先住民か?先住民族か?の呼称をめぐる問題
Which is better to call SENJYU-MIN or SENJYU-MINZOKU in Japanese as Indigenous Peoples in English?
Protesting the Dakota Access pipeline, Native Americans march on Washington, D.C., 2007(Yahoo! News)
解説:池田光穂
★
『研究』という言葉自体が、先住民の言語の中で最も汚れた言葉の一つである——リンダ・トゥヒワイ・スミス『脱植民地化の方法論:研究と先住民』
(1999: 1).——The word itself, 'research', is probably one of the
dirtiest words in the indigenous world's vocabulary(Smith 1999:1 ).
結論から言うと「先 住民 族より先住民、さらには「先住の民」のほうが概念把握としては正確である」。
ま
ず両方とも同じ内容を指していますのでその定義から;「先住民あるいは先住民族(ともに indigenous
people)とは、もともとその土地に居住していた人々であり、植民国家*
による領有ないしは侵略を受け、国民国家成立後に行政制度などが確立して以降も、その言語、伝統的慣習あるいは社会組織など
の文化的特徴をすべてもしくは一部を保有している[あるいは保有していた]人々のことで ある」先住民(先住民族)より。
Indigenous People[s] は先住民なのですか? 先住民族なのですか? という質問が私によくなされます。私の答えは、「両方とも同じだ!」です。この用語における細かい峻別は不 毛な議論であると考えま す。
スチュアートヘンリ先生(1998:254)は、「先住民族」を社会集団を(集合的に——例
えば国連などの文書の翻訳)さす場合に使い、「先住民」を、具体的な集団を指し示す際(個別的に、例えば「アイヌ民族は先住民である」というふうに)に使
うと述べています。他方、先住民・先住民族を支援する国内の活動家たちや、また政府は「先住民族」と使うことが一般的です。
にもかかわらず、Indigenous People の訳語は「先住民」あるいは「先住の民」と呼ぶほうがよい根拠があります。
その理由を以下に述べましょう。
ま ず、言葉の用語法から言って、ひとつの言葉の翻訳語なのですから、両方とも同じだと言う ことができます。
次 に、我々が使う用語法の中に「民 族」を人種とみなす見方があります(→そ の歴史はこちらを参照)。この偏奇な知的伝統を受けて、先住民をあたかも人間の固有の種つまり人種として見なしてしまい、それが我々のいう先住 民・観に影響を与えているのです。これらの複雑な理由から、今日の日本では、先住民だ、いや先住民族だという不毛な議論が続いているのです。したがって、 先住民を、文化人類学者いう民族=エスニシティとして理解していただきたいという事情があります(高倉 2009:39)。
こ ういう不毛な論争は、それらの用語の歴史的経緯を明らかにすることで、解消されます。
も ちろん、先住民という用語は、ペダンティック(知的偏向趣味)な学術用語であり、他方、 先住民族は反差別運動(anti-racist movement)の流れを汲む正しい用語法であり、当事者からも認証されていると、大見得を切ることも可能です。
し かし、この用語法(社会的語用論といいます)の歴史的背景を知らない人間にとっては、プ ロ「先住民族」用語=擁護派——つまり先住民とい う言葉の利用を抑圧して先住民族という用語法のみに一本化することを夢見ている人たち——が、なぜ先住民という言葉を封印して、いちいち先住民族だと言い 換えることを人民に教え込む所行が、ほとんど理解できません。その結果生じるのが、用語法だけを取り締まり、それらの深い原因について考えることを停止し てしまう我が国の悪い伝統であるところの、いわゆる言葉狩りです。
ま た、先住民族という、言葉にはまた困った伝統があります。それは、民 族を人種(race) と同じように使う用語法の痕跡が、今日の我々の中にも残っていることです。このような手垢に汚れた民族という用語を後生大事にする気持ちを理解すること は、私にはできません。
