ならずよんで ね!

1883-1911:フランシス・ゴルトン「優生学」からドレスデン「国際衛生博覧会(人種衛生学特別部会)」まで

1883-1911: From Francis Gorton's “Eugenics” to the “International Sanitary Exposition (Special Section on Racial Hygiene)” in Dresden

垂 水源之介

★ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学

1. よい優生学、わるい優生学
2. 1883-1911:フランシス・ゴルトン 「優生学」からドレスデン「国際衛生博覧会(人種衛生学特別部会)」まで
3. 1912-1920:ロンドン第1回国際優 生学会議からビンディングとボーへ「生きるに値しない生命の根絶の許容」まで
4. 1921-1932:ニューヨーク第2回国際優生学会議から第3回 国際優生学会議まで
5.1933-1941:ナチス政権掌握からT4計画の中止まで
6. 1942-1945:ヴァンゼー会議およびシンティ・ロマに対する ヒムラー絶滅命令以降ヒトラー自殺および敗戦まで
7.1945年以降:ナチスの優生学と医学的戦争犯罪の審理と処罰
8.優生学と人類学との学的関係について



 優生学(eugenics, Eugenik)の語源は、古代ギリシア語の幸せ(Eu-)と遺伝因子(-genik)であり、ドイツ語ではErbgesundheitslehre (hereditary health)と呼ばれる。ドイツの国家社会主義時代には、ナチスドイツ期では遺伝的対策(Erbpflege)と呼ばれたりしたが、その対応概念として 頻繁に用いられたのは人種衛生学(Rassenhygiene)である。プラスに評価される遺伝形質の比率を高め(正の優生学)、負に評価される遺伝形質 の比率を下げる(負の優生学)目的で、人口・健康政策または集団の遺伝子プールにヒト遺伝学を適用すること、と言える。イギリスの人類学者フランシス・ゴ ルトン(1822-1911)は、1869年と1883年には早くも人類の改良、あるいは「ある人種の生得的特性を向上させるあらゆる影響に関わる科学」 という言葉を作り出しており、1900年頃には、「集団、人種または種における欠陥遺伝子および特性の蓄積と拡散の研究」という意味の対語「負の優生学 (dysgenics)」も登場するようになったが、後者の用語は科学界には定着しなかった。

 優生学という言葉は1883年のゴルトンの著作の中にあり、その主張 の多くを『人間の能力とその発達に関する研究』という書物の中で表現している。この本の冒頭で、彼は優生学が家畜の育種研究から生まれたことを表現して、 こう書いている。


 「この言葉(eugenics)や、関連する言葉であるオイゲニアな どは、人間、哺乳類、植物に等しく適用される。家畜を改良する科学は、決して賢明な交配の問題にとどまらず、特に人間の場合、より適した人種や血統が、そ うでないものに比べてより早く優勢になる機会を与える傾向が、どんなに遠くとも、あらゆる影響を考慮に入れていることを表す簡潔な言葉が非常に必要であ る。優生学という言葉は、この考えを十分に表現している」[Galton 1883:25]。

 彼はまた統計における回帰式を定式化し、正規分布との関連性を研究し た。実質的に生物統計学の創始者とも言えるゴルトンは、母集団の安定性に関する数学的モデルを開発しようとしたことでも有名である。しかしながら、グレ ゴール・メンデルが1865年に報告した「分離の法則」は、ドイツのカール・コレンスらが1900年に再発見するまでは知られていなかった。また、人間の 形態の中にはポリジーン遺伝という複数の遺伝子の要因がひとつの形質に影響を与える現象があるために、優生学の理想を数学的に論証することが当時はまだで きなかった。統計学者であり学史研究でも著名なスティーブン・スティグラーは、「集団が世代から世代へと形質の正常な分布を維持する傾向と遺伝の概念とを (ゴルトンは)調和させることができなかった。多くの要因が独立して子孫に作用し、各世代で形質が正規分布するように思われたのである。しかし、これで は、遺伝の基本である親が子に大きな影響を与えることができるのか、説明がつかない」と優生学の理論的根拠が最初から不安定であったことを指摘している [Stigler 1986:274]。

