24■インディヘニスモ入門
(アン
リ・ファーヴル『インディヘニスモ:ラテンアメリカ先住民擁護運動の歴史』染田秀藤訳、文庫クセジュ、白水社、2002
年/Favre, Henri., 1996. L'indigénisme. (Que sais-je?, 3088), Presses
universitaires de France.)
池田光穂 はじめによんでください
【インディヘニスモとはなにか?】
- ・インディヘニスモの
定義「イン
ディオに好感を抱く世論の「動き」のこと」(p.7)
- ・インディヘニスモ
は、インディオ
を国家的問題だと考える政治・社会運動(p.8)
- ・「(ラテンアメリカ
文化という名
の)いわば西欧文化の精神的起源を西欧以外に求めようとするきわめてラテンアメリカ的な運動」(p.12)
- ・インディヘニスモは
ナショナリズ
ムに密接に関係しているのみならず、「ラテンアメリカにおいてナショナリズムが取り入れた特殊な形態」(p.9)
- ・ポピュリズムの一
種、社会主義的
な傾向をもち、ロシアのナロドニチェストヴォ(1870-20世紀初頭のロシア革命運動一派の人民主義)と比肩できるよ
うなもの(p.9)
- ・インディヘニスモ
は、進歩主義運
動で、ヨーロッパとは「異なる新しい文明が開化するような未来を築くための拠りどころを先コロンブス期の過去に求める」
西欧文化の表象でもある(p.10)
- ・インディヘニスモの
隆盛期、
1920-1970年期(p.11)
- ・インディヘニスモ
は、インディオ
自身の発想ではなく、クリオーリョとメスティーソが共に抱いた考えで、「インディオの名のもとに発言しようとしなかっ
た」。にもかからず「インディオに代わって彼らの運命を決定した」(p.11)
【植民地時代におけるインディオの
処遇】
- ・アントニオ・デ・モ
ンテシーノ
ス、バルトロメー・デ・ラス・カサス(共にドミニコ会)による、植民地政策批判→「黒い伝説」
- ・セプルベーダ〈対〉
ラス・カサ
ス:先住民への戦争行為が正当化されるか?あるいは、その根拠としての先住民の位置づけ(人間、キリスト教徒/異教徒等)
- ・バルセロナ法=イン
ディアス新法
(1542年)による、エンコミエンダの世襲制の廃止。
- ・先住民の資格は、イ
ンディアス枢
機会議で採択された大量の法令によるもの(p.21)。
- ・複雑な性関係の帰
結:メスティー
ソ、ムラート(白人と黒人の混血)、サンボ(インディオと黒人の混血)
【愛郷主義者のクリオーリョがみる
先住民観】
- ・ヨーロッパ人探検家
による新大陸
=居住に適さない荒地説、に抗弁して、クリオーリョの知識人や宗教家が、ラテンアメリカの自然を讃美する。その美しい自
然の風景の中に、先住民が位置づけられる(例: Fuentes y Guzman 1642-1699, Recordacion
florida)。ただし、先住民文化は、生きている先住民よりも、先史先住民文化の象徴(ピラミッドなどの巨大建造物)を、クリオーリョの文化(文明)
としての領有するものだった(p.27)。
- ・ヨーロッパの文明と
比肩するもの
が新大陸にあるという主張:インカでは、混血の王室の末裔カルシラソ・デ・ラ・ベガ(1539-1616)『インカ皇統
期』が、ラテンアメリカに先住民文明の高貴な伝統の定番して普及(p.28)。
- ・ケチャ語の文章語化
(p.29)。
- ・他方、クリオーリョ
の意識のなか
ではインディオの占める位置はほとんどなかった(p.30)。しかし、クリオーリョは、新大陸におけるクリオーリョの政
治的・宗教的ヘゲモニーを確立するために、先住民表象を積極的に利用しようとした:その実例:グアダルーペ信仰(Pp.30-31)が、ペニンスラールの
信仰であるサラゴサのピラールの聖母信仰を凌駕した。ペニンスラールの司祭は、土着信仰のなかにみられるキリスト教徒類似の宗教実践や象徴(三位一体、十
字シンボル、断食や苦行、聖母マリアの顕現)を異端視したが、クリオーリョは反対に、使徒時代の福音の痕跡と考えた(p.32)。→[1830年ジョセ
フ・スミス・ジュニアのモルモン教と類似?!]
