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先住民概念の擁護について

On defense the concept of "indigenous people" among Japanese cultural anthropologists

池田光穂

【正式タイトル】先住民概念の擁護、あるいは 「西洋」と「非西洋」世界をわけて、自らの認識論的な優位を主張することの論拠の無さとその危うさ、について(→「先住民性(Indigeneity)」)

★『研究』という言葉自体が、先住民の言語の中で最も汚れた言葉の一つである——リンダ・ トゥヒワイ・スミス『脱植民地化の方法論:研究と先住民』(1999: 1).——The word itself, 'research', is probably one of the dirtiest words in the indigenous world's vocabulary(Smith 1999:1 ).

表記のタイトルのことを論じるために以下の5つの点 について、簡潔に論じてみます。

 ■1.近代国家および近代国家概念は、 はたして西洋文明の産物なのでしょうか?

先住民文化の独自性を強調したいと思われる人が書い た文章のなかに、「西洋的な論理によってたつ近代的国家の枠組み」という表現に出会いました。私は、 この文に奇妙な違和感を覚えました。

「西洋的な論理によってたつ」を「近代的国家の枠組 み」の修飾するものと考えると、この文で指摘されている「近代的国家」には、西洋的な論理によってた たない「近代的国家」もまたあることが考えられます。

「近代的」(modern)をごく常識的な時間的あ るいは歴史的概念として理解すると、(我々のもつ文化的バイアスや偏見の影響もありますが)、北朝鮮 やイラン、マレーシアやインドネシア、中国や台湾、さらには日本や韓国もそれに含まれるかもしれません。たぶん、この文章の著者は、オーストラリアや日本 のように、国内の先住民がいわゆる文化的主権を主張しようとする時に、このような「ロジック」が論理と対抗して確かに存在するのだと指摘したいのでしょ う。

しかしながら、これでは、唯名論の修辞と同じで、先 住民には独自の「ロジック=論理」があることを証明したり論証したりする以前に、命名と共に「ロジッ ク=論理」が実在するかのように登場して、その存在論的意義を主張しはじめています。先住民が存在するという「事実」を、論拠なしに、それに対応する「ロ ジック=論理」があると前提することに直結することはできません。

西洋文明がもつ「ロジック=論理」と先住民がもつ 「ロジック=論理」は異なるというあいも変わらない主張です(=安っぽい文化人類学が振りかざす議論 で、これは隣接学問の研究者からしばしばカリカチャーとして表現されることも多いものです)。

これは、まさに西洋文明と先住民文化での、2つの間 での「ある」という意味の捉えかたにおいて混乱を起こしているのではないでしょうか。レヴィ=ブリュ ルの「前論理」概念の提唱に似て、論理とロジックを別物として取り扱うという認識論上の誤謬があるのかもしれません。常識で考えればわかるように、先住民 と近代国家が、文化主権や土地所有権などをめぐって「交渉」できるのは、論理とロジックが同一のものとして扱われ(でないと両者は共通の土俵に立って論争 できません)、両者の間でさまざまな情報のやり取り、解釈さらには論争がおこなわれていることの「証左」ではないでしょうか。つまり、論理とロジックをわ けて別物として表現するような、文法上の正当性も、また現実の現象における正当性もないように思われます。

また常識で考えるに、その用語法として、「枠組み」 は「ロジック=論理」というものを「回収」したり、できなかったりするものなのでしょうか? 概念A は、別の概念Bを「回収」するという能動性をもちません。状態として概念Aは、別の概念Bを包摂していたり、排除していたりしますが、これも能動を意味す るのではなく、前者は含まれる、後者は含まれない、という状態の説明によってのみ、可能となる表現です。隠喩表現の使い方が不適切です。

先の「西洋的な論理によってたつ近代的国家の枠組 み」と同様、あるいは対句でしょうか「西洋的論理に基づいた国民国家の枠組み」という表現も、しばしば (我々のまわりに)見受けられることがあります。

「西洋的論理に基づいた国民国家の枠組み」と表現す る際には、そこでは「近代的国家の枠組み」とされており、「国民国家」と「近代的国家」はともに「西 洋的論理に基づいた」「西洋的な論理によってたつ」ものとされています。先に述べたやり方と同じような論法で、Nation State は、つねに「西洋的論理・西洋的な論理」を基盤にすることが果たして論理的に可能でしょうか?