も し、人種が反人種主義運動を理解するために重要な概念であれば、民族という言葉も同様 に、民族=人種という言葉が、人間の種的で固定的な 差異を強調するため使われてきたということを想起し、それに対して否(ノー)というための政治的信条としての反人種主義をとるための用語としてあることを 理解する必要があるようです。
こ のようなことを基本的に理解すれば、先住民/先住民族という用語の区別に目くじらをたて る必要はありません。私じしんは、先住民というこ とばを通常のそれらのひとびとをさす用語として優先的に使うこととし、政治的文脈を意識する時には(つまり反人種主義を想起するときには)先住民族とニュ アンス的に使い分けていうこともありますが、そんな区別はあくまでの、ことばのあやの問題であって、本質的な違いは、どこにもないのです。
た だし、先に述べたように、民族を人種(race)や国民(nation)と混同して訳し てきた日本の歴史的経緯からすると、それらの間の 混乱を避けるために、Indigenous People は「先住民」あるいは「先住の民」(清水 2008:320-321)と示したほうがよいということになります。
でも、2009年当時の、上記の考え方にも変化が生じました。現在の私の意見は《先住民族・先住 民、ともにオッケーだと思う》というものです——2014年の私の考え方
近年の人類学者が、ネイションを民族と呼ばずに国民ないしはネイション(とくにファースト・ ネーションの場合)と呼ぶようになってきたのは、戦前の日本語の「民族」のニュアンスのなかにより濃く「人種」という「本質主義性の高い」ニュアンスが含 まれているからだと思います。このジレンマに対して「先住の民」(indigenous people)という呼ぼうという論者(例:清水昭俊先生)もおられます。ピープル(人民、民)の呼び方と同様、用語法の共通化は、なかなかムツカシイ問 題を孕んでいます。当面の問題として大切なのは、先住民運動=先住民族運動に妨害をしたり、まったく頓珍漢なヘイト言説をもってぶち壊そうとする、皮相で 似非な「国民の統合」という偽善的言説を弄する国家人種主義者(state racists)の言説流布に、各個撃破して、多様な個人の集合としての共同体をどのように樹立するかということだとおもいます。
国際連合広報センター(https://www.unic.or.jp/) では、上掲の理由により、先住民族という言葉を使っています。部分的に引用して誤解を招くよりも、みなさんが、きちんと判断できるように、全文を再掲して います。2021年1月18日にアクセスしたものですので、訳文に変化が生じている可能性もあるので、引用する時には、オリジナルサイトにアクセスしてか らにしましょう。
先住民族 先住民族は世界のもっとも不利な立場に置かれているグループの一つを構成する。国連はこれまでにも増してこの問題を取り上げるようになった。先住民族はま た最初の住民、部族民、アボリジニー、オートクトンとも呼ばれる。現在少なくとも5,000の先住民族が存在し、住民の数は3億7000万人を数え、5大 陸の90カ国以上の国々に住んでいる。多くの先住民族は政策決定プロセスから除外され、ぎりぎりの生活を強いられ、搾取され、社会に強制的に同化させられ てきた。また自分の権利を主張すると弾圧、拷問、殺害の対象となった。彼らは迫害を恐れてしばしば難民となり、時には自己のアイデンティティを隠し、言語 や伝統的な生活様式を捨てなければならない。 1982年、人権小委員会は先住民に関する作業部会を設置した。作業部会は「先住民族の権利に関する宣言(Declaration on the Rights of Indigenous Peoples)」の草案を作成した。1992年、地球サミットにおいて、先住民族は自分たちの土地、領土、環境が悪化していることに懸念を表明し、世界 の指導者たちは先住民族の集団の声に耳を傾けた。国連開発計画(UNDP)、ユニセフ、国際農業開発基金(IFAD)、ユネスコ、世界銀行、世界保健機関 (WHO)など、国連のさまざまな機関が先住民の健康や識字力を改善し、また彼らの先祖伝来の土地や領土の悪化と闘うための事業計画を実施した。ついで総 会は、1993年を「世界の先住民族の国際年(International Year of the World's Indigenous People)」と宣言し、それに続いて、1995‒2004年が「世界の先住民の国際の10年(International Decade of the World's Indigenous People)」、2005‒2014年が「第2次世界の先住民の国際の10年(Second International Decade of the World's Indigenous People)」に指定された。