はじめによんでください

伝 統医療と近代医療 の二元論を 超えて
Beyond dichotomy between Traditional and Modern Medicines

熊膽圓(ゆうたんえん):熊胆(膽は旧字体)=「ゆうたん」熊の胆嚢のこと。このブランドは富山県の廣貫堂製薬が長く使い現在でも使われて いるものである。撮影:富山市CICくすりミュージアム(2017年)/富山市立図 書館

池田光穂

伝統医療と近代医療が出会うとき・・と聞いた人は、一体どのようなことを 思い浮かべるだろうか。ある人は旧来の古くさい因習が新しいモ ダンなものに置き替わることを想像し、別の人は古い伝統をもつ知識が近代的な英知によって再生するという印象を抱くかも知れない。現象が多様で複雑な上 に、それを理解し、解釈しようとする人々が抱く、いわゆる「近代化」のビジョンも様々である。伝統と近代という二分割すら問題だという人もいる。これらの 議論を明確にするためには、それらの概念の整理という作業が不可欠であるが、いま暫く「ふたつの医療」が接するとき、どのようなことが起っているのか概観 してみよう。

協賛:医療人類学における伝統医療

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☆海外医療援助

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この現象を引き起こしたもののうち最も代 表的なものは、海外医療援助であろう。この先進工業国が発展途上国に対しておこなった近代医療の 「輸出」とも言える医療援助は、当初(第二次大戦前後)は近代医療の病院の設立や感染症撲滅のプロジェクトを中心に展開した1)。つまり西洋で成功した近 代医療を発展途上国に導入しようとした。しかし多くの途上国の人々は近代医療の治療法、近代医療が説明する発病の概念や予防法を受け入れなかった。しかし それは、しばしば彼らに対してステレオタイプされる「医療に無知」であったからではない。なぜなら固有の伝統的な医療実践をもち、それにマッチした身体や 病気あるいは「現地の人々にとっての健康」という概念が既にあったのだ。南アメリカのエクアドルにおける米国のプロジェクトでは、米国本土で成功した公衆 衛生の成果を応用させようとしたが、予防よりも直接的な治療をもとめる住民に相手にされなかった2)。つまり、近代医療は伝統的な社会に対して馴染まず、 その末に異質なものとして排除されたという見方が、今日では一般的である。

さらに社会経済的条件の(西洋から見た) 劣悪さが近代医療の導入を妨げた。病院や医療機器の提供という医療援助が行なわれたあと、授与され た途上国はその保守部品、消耗品、医療技術者の養成等の維持管理の為に、更に先進国に依存しなければならない。それが出来ないとき近代医療の質は急激に落 ちる。近代医療は医薬品や先端技術で代表される先進的な成果によって効果をあげてきたのではなく、その土台を支える社会の環境制御や食生活における栄養の 改善によって成功を収めたといわれるが3)、無論、そのなかで経済的な基盤も重要な役割を果たしている。

物質に訴えることに失敗した援助国側は、 のちに心理学者、社会科学者とくに人類学者などを動員して、「住民に理解可能なプロジェクト」を推 進していく。そこで得られた結論は、人々の間に近代医療を普及させるためには、まず現地の伝統的な考え方を十分理解し、彼らに分かりやすい言葉と概念でプ ロジェクトを遂行していかねばならないということであった。このような戦略が世界の発展途上国の多くの村落で試みられ、その実行にかんする知識が集積され た。また折しも世界保健機構のプライマリーヘルスケア(1978)の理念が提唱された。プライマリーヘルスケアに基づく保健戦略が伝統的な村落社会の医療 状況の改善に寄与していることは否定できない事実だが、戦術の変更の提案がなされたり、一部の政治経済学や文化批判論からは戦略自体を疑問視する主張もあ る4)5)6)。

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☆人間の生殖活動

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一般に人間の生殖活動、つまり出産、分 娩、育児にかかわることは、伝統的には社会的な(専門職ではないという意味での)慣習の中に位置づけ られており、近代医療の対象の圏外にあった。慣習と言っても、多くの伝統的な社会には「産婆」と呼べるような役割があり、女性の性役割と密接に関係する専 門度の高い役割を担っているのは周知の事実である7)。(「出産という文化」)

伝統医療が取り扱う領域のうち、出 産は早くから近代医療の影響を受けはじめたもののひとつである。プライマリーヘルスケアの理念が提唱され る以前から世界保健機構では、伝統的な産婆の調査に着手しはじめており、ユネスコも母子保健の要として伝統的産婆の技術改善や教育という「指導」を行なっ ている。産婆に対する指導の特徴は次のようなものである。すなわち細菌学に基づく殺菌の思想の普及や簡便な母子保健教育の普及、異常分娩が見つかった時に 近代医療にアクセスすること、である。このような教育的配慮の正当性は近代医療の教育を受けた者には容易に想像できるが、伝統側からの反発は当然予想され た。しかし、このような出産をめぐる近代医療側の働きかけに、伝統的な医療は、表面的には目立った齟齬もなく受け入れたようである。これは産児調節におけ る世界各地での反発と計画の失敗と比べると極めて対照的である。