 すなわち、メンデル遺伝の科学的定式化の以前からあった、生物集団と 個体を数量化する生物測定学(biometry)の科学的定式化が成功をおさめ、遺伝現象の経験的理解が融合した時に、ようやく優生学が誕生したと言え る。この優生学は、ダーウィニズムのうちとりわけ適者生存における「適応的人種が選択されてきた」という経験的事実を、演繹的方法として応用実装できると いう野心を堂々と主張した時点で、「優等人種の選択がなされなければならない」という価値概念に拘束されていた。優生学はこのような価値概念を内包するた めに社会ダーウィニズムと軌を一にする。それゆえに、後のナチの人種衛生学のなかにある、劣悪な遺伝子の排除は、そのような因子を持つ者たちへの排除を必 要とする思想と結びついたと考えられる。

 ゴルトンには、優生学の科学的応用は人間の優秀な形質を、次世代によ り多く残せるという発想があったこと、また、それに先行して1855年に出版されたアルテュール・ド・ゴビノー『人類の不平等に関する試論』 (L'Essai sur l'inégalité des races humaines)を読んでおり、同書が主張していた人種の優劣の概念は当然のように受け入れていた。今日、人種の不平等概念を克服したと思っている私た ちには驚きの概念ではあるが、後にドイツのハンス・ギュンターらが定式化する人種の細かい分類はともかくとして、大雑把な黒人、白人、黄色人という分類 や、それらの人種の間に優劣や能力の差があることは、19世紀の教養あるヨーロッパ人なら誰しもが受け入れていた「常識」であったことを思い起こさねばな らない。そのためゴルトンは先の書物のなかで、「劣等人種を徐々に絶滅させることに反対する感情は、ほとんどの場合、非常に不合理なものである」と、婉曲 表現ながら後の民族浄化や人種の絶滅についても不吉な予言を残している[Galton 1883:17]。

 社会ダーウィニズムという今日では、今日ではハーバート・スペンサー の主張から始まると言われている。ただし、スペンサー自身はこの言葉を使っていない。ダーウィニズム(ダーウィン主義)は、ダーウィンが言い始めたのでは なく、ダーウィンの番犬——すなわちダーウィン思想の熱心な擁護者——であったトーマス・ハクスリーが『種の起源』を紹介する1861年の評論の中で使っ た言葉だったが、1870年代にはすでに広く人口に膾炙していた[Bowler 2003:179]。社会ダーウィニズムは、1877年には同じくイギリスの歴史家のジョセフ・フィッシャーが、ダーウィニズムを社会制度の進化として利 用する発想を批判するために使ったのを皮切りに使用がはじまった。だが、実際はダーウィニズムが主張する適者生存の考え方が、科学的根拠をもつものであ り、それが社会に実装される可能性をもつ、あるいは実装されなければならないという考え方を、社会ダーウィニズムと呼ぶ。その意味では、フィッシャーの初 出から6年後に優生学を提唱した、ゴルトンから、この用語の今日的意味が始まったと言っても間違いではない。

 さて、ドイツ帝国時代でも最も有力な生物学者であったエルンスト・ ヘッケル(1834-1919)は、その著作のなかで人種の優劣を説き、また障害者や「不治の」遺伝的疾患の安楽死の容認の発言をしている。ただし、ヘッ ケルがゴルトン流の優生学を完全に受け入れていたわけではないことは明らかであった。それは、ダーウィンの『種の起源』(1859)と『人間の由来と性に 関連する淘汰』(1871)における人間進化の理解において、ダーウィンの一元論(monogenesis)をとったのに対して、ヘッケルは進化論を基本 的に受け入れていたものの人類の祖先については多元論(polygenism)の立場をとっていたからである。前者は人類の起源は共通でそれはアフリカ大 陸にあったという、今日の人類学理論でも受け入れられている主張である。それに対して他方、後者の説は、ダーウィンの主張よりも古い起源をもつ理論で、か つキリスト教の創造説とも矛盾を起こさない主張で、米国の人類学者サミュエル・ジョージ・モートン(1799-1851)や地質学者ルイ・アガシー (1807-1873)らが支持した。すなわち、人類は誕生の時代から神は人種を別々に創造したという主張である。この多元論は、神の創造から距離をおい て生物進化を受け入れてもなお、今日の人種の多様性とその本質的な違いを起源にまで遡って正当化できるために、20世紀になっても(ボアズ派の人類学を除 いた)北米とナチスドイツにおいては一種の通常科学として命脈を保った。

