かならずよんで ね!

医療人類学における伝統医療

 Traditional Medicine in Medical Anthropology in Japan

池田光穂

私のウェブページは手元のバックアップファイルで(約12,000ファイルのうち2/3がhtmlの拡張子ゆえ)推 計8,000ページ弱あるようなのだが、グーグルでのサイト内検索で「伝統医療」は約540件ほどあります。全体のページのおよそ7%に「伝統医療」が含まれ る計算になる。私は医療人類学者であるが、それほど伝統医療という用語は頻出語彙なのであろう。それゆえ、「鍼灸や漢方が専門の研究者及び臨床家および国 際法や知的財産の識者=専門家のみなさまには、「なぜ日本の医療人類学では、日本の伝統医療を研究対象として来なかったのか?」という質問は、事実と異な り、医療人類学はこれまで十分に日本の伝統医療を研究対象にしてきたといえる。したがって、私は、「なぜ日本の医療人類学では、日本の伝統医療を研究対象として来なかったのか?」という質問そのものが事実誤認にもとづくものであると断言せざるをえません。

それにおいてもなお「医療人類学における伝統医療」というものの解説を求められるのであれば、ここで開陳してみようと思います。

私の専門とする地域は新大陸とよばれている南北のアメリカ大陸である。そこが中心であるが、これまでアジア地域においても医療人類学的な研究調査をおこなってきました。その内容は、今から10年ほど前に「アジアの医療人類学入門」という内容での授業資料があるので、まず、そこから、みなさんを誘おうとします。

では、これまですでに使ってきましたが、伝統医療/伝統的医療についてお話しよう。つまり私は「伝統医療・伝統的医療」 ではこう解説しています:「伝統医療とは、文字通り古くからある医療のことである。しかし、例えば、ヒポクラテスの医療は、アスクレピオスの医療に比べると 伝統医療と呼び がたいという心証をもつ研究者がいるという経験的事実が、伝統医療という言葉のニュアンスにある、非西洋医学性を物語っている。/つまり、伝統医療とは、 (1)非西洋医学の歴史的伝統をもち、(2)施術者が公教育などの近代合理的なシステムによって再生産されていない(さ れにくい)、(3)歴史的価値が認められた、医学・医術の体系をさすことばである」と。

また、「伝統医療と近代医療の二元論を超えて」というエッセーは、私が医療人類学を勉強し始めて初期の頃に書いたエッセーでですが、伝統と近代の二元論——つまり、伝統医療を近代医療の対比のなかで捉える視点——がいかにナンセンスで馬鹿馬鹿しいものであるのか、を論じています。

さらに、この二元論を、人間の認識がおこなう論理的な区分のゲームであるという立場から書いたものが「近代医療の欠如概念としての伝統医療」です。

日本における伝統医療の相克は、明治期の近代日本が、伝統医療である「漢方」を強力にあるいは別の側面では真綿で首を締めるように、抑圧してきたことにあらわれます。それは、戦前の日本のナショナリズムや愛国主義とむすびついて、「皇漢医学(こうかんいがく)」という、素敵だがある意味でイデオロギー的に危ない、独自な医学認識体系(フランスの哲学では「エピステモジー Épistémologie」といい日本語の科学論に相当する)の呼称でよばれるサイエンスとプラクシースを生みました。

先に述べたように、伝統医療は近代医療とセットになって、じつは《ひとつの概念[一卵性双生児の双子]》なので、日本における伝統医療のことを知るためには「日本の近代医療」について知らねばなりません。そのことを明らかにしたのが「『医療と文化』について考えよう」です。自分で言うのもなんだが、私はこの議論が一番好きであり[大きな医学会で、当時の日本学術会議の会長も隣席していた関係で非常に緊張しましたが]、コンパクトながら日本でまともな議論をしている部類であると思います。

かつて医学生に向かって、近代医療は絶えず進化(進歩)し、伝統医療は進化せずに旧来の概念と実践を保持しているという考え方じゃだめだと、吹聴したことがあります。そのアジテーション(=扇動)は「医療は流 転する」 に書いてあります。再掲しましょう:「この問題を考えるときは、まず近代医療があり、それに対して伝統医療があるという二元論を捨てる必要があります。そ して、変 わりうる存在として伝統医療をみるという態度も必要だと思います。/変わらないと思われている伝統医療も、実は非常に変化しているんです。たとえば、30 年前に調べた伝統医療が現在もそのままの形で 残っているかというと、決してそうではない。/もちろん、変わらない部分はあります。たとえば、身体観は変わりにくいですよね。しかし、技術や、くすりの 内容などは、簡単に変わっ てしまう。/近代医療は、変わらなければいけない、進歩しなければいけないというような、強烈な強迫観念にとりつかれた医療システムです。伝統医 療は、どちらかというと、基本的に変わらないことをよしとする。近代医療法に対して、「昔から続いている」といって自分を正当化する。変わらないことが権 威になりえた医療なんです。/しかし、社会や病気が変われば医療も変わるのは当然でしょう。変わらなければ、人びとに見放されて滅びるしかないわけですか らね。だ から、現在残っている伝統医療は、絶えず変化してきたとみたほうがよいと思います。つまり、洋の東西を問わず医療というものは、社会の中で絶えず変化して いるものなのです」。

また、昨年(2018年)8月の愛媛大学での国際シンポジウムでは「21世紀における伝統医学:公共政策における倫理的・法的・社会的課題」について、まず考え、「マヤ伝統医学の生命倫理学The Mayan Traditional Medicine: Theories and Ethics)」について考えました。

以上のことから、私の結論は、「医療はこれまでも多 様であり、またこれからも多様でありつづける」というものです。このことを、私は、第2回多文化医療研究会「環境と健康の未来、文化とケアのゆくえ」(招 待講演)総合地球環境学研究所、京都市、2017年4月22日でおこないました。その時のスライドとテキストはそれぞれ「(スライド編)」「私たちは多文化医療について何を考えないとならないか?:テキスト編」にあります。

また、この内容は1年後に、中国の若い医療人類学を学ぶ学生・院生たちへの講義として"Should We Think about Multicultural Medical Systems?"に結実しました。

結論です。伝統医療の定義のパラドックスは、私たち は伝統は変わらないと思っていますが、伝統もまたつねに刷新し続けている。したがって、伝統医療の研究もまた、変化しつづける。伝統医療の研究はやっても やってもキリがないのは、伝統医療もまた変化しつづけているということです。それに比べると、現代医療や近代医療は、次から次へと新しい療法が登場するも のの、エビデンスにもとづく疫学者が正しく指摘するように、近代医療の進歩は人間の罹患率の改善には寄与しているものの、人間の生物学的な長寿の進展には それほど寄与していないというのが正直なところでしょう——だからといって近代医療が伝統医療に比べて極端に酷いものではありません。なぜなら、冒頭の私 の議論で語りつくしましたが、伝統医療を産出しつづける要因が、近代医療に対する人々の不全感によるものだからです。

これは、精神疾患に対する心理療法や行動療法が常に 根強い支持があるのは、(すばらしい脳科学の進歩とは裏腹に臨床現場では)薬物療法はそれほど効いてはおらず、時には患者に害をもたらすリスクもあること を、現場の臨床医やケアにかかわるスタッフが体験を通して知っているからであること。この現象ととてもよく似ています。

リンク(おさらいですこれまでリンクしてきたものを再掲します)

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