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エルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラーとT4計画

On Nazi's Euthanasia and Elfriede Lohse-Wächtler

Elfriede Lohse-Wächtler: Blick über den Hafen (um 1929); Aquarell 51,0 x 72,8 cm. Nachlass Elfriede Lohse-Wächtler, Privatbesitz Hamburg

池田光穂

T4 計画(アクツィオーンT4=アクツィオーン・ティ・フィア)前史

・1920 カール・ビンディングとアル フレート・ホッヘによる『生 きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』の出版。

・1932年7月 プロイセン自由州で 「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出

T4 計画クロニクル

・1933年7月 「遺伝病の子孫の予防 に関する法律(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」を公布(1933年7月14日)、「遺伝病法廷」を設置

・1937年12月 「NS基本法令(NS-Grunderlass von 1937)」„Vorbeugenden Verbrechensbekämpfung“ vom 14. Dezember 1937 konnte, wer „ohne Berufs- und Gewohnheitsverbrecher zu sein, durch sein asoziales Verhalten die Allgemeinheit gefährdet“

・1939年8月 ヒトラーは医師と助産 婦に対する内務省令を発し、「障害者と障害新生児」を保健局に届けることを義務化し、身体障害児の安楽死計画が開始する。

・1939年9月1日 ヒトラーは、カー ル・ブラントに「不治と判断される人間に対して、慎重な診察の上に安楽死がもたらされる よう、特定の医者の権限を拡大する責任を与える」命令(=Aktion T4の実施命令)

・1939年9月〜1941年8月 T4 計画の実際の運用

・1940年7月 エ ルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラー(画家、後述)がT- 4計画のプログラムでピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein)で殺害される。

・1941年8月3日 ミュンスター大司 教クレメンス・フォン・ガーレン(Clemens August Graf von Galen, 1878-1946)がT-4 計画に反対表明する。このことがT-4計画のなし崩し的な表面的な終焉に結びつく。

・1941年8月 そのため、身 体に障害を持ったドイツ人を殺すのに使用されたガス発生装置や人員は(絶滅強制収容所での殺害実施のために)東欧のポーランド(ベウジェッツ、ソビボル、 トレブリンカ、など)に送られた。「反社会的分子」やシンティ・ロマなどのが、強制収容所での安楽死が実施されることになる(最終的な犠牲者総数20万 人)。

「強制収容所においては、 親衛隊全国指導 者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[# 7]」を排除する「14f13作戦(ドイツ語版)」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった [33]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長 物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病 質」をもつとされた「反社会的分子」が中心であった[33]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、 ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2 万人とも言われる[34]。」14f13作戦(Aktion 14f13))

Schönbrunn Psychiatric Hospital, 1934 (Photo by SS photographer Friedrich Franz Bauer)Bundesarchiv, Bild 152-04-28 / Friedrich Franz Bauer / CC-BY-SA 3.0

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Liste eines „Invalidentransports“ aus dem KZ Dachau mit dem Ziel KZ Auschwitz(ダッハウ強制収容所からアウシュビッツ強制収容所への「無効な輸送」リスト)

「遺伝的健全保持に関す る法」に基づく殺人計画。同法は、不適合者を除去することで純粋人種育成を図るナチの構想の一環を成していた。ヒトラーは戦時を待って安楽死計画に着手す る腹づもりで、1935年にはその旨の言明を行なっている。この計画は戦争という霧に閉ざされた中で実行せねばなら ぬ、というのがヒトラーの信条だった。そして1939年9月、総統官房長フイリッ プ・ボウラー(Philipp Bouhler, 1899-1945)に命じ、「安楽死」に関し医師たちと協議させ、直ちに(T4 として知られる)作戦を開始する。安楽死計画の対象者は、不治の身体障害者や精神異常者だけにとどまらなかった。その意味から、同計画は人種自体の根絶を 目的とする「最終的解決」の先駆をなすものであった」。

「1939年の終り頃から、精神障害および身体障害を負った成 人・小児の殺戮が始められた。しばらくして、自分の子供や親戚が「突然死」に見舞われたり、周囲の障害者の突然死の話を耳にする者が急増した。しかもこれ らの死体は、ほとんどの場合、検死や医学上の検査という理由で親族の自由にならなかった。たちまちにして、殺戮のうわさが流布した。安楽死計画を中止に追 い込んだのは、1941年にミュンスター大司教クレメンス・フォン・ガーレンClemens August Graf von Galen, 1878-1946)が勇敢にも同計画を非難したことと並び、流布したうわさのせいであったと思わ れる。殺戮が止む1972年までに、約7万5000人が精神病院から連れ去られて殺された」[→ガーレン伯爵、参照]。