近代医療の与えたインパクトは産婆より も、母親にたいして、より大きかった。より「安心できうる」近代医療への信頼ゆえにやって来た妊婦た ちによって、途上国の近代医療の病院や診療所の分娩室は常に満杯で、時に待合室で出産することも稀ではない(ナイジェリアとホンジュラスにおける佐藤純一 と筆者の観察による)。他方、欧米や日本の近代的な管理された出産の場が、計画的でかつ「安全で快適な」−それは必ずしも妊婦の為ではなく医療スタッフの 為のことでもあるが−を求めて改善されている。女性のライフサイクルのなかの「自然な」出来事としての出産を、近代医療は病気として取り扱い、その医療制 度のなかの「治療」として位置づけるようになってきた。このような流れは日本や欧米だけではなく、途上国の近代医療がある程度アクセス可能な地域において も同様の傾向がある。

近代医療批判や「自然出産運動」の視点か ら見ると、近代医療のイデオロギーが伝統社会やその医療が支える「自然な」出産を一方的に抑圧、解 体していくように見える。しかし事態はもっと複雑である。また「伝統的な社会では出産が女だけに任されており、近代医療において男の産科医が独占(日本で は9割)しているのは自然ではない」という主張も疑問である。伝統的な社会では、妊娠や出産に際して夫が妻と共に、あるいは独特の禁忌を守ったり、時には 身体症状を示したりする現象がある(これをクーバードあるいは偽娩(ぎべん)という)。また、男性が産婆として活躍する社会も幾つかあり、難産のときには 男性のシャーマンや呪医が呼ばれたりすることもある。そうすると問題は男女の領域を排除的 に区別するではなくて、むしろ、その社会や文化が規定する性役割 の在り方にあるのではないか。

自然分娩運動にみられるように、出産の脱 医療化を目指す人たちはエコロジー運動で代表される、有機農業、自然食、ヨガなどの伝統的な価値観 から学びとろうとする志向性をみることができる。つまり、近代医療の否定的側面を「伝統」の再評価あるいは復古によって改善していこうとする。興味深いこ とに、この場合の脱医療化も「安全で快適な」出産を求めているのである。これは先端医療化を押し進める近代的な態度に対して、「内発的発展」をめざす性格 を有していると言えよう8)。

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☆工業医薬品

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今まで見てきたように、近代医療は単に制 度として伝統医療に出合うのではない。近代医療は「西洋化」「近代化」あるいは「白人化」という現 象の象徴として捉えられることも多い。無論、近代医療という確固とした実体はなく、それが提供する具体的なものを通して近代医療がイメージ化される。具体 的なものとは、例えばガラス瓶や美しいプラスティックに包装された近代医薬、点滴を含む注射、医療者の白衣や聴診器という小道具にはじまって、医療機器、 公的あるいは施設の診療所や病院に至るまでのすべてのものを指す。そのなかで、最も身近でかつ影響力を持つ近代医療のイメージを形成もののひとつは工業医 薬品であろう。幾つかの他国籍企業によって世界的規模で大量に生産されているこの医薬品は、資本主義における工業製品の中でも非常に特異的な地位を占め る。すなわち、全世界であるいは各国で、市場規模が大きい。薬の価格や薬効を企業は決定することができるのにもかかわらず、商品化された医薬品は価格やそ の効能書がまちまちである。医薬品は一般に多額の宣伝費が使われるが、実際に、その販売量はそのものの薬効ではなく、広告やセールスマンの活動にたいへん 影響されやすいことなどである9)。

人々が専門家の指導のもとに投薬を受け、 理想的に管理されることが、近代医療を推進する側にとって必要であることは言うまでもない。患者や 患者の家族などの近縁者が病気に対して薬を選択し投与する「自己投薬」(self-medication)は、それゆえ、有効に指導し管理さえすれば、近 代医療従事者のところにわざわざ出向いて行かなくても迅速に疾病をコントロールすることを可能にする点で注目されうる。現に、世界保健機構では村落部のよ うな高度な医療が実現できない所においてもプライマリーヘルスケアを有効に推進するため、基本的な医薬品のリスト(必須医薬品)を挙げている10)。自己 投薬は有益な治療選択の一つとなるはずであった。

だが、そのようなプライマリーヘルスケアの戦術のひとつとな る以前から、医薬品は市場経済の枠組みの中で商品としての役割を充分過ぎるほど 果たしていた。自己投薬行為を分析した研究の多くは、それらの行為は近代医療の視点からみたところの「合理的な行動」ではないことを報告している。すなわ ち、人々が医薬品を購入する際の知識は、家族や知人、そして薬店の店員から教えられたものが多く、投薬量や回数も十分守られず、短期間の効果が得られない 場合は、投薬を継続しないという。また薬草などの民間薬との併用も観察される。

近代医療からみると、非合理的で一貫性の 無いようにみえるこの行為も、しかし、人々の生活や習慣から解釈すると全く別の側面が見えてくる。 薬には薬草などの伝統的医薬と工業医薬品とに大まかに分けられるが、工業医薬品は人々の伝統的な医薬に関する考えの中で様々な、そして時には象徴としての 意味までも与えられる。医薬品は投薬後すぐに効くものだと人々は考える。そのような理解の文脈において、速効性のある抗生物質が人々によって選好されてい くことは無理もないことであった。抗生物質の市場規模の拡大は、科学的評価および民間の人気と共鳴した結果であった。無論、製薬会社がそのような売れる医 薬品を提供してきたのは、医療の論理ではなく、市場の論理という動機に基づくものである。

