クオリアとクアリ
qualia (pl.), quale (sg.)
赤を感じるとはどういうことか?君が感じている赤をそのまま君の友人に伝
えることができるか?
解説:池田光穂
意識経験には質的な側面がある。意識にと もなう質的な状態をクオリア(gualia)と名づけられている。クオリアの語形は複数形で、その単数 形表現はクアリ(guale)であり、個々の質的な状態を表現す る用語となる。「クオリアとは意識をともなう個人的な主観的な体験、 感情、感覚のすべてである」(エーデルマン 1995:135)
クオリアのより詳しい説明はこちら→「クオリア」
ここで、「意識にともなう質的な状態」を 主観的な性質と言い換えてもよいだろう。つまり、クオリアとは、言葉で説明したり/したくなったりする 以前に、直接経験としてたちあらわれてくるような経験や、その事物の性質である。よく使われる例は、赤色のまっかな性質や、松脂(あるいはトニックウォー タ)の匂いを嗅いだ時のようないわく言い難い経験である。
クオリアの存在をめぐっては、哲学者の間 でおおきな論争があり、存在しない、(議論そのものに)意味がない、存在する、という議論が分かれてい る。また、哲学者以外の人は、クオリアを体験の同義語として使うことがあり、それらの定義の多様性によって、クオリアの存在の議論に対して、大いなる混乱 が生じている。
比較的素朴な主観と客観の二分法を用い
て、「客観的であるはずの脳」が、どうして「主観的なクオリア」経験をするのかという重要な問題があると
考えたのは、ディビッド・チャーマーズ(David John Chalmers,
1966-
)である。彼はこれを、意識のハード・プ
ロブレム(困難な問題の困難と、脳のハードウェアをかけた駄洒落)だとした。
ジョン・サール(John Searle, 1936- )(2006年)は、クオリアは哲学者の「贔屓目に見ても」混乱を招く困ったものだと指摘しているが、その骨子は、クオリア概念の提 唱者たちが、意識経験とその質的な状態であるクオリアを分けて、議論しようとしたが、サールによると、そのような区分は混乱を招く以外のなにものでもな い。
意識とその質的な感覚は、サールによると 本質的に同一であり、それを区分すること自体が誤りだということになる——このあたりのレトリックは彼 のデカルトの心身二元論への批判と類似したものになっている。
サールは、それゆえ冒頭の定義によるクオ リアを使わないと提唱しているが、この項目の著者(池田光穂)もその主張に同意する。
リンク
文献
脳から心へ : 心の進化の生物学 / G.M.エーデルマン著 ; 金子隆芳訳画像をクリックすると 拡大します
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