かならず読んでください

六世中村歌右衛門の近代

Modernity of Nakamura Utaemon 6th

引用者:池田光穂

「近代 知識人の思索は、考えてみればたやすい。「いやだ」と言って投げ出してしまうのも、その「思索」の 内だからである。しかし、歌右衛門にはそれは出来ない。「お客様がいらっしゃる舞台を投げ出すなんてとんでもない!」である。近代知識人の思考には「破 綻」までが許容されて、しかし中村歌右衛門の思考には、それが許されない。彼が納得することは、観客が納得することとイコールであらねばならない——そう でなければ「正解」ではない。こんな勤勉で前向きな「虚無」があるだろうか? しかし六世中村歌右衛門とは、そのような「虚無」だったのである」(橋本 2002:366)。

三 島由紀夫「行動」揮毫した年代は不詳

近代主体概念を問いなおす
近代主体概念を問い直すとは、西洋近代が用意し鍛え 上げてきた「主体」——私というものの在り処でありまた私そのもののこと——の概念を、反省的にとらえ直すことです。このことを通して、主体としての私と は何者であるのかを、社会や思想が呼びかけ働きかけてきたものが、西洋近代が理想とする「主体」とどのような相違や亀裂が生じるのかを、明らかにします。
再帰的近代化
再帰的近代化(さ いきてききんだいか、reflexive modernization)あるいは内省的近代/再帰的近代 (reflexive modernity)とは、外部から強制力をもって近代という新しいモードを獲得していくプロセス(=連辞符のつかない唯の近代化 [modernization] のこと)とは異なり、近代を生きる個人や組織あるい は社会が、近代化(=以前にあったものを放棄して新たな生活や思考を始めること)のプロセスを内面化していく現象(再帰的近代化)。あるい は、再帰的近代化が進行中の時間や歴史のことを、再帰的近代という。
民族誌的近代
民族誌的近代(ethnograpgic modernity)とは、ジェームズ・クリフォードが『文化の窮状』 (Predicamento of Culture, 1988[邦訳 2003])の冒頭で発した用語であり、近代における「文化」および文化概念が直面している窮状のことを、そのように言い換えた(パラフレーズ)したもの である。もちろん窮状という事態は、従来の近代性の概念からみた窮 状であり、別の観点からみると、文化概念がもつパラドクス、多声性、シュールリアリズム性、芸術的多義性や可能性など(従来の近代概念が抑圧してきた)豊 饒性(豊かさ)を意味する。したがって民族誌的近代は、分析や論理的判断のための概念ではなく、観察的および記述的な概念なのである。
近代医療はどこから始まるのか
医療や医学という言葉は翻訳語です。しか し外来のものが翻訳される以前や以後にも、医薬の取り扱いや治療のための技術に長けた人——すな わち「治療者」——や、その人たちが担う技術体系——すなわち「医術」や「医療」——をさす固有で独特の名前が、多くの社会には準備されています。西洋で 中心的に発達してきた近代医療が、それまで普及していなかった社会に導入されると、それに対する翻訳語がすぐにできあがります。また近代医療は、いろいろ な社会への導入直後には大きな問題を引き起こしたことがあるものの、社会に完全に適応できなかったものはありません。つまり、近代医療は、それが実際に使 えるか否かは別にして、世界の多くの人たちにとって、まさに病気を治療する技術や、あるいは実践体系として認知されています。
伝統医療と近代医療の二元論を超えて
伝統医療と近代医療が出会うとき・・と聞いた人は、一体どのようなこと を 思い浮かべるだろうか。ある人は旧来の古くさい因習が新しいモ ダンなものに置き替わることを想像し、別の人は古い伝統をもつ知識が近代的な英知によって再生するという印象を抱くかも知れない。現象が多様で複雑な上 に、それを理解し、解釈しようとする人々が抱く、いわゆる「近代化」のビジョンも様々である。伝統と近代という二分割すら問題だという人もいる。これらの 議論を明確にするためには、それらの概念の整理という作業が不可欠であるが、いま暫く「ふたつの医療」が接するとき、どのようなことが起っているのか概観 してみよう。
アパデュライ『近代性一般』1996
「グローバリゼーションの文化的研究に新たな枠組みを提供する 『Modernity at Large』は、想像力が今日の世界でいかに社会的な力として働き、アイデンティティの新たな資源を提供し、国民国家に代わるものを創造するエネルギーを 与えているかを示している。アパデュライは、大移動と電子媒介という勝利の力によって特徴づけられる現在のグローバリゼーションの時代を検証し、大衆の消 費パターン、多文化主義についての議論、民族的暴力についての新鮮な見方を提供する。ライフスタイル、大衆文化、自己表象などのイメージが、メディアを通 じて国際的に流通し、しばしば(その発信者にとっては)意外で独創的な方法で借用される方法について考察している。」


リンク

文献

橋本治 2002 「 「三島由紀夫」とはなにものだったのか」新潮社.

Virtual Goffmanに戻る

Rudolf Virchow


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

池田蛙  授業蛙  電脳蛙  医人蛙  子供蛙

++

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099