「西洋の」文化人類学者たちにはベネディクト・アン ダーソンの国民国家論が膾炙しています。その議論(=想像の共同体)の源泉と主張されている「印刷資 本主義」は西洋の論理の産物かもしれません。たしかに「印刷資本主義」の意義は重要ですが、しかしながら、植民地からの独立のプロセスに歩み出した新興国 の国民という「想像の共同体」を構成する、中味(実質)である「私たち=ネーション」あるいは(駄洒落ですが)エモーションの形成が不可欠でした。それら は「西洋的論理・西洋的な論理」が具現化する宗主国による支配やコントロールに対して、対抗的に形成されたものだということをアンダーソンは言っていな かったでしょうか。そこには、西洋という他者性を内面化し、非西洋世界から近代主体を造り上げるという複雑な過程が見受けられるのではないでしょうか。

私のグアテマラでの狭い経験からも、類似のようなこ とをしばしば感じることがあります。そこでは西洋/非西洋、非先住民/先住民という単純な二分法が成 り立たないように思われます。その意味で「西洋的論理に基づいた国民国家の枠組み」というのは、そのような論理になりたつ国民国家も、地球のどこかで登場 したことはあるでしょうが——東欧のオーストリア=ハンガリー帝国における「世界初の」国民国家ですら、「西洋の」国民統合理念を編み出したイデオローグ であったフランスのブーランヴィリェ(Henri de Boulainvilliers)それとは、根本的に異なるといわれています——すべて「西洋的論理」で片づけてしまうのは、文化人類学的にはあまりにも 乱暴なやり方なのではないでしょうか。

■2.エージェンシーとしての先住民を、当事者以外 の人たちが取り扱うこと(=表象すること)の危うさ

「エージェンシーとしての先住民」を取り扱う人類学 上の文献は多数あります。ここでの問題は、「エージェンシーとしての先住民」であることの法的あるいは 論理的正当性として、なにが考えられているのかに尽きます。私が考えるに、政策や法廷における論争あるいは警察や軍隊との衝突で先住民が「エージェン シー」として立ち現れてくるのは、先住民である彼/彼女らが「ロジック=論理」を持つ存在だからではなく、彼/彼女らが、近代国家の領土のなかで「独自 (sui generis)な実践」をおこなっているからではないでしょうか。「ロジック」は行為(ないしは実践)の帰結であるということです。つまり「ロジック」 は、その実践をめぐる当事者および権力者の理解や解釈、あるいは(しばしば人類学者を巻き込む)双方のステレオタイプの応酬のなかで、ようやく主題化する ものなのではないでしょうか。

■3.国民国家概念は、はたして西洋文明の産物なのでしょうか?

先の「西洋的な論理によってたつ近代的国家の枠組 み」と同様、あるいは対句でしょうか「西洋的論理に基づいた国民国家の枠組み」という表現も、しばしば (我々のまわりに)見受けられることがあります。

「西洋的論理に基づいた国民国家の枠組み」と表現す る際には、そこでは「近代的国家の枠組み」とされており、「国民国家」と「近代的国家」はともに「西 洋的論理に基づいた」「西洋的な論理によってたつ」ものとされています。先に述べたやり方と同じような論法で、Nation State は、つねに「西洋的論理・西洋的な論理」を基盤にすることが果たして論理的に可能でしょうか?