また良心的で合理的な理念に基づく「基本 医薬品」よりも、外国製品で、値段が高い医薬品が好まれ、時に乏しい家計の大部分を占めたり、多大 な借金をしてまで購入される。この「名薬は遠くからやって来る」という思考は我々の社会の中にも根強くあり、これを単に合理的な行動からの逸脱と決めつ け、発展途上国の人々だけの問題とすることではその解決はおぼつかないだろう11)。我々の行為の中に潜む文化的な影響力を再認識する必要があろう。

引用から

報告書「薬価引き下げの謎を解く(第15 版)」(2012年7月発表)より「世界の中所得国で、特許保護期間中の薬の価格が下がる現象が起 きています。各政府が、特許権者の許諾なしに第3者に特許内容の使用を認める「強制実施権」を発動しているためです。その背景と影響をまとめ、MSF(国 境なき医師団)の提言を掲載しました。」https://www.msf.or.jp/about/access_campaign/overcome.html

UNTANGLING THE WEB OF ANTIRETROVIRAL PRICE REDUCTIONS - 15th Edition – July 2012

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☆伝統医療の刷新

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伝統医療はその言葉が喚起するイメージからか、万古不易であると思う人が多いが、現実はそうで はない。その内部においては多様性があり、絶 えざる変化がある。そして自ら革新していく側面があることも否定できない。通底する理念としては、近代医療のほうがむしろ一枚岩的な「普遍性」を墨守して いるようにも見える(クーン『科学革命の構造』参 照)。伝統医療の不変性は、単に観察される現象の中だけではなく、その歴史的な表現のなかで強化され、我々の心 に刻みつけられたイメージでもある。その意味において、現代社会における伝統医療の刷新(イノベーション)の部分に注目する意義は重要である

伝統医療の治療師は単一の業種・役割から 構成されるのではない。呪医(まじない師)、薬草師、信仰治療師、占い師、伝統的な産婆、マッ サージ師、接骨師、注射処方師など、世界の各地で報告された役割のカテゴリーは多岐にわたる。これらはそれに携わる本人達の自称、人々の他称、あるいはそ れを記載した研究者のレッテルが混在しているが、経験的に大ざっぱな分類は可能である。まず、そのことを認めなければならない。

治療者の様々な役割カテゴリーにたいする 近代医療の影響を調べたカリブ海のハイチ共和国での研究がある12)。それによると、より伝統的 な宇宙観を重要視する儀礼を行なう治療師「呪術師」ほど、近代医療が提示する経口補水療法などの新しい要素の受け入れに対して抵抗する。反対に、伝統的な 概念に基づきながらも近代医療を擬態した「注射療法師」や、プライマリーヘルスケアによる指導を通して近代医療と接触する機会の多い伝統的な「産婆」など が近代医療の新しい要素を受け入れやすい。

既に出産の箇所で触れたが、伝統的な産婆 の近代医療による「指導」とは個々の産婆への理念の伝達および普及ではなく、伝統的産婆法から近 代的なそれへの転換、あるいは伝統的産婆法の衰退という具体的かたちであらわれる。例えば、中央アメリカの伝統的な産婆の多くは同時に薬草師や呪医であ る。彼女たちは伝統的な出産法である座産に信頼を寄せ、出産の際には民俗的なカトリック信仰に基づく祈りのことば(oraci<n)を神−その多く は聖マリア−に捧げる。出産後も、産婆は新生児と産褥婦と関係を保ち、薬浴(薬草の湯で行水する)などの指導をしたり、小児の発育や病気を看ていたとい う。これに対して近代医療が指導する助産法が、伝統医療を「指導」の名のもとに行なうことは、まず妊産婦にたいする破傷風の接種や出産時の消毒の徹底であ り、そのための用具を伝統的産婆に支給する。この用具箱(多くはアルミのケースに鋏、剃刀、包帯、脱脂綿、アルコールなどがセットで収納されている)は現 在では共同体における公認された産婆のシンボルとなっている。また近代的な出産法は座産ではなく仰臥による姿勢であり、病院の分娩室のものと同じである。 この分娩の際の姿勢の変化は、伝統的な産婆にとっての「近代化」のシンボルであり、しばしば述懐される。

先のハイチの事例は、近代医療の影響を受 けて伝統医療が刷新する際に、その全ての業種が一様に変化しているのではなく、ある特定の業種か ら不均衡に広がっていくことを示唆している。また中央アメリカの事例では、同一の治療師のカテゴリーにおいて、刷新は特定の「新種」の業務が受容されてい く過程であり、個人の新技術への改宗が見られる。その際の変化は一様ではなく、モザイク状に起るのであろう。先の例に即して言えば、座産が放棄された後 に、予防接種や消毒の概念が受け入れられるようである。他方、既成の伝統医療の治療師たちが、利権の獲得や政治的な団結を旗印に自分たちの職分を近代的な 制度として確立しようとすることもある13)。その現象にともない、各々の業務に対する近代的な職分のアイデンティティーの確立や「業界」の成立や業界内 における情報交換は、刷新の性格をさらに多様化させるだろう14)。

