無名の先住民の作品に意匠権を与える
Awarding right of cultural representation for Anonymous Indigenous
Art Work
1)存命の、あるいは近年に物故した、先住民の芸術 や工芸作品に、非先住民の作品と同様に、意匠権(ないしは表象権)や著作権があるのは、自明の真実である。
2)また、先住民の伝統的な意匠に対して、集合的な 作者=先住民が、意匠権の権利の主張をおこない、グローバル企業による「先住民意匠の盗作」行為を糾弾できることも、先住民の当然の権利である。
3)さて、問題は、過去の無名の(あるいは製作者名が不詳の)作品に対して、だれがその意匠権(ないしは表象権)や著作権を主張することができるか?ということである。
4)かつて、柳宗悦は、生活の道具のなかに日常の美 を見出し、そこにあえて作者名を探求しない「民藝」という美に位置付けを与えた。これは、これで、美のモダニストの柳宗悦の面目躍如たる主張ではあるが、 実際には、柳による本の装丁作品、河井寛次郎のスリップウェアなど、民藝運動を支えたひとは、それぞれの芸術活動の名前のあるマスター(巨匠)たる地位を 獲得している。また、民藝運動を支えたひとは、具体的に無名だった文化そのもの(=朝鮮文化)や作家たちに唯名性というエンパワー活動を実際におこなっている。
5)これらの活動は、先住民が作り上げてきた芸術文化活動に、近代社会の名のもとに、栄誉を与える活動である。それゆえ、縄文時代の国宝の土偶のように、名も無い先人たちの作品は、いまだ、名誉復権の栄誉に与っていない。
6)逆説的だが、これとは、反対に、先住民の芸術作 品は、それ自体が存在価値をもち、無名の作者性を超えて、作品それ自体がオートノミックな自己主張をしていないかという、まったく異なった角度から、作者 性ではなく、先住民の作品あるいは、集合的な創作活動そのものに、存在論的価値を付与するというのは、どうであろうか?
7)この考察において、示唆に富むのが、ミハイル・ バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』1929年という作品である。この著作において、バフチンは、ドストエフスキーの作品の登場人物たちは、物語の なかで、自分の主張とアイデンティティを確固として確立し、オートノミカルなエージェントとして、存在を主張しているというのだ。
8)この所論を、私たちが考える議論に応用すると、
無名か有名かはさほど問題ではなく、先住民の作品を先住民の作品として認定する態度、こそが重要だということだ。そうすると、研究者の課題は、現在までそ
の伝統を受け継いでいる先住民と、その民族の作品と比定されるものとの対話や、解釈。そして、その対話からうまれる、民族性と、ここの作家の創作性につい
ての、理論構築が可能になるということだ。
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