1997年、人権センターの異なる支所や国連システムの他の部局での経験を得たいと願う先住民を支援するために先住民族 フェローシップが設けられた。 こうした先住民問題に対する関心が強まっていることを受けて、2000年、経済社会理事会の補助機関として「先住民問題に関する常設フォーラム (Permanent Forum on Indigenous Issues)」 (https://www.un.org/development/desa/indigenouspeoples/) が設置された。フォーラムは政府、先住民代表同数の専門家の計16人の専門家で構成される。先住民族問題について経済社会理事会に助言し、国連の関連した 活動を調整し、また経済社会開発、文化、教育、環境、健康、人権など、先住民の関心事項について審議する。さらに、「先住民問題に関する機関間支援グルー プ」が設置された。 2007年、画期的な「先住民族の権利に関する宣言(Declaration on the Rights of Indigenous Peoples)」が総会によって採択された。宣言は、文化、アイデンティティ、言語、雇用、健康、教育に対する権利を含め、先住民族の個人および集団の 権利を規定している。宣言は、先住民族の制度、文化、伝統を維持、強化し、かつニーズと願望に従って開発を進める先住民族の権利を強調している。また、先 住民族に対する差別を禁止し、先住民族に関係するすべての事項について完全かつ効果的に参加できるようにする。それには、固有の生活様式を守り、かつ経済 社会開発に対する自身のビジョンを追及する権利も含められる。2014年、総会はハイレベルのイベント、世界先住民族会議(World Conference on Indigenous Peoples)を開催し、宣言の目標達成のコミットメントを載せた成果文書を採択した。 国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、宣言の実施に関してきわめて重要な役割を果たしてきた。現在でもこのことはOHCHRの優先課題である。同事 務所は「先住民問題に関する機関間支援グループ」を積極的に支援している。国連の国別チームやOHCHRの現地事務所のために先住民問題に関する研修を実 施している。また、「先住民のための任意基金評議員会」にサービスを提供している。任意基金は、先住民コミュニティの5人の代表から構成され、先住民社会 と団体の代表が先住民問題に関する常設フォーラムと先住民族の権利に関する専門家機構(Expert Mechanism on the Rights of Indigenous Peoples)の年次会期に参加できるように支援する。専門家機構は2007年に設置され、5人の専門家で構成される。先住民の権利に関連する問題につ いて人権理事会を支援する。OHCHRはまた、「専門家機構」を支援するとともに、先住民族の人権と基本的自由の状況に関する特別報告者を支援する。さら に、先住民族の権利を向上させるために特定の国や地域を対象にした活動も行っている。立法イニシアチブを支援し、資源採掘産業や孤立した先住民族の権利な どのようなテーマ別の作業を進めている。 ・Indigenous Peoples, Department of Economic and Social Affairs, United Nations. 出典:https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/discrimination/indigenous_people/ (2021年1月18日アクセス) |
ジジェク・ジョーク(→「先 住民の世界」より)
私(池田)の大好きな哲学者にスラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949- )さんがいます。その彼が、講演会で使うジョーク「俺たちはネイティブ・アメリカンと呼ばれたくない」です。そのお話はざっと以下のようなものです。みな さんは、このジョークを(うまく・あるいは・へたくそに)笑えるでしょうか?