 ヘッケルの多元論は、ダーウィンの支持者たちとは対照的に、言語学者 アウグスト・シュライヒャー(1821-1868)の考えに基づく進化的多系統主義を提唱し、言葉を持たない原人(Urmenschen)からいくつかの 異なる言語群が別々に発生し、その言語群自体が類人猿から進化したと考えた。そして、これらの言語が動物から人間への移行を完了させ、各主要言語の影響下 で、人間はラマルクの使用遺伝のような形で、種族に細分化された別の種として進化してきた。このことから、ヘッケルは、最も可能性を秘めた言語が最も可能 性を秘めた人間の種族を生み出すという含意を導き出し、セム語族とインドゲルマン語族を筆頭に、ベルベル語、ユダヤ語、グレコローマン語、ゲルマン語が前 面に出てきたと主張した[Richard 2008:259-260]。

 ヘッケルがドイツの生物進化論において大きな影響をもっていた時代の 1895年に医師で生物学者であったアルフレート・プレッツ(1860-1940)は、『人種衛生学の基礎』(Grundlinien einer Rassenhygiene)を出版した。プレッツは青年時代には、汎ゲルマン思想のメンターで劇作家のカール・ハウプトマンから影響をうけて、太平洋に ドイツ帝国の新たな植民州の中で共同体を建設するユートビア団体の活動をおこなっていた。ゴルトンよりも、ヘッケルやダーウィンの著作からより大きく影響 を受け入れていたために英国流の優生学の影響は少なかった。プレッツはミュンヘン大学医学部で教鞭をとっており、その部下にはフリッツ・レンツ(1887 -1976)がいる。レンツは、もともとはフライブルグ大学でオイゲン・フィッシャー(1874-1967)の門下生になり、1909年の国際人種衛生学 会の地方部会でフィッシャーからプレッツを紹介された。1912年に医師免許に合格し。ルードヴィヒ・アショフ(1866-1942)のもとで「人間の病 的遺伝性向と性別の決定について」で医学博士号を取得した。アショフは当時世界でもっと高名な病理学者で、1913年には当時留学していた清野謙次との共 著論文もある。

 人種衛生協会を通じて、レンツはプレッツやミュンヘンの衛生研究所所 長マックス・フォン・グルーバー(1853-1927)と知り合った。プレッツとグルーバーはレンツを説得してミュンヘン大学に移った。1913年にフォ ン・グルーバーから研究所の客員助手の職を与えられ、1913年にはプレッツから雑誌「Archiv für Rassen- und Gesellschafts-Biologie」(ARGB)の編集を1933年まで引き継いだ。ナチスドイツ時代には、人種衛生学は、大きく2つの学派 に分けられると考えられる。ひとつは、カイザー・ヴィルヘルム科学振興機構の参加にあったオイゲン・フィッシャーが率いるカイザー・ヴィルヘルム人類学・ 人類遺伝学・優生学研究所(KWI-A)を中心としたベルリン学派と、プレッツから引き継いだレンツのミュンヘン学派である。プレッツの流れを組んで実質 的にナチの桂冠人種衛生学の泰斗の一人となったレンツは、ミュンヘン学派の総帥と言えよう。