- ・サント・トマスの新
大陸到来説
——と聖トマスが先住民の土着の神格と同一視される:メキシコ=ケツアルコアトル、インカ=ビラコチャ、ブラジル=パイ・
ズメー
- ・なぜ、反乱の領袖
(ホセ・ガブリ
エル・コンドルカンキ、1741-1781)はトゥパック・アマル二世は、ラテン系のホセ一世を名乗ったか?
(Pp.32-33)
- ・ミゲル・イダルゴ・
イ・コス
ティーリャ(1753-1811)は、なぜグアダルーペの聖母マリアの御旗で1810年のメキシコ反乱を戦ったのか?
(p.33)
【独立直後期】
- ・クリオーリョのパト
リアティズム
的傾向は姿を消し、ナショナリズムは、パトリアティズムをむしろ意識的に排除するようになる。
- ・独立後は先コロンブ
ス期の過去を
ふり返らなくなった。例えばアワナックというアステカの呼称よりもメキシコと呼ばれることを選ぶ。(p.35)
- ・人種差別のという実
態とは無関係
に、市民の国民統合というイデオロギーのもとでは、白人、メスティソ、インディオという差異を、平等原則のもとに解消さ
せるものと考えられた。(p.35)
- ・1821年、ホセ・
デ・サン・マ
ルティン将軍はペルーで、先住民を個人的賦役労働をさせることも、また「インディオ」と呼ぶことも禁じた。1822年、
メキシコ議会は、公用語からインディオという用語を追放、公文書、私文書ともにその用語を禁止した(p.36)。
- ・同時に、先住民共同
体は、法人格
と法的保護を失うことになる。また、インディオに認められていた税の免除権も失い、人頭税が復活する。さらに兵役もまた
付加された(p.38)。
- ・メキシコの(グアナ
ファト出身
の)ホセ・マリア・ルイス・モラ(1794-1850)は、クリオーリョも先住民もいない、いるのは富める者と貧しき者の
みと言う。しかし、それには批判者もおり、オアハカ出身のカルロス・マリア・プスタマンテ(1774-1848)は、インディオが市民に姿を変えただけ
で、市民原則は、幻想であり、インディオはその高い代償を払ったと主張した。結果的に、インディオの市民化という解放は、結果的には村落のインディオの農
奴化をすすめただけだと著者アンリ・ファーブルは主張する(p.37)。この現象を、共和主義体制以前の「外的植民地主義」から「国内新植民地主義」に代
わるようになったという(p.38)。
【人種主義言説の起源と展開】
- ・1846年に米墨戦
争で領土が失
われると、国内の政治的安定が失われ、マヤ人がユカタン半島で蜂起する(カースト戦争)。同時に、ペルーとチリとの間で
戦争がおこる(1879-1883年)。
- ・言語学者フランシス
コ・ピメンテ
ル(Francisco Pimentel,
1832-1893年):メキシコには2つの民族がいる「青銅の人種に属する人間(=先住民)」と「異なる人種(=白人)」が敵対しており、前者は後者の
人種が滅びることを心待ちにすると主張。これは、カースト戦争が起こる原因を考えた末に、国民統合にとり、先住民問題を解消しないかぎり、統合があり得な
いことの主張だと思われている(pp.41-42)。
- ・ピメンテルによる国
民の定義は
「共通の信仰を奉じ、同じ思想に支配され、同じ目的を志向する人びとの集合体」(p.42)。
- ・19世紀中葉の先住
民は人種主義
的なパラダイムにより理解される存在であり、その劣等性は自明であった。ただし、19世紀後半の社会ダーウィニズムが席
巻した時代の「先天的な劣等性」というコンセンサスはなかった。つまり、前者は、劣等性の理由は社会的なもので、国民的な統合をとおして、その差異が解消
されると考えていた。
- ・ピメンテルはそのよ
うな先住民の
劣等性の原因をスペイン植民地主義にもとめた一人だった。ただし、先植民地時代にも新大陸の文明は遅れており、スペイン
の征服者たちがその遅れを是正してこなかったという、歴史的停滞という認識はあった。Pimentel, 1868. "Memoria sobre
las causas que han originado la situaci actual de la raza indena y
medios de remediarla"(→pdf 印刷)
- ・ペルーの社会学者ハ
ビエル・プラ
ド(1871-1912)も、先住民の停滞の原因は歴史的プロセスのせいであり、インディアス法の保護的性格があったに
