問の限界を論じることで、学問がその領域のなかで極限まで概念 を明晰化させる自由を保証する。
・大戦後、政策科学の領域では、ウェーバーの議論を批判的 に継承して、その学問領域の合理化を推し進める動きがあった。(ウェーバーのように忌避するのではなく。)
・控えめに言うと、ウェーバーは学問がおこなえることの限 界を熟知していて、政策と密着することによる学問の誤謬を戒めた(アメリカの学問を例にとって?)
・ウェーバーの主張を最大限に批判すると、分けることので きない学問と政策(社会的実践)を理念化して、学問の反動化を極限まで推し進めたという(ま所謂俗流マルクス主義的な)主張に到達する。
・他方、もっとも好意的に彼の主張から得られることを教訓 にすると、
(a)学問の限界を能力の限界を知れ、
(b)学問が何かをできうるという認識の諸前提を問 え、
(c)実践にかまけて学問本来の目標である明晰さを犠 牲にしてはならぬ、ということになるか。
・ウェーバーとその俗的な社会的受容を審問にかけると、 ウェーバーは無罪である。
(誰にもそんな権利はないのだが『マックス・ウェバーの犯 罪』という陳腐な本のタイトルもあるが、これは『文献考証学的批判』とすべきだった。書肆の責任でもあるのだが、こういう下らないタイトルのおかげで、著 名なでもオリジナリティのないウェーバー訓古学者の逆鱗に触れて、議論が面白い方向に転回しなかった。斬り~!!)。
・なぜなら、彼は呼びかける対象を意識し、自分のおこなっ ている言説の行使をちゃんとわきまえていたから。他方、ウェーバーの主張を普遍化する俗流解釈は有罪。なぜなら、発話のコンテクストにおける彼の主張の可 能性と限界を混同し、彼の主張を神学にまで高めたからである。
----------------ここまで『職業としての学 問』に関する議論------------------
1)いま私が、ここにあること。
1.1 存在の社会的拘束性――コギトでも「世界内存 在」ではなく「階級選別の産物」としての私(←これもまた一種の想像の産物なのだが)。
1.2 そのような存在拘束性から脱出できる契機――強 制体験、経験、自発的体験
1.3 存在拘束性からの解放の条件――それを保証する イデオロギーの承認、自発的体験(投企)、そして想像力
2)想像とは社会的行為である。
3)想像の再生産行為
「想像の共同体」論(B. Anderson)
下部構造と上部構造
学界・学校・フリースクール
4)文化生産の理論
私が採用する文化の定義は、レイモンド・ウィリアム ズのものである。 彼によると文化とは「芸術や学習のみならず、制度や日常行動の中にも存在する、ある種の意味と価値を表現する特定の生き方」である。したがって「文化の分 析とは……特定の生き方すなわち特定の文化のなかに、暗黙的および明示的な意味と価値を明らかにすること」である(Williams 1965、引用はHebdige 1979:6)。ウィリアムズの議論の前提には、文化は我々の生き方に対して価値や意味を与えるものであるが、誰もが平等にその可能性を享受しているので はなく、文化が社会という外部性によって規定されていることが示唆される。太田はこのことを踏まえて、文化の生産について、次のように述べる。「文化がつ くりだされる状況は、外部からの構造によって規定されているわけだが、そのような<場>を<生きる価値がある場>へと変換する社会的プロセスが文化を生み 出す」(太田 一九九六、一三三頁)。
誰もが容易に想像できるように、人びとの「意味と価値を 表現する」生き方(=文化)は社会や歴史によってさまざまな拘束を受ける。しかし人間は、それらの拘束の存在を自覚することで生き方を自らの手によって変 更する可能性が与えられる。もちろん、変更の方法もまたさまざまな拘束のもとにあり、必ずしも無限の選択肢があるわけではない。しかし、この枠組の全体に 気づけば、文化を規定する外部からの拘束性は、人間にとってより積極的な意味をもつことがわかるはずだ。外部から拘束をうけている条件が、それまでの生き 方を打ち壊し、あたらしい生き方を生み出す(=文化生産の)契機になるということである。百年以上も前にすでに人類学者ボアズはこのことの意義に触れて 「部族の慣習に抵抗する個人の戦いを観察することは重要である」と述べている(Boas 1982[1940]:638)。
文献に関するコメント
・太田好信さんの論文ですが出典(オリジナ
ル出典)を失念
しました。現在調査
中。1998年公刊の『トランスポジションの思想』世界思想社か、2001年『民族誌的近代への介入』人文書院の収載論文かと思われます。申し訳ございま
せん(2009年4月28日)。
リンク
文献
その他の情報
▲▲▲▲
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099