はじめに よんでください

世界の先住民族の課題

Indigenous people and anthropologists

タールサンドに関する先住民族の権利(国連大学のサイトより)

池田光穂

先住民と人類学

現在世界の先住民族が、政府や国家あるいは非先住民族の人たちに遇い対する時には「差異のジレ ンマ」に直面している。。その差異のジレンマとは「文化的差異があるため中央政府(国民)と先住民族の和解は不可能なのではないか」というものだ。宥和政 策は先住民族側に「政府による文化破壊への危惧」を感じさせる一方で政府には「先住民族文化は国民文化に包摂されるべき」と見なされ、多文化共生と異文化 異民族への寛容の精神を削ぐという危険性をもつ。

●先住民について考える9つの視点

世界の先住民について知る
先住民学(Indigenous Studies) は、19世紀に北米ではじまる北米先住民の民族学研究からはじまるが、長く「先住民(先住民族)」 を研究対象にする非先住民あるいは(先住民の参加に おいても)民族学/民俗学の専門教育をうけた専門家による研究であり、それらの研究の成果が「直接」先住民への知識や福利に寄与することは稀であった。し かしながら、先住民の人権、法的権利についての長い間の論争や(犠牲者を伴う)抵抗運動という長い歴史的経験を通して、先住民学はたんに先住民を研究する という自己目的のみならず、先住民による/先住民のための/先住民の研究であるべきだと、国際社会はようやく認識しつつある。現在では、先住民の当事者が 自らの来歴を知り、そのアイデンティティを探求する権利を行使する学習の場としても、ま た先住民/非先住民の区分の違いを超えて、先住民による/先住民の ための/先住民の研究への学問的かつ実践的介入の必要性を、世界の国家は認識せざるをえない。
先住民の定義
(1)先住民あるいは先住民族(ともに indigenous people)とは、もともとその土地に居住していた人々であり、植民国家* による領有ないしは侵略を受け、国民国家成立後に行政制度などが確立して以降も、その言語、伝統的慣習あるいは社会組織など の文化的特徴をすべてもしくは一部を保有している[ある いは保有していた]人々のことで ある。それゆえ、先住民は、入植者により侵略されたり、条約や強制的取り決めを通して、彼らを異邦人としてみなす人々に運営される国家に組み込まれた歴史 をもつ経験を過去あるいは現在において経験する人びとのことである(キムリッカ 2005:504)。それゆえ、先住民と植民国家はそれぞれ別々の存在でありながら、同時的に存在し、さまざまな権力関係を取り結んできた人たちである。 したがって、そのような子 孫としての出自とそのアイデンティティを有する人は、先住の土地に住まわなくてもその出自アイデンティティを持てば、純血ないしは混血の有無にかかわらず 先住民として認定される権利をもつ人であるといえる。(2)先住民・先住民族とは、近代の植民地政策を通して自らの意思なしに 国家に巻き込まれた 「すべての犠牲者とその末裔」のことである。
先住民か?先住民族か?先住の民か?(呼 称の問題)
Indigenous People[s] は先住民なのですか? 先住民族なのですか? という質問が私によくなされます。私の答えは、「両方とも同じだ!」です。この用語における細かい峻別は不 毛な議論であると考えま す。
先住民とは誰か?
先住民(idigenous people)という名称の他に、「インディアン」「インディヘナ」「インディオ」「トライブ」「トライバル・ピープル」「アボリジナル(アボリジ ニー)」や「現地人(ネイティブ)」など、先 住民を表現する語彙が数多くあります。これらの語彙は、時に非先住民の人たちからの差別語(蔑称)であったりするという否定的な意味をもつこともあります が、当事者やまた支援者たちから誇り高い名称だと言われることもあります。言葉ですので、どの言葉を使えば差別なりうるのか、またそうではないのかは、そ れらの用語がどのような脈絡=文脈のなかで誰が、誰に対して使われるのかによって、決まります。また、差別がおこった後に、その言葉の使われ方が検証され る場合にも、真意はそうではないと弁解されることもありますので、明らかな差別語や、その言葉が吐かれる時に他には考えれないような——十中八九そう思わ れる——使い方には留意する必要があります。
先住民の世界
私 (池田)の大好きな哲学者にスラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949- )さんがいます。その彼が、講演会で使うジョーク「俺たちはネイティブ・アメリカンと呼ばれたくない」です。そのお話はざっと以下のようなものです。みな さんは、このジョークを(うまく・あるいは・へたくそに)笑えるでしょうか?