も関わらず、差別と分離を生み出してしまったと批判する(p.43)。
- ・19世紀の社会理論
家たちは、イ
ンディオはクリオーリョと混血によりメスティーソになり、それが国民的人種(raza
national)になることが期待されていた。インディオは国民の混血化により消滅することが予測され、また、そのことが国民の進歩に貢献することにな
ると考えていた。
- ・社会ダーウィニズム
に基づく優生
学思想は、旧大陸のものと同じく、新大陸における人種の混淆による「劣化」を予言するものであった(p.44)。:カル
ロス・オクタビオ・ブンヘ(1875-1918、アルゼンチン)、ホセ・インヘニエロス(1877-1925、アルゼンチン)。
- ・メキシコの理論家た
ちは、バスコ
ンセロス(Jose Vasconcelos,
1882-1959)と同様、社会ダーウィニズムには異論をもつ人たちが主流?だった。フスト・シエラ(Justo Sierra M駭dez,
1848-1912)は、メスティーソこそが「新しい人間」で、国民統合に貢献するものだった。
- ・アンドレス・モリ
ナ・エンリケス
(1866-1940)Los grandes problemas nacionales, 1909
において、メスティーソが、インディオならびにクリオーリョよりも優秀であることを「実証」した。その根拠は、クリオーリョは高度な文明をもっているが、
人種的にはヨーロッパ起源であるために、ラテンアメリカにおいて適応に失敗し、他方、インディオは、文化的には16世紀のレベルに留まっているが、環境適
応には強い。それゆえ、その混血こそが人種的に優秀であると結論づけた(p.45)。また、北アメリカの人種混淆が、ヨーロッパ人同士の混血であるために
(新大陸の適応には不適であり)インディオとヨーロッパとの混血であるメスティーソが一番優れていると結論づける。これは、米墨戦争における敗北感を混血
アイデンティティの確立によって埋め合わせるには好都合だった。
- ・「メスティーソは、
最後にはイン
ディオたちを取り込み、クリオーリョならびに外国人居住者との融合を完成させ、固有の人種となるだろう。したがって、メ
スティーソという人種はまったく自由に発展を遂げるだろうし、そうなれば、彼らは北のアメリカ人との避けがたい衝突に抵抗を試みるだけでなく、その戦いに
勝利を収めることになるだろう」(p.46)——原文当該箇所チェック
- ・バスコンセロス
(Jose
Vasconcelos, 1882-1959):La raza cmica: Misi de la
raza iberoamericana Notas de viajes a la Am駻ica del Sur Agencia
Mundial de Librer, Madrid [1925], 296 p疊inas, 1925.; Indolog, una
interpretaci de la cultura iberoamericana,
1926,:バスコンセロスの主張のポイントは、ダーウィンやスペンサーに対抗して、メンデリズムをもって、遺伝的交配により種が改良されると主張。混血
化は「世界の希望」。その帰結としてのラサ・コスミカ。彼によると現状を維持し続けようとする人は衰退にむかう、そのための混血化:「運命は、ラテンアメ
リカに生きる人種が個別に存在しつづけることではなく、それぞれの血を混じり合わせることを望んでいる。混血から生まれるもの、つまり、インディオと白人
の混血であるメスティーソや白人と黒人の混血であるムラートは、それぞれ、現在知られているすべての人種にとってかわる新しい人種の始祖となるのである」
(p.47)——原文当該箇所チェック。バスコンセロスによると、ラサ・コスミカ、すなわち五番目(具体的にどの四人種が先行するのか不詳)の人種は、熱
帯アメリカを中心にして普遍的な文明を作り上げることが約束された。
- ・ゴビノー
(Joseph
Arthur Comte de Gobineau,
1816-1883)もバスコンセロスも、ともに人種は交わる傾向であるとの予測を立てたが、前者は、人種そのものの破滅を、後者は、人間を完成するもの
と、まったく真逆の主張を展開した。
【混血を通して「白人化」が再びす
すむ】
- ・混血の称揚には、あ
る種の矛盾が
あった。混血のなかに見られる先住民性という人種の特徴と、ヨーロッパ流の近代化を遂げる際に自らを白人化したいという