「西洋の」文化人類学者たちにはベネディクト・アン ダーソンの国民国家論が膾炙しています。その議論(=想像の共同体)の源泉と主張されている「印刷資 本主義」は西洋の論理の産物かもしれません。たしかに「印刷資本主義」の意義は重要ですが、しかしながら、植民地からの独立のプロセスに歩み出した新興国 の国民という「想像の共同体」を構成する、中味(実質)である「私たち=ネーション」あるいは(駄洒落ですが)エモーションの形成が不可欠でした。それら は「西洋的論理・西洋的な論理」が具現化する宗主国による支配やコントロールに対して、対抗的に形成されたものだということをアンダーソンは言っていな かったでしょうか。そこには、西洋という他者性を内面化し、非西洋世界から近代主体を造り上げるという複雑な過程が見受けられるのではないでしょうか。

私のグアテマラでの狭い経験からも、類似のようなこ とをしばしば感じることがあります。そこでは西洋/非西洋、非先住民/先住民という単純な二分法が成 り立たないように思われます。その意味で「西洋的論理に基づいた国民国家の枠組み」というのは、そのような論理になりたつ国民国家も、地球のどこかで登場 したことはあるでしょうが——東欧のオーストリア=ハンガリー帝国における「世界初の」国民国家ですら、「西洋の」国民統合理念を編み出したイデオローグ であったフランスのブーランヴィリェ(Henri de Boulainvilliers)それとは、根本的に異なるといわれています——すべて「西洋的論理」で片づけてしまうのは、文化人類学的にはあまりにも 乱暴なやり方なのではないでしょうか。

■4.私たち=日本人あるいは日本の研究者は、世界の先住民にコミットする際に自らの「非西洋人」であることを特権化することができるのか?

これも、紋切り型の表現で、シンポジウムの会場など で一般の参加者からよく聞かれる文言です。例えば「西洋人ではない我々」という表現です。

私は素朴に疑問に思います。「西洋人ではない我々」 とは誰のことでしょうか。

私は文化人類学者ですが、「西洋的論理に基づいた」 生活をおくり「西洋的論理に基づいた」思索をおこない「西洋的論理に基づいた」旧植民地の人たちと一 緒に仕事をおこないます。

この場合、例えば(私の個人的な語彙にはほとんど登 場しない)「西洋人ではない」私と、私じしんが表現する時には、私が帰属する「民族」や「人種」にも とづくアイデンティティにもとづいて表現するわけですね。では「西洋人」は、どのような「民族」や「人種」のアイデンティティにもとづいて発語するので しょうか? アングロ=サクソンやラテン、あるいは「ゲルマン」が、ロマ(=ジプシー、ジタン、ヒターノ等)を「西洋人ではない」と表現する時、それらは 明らかに本質主義的な「人種」概念にもとづいて発語していませんでしょうか。非西洋人が「西洋的」なるものに反発したり抵抗したりする時、このような自己 (および自己の帰属する集団の)アイデンティティの表明がなされますが、当事者からの発話は、(エドワード・サイードのオリエンタリズムの枠組みにもとづ く)オクシデンタリズム批判のニュアンスが含まれています。しかしながら、当のサイードはオリエンタリズム批判の鏡像としてオクシデンタリズム批判が、そ のまま成り立つとは考えていなかったようです。また、オリエンタリズム批判の趣旨も、本質主義的なオリエントの論理から〈西洋人たちが的外れな議論をして いるという類の誤謬〉の問題が指摘されたわけではなく、フーコー的な知と権力の織りなす効果としてオリエンタリズムが形成されることを指摘したことが重要 で、サイードのこの作品は分野を超えて高い評価を得ることができました。

問題は「我々」にあるのではなく、限定詞のついた 「西洋人ではない我々」という表現にあるように思われます。「西洋人ではない」人たちを本質主義的にわ けるための人種的マーカーを必要とするからです。ここで言う「我々」が「日本人」のことをさすのであれば、日本人はいったいどこにいるのでしょうか?日本 研究している西洋人留学生や、外国籍の文化人類学者は含まれるでしょうか? 在日朝鮮・韓国人は「我々」に含まれるでしょうか? もし仮に被差別部落出身 者——自らのアイデンティティをそうでない人に主張する立場の人あるいはそのような発話状態であると考えてください——がここで言われている「我々」に私 は含まれるのか?と質問した時に、文化人類学者はどう応えるのでしょうか? このように考えると「西洋人ではない我々」という用語はアルチュセールのいう 「人種主義」のイデオロギー的な呼びかけなのではないかとすら、思えます。

■5.先住民の人権、先住民文化のかけがえの無さを主張するために、彼らの文明や考え方を「西洋文明」や「西洋的思考」ではないと主張することに、どのよ うな 利点と欠点があるのか?