カール・ブラント;1941年11月28日(最前列:左からボル マン、ヒトラー、ブラント);Hitler's order for Aktion T4, 1939年9月1日

◎カール・ブラント・クロニクル

親衛隊中将

アドルフ・ヒトラー付き内科医

1928 ベルリン大学在学中に州医師試験に合格(30年医師免許)

1932 ナチ入党、ナチドイツ医師連盟会員、翌年SS入隊。

1934 ヒトラー侍医団

1939 10月T4行動の監督

1942 国家研究顧問会(Reichsforschungsrat) メンバー、衛生及び保健全権委任者

1943 公衆衛生及び保健全権委員に任命され医学研究においての特別権限を与えられ、強制収容所での人体実験を発案。戦傷者の病棟を確保 するために精神障害者の抹殺 作戦wilde Euthanasie(Aktion Brandt)を立案し、指導。

1944 毒ガス防護及び呼吸マスク特別委員会の委員長

1948 最終陳述で、戦争状況における人体実験にインフォームドコンセントなどはありえないと主張。

●T-4計画

T-4(Aktion T4)は、そ の活動の本部があったベルリンのティアガ ルテン四番地にちなんで付けられた大量殺人計画の暗号名 である。この計画の中心人物であり、ヒトラーの主治医で もあったカール・ブラントは、第二次世界大戦の戦犯を裁 いた米軍によるニュルンベルク継続裁判で死刑判決を受け、 一九四七年に処刑された。/

・1933年7月 「遺 伝病の子どもの出生を予防する法」を公布、「遺伝病法廷」を設置

・1939年8月 ヒ トラーは医師と助産婦に対する内務省令を発し、「障害者 と障害新生児」を保健局に届けることを義務化し、身体障 害児の安楽死計画が開始する。
・1939年9月 ヒトラーは、カール・ブラントに「不治と判断される 人間に対して、慎重な診察の上に安楽死がもたらされるよ う、特定の医者の権限を拡大する責任を与える」命令
・1939年9月〜1941年8月 T-4計画の実際の運用
・1941年8月 身体に障害を持ったドイツ人を殺 すのに使用されたガス発生装置や人員は東欧のポーランド に送られた

 ブラントの裁判は、ニュルンベルク継続裁判(1946.12.9-1947.7.19 )の第一号事件「アメリ カ合衆国対カール・ブラントおよびその他の者」、通称を 「医療ケース」と呼ばれているもので、ドイツの強制収容 所などでの安楽死や人体実験に関わった20人の医師と3 人のSS将校が裁かれた。現在の医の倫理の甚礎を築いた 二ュルンベルク・コードは、この裁判のために生み出され たものである。被告23人のうち7人が死刑判決を受け処 刑され、5人が終身刑、4人が20年から10年の刑を宣 告された。7人は無罪となった。/

 T-4計画は、1939年9月1日付のヒトラーの命令 で始まった。その命令はブラントらへ「不治と判断される 人間に対して、慎重な診察の上に安楽死がもたらされるよ う、特定の医者の権限を拡大する責任を与える」と述べて いる。対象となるのは、(1)神経病で働けない人、(2)五年以 上施設に収容されている人、(3)犯罪歴のある精神病を患っ ている人、(4)ドイツ国民ではない、あるいはドイツまたは 同族の血統ではない人々、という四つのカテゴリーに該当 する者であった。/

 ヒトラーは精神異常でもなんでもない、極めて冷徹な人 物である。唐突にこうした命令を出したわけではない。彼 が政権を取った年、すなわち1933年7月14日に「遺 伝病の子どもの出生を予防する法」を公布、「遺伝病法廷」 を設置した。1933年〜1945年までに女性を中心として30万- 40万人が不妊手術を強制され、うち5,000人が死亡し ている。当時こうした断種の強制はドイツにのみ見られる ものではなく、あとで触れるように多くの国々で制度化さ れていた。/

さらに第二次大戦開始間近の1939年8月18日、ヒ トラーは医師と助産婦に対する内務省令を発し、「障害者 と障害新生児」を保健局に届けることを義務化し、身体障 害児の安楽死計画が開始された。/