欲望の折り合いをつける言説が存在しなかったこと。そのために、人種の混淆でうまれる混血種と、それが白人統治と同じ国家をラテンアメリカに樹立すること
を調停する「奇妙な」考えが登場する。ピメンテルは、中間的な人種の後に、人間集団は「瞬く間に白くなる」といい、インディオ的な身体特徴が消失し、クリ
オーリョ的身体特徴が現れるという。同じ、メキシコのビセンテ・リバ・パラシオ(1932-1896)は、インディオ、メスティーソ、クリオーリョの身体
的特徴の差異を列挙し、メスティーソからインディオ的特徴が消失するのに、1〜2世紀がかかることを「計算」したという(p.48)。
- ・人種主義的なメス
ティーソの未来
には、メキシコと南米諸国では、かなりビジョンが異なり、先住民人口の少ないアルゼンチンでは、混血化そのものの言説は
拒絶された。先住民人口の多い国家では、しぶしぶ混血化のイデオロギーを受けつけることになるが、それぞれの国家の知識人は、悲観的なタイトルのエッセー
のなかに、混血により、進歩から取り残されているメスティーソ側のエートスをかいま見させるものがある。ベネズエラのセサル・スメタ(1863-
1955)El Continente Enfermo. ボリビアのアルシデス・アルゲダス(1879-1946)Pueblo
Enfermo. のように悲観主義的な論調が支配していた(p.49)。
【文化主義】Pp.50-
- ・マヌエル・ガミオ
(Manuel
Gamio, 1883-1960)Forjando Patria (pro nacionarismo),
1916[祖国を創出して:ナショナリズムのために]の、ヨーロッパ的なるものへの決別宣言。ガミオのティオティワカン発掘、アルフォンソ・カソ
(Alfonso Caso,
1898-1970)のモンテ・アルバン、ペルーのフリオ・セサル・テリョ(1880-1970)のチャビン発掘——国家の役割は、先史考古学の遺跡を発
掘修復し、その威光を国民にしめすべきという、或る意味で「国学としての考古学」——ラテンアメリカのいくつかの国のナショナリズムに寄与する学問のあり
方——を確立せしめた。
- ・1880年マヌエ
ル・オロスコ・
イ・ベッラ(1818-1881)Historia antigua y de conquiesta de
Mexico.
メキシコの古代史を、人類社会の発展史として再定義したが、その際に、アステカの文明は、半野蛮状態とされて、他の諸民族と同じような扱いを受けた——ア
ステカが他の先住民の同格性を持ち得るようになる。ただし、それに対して、ガミオは La pobulaci del Valle de
Teotihuac疣,
1922.にて、文化の相対性を時、それを優劣で比較すべきでないと主張した。ガミオは、ボアズの弟子でありボアズの「歴史的個別主義」からの見解であっ
た。ガミオは、ティオティワカンの発掘を通して、古代メキシコをアステカというステレオタイプから脱却し、古代メキシコの文化的多様性を強調した。そして
古代メキシコの先史文化を、その宗教思想の中に見て、古代から現在までの時間的超越性——言い方かえると文化価値のアナクロニスティックな意義——を強調
した(p.52)。ガミオの意義は、クリオーリョもメスティーソも、インディオの歴史的遺産を(自らのものとして)受け入れ、同一化するイデオロギー的な
必要性を説いたことにある。同時期に生まれたペールのビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トッレ(Vtor Ra Haya de la
Torre, 1895-1979)の発明した「インドアメリカ」という名称の提案と、膾炙とも関連する。Alianza Popular
Revolucionaria Americana の創設者のひとり。
- ・モイセス・サエンス
(Mois駸
S疇nz, 1888-1941):インディオは「わたしたちの肉であり骨である」M騙ico
Integro, 1939,
「わたしは、インディオをインディオとして守ろうとする感傷的な人びとの集団に属しているのではない。わたしは、メキシコをインディオ的なものにしようと
試みる人たちのロマンティックで子供じみた幻想を共有しているわけでもない。また、わたしは、観光客のためにインディオに一風変わった趣を維持させるつも
りもない」(Pp.53-54)。
- ・"Mentira
el