伝統的医療の刷新は既成のものが質的に変 化することだけではない。「伝統」的な様相の下で、−これは形容矛盾であるが−新たな伝統医療が 創成されることもある。近代的なラテンアメリカの都市部には、クランデーロと呼ばれる治療師がおり、彼らの言う「昔ながらの伝統的な」治療を行なっている 15)。また、ペルーの著名な治療師はそのライフヒストリーや儀礼の内容が詳細に報告されているが、儀礼に登場する種々のシンボルやテーマは、新たな追加 や削除が見られるという16)。東ウガンダのニョーレ族の社会では、過去50年の内に近代医療が受け入れられたが、その間に邪術に対して効力のある新しい 呪医のカテゴリーが生まれた。それは従来の邪術に対する処方とは異なり、近代医療とそっくりに「薬」処方するという。これを報告したホワイトは、病因を社 会的な人間関係に遡及する邪術の原因追求の論理に対して、個人のレベルで病因を追求し治療を開始する近代医療の影響下においてこの呪医による療法が確立し たと述べている17)。

以上の例の多くは伝統医療が既存のものと して確立しているところでの、近代医療側からの接触が主となった。しかし、欧米や日本において近 代医療が主流である−あるいはそう考えられている−ところに、伝統医学的な実践なり概念が入ってくる事態も生じる。例えば、現代の日本における漢方医薬品 の流行、鍼灸の再評価、ジョギングなどの健康促進の身体的トレーニングあるいは自然食品にみる健康主義(ヘルシズム)運動がある。その場合は先のように、 近代医療が来るべき新しい代替物として機能するのではなく、伝統医療が近代医療の代替として機能することとなる。(→「ヘルス・プロモー ションとヘルス・アドボカシー」)


富山駅にある、伝統医薬の薬売りの像「富 山のくすりやさん」(詳しい説明はページ末にあります)

富山県厚生部くすり政策課「くすりの富山県」 (pdf)2018年

出典:池田光穂『実践の医療人類学』世界思想社、2001年

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☆認知体験への影響

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人々の認知や知覚にかんする体験が変容す ること、特に長い年月という単位での時間的な推移について議論することは容易ではない。「科学的 な証明」以前の憶測や、個人的経験の社会的次元への敷衍などの問題があるからである。しかし、敢えてここでその一端を紹介するのは、文化人類学をも含めた 従来の研究が、その重要性に気付きながらその論証の不完全さゆえに等閑視してきた事実に抗したいからである。

J.ウィルソンは、1950年代のアフリ カのある伝統社会において、蚊の防除ための教育用映画が上映された際、それを見た住民がどう理解し たかということを問題にしている。映像は、保健衛生員が(デング熱や黄熱病を媒介する)蚊を退治するために、村落に放置されてある空き缶に溜っている水を 捨て、缶を除去するという「ストーリー」で構成されているはずであった。しかし、映像をみた人々は、その映画の中で鶏が道を走って横切るという偶発的な シーン(それは西洋人のスタッフには殆ど気付かれなかったものだった)に注目して、「鶏を見た」と答え、蚊の防除というテーマは理解できなかったというの である。ウィルソンは「画像はそれを見る者の経験に従って解釈される」と述べ、映像を理解させるにはそのテーマに沿った「教育」が必要であるとしている 18)。→ Gitenberg_OnJohnWilsonAfrica_1962.pdf with password

この教訓は、近代医療が普及していく際の 社会的な受け入れ−あるいは反発−がある背景には、その評価や意味付けを「確証」づけるような何 等かの認知的な再編成が行われていることを示唆する。例えば、清潔や不潔の文化的な概念の相違19)は、しばしば相対的な量の差として理解されてきた。 「発展途上国の人は我々よりも不潔に関してより寛容である」という言説がそれである。清潔とそれと対をなす不潔という概念は多くの文化に見られる。しか し、それを構成する清潔や不潔の内実−あるいは指し示すもの−は文化や社会によって質的に異なった面があっても不思議ではなく、量的な差と言いきれない。 だが、近代医療が規定する清潔と不潔の概念は身体の中に浸透し、知覚レベルにおける体験を支配するようになった。すなわちこの知覚体験も後天的に共有でき ることも事実である。

卑近な例だが、中央アメリカのあるメス ティーソの村落に筆者が滞在している時、非常に「汚い」1匹の野犬が我々の前を横切った時に、村人 たちは大人も子供もこぞって地面に唾を吐き捨てた。私はこれは、彼らにとって汚いものの視覚体験が、唾液を分泌させるのだと考えた。しかし、それは後に彼 らが「不快な臭い」を嗅いだとき、そうするのだと意図的な調査の中で気付いた。私は野犬の不快な臭いを知覚することができなかったのだ。また、海外、特に 発展途上国での生活経験を持ちはじめた−私を含めた−日本人に見られる知覚体験(特定の臭いに敏感になったり、吐き気を催すこと)と文化的偏見の相関性に 如実に現われている。途上国に赴任したての新人のボランティアーは、「現地人」に対する文化的な偏見を不快な臭いというかたちで露骨に表現する。しかし、 ある程度の滞在期間が過ぎると同時に、そのような不満が聞かれなくなる−これは年に数回ある彼らの派遣の度に感じた興味深い体験であった。

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どのように研究されたか?