これもまた先住民文化の独自性を強調するために使わ れる紋切り型の主張です。例えば「西洋的論理に挑戦を突きつける先住民性」という言いかたです。これ も、とりわけ珍しいものではなく、先住民の人権、先住民文化のかけがえの無さを主張するために、彼らの文明や考え方を「西洋文明」や「西洋的思考」ではな いと主張することの、ひとつの変奏のようによく使われる言葉です

「西洋的論理に挑戦を突きつける先住民性」について の研究が、「西洋的論理に挑戦を突きつける」という理由で、なぜ重要で喫緊の研究の課題になるのか、 私には理解できません。我々の身の回りでも、あるいは(どのような社会的歴史的空間なのかは私には想像不可能ですが)、西洋世界においてすら「西洋的論理 に挑戦を突きつける」課題は、日々、研究者によって指摘されているように思えるからです。

私は、先住民性の論理の検討は、文化人類学上におけ るホットイシューだとは思いますが、それが先住民性の論理が「西洋的論理に挑戦を突きつける」からだ とは思えません。論理が挑戦を受けるのではなく、その論理を護持したり無反省に受け入れている人たちがこの種の挑戦を受けているからだと、私は考えていま す。

世界のさまざまな場所で、先住民あるいはそこからの 出自を想起したり共有したりする人々の集団が、その存在の意味を、現代の国家制度のなかで「承認」を もとめる運動をおこしており、近代社会は、そのことについて考える意味があることを認識しつつあることが重要なのではないかと思います。エンパワメント、 エンタイトルメント、権利保証、人権尊重、人民への平等な処遇など、さまざまな「権利擁護」上の概念と用語が存在します。これは、経験的事実により、先住 民の人たちが、非先住民による政府やその政策により不利な上京に置かれている歴史的経緯からみても明らかです。

もちろん、そのようなことを承認する必要を感じず、 「先住民性」の存在は国家統合の障害になると考えたり、先住民性というものがフィクション(虚構や絵 空事)であると主張したりする「反対勢力」がいることも確かです。だからこそ、先住民あるいはその周りの支援者たちは、そのような反対意見に、確固とした 証拠をもって論駁したり、説得の戦術を含む運動のやり方を変えたり、さらには分派したり糾合したり、さまざまな試み(実践)を行っているのではないでしょ うか[=先住民運動が〈政治性〉をもつということ]。

いずれにせよ「先住民性」を理解することは、現在進 行中の一種の社会構築的な作業であることは確かですので、この領域にフィールドワークを基調とする文 化人類学者がおおいに関与することに、研究上かつ社会上の意義を見出すことに私は吝かではありません。しかしながら、先住民運動の指導者の中には、文化人 類学者がこれまで産出してきた先住民性の概念や、それが「権力者」によって都合よく利用されてきたことに対する強い警戒感があります。

文化人類学者は、ある集団が保有・維持・展開してい ると思われる「先住民性」について客観的中立主義的に論文を書いても、当事者からの思わぬ批判や(場 合によっては逆に)生産的なコメントが返ってくることもあります。当事者と共に行わざるを得ない「先住民性」の研究は、人類学の倫理性の研究のひとつでも あります。いずれにせよ、どこかに「先住民性」という(不動の)客体があって、それを表象すれば「研究することの意義」が自動的に出てくるという類のもの ではありません。むしろ人類学者というもうひとつエージェンシーが、観察や分析という一種の価値評価活動を通して、先住民にも、またそこから得られる「民 族誌データ」にも影響・補完関係をもたらす可能性があるということを、論文作成後もつきまとう問題であることを御理解ください。

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