indio triste. Falso el indio estulto. Ficci de turista
el indio que reposa en meditaci pasiva, haciendo r駱lica a la
escultura de Rodin." in "Pelula del diecis駟s," 作品集Carapan, p.96(pdf)
- ・文化主義者たちは、
先住民の人種
的特性の理解よりも、文化的特質に着目してインディオを理解しようとした。
- ・ホセ・ロペス・ポル
ティーリョ・
イ・ロハス(1850-1923), La raza indena,
1904=個人は文明を共有する人種に属するという結論。また、インディオが都会に移住した時には、インディオと呼ばれないことから、人種を区別する基準
には根拠がないと指摘。
- ・ガミオは、白人との
比較において
インディオに対する差別が存在することを指摘した。
- 《カソによるインディ
オの定義》
- ・「インディオとは。
土着の共同
体、換言すれば、非ヨーロッパ人的な身体特徴が支配的な共同体に属していると自覚し、好んで先住民語を口にし、その物質的
かつ精神的な文化のなかに、かなりな割合で先住民的要素が含まれるような人のことであり、とどのつまり、自分たちのことを、周囲の他の集団から孤立した集
団を形成し、白人やメスティーソの集団とは異なるという社会的な認識を抱いている人のことである」(p.55)。
- ・文化派にとっては、
混血化は、文
化変容の意味になった:ゴンサロ・アギレ・ベルトラン(1908-1995)El proceso de
aculturaci,1957,
- ・カソ,
Indigenismo, 1958,
のなかで、先住民の劣悪な条件、とりわけ経済と保健衛生の面で改善することが文化変容にほかならないことを述べている。
- ・文化主義的伝統は、
メキシコ革命
のプロセスと密接に結びついた(Pp.57)。
【マルクス主義】pp.58-
- ・ラテンアメリカのマ
ルクス主義受
容は、1917年以降はアナルコ・サンディカリズムの思想受容からはじまる。このフレイムでは、インディオは被抑圧「人
民」あるいは「無産者階級」とみなされ、インディオがおかれている状態を固有のものだとみる見方は希薄だった。
- ・マヌエル・ゴンサレ
ス・プラダ
(1848-1918):ペルー・チリ戦争での、ペルーの敗北の原因をインディオに愛国心が欠如していることだと説明し
た。そのためには、インディオの国民への統合が必要であり、その前段階にインディオの「解放」のため、土地権力の打倒が必要と考えられた(1904年)。
ゴンサレス・プラダにとって、インディオ問題は文化問題(すなわち教育問題)でも、人種問題でもなく、社会経済問題だというわけである(Pp.58-
59)。
- ・ホセ・カルロス・マ
リアテギ
(1894-1903)は、ゴンサレス・プラダのテーゼを受け継ぐ。Siete ensayos de
interpretaci de la realidad peruana, 1928,
:「先住民問題はわが国の経済に起因している。問題の根は土地所有制度にある。大土地所有という封建制が残存するかぎり、行政的もしくは警察的な集団、教
育あるいは道路建設を通じて、先住民問題を解決しようとしても、その試みはことごとく、無益な、あるいは、二次的なものにおわるだろう」(Pp.59)。
つまり、インディオに対する経済的な重荷が、インディオを性格的に卑屈にする。インディオは自由に経済的な活力を行使できるようにして、近代経済は、その
個人に対して生産者と消費者という身分を手にする。インディオを生産の封建制から解放しないかぎり、ペルー国家は形成途上のままに留まるのだ。
- ・インディオの住む後
進後発地帯
は、アギーレ・ベルトランの Regiones de refugio, 1967.
とも言える経済空間で、植民地時代の遺制の結果で、やがて資本主義的な従属・搾取構造のなかに巻き込まれる。マリアテギは、ラテンアメリカの経済構造を、
封建主義と帝国主義が結びついた「半封建的」で「半植民地的な」地域であるとした(p.60)。
- ・マルクス主義者の中
には、先住民
の社会を原始共産制のイメージを投影するものとして称揚した理論家もいた。ボリビアのトゥリスタン・マロフ(本名:グス
タボ・ナバロ)La Justicia del Inca, 1926.