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以上、近代医療と伝統医療の出会い が生じる問題について簡単に触れた。近代医療と伝統医療が接するプロセスは多様であり、それをどのよう に理解するかが様々な角度から考察することができる。しかし、その研究の現状をみると、各々の論者が「医療」の位置付け、すなわち、定義や概念規定を曖昧 にしたままにし、各人の歴史観や発展観を暗黙の中に潜ませ、さらに解釈する側の道徳観や態度などが入り込んでいるため、それは混乱を極めている。ここで は、やや極端な断定を行なうかも知れないが、論点を明確にするため−文化人類学に造詣の深い読者には旧知のことかも知れないが−整理しておこう。 

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☆伝統−医療と「発展の論理」

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まず、医療という概念と「伝統医療」の定 義というふたつの問題が挙げられる。ここで医療と医学の定義という旧知の問題は、中川による必要 かつ十分な議論がされているので、それ以上の展開することはしない20)。ただ、「医学」という名の定立の背景に、自然科学を規範とする医療者集団の専門 職支配という社会的かつ社会的な志向性を読みとらなければならない、という彼の指摘をここで再び銘記すべきである。それゆえに、医学または医療あるいは medicine という概念は、限定された領域というイメージを喚起し易い。この状況は我が国のみならず、欧米でも同様で、従来行われてきた医療の社会文化的な研究には、 最近では健康あるいは保健の名がすすんで冠されるようである。

次に伝統医療の定義の問題である。現代中 国における中医学やインドでのアーユルベーダなどの幾つかの例外を除いては、近代医療と対峙する かたち−すなわち相同−の「伝統医療」は存在しない。伝統医療の多くは非西洋医療または非西欧医療と呼ばれるものである。これはこの用語の他に、原始的医 療、未開医療、非科学的医療、魔術的医療、土着的医療、文化特異的医療などの異名をもつ。すなわち伝統医療とは、近代医療で捉えられた社会的枠組みから逸 脱した<排除的カテゴリー>である。従って、伝統医療は、近代医療の理念型という準拠枠から外れたもの全ての属性を具有する総体でもあり、それは我々の観 念が作りだした想像上のカテゴリーにほかならない。この概念は、現代社会における近代医療の位置を明らかにするのに大変貢献したが、同時に弊害も生んだ。 弊害とは伝統医療の理念化への固執−例えば<伝統医療は普遍的である>−と道徳的な理想化−<伝統医療は素晴らしい>−である。そのためか、現在の医療人 類学の著作には伝統医療の極端な理念化をすることは見かけなくなつた−勿論現在でも、自己の領域を対外的に宣伝する医療人類学者と、この分野に親しみを抱 くマージナルな研究者は好んでこのステレオタイプを多用するが。

このような伝統医療概念が使われる社会的 背景として考えられるのは、医療が社会的問題とされる時に使われる社会科学者の隠喩(メタ ファー)としての「発展の論理」である21)。マルクス主義経済学における発展的歴史観やロストウの経済成長の理論にみられるような、発展を時系列(特に 単系的なそれ)に沿って理解するような思考パターンが、これである。例えば、経済学の「近代化論」における村落社会理解において<村落は都市に比べて開発 すなわち近代化が遅れており、発展途上国では近代化はまず都市に伝播され、その後に村落が近代化される>という見方である。このような見解は従属論経済学 の立場によって、<都市と村落の発展の落差という不均衡は同時に存在するのであり、そのことが近代化の構造を支えている>という批判を受けた22)。文化 人類学の領域では、「発展の論理」既に今世紀の前半において進化主義的な人類学理論の批判と機能主義の登場によって現在では克服されたかのように思える (詳しくは文献 23)を参照のこと)。だが、人類学分野における後発的な領域である医療人類学において、例えば<伝統医療の克服としての近代医療>というような「発展の 論理」にしばしば出会うのである。

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☆医療の民族誌

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もっとも、このような論の展開は現在の支 配的な医療体制の側にあまりに引き寄せられたものであり、医療人類学が提示した独立したユニーク な立場もあることを最後に述べておこう。本来この分野は、「医療」を伝統医療と近代医療という二つの領域に分けて考える際に「発展の論理」という歴史観を 持つことは少ない。時間感覚を持つといってもそれは文化の質的な変化における結果や過程(文化変化や文化変容と呼ばれる)に注目する。また変化よりもある 特定の時間における集団の機能や構造に注目した「医療の民族誌」と呼べるような領域もある。これには現在、二つの方向性を指摘することができる。すなわち (1)文化人類学の古典的な研究テーマとして以前よりあった伝統的(未開、無文字、部族、非西洋などの別称がある)な社会を対象とする「民族医療」研究 と、(2)近代医療そのものを研究対象とするものである。