先住民概念の擁護について
先 住民文化の独自性を強調したいと思われる人が書い た文章のなかに、「西洋的な論理によってたつ近代的国家の枠組み」という表現に出会いました。私は、 この文に奇妙な違和感を覚えました。これでは、唯名論の修辞と同じで、先 住民には独自の「ロジック=論理」があることを証明したり論証したりする以前に、命名と共に「ロジッ ク=論理」が実在するかのように登場して、その存在論的意義を主張しはじめています。先住民が存在するという「事実」を、論拠なしに、それに対応する「ロ ジック=論理」があると前提することに直結することはできません。西洋文明がもつ「ロジック=論理」と先住民がもつ 「ロジック=論理」は異なるというあいも変わらない主張です(=安っぽい文化人類学が振りかざす議論 で、これは隣接学問の研究者からしばしばカリカチャーとして表現されることも多いものです)。これは、まさに西洋文明と先住民文化での、2つの間 での「ある」という意味の捉えかたにおいて混乱を起こしているのではないでしょうか。レヴィ=ブリュ ルの「前論理」概念の提唱に似て、論理とロジックを別物として取り扱うという認識論上の誤謬があるのかもしれません。常識で考えればわかるように、先住民 と近代国家が、文化主権や土地所有権などをめぐって「交渉」できるのは、論理とロジックが同一のものとして扱われ(でないと両者は共通の土俵に立って論争 できません)、両者の間でさまざまな情報のやり取り、解釈さらには論争がおこなわれていることの「証左」ではないでしょうか。つまり、論理とロジックをわ けて別物として表現するような、文法上の正当性も、また現実の現象における正当性もないように思われます。
先住民表象と先住民運動
民 族(または民族集団)とは、社会文化的特徴と価値を共有する人たちの集団である。民族表象とはしばしば、言語、衣装、遺跡モニュメント、生活 習慣のような眼に見えて顕示的な徴であるものから詩歌や文学作品さらには思想やアイデンティティという見えにくいものまで多種多様にわたる。人類学者の多 くは、民族や民族表象の定義や規定をする際に、本質主義(essentialism)的なものよりも構成主義(constructivism)的なことを 採用する傾向が強くなってきた。社会集団の成員は、しばしば超時間的に人々が維持している共通項よりも、国家や隣接する集団との関係の中でおこった「出来 事」の中で取捨選択されてきたものを、その民族の固有の特徴や成員のアイデンティティとして理解することが多いからである。ただし、このような歴史は容易 に忘却されてしまい、一度何らかの理由で廃絶した民族表象が復興される際には、現実には想像的に復元されたにも関わらず、当事者自身にも本質主義的なもの として普遍的な価値が主張されるという、文化の客体化(objectification of culture)ないしは文化の再領域化(re-territorialization of culture)という現象が広く認められる。民族や文化の定義をめぐって古典的合意が崩壊し、これまでの学術的議論の枠を超えて、現代政治をも巻き込ん だ社会的な論争的なテーマとして、今日浮上してきているのである。
新しい「先住民学」の提唱
「先住民文化が研究され、自己同定(アイデンティティ)が後押しされるような環境」——ジェームズ・クリフォード(2020:303)
先住民の視点からグ ローバル・スタディーズを再考する
こ の研究は、日本と海外を研究対象地域として、先住民が実践し ている(1)「遺骨や副葬品等の返還運動」、博物館における先住民による文化提示の際の敬意への要求といった(2)「文化復興運動」、および先住民アイデ ンティティの復興のシンボルとなった(3)「先住民言語教育運動」という、3つの大きなテーマの現状を探る。この現象は、世界の均質化が引き起こすグロー バル化現象とは異なり、グローバル化現象が先住民をして自らのアイデンティティを再 定義し、国民国家が求める同化政策に抗して、言語的文化的多様性を担保しつつ、国家との連携や和解を求める動きとして捉えられる。グローバル文脈のなか で、先住民をエージェンシーと捉えれば、実践者としての研究者と先住民との研究倫理的枠組みが変化する。先住民による先住民ための学としての新しい「先住 民学」の教育の場をデザインできるような知識基盤コミュニティの構築をめざす。

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