:インカは「豊かさに浸る国を作り出した。インカの法律は厳格で容赦がなかったが、公正なものであった。経済活動は見事なまでに整備され、規制されてい
た。豊作の年の収穫で、凶作の不作を凌ぐことができた(→J.D, The World until
Yesterday)。収穫したものは慎重に分配され、国家は整然とした体制を管理していた。……すべての人が生活に必要な最低限のものを所有し、各自、
幸福な生活に浸っていた。犯罪は知られておらず、帝国に暮らしていた人びとは例外なく、名誉という感情を抱いていた。彼らの犯した罪はただひとつ、怠惰で
ある」(p.61)。
- ・マルクス主義的な分
析家は、伝統
的なシステム(アイユ)を近代化は破壊することができなかったというトーンの論調を維持した:ペルーのヒルデブランド・
カストロ・ポソ:Nuestra Comunicad Indena, 1924. Del Ayllu al Corporatismo
Socialista, 1936,
- ・ポソによると、共同
体ムキヤウヨ
(生産、消費、融資をおこなう協同組合への自然発生的に変容することができた伝統社会)。
- ・これらの理論家の主
張は、明らか
に第三インターナショナル(コミンテルン、1919年創設)には異端のものであり、1929年にブエノスアイレスで開催
されたラテンアメリカ共産党会議では、インディオたちの闘争を反帝国主義運動とは位置づけられず、インディオ共和国を目指しているものとして批判された
(p.63)。インディオがネーション化して国家を求めているとは、ラテンアメリカの理論家たちには想像できなかった。彼らは、インディオはただ単に、被
搾取階級を形成する存在にすぎなかった。しかがってラテンアメリカの理論家にはインディオの国民としての解放という視点は最初からなかった。しかしコミン
テルンは、ネーションとしてのインディオの解放をラテンアメリカの共産党の計画のなかに盛り込ませることには、なんとか成功できた。
《ソビエト多民族国家論をめぐっ
て》
- ・メキシコのビセン
テ・ロンバル
ド・トレダーノ(1894-1968)は、ソビエト多民族体制論に感銘をうけ、Un viaje al mundo
del porvenir, 1936
(将来の世界への旅)を絶賛したが、自国(メキシコ)が多民族国家であることは否定した。ロンバルド・トレダーノによると唯一ネーションにあたるインディ
オは、ユカタン半島のマヤ人のみであった。彼は、地方自治体の境界とエスニック集団の境界を合致させるような行政改革が必要だと論じ、スペイン語の普及
と、現地語を音声表記体系にもとづき記法の確立が不可欠だと論じた。他方で、マルクス主義の定式化にしたがい、インディオ問題は、インディオがプロレタリ
アートになることを通して解消されることを信じ、先住民地域での工業化——ソビエトにおけるコーカサス地方のようにする——をまじめに考えた。
- ・マルクス主義派の論
敵は文化主義
派だったが、メキシコ革命において農地改革が先にすすみ、強い批判には至らなかった。
- ・ペルーでは、マリア
テギ理論が
(インディオの住む周辺農村地域からの都市包囲戦術論である)毛沢東理論との一致することから、ペルーでは後者のゲリラ理
論が導入されたが、その他の地域では1960年代以降は普及しなかった(p.65)。
【風土主義】Pp.66-
- ・Telurismo
(ポルトガル
語):En el diccionario castellano telurismo significa
influencia del suelo de una comarca sobre sus habitantes.
- ・メキシコ:アルフォ
ンソ・レイエ
ス(1889-1959)
- ・ボリビア:フラン
ツ・タマーヨ
(1897-1956)
- ・アルゼンチン:リカ
ルド・ロハス
(1882-1956)
【第3章インディヘニスモの文学と
芸術】Pp.71-
- 1.文学:Pp.72
-
- 2.絵画と造形芸術:
Pp.82-
- 3.音楽、声楽、舞
踊:Pp.94
-
【第4章インディヘニスモ政策】
Pp.102-
(先住民の保護法/国家近代化のメ
ンバーへの包摂過程)
- ・1910年 メキシ
コ革命はじま
る
- ・1920年 ペルー
憲法
- ・1922年
Vasconcelos 文化使節団
- ・1925年 ボリビ
ア・先住民法
- ・1937年 エクア
ドル・先住民
法
- ・1938年 米州会
議/インディ
ヘニスタ会議
- ・1939年 ペルー
の移動舞台
(p.106)(→Victor Raul Haya de la Torre, 1895-1979:
APRA創設者)
- ・1940年 イン
ターアメリカ
ン・インディヘニスタ会議
- ・1943年 イン
ターアメリカ
ン・インディヘニスタ研究所創設(p.114)/Pueblo Hospital, Vasco de Quiroga
- ・インディヘニスタ運
動の評価
(Pp.126-):「インディヘニスモは明らかに農民の生活改善を目指し、先住民をその生活環境のなかで近代化しようとし
た。しかし、先住民の耕作地は近代化するどころか、誰もいなくなった。同じように、インディヘニスタたちは、彼らが肯定的に評価したものにかぎって、イン
ディオ文化を維持し、否定的に思えたものについては、それを西欧的な要素に代替させようとした」(p.130)
【第5章 インディヘニスモからイ
ンディアニスモへ】Pp.133-
- ・ここで、ファーブル
がいう、イン
ディアニスモは、今日における国際NGOなども参画した、原題の先住民(支援・復興)運動である。
- ・言語、政治、法など
の領域に関わ
る。
リンク
文献
その他の情報