民族医療(エスノメディスン)とは、おも に伝統医療−この場合には多くはまじないや祈祷、非西洋医療などの信条や実践を指す−を研究対象 として、ある民族や社会集団が病気や不幸の原因をどの様に考えるか(病因論あるいは災因論)、実際に病気になったときにどう対処するか(治療行動)、使わ れる薬やその成分は何か(民族薬学)、病気をどの様に分類するか(疾病論および病気のタクソノミー)などを検討する。この領域には「研究のための研究」と いう自足的な研究姿勢も見れないことはないが、民族医療を論じることによって、その社会を適切に描写しようする試みがあることも否定できない。

現代医療を直接観察の対象とする民族誌 は、臨床人類学や看護領域の研究分野で試みられ、そのテーマは多岐に渡っている(本誌の福井論文や 南論文を参照)。例えば、医療者が普段見落としがちな患者の病院外での生活や価値観の記述、「清潔」と「不潔」が認知的かつ儀礼的に分けられる手術室にお ける外科医の行動や意思決定過程の分析、内科医や小児科医の世界、医学生の通過儀礼としての解剖実習などの専門職集団のあり方や形成、出産や閉経などの女 性のライフサイクルの中の現象が現代医療の対象となっていく医療化の問題、患者や医療者のふるまいの社会や文化による差異の研究などがある。また、米国で は言語や文化による差異にたいして患者集団の民族誌や文化人類学的な知見をもとにケアを試みる「多文化に渡る看護」などという領域も出現している。このよ うな研究は、しばしば臨床に携わる一部のスタッフからは好事家(ディレッタント)的仕事と批判されることがある。しかし、先に述べた民族医療の研究におい て洗練された方法を近代医療に応用することで、インサイダーには常日頃見えない問題点を指摘した貢献は評価されるべきであろう。

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展望

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本稿は前半において、伝統医療と近代医療 が出合う場と、そこで起っている変動というものを紹介した。そして後半では、この伝統と近代の 「医療」概念の二分法が持っている曖昧さや問題点を指摘した。伝統および近代医療を含めた複数の医療の存在である多元的医療システムなどの紹介は別稿 24)に譲りたい。

医療人類学が独自性を保てるのは、この分 野がもつ「医療」にたいする相対的なスタンスの取り方であろうと思われる。無批判に使っていた伝 統医療の概念が数々の事例報告によって問題視されるようになってきた。そして近代医療の人類学的研究が進む今後、従来の一面的な近代医療のイメージが批判 され、その多様な在り方や社会文化的な側面が問題とされるようになるだろう。また、そのように研究をすすめていくべきであろう。

富山駅前にある、富山売薬 人像:オリジナルは1949年に富山市制60周年として松村外次郎によりコンクリート像として制 作、1990年に横山豊介監修で、富山市制100周年記念ブロンズ像として再現された。筆者撮影(2017年2月撮影)

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 TRIPS協定と公衆衛生に関する宣言

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【骨子】出 典はこちら

1.HIV/AIDS、結核、マラリアや他の感染症といった途上国等を苦しめている公衆衛生の問題の重大さを認識。

2.TRIPS協定がこれらの問題への対応の一部である必要性を強調。

3.知的所有権の保護の、新薬開発のための重要性を認識。医薬品価格への影響についての懸念も認識。

4.TRIPS協定は、加盟国が公衆衛生を保護するための措置をとることを妨げないし、妨げるべきではないことに合意。公衆衛生の保護、特 に医薬品へのアクセスを促進すという加盟国の権利を支持するような方法で、協定が解釈され実施され得るし、されるべきであることを確認。

5.TRIPS協定におけるコミットメントを維持しつつ、TRIPS協定の柔軟性に以下が含まれることを認識。

 (a) TRIPS協定の解釈には国際法上の慣習的規則、TRIPS協定の目的を参照。

 (b) 各加盟国は、強制実施権を許諾する権利及び当該強制実施権が許諾される理由を決定する自由を有している。

 (c) 何が国家的緊急事態かは各国が決定可能、HIV/AIDS、結核、マラリアや他の感染症は国家的緊急事態と見なすことがあり得る。

 (d) 知的所有権の消尽に関して、提訴されることなく、各国が制度を作ることができる。

6.生産能力の不十分または無い国に対する強制実施権の問題はTRIPS理事会で検討し、2002年末までに一般理事会に報告。

7.後発開発途上国に対する技術移転促進を再確認。後発開発途上国に対して2016年1月まで医薬品に関しては経過期間を延長。66.1の経過 期間の延長を求める権利を妨げない。

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 リンク

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伝統医療データベース
TradMPD: Traditional Medical & Pharmaceutical Database
ツムラが本場・中国で「伝統医薬」に挑むワケ(東洋経済)2017年10月26日
西村もも子「 TRIPs協定の形成過程における日米欧民間三極会議」(pdf)『知的財産法政策学研究』 Vol.37, pp.57- , 2012.
WTO, Regional trade agreementsthe RTA Database.
福田聡「TRIPS 協定とPublic Health:~ドーハ宣言パラ6システムを中心に~」(pdf)
東西医学を統合したヘルスケアシステムをつくる── 健康寿命を延ばす、豊かな社会への挑戦「あしたのコミュニティラボ」2014年1月 20日
漢方医学から世界標準をつくる ISO/TC249における北里大学・富士通の挑戦(前編)「あしたのコミュニティラボ」2014年9月 22日
漢方医学から世界標準をつくる ISO/TC249における北里大学・富士通の挑戦(後編)「あしたのコミュニティラボ」2014年9月 24日
ISO/TC249 - ISO