 こうした準備過程を経た上でのT-4計画だった。最初 の2年間、T-4計画の対象となったのは、前記のカテゴ リーの(1)から(3)まで、すなわち精神病院の患者たちである。 ドイツ国内の精神病院から集められた患者たちは、全国に 五カ所設けられた収容所に送られ、そこで炭酸ガスによっ て「安楽死」させられた。しかしドイツ国民にこの計画を 隠し通すことはできず、特に教会からの反対が強くなり、 1941年8月にはドイツ国内でドイツ人を「安楽死」させる 事業は終了した。当時の公式文書によれば、7万273人 がガスで殺害されている。当時のベッド数や1945年の 患者数から推計すると、9万人以上が犠牲になったという 計算もある。/ (※ウィキペディア「Aktion T4」では 27万5千〜30万人の複数推計がある)

1941年8月以降、身体に障害を持ったドイツ人を殺 すのに使用されたガス発生装置や人員は東欧のポーランド に送られた。そしてその後も送られたユダヤ人やロマ人 (ジプシー)たちに対する大量殺人のために使用された。 この犯罪は医師だけが関わったものではないが、ドイツ 医師会およびベルリン医師会は、医者が同じ過ちを繰り返 さないために、また罪をほおかぶりすることで医者が社会 の信頼を失うことがないょう、1988年に「人間の価値 :1918年から1945年までのドイツ医学」展を開 催した。/

2000年からオーストリアの精神医学界の長老ハイン リヒ・グロス医師に対する刑事責任の追及が始まっている。 グロスは第二次大戦中にオーストリアでT-4計画によっ て生後3ヵ月から10歳の障害児を安楽死させたことが1979年に判明したためである。しかし、86歳になるグロスは「記憶が定かでない」と主張、法廷の 審理は中断したま まになっている。こうしたドイツにおける例は極端だが、 たとえば断種に関して見てみると、日本でも2001年に 判決のあったハンセン病患者の例がある。また、ヒトラー が生きた時代、似たような「優生学思想」は米国でも、英 国でも、感染症を克服しつつあった文化国家では程度の差 こそあれ見られた。1999年には、スウェーデンで、 「193-1975の間に強制不妊手術」を受けた人々へ の補償法が成立している。つまり、それは1975年まで 断種が強制されていたということを意味する。 (常石敬一)

 《参考文献》
B・ミューラー=ヒル/南光進一郎監訳『ホロコーストの科 学』(岩波書店、1993)。
Ch• プロス& G• アリ/林功三訳『人間の価値』(風行社 ,1993)。
H•G・ギャラファー/長瀬修訳『ナチスドイツと障害者 「安楽死」計画』(現代書館, 1996)
 二文字理明・椎木章『福祉国家の優生思想』(明石書店 2000).
【出典】「ナチスの「安楽死」計画」『世界戦争犯罪事典』秦郁彦, 佐瀬昌盛, 常石敬一監修、Pp.413-414.、2002年

"Hitler's permission to grant euthanasia to incurably sick patients. Picture taken at Nuremberg documentation centre museum. The wording of the edict in English: "Reich Leader Bouhler and Dr. Brandt are entrusted with the responsibility of extending the authority of physicians, to be designated by name, so that patients who, after a most critical diagnosis, on the basis of human judgment [menschlichem Ermessen], are considered incurable, can be granted mercy death [Gnadentod]. -- A. Hitler" The translated comment: "given to me by Bouhler on 27.8. [August] [19]40; Dr. Gürtner" Franz Gürtner was Minister for Justice (Reichsjustizminister) from 1932 to his death in 1941. Philipp Bouhler was an SS-Obergruppenführer and leader of Hitler's Chancellery (Kanzlei des Führers; KdF)."/ Propaganda for Nazi Germany's T-4 Euthanasia Program: "This person suffering from hereditary defects costs the community 60,000 Reichsmark during his lifetime. Fellow German, that is your money, too." from the Office of Racial Policy's Neues Volk./ The skull poster is titled: “People’s degeneration = people’s death.” The point is that a combination of genetic illness and the change from rural to urban life results in a declining population, and therefore the death of the race. At the bottom is a quotation from Hitler's Mein Kampf:“Woe to the people who are not able to master this illness.(この病を克服せざるものに災いあれ)”[出典:German Propaganda Archive, Calvin University

1933年7月 「遺伝病の子孫の予防に関する法律(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」を公布(1933年7月14日)、「遺伝病法廷」を設置


1933年7月25日の帝国法ガゼット(Reichsgesetzblatt vom 25. Juli 1933)

フォン・ガーレン司教クレメンス・アウグスト・グラーフ・ ガーレン)の介入とその後(安楽死から絶滅死への移行)