「私(ジジェク)の米 国のモンタナ州の(先住民の)友人は、こういう。『俺たちはインディアンだ、俺たちはネイティブ・アメリカンと呼ばれたくない』。どういうことでしょう か?友人の言によれば、こういうことです。なぜ、ネイティブが嫌なのか?テイディブは自然の領域に属する(→註:これには「自然と文化の二分法」について の知識が必要かもしれません)。だが俺たち(先住民)は、野生で自然ではない、俺たちは『文化的』なのだ。アメリカの白人は、先住民をもちあげて、先住民 は自然を尊重する、元祖エコロジスト、つまり、先住民はすばらしいと賞賛するが、それは俺たちが『野生で自然』と思い込んでいる。俺たちの側こそが『文 化』なのだ(→註:これには「自民族中心主義」に関する理解が必要かもしれません)。それゆえにネイティブなどとは呼ばれたくない。むしろ、俺たちをイン ディアンと呼んでほしい。どうしてか?(南北両大陸の先住民をインド人と間違えて白人たち呼んだゆえに)インディアンという呼称は、実は『白人たちのバカ さ加減』を証明することだからね!!!」
【なぜこのジョークは面白いのか?】ジジェクのこのジョークは、コケにされてい
ない日本人や東洋の人には、それほど面白くないでしょう。おもしろくない理由はこうです。すなわちみなさんは「自分たちは自分たちがそう呼ばれたいように
自称」するという自民族中心主義=エスノセントリズムをすでに脱構築している可能性があるでしょう。しかし、先住民の場合は異なります。「自分たちは自分
たちがそう呼ばれたいように自称」する機会が奪われ、いつも支配民族から呼ばれることに満足しなければならないからです。そのようななかで、なぜ、先住民
が(文化や文明から排除された)ネイティブアメリカンと呼ばれるのを嫌がり、呼ばれるたびに白人自身が「俺は愚かなことに君たちをインディアンと呼ぶ」と
間抜けであることを都度、自称しているのを聞くのは、先住民にとって胸の掬いがとれる思いであるからです。
2021年時の見解
民族学や人類学の概念ではないとしても、民族学や人類学は「先住民(ないしは先住民族)」を 自称したり、また他称されている人の集団(=民族)を研究するのであり、民族学や人類学が、上村英明さんのいう「政治的概念としての先住民族」を研究対象 にできないわけではない。むしろ、上村の指摘を、民族学者や人類学者が引き受けるとすると、それまでの民族学や人類学が、少数民族ないしは先住民族の「政 治的問題」を避けてきており、政治学領内での議論、あるいは政治学者たちと真摯な議論をおこなってこなかった歴史的可能性すらある。そのために、この「先 住民か、先住民族か」という問題は、どちらの呼称に「正しさ」があるのか、ということではなく、民族学者や人類学者は、「先住民(ないしは先住民族)」の 政治的問題に果敢に取り組んでいくことが重要なのである。
他方で、日本では国民解放戦線=ナショナル・リベレーション・フロント(national liberation front)を「民族」解放戦線と【誤訳あるいは誤解を招く表現】を長くしてきたせいで、現在でも【民族=ネーション=レイス[人種というその集団を本質 的・本源的・先験的に定義する集団]】と思考のスイッチが入り、その集団を自分たちの認識論的レンズで誤ってみてしまう、傾向があります。
したがって、indigenous peoples は日本語では、先住民ないしは先住の民と呼ぶことが、もっとも誤解の少ない適切な表現になるのです。
現在の私の先住民(同時に先住民族)の定義は以下のとおりです:「(1)先住民あるいは先住
民族(ともに indigenous people)とは、植民国家*
による領有以前からその土地に居住していた人々であり、その言語、伝統的慣習あるいは社会組織などの文化的特徴をすべてもしくは一部を保有している[ある
いは保有していた]人々の子孫のこと。そして、(2)先住民・先住民族とは、近代の植民地政策を通して自らの意思なしに国家に巻き込まれた「すべての犠牲
者とその末裔」のこと」である。
さらに読むべきもの
リンク
文献
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
ター
ルサンドに関する先住民族の権利(国連大学のサイトより)