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 参考文献

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クレジット:池田光穂,伝統医療と近代医 療が出会うとき—「医療」の二元論再考,メディカルヒューマニティー,4巻2号,pp.24-31 ,1989 年7 月

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Robert Alexander Nisbet (/ˈnɪzbɪt/; September 30, 1913 – September 9, 1996) was an American conservative sociologist, a professor at the University of California, Berkeley, vice-chancellor at the University of California, Riverside, and an Albert Schweitzer Professor at Columbia University.

Life
Nisbet was born in Los Angeles in 1913. He was raised with his three brothers and one sister[1] in the small California community of Maricopa,[2] where his father managed a lumber yard. His studies at University of California, Berkeley culminated in a Ph.D. in sociology in 1939. His thesis was supervised by Frederick J. Teggart. At Berkeley, "Nisbet found a powerful defense of intermediate institutions in the conservative thought of 19th-century Europe. Nisbet saw in thinkers like Edmund Burke and Alexis de Tocqueville—then all but unknown in American scholarship—an argument on behalf of what he called 'conservative pluralism.'"[2] He joined the faculty there in 1939.[1]

After serving in the United States Army during World War II, when he was stationed on Saipan in the Pacific Theatre, Nisbet founded the Department of Sociology at Berkeley, and was briefly chairman. Nisbet left an embroiled Berkeley in 1953 to become a dean at the University of California, Riverside, and later a vice-chancellor. Nisbet remained in the University of California system until 1972, when he left for the University of Arizona at Tucson. Soon after, he was appointed to the Albert Schweitzer Chair at Columbia. He was elected to the American Academy of Arts and Sciences in 1972 and the American Philosophical Society in 1973.[3][4]

On retiring from Columbia in 1978, Nisbet continued his scholarly work for eight years at the American Enterprise Institute in Washington, D.C. In 1988, President Ronald Reagan asked him to deliver the Jefferson Lecture in Humanities, sponsored by the National Endowment for the Humanities. He died, at 82, in Washington, DC.

Ideas

Nisbet's first important work, The Quest for Community (New York: Oxford University Press, [1953] 1969), claimed that modern social science's individualism denied an important human drive toward community as it left people without the aid of their fellows to combat the centralizing power of the nation-state. New York Times columnist Ross Douthat called it "arguably the 20th century's most important work of conservative sociology."[5]

Nisbet began his career as a leftist but later confessed a conversion to a philosophical conservatism.[6] While he consistently described himself as a conservative, he also "famously defended abortion rights and publicly attacked the foreign policy of President Ronald Reagan."[7]

He was a contributor to Chronicles. He was especially concerned with tracing the history and impact of the Idea of Progress.[8] He challenged conventional sociological theories about progress and modernity, insisting on the negative consequences of the loss of traditional forms of community, a process that he believed was greatly accelerated by World War I. According to British sociologist Daniel Chernilo, for Nisbet, "The sociological interest in the formation of modern society lies in whether and how it can re-invigorate forms of communal life and, if not, in understanding what will be the consequences of such failure." Nisbet, thus, "inverts what had been until then the mainstream proposition that society was more important, both historically and normatively, than community."[9] Chernilo also critically observed that Nisbet's "argument on the Great War [World War I] that marks the transition from community to society offers a one-sided view of the historical process as moving unequivocally towards a decaying condition."[10]
ロバート・アレクサンダー・ニスベット(Robert Alexander Nisbet, /ˈn↪Ll_26A, 1913年9月30日 - 1996年9月9日)は、アメリカの保守派社会学者で、カリフォルニア大学バークレー校教授、カリフォルニア大学リバーサイド校副学長、コロンビア大学ア ルバート・シュバイツァー教授を務めた。

生涯
ニスベットは1913年にロサンゼルスで生まれた。3人の兄弟と1人の姉[1]とともに、カリフォルニア州の小さなコミュニティであるマリコパで育った [2]。カリフォルニア大学バークレー校で学び、1939年に社会学の博士号を取得した。博士論文はフレデリック・J・テガートが指導した。バークレー校 では、「ニスベットは、19世紀ヨーロッパの保守思想の中に、中間的制度の強力な擁護を見出した。ニスベットはエドマンド・バークやアレクシス・ド・トク ヴィルのような思想家の中に、彼が『保守的多元主義』と呼ぶものを代弁する論拠を見出した。

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍に従軍し、太平洋戦域のサイパンに駐留した後、ニスベットはバークレーに社会学部を創設し、短期間ながら学部長を務めた。 1953年、ニスベットは袂を分かったバークレーを去り、カリフォルニア大学リバーサイド校の学部長、後に副学長となった。1972年にアリゾナ大学ツー ソン校に移るまで、ニスベットはカリフォルニア大学システムに留まった。その後すぐに、コロンビア大学のアルバート・シュバイツァー講座に任命された。 1972年にはアメリカ芸術科学アカデミーに、1973年にはアメリカ哲学協会に選出された[3][4]。