「こ の計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[19]。またミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォ ン・ガーレンは1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[20]、連合国にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も 行っている[21]。一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮したヨーゼフ・ゲッベルスは慎重論を主張し、 ヒトラーもそれに応じた[22]。しかし連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ 教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[23]。ピウス12世はこの後 もたびたび安楽死を批判する発言を行った。/T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日[24]にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中 止を口頭で命令した[23]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[24]、実際にはハダマー安楽死 施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行 されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[25]。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガ ス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[25]。/1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医 療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデン(ドイツ語版)を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織 は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、 そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された [26][27]。/「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象と なった[28]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」の ため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた 人々(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病 患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[29]。これらの囚人は労働に耐え られると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に 送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[29]。/こ れらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[30]。1943年5月に は労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者 は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[31]。

・ナチス時代にカトリックの女性たちが断種と優生学に対して果敢に抵抗したことはクーンズ(1990,下巻:108-113)を参照。

◎ヒュー G.ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』長瀬修訳、現代書館, 2017年/Gallagher, Hugh Gregory, By trust betrayed : patients, physicians, and the license to kill in the Third Reich. Vandamere Press, 1995

  • 序章 ハダマーでのT四計画
  • 第1章 T四計画開始
  • 第2章 T四計画の起源
  • 第3章 T四計画の実施
  • 第4章 子供計画
  • 第5章 アプスベルクのT四計画
  • 第6章 T四計画のつまずき
  • 第7章 T四計画と医者
  • 第8章 T四計画と法律家
  • 第9章 T四計画と教会
  • 第10章 T四計画その後:一九四五年〜一九九四年
  • 付録:B:プラウネ牧師の報告書()/C:ミュンスター司教の説教()/D:カール・ブラント被告への最終弁論()/E:カール・ブラン ト被告の最終陳述():
  • エルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラー、Elfriede Lohse-Wächtler, 1899-1940)

    ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein)でアクツィオーンT-4(精神科医の監督のもとで精神障害者を組織的に殺害するナチ政府の公的「政策」)の犠牲者に なったエルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラー(Elfriede Lohse-Wächtler, 1899-1940)の自身の写真と作品「女性患者(1929)」1940年7月31日 エルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラー(画家、後述)がT-4計画 のプログラムでピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein)で殺害される。

    リンク

  • Nazi human experimentation▶︎Aktion T4Gesetz zur Verhütung erbkranken NachwuchsesLaw for the Prevention of Hereditarily Diseased Offspring)︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎
  • Racial hygiene, wiki▶︎Aktion T4▶︎︎War children▶︎「私たちの欠陥は想像力の、感情移入の不足なのです」(写 真論)▶︎︎ニュルンベルク法(1935)▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎
  • ナチス・ハンティングとインテリジェンス
  • アーネンエアベ協会
  • 文献

  • ジェームズ・テーラー, ウォーレン・ショー(1993)『ナチス第三帝国事典』三交社。
  • 「生きるに値しない命」とは誰のことか(1920) : ナチス安楽死思想の原典を読む / カール=ビンディング, アルフレート=ホッヘ著 ; 森下直貴, 佐野誠訳・著、窓社 , 2001
  • ナ チスドイツと障害者「安楽死」計画 / ヒュー G.ギャラファー著 ; 長瀬修訳、東京 : 現代書館/  By trust betrayed : patients, physicians, and the license to kill in the Third Reich  / by Hugh Gregory Gallagher, Vandamere Press, c199
  • ナチスもう一つの大罪 : 「安楽死」とドイツ精神医学 / 小俣和一郎著、人文書院 , 1995
  • わたしで最後にして : ナチスの障害者虐殺と優生思想 / 藤井克徳著、合同出版 , 2018
  • 第三帝国と安楽死 : 生きるに値しない生命の抹殺 / エルンスト・クレー著 ; 松下正明監訳、批評社 , 1999
  • ナチス・ドイツと聴覚障害者 : 断種と「安楽死」政策を検証する / 中西喜久司著、文理閣 , 2002
  • B・ミューラー=ヒル/南光進一郎監訳『ホロコーストの科 学』(岩波書店、1993)。
  • Ch• プロス& G• アリ/林功三訳『人間の価値』(風行社 ,1993)。
  • 1939 : ドイツ第三帝国と第二次世界大戦 / 井上茂子 [ほか] 著, 同文舘出版 , 1989.
  • 父 の国の母たち : 女を軸にナチズムを読む / クローディア・クーンズ著 ; 翻訳工房「とも」訳, 上,下. - 東京 : 時事通信社 , 1990.9.
  • Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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