1978年にコロンビア大学を退職すると、ニスベットはワシントンD.C.のアメリカン・エンタープライズ研究所で8年間研究活動を続けた。1988年、 ロナルド・レーガン大統領から、国民人文科学基金主催のジェファーソン人文学講義を依頼された。82歳、ワシントンDCで死去。

思想

ニスベットの最初の重要な著作である『共同体の探求』(ニューヨーク:オックスフォード大学出版局、[1953] 1969年)は、近代社会科学の個人主義は、国民国家の中央集権に対抗するために仲間の助けを借りずに人々を置き去りにし、共同体を目指す人間の重要な衝 動を否定していると主張した。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストであるロス・ダウサットは、この著作を「間違いなく20世紀で最も重要な保守的社会 学の著作」と呼んだ[5]。

ニスベットは左翼としてキャリアをスタートさせたが、後に哲学的保守主義への転向を告白している[6]。一貫して保守主義者であると自称する一方で、「中絶権を擁護し、ロナルド・レーガン大統領の外交政策を公に攻撃したことでも有名である」[7]。

彼は『クロニクルズ』の寄稿者であった。イギリスの社会学者ダニエル・チェルニロによれば、ニスベットにとって「近代社会の形成における社会学的関心は、 それが共同生活の形態を再び活性化させることができるかどうか、またどのようにできるかにあり、もしできなければ、そのような失敗の結果がどうなるかを理 解することにある」。したがってニスベットは、「社会が歴史的にも規範的にも共同体よりも重要であるというそれまで主流であった命題を逆転させた」のであ る[9]。またチェルニロは、ニスベットの「共同体から社会への移行を示す第一次世界大戦[第一次世界大戦]に関する議論は、歴史的プロセスが衰退した状 態へと明白に向かうという一方的な見方を提供している」と批判的に観察している[10]。
Books
1953. The Quest for Community: A Study in the Ethics of Order and Freedom
1966. The Sociological Tradition
1968. Tradition and Revolt: Historical and Sociological Essays
1969. Social Change and History: Aspects of the Western Theory of Development
1970. The Social Bond: An Introduction to the Study of Society
1971. The Degradation of the Academic Dogma: The University in America, 1945–1970
1976. Sociology as an Art Form
1973. The Social Philosophers: Community and Conflict in Western Thought
1974. The Sociology of Emile Durkheim
1975. The Twilight of Authority
1980. History of the Idea of Progress
1983. Prejudices: A Philosophical Dictionary
1986. The Making of Modern Society
1986. Conservatism: Dream and Reality
1988 The Present Age ISBN 0060159022
1988. Roosevelt and Stalin: The Failed Courtship
1992. Teachers and Scholars: A Memoir of Berkeley in Depression and War
Articles
"Foreign Policy and the American Mind". Commentary (September 1961, pp. 194–203).
"The Nemesis of Authority" (PDF). The Intercollegiate Review. Winter–Spring 1972.
"The New Despotism". Commentary (July 1976).
"Conservatives and Libertarians: Uneasy Cousins". Modern Age. Winter 1980.
"Roosevelt and Stalin (I)" (PDF). Modern Age. Spring 1986.
"Roosevelt and Stalin (II)" (PDF). Modern Age. Summer–Fall 1986.
"Still Questing" (PDF). The Intercollegiate Review. Fall 1993.
"Was There an American Revolution?," The American Conservative, August 3, 2012.
"social science," Britannica Academic. (Primary Contributor)
書籍
1953. 共同体の探求 秩序と自由の倫理に関する一考察
1966. 社会学の伝統
1968. 伝統と反乱:歴史的・社会学的エッセイ
1969. 社会変動と歴史: 西洋発展論の諸相
1970. 社会の絆:社会研究序説
1971. アカデミック・ドグマの劣化: アメリカの大学、1945-1970
1976. 芸術としての社会学
1973. 社会哲学者たち 西洋思想における共同体と対立
1974. エミール・デュルケムの社会学
1975. 権威の黄昏
1980. 進歩の思想史
1983. 偏見 哲学辞典
1986. 現代社会の形成
1986. 保守主義 夢と現実
1988年 現代 ISBN 0060159022
1988. ルーズベルトとスターリン 失敗した求婚
1992. 教師と学者 不況と戦争のバークレー回想録
論文
「外交政策とアメリカ人の心 コメンタリー』(1961年9月号、194-203頁)。
「権威の宿敵」(PDF). The Intercollegiate Review. 1972年冬春号。
「新しい専制君主制」. コメンタリー(1976年7月号)。
「保守派と自由主義者: Uneasy Cousins」. Modern Age. 1980年冬号。
「Roosevelt and Stalin (I)" (PDF). モダンエイジ。1986年春号。
「ルーズベルトとスターリン(II)" (PDF). モダンエイジ。1986年夏-秋。
「Still Questing" (PDF). The Intercollegiate Review. 1993年秋号。
「アメリカ革命はあったのか?" The American Conservative, August 3, 2012.
「社会科学」ブリタニカ・アカデミック。(主要寄稿者)
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Nisbet






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