 プレッツが切り開いた人種衛生学のもうひとつの学派は後にKWI-A の所長となり、文字通りナチの桂冠人類学者としてベルリン大学の総長まで登りつめたオイゲン・フィッシャーである。フィッシャーは、1874年にカールス ルーエで生まれた。ベルリン、フライブルク、ミュンヘンで医学、民俗学、歴史学、解剖学、人類学を学ぶ。フライブルグ大学の解剖学者ロバート・ヴィーダー サイム(Robert Wiedersheim)を指導教員として学位論文「オランウータンの骨盤の解剖学的記述」で医学博士を1898年に取得した。この年の冬学期からヴィー ダーサイム教授の助手に就任する。ハビリテーション論文「ヨーロッパもぐらの原始的頭蓋(Das Primordialcranium von Talpa europaea)」を書き、私講師を経て、1904年非常勤教授職に就く。フライブルグがフィッシャーの研究に大いなるものをもたらしたとすれば、それ は19世紀の偉大な解剖学者であり人類学者であったアレクサンダー・エッカー(Alexander Ecker, 1816-1887)によるものだと言っても過言でない。エッカーの研究は、テオドール・ビルハルツを全世界に派遣した収集品による比較研究があり、医学 や解剖学だけでなく、先史時代や初期の歴史学、先史時代の人類学、民族学の分野にも及び、フライブルグに民族学博物館と先史時代博物館を残している。解剖 学や頭蓋骨研究ではエッカー・コレクションというドイツでも有数の収集量を誇っていた。

 このような純粋な科学研究に直結する優生学あるいは人種衛生学とは別 の重要な著作が1899年に発表される。それは、人種差別主義あるいは人種優越主義の著作のうち、ヒトラーにも直接影響を与え、また、後のドイツ民族 (Volksdeutsche)のアーリア起源説や、北方アーリア人種に対立するセム民族劣等説すなわち反ユダヤ思想の淵源になった重要な著作である。そ の著者は英国生まれでドイツ人として生涯を終えるヒューストン・チェンバレン(1855-1927)。その著書名はドイツ語で書かれた『19世紀の基礎 (Die Grundlagen des neunzehnten Jahrhunderts)』である。英国の知識人家庭に生まれたヒューストンの兄は、日本学あるいは日本語学の権威で東京帝国大学教授だったバジル・ チェンバレン(1850-1935)である。兄のバジルは『口語日本語ハンドブック』や『日本事物誌』で有名な研究者のみならず、ジョン・バチラーと協力 してアイヌ語文法についても報告している。ヒューストンは、20世紀初頭の汎ゲルマン的なフェルキッシュ運動(後述)に大きな影響を与え、後にナチスの人 種政策における反ユダヤ主義に影響を及ぼした『19世紀の基礎』であるが、彼は学生時代にジュネーヴ大学に学び人種類型論の支持者であったカール・フォク トなどに学び、物理学と自然科学のバカロレアを取得後、植物学研究で博士号取得のために研究を続けていたが、健康上の理由で学業を断念する。彼はドイツの 19世紀の生命主義的な全体論に魅了されかつ、強力なワーグナー崇拝者(ワグネライト)であった。そのため反ユダヤ思想に加え、ヒンドゥー教の叙事詩に魅 了される過程のなかでサンスクリット語をまなび、ヒンドゥー伝説の「光るアーリア人」すなわちインド=ヨーロッパ至上主義に傾斜していった。『19世紀の 基礎』は、来たるべく20世紀にはアーリア人〈対〉それ以外のユダヤ人、黒人、アジア人の間の世界支配を巡る迫り来る戦争を予見するもので、そのような終 末思想に加えて、ユダヤ人による人種支配の思想を謳っていた。思想史的には、チェンバレンはゴルトンの優生学よりも、ゴビノーの人種の衰退論を通して、北 方アーリア人の存亡の危機のイメージを通して、『20世紀の神話』の著者アルフレート・ローゼンベルグや、直接親交のあったヒトラーに影響を与えた [Arvidsson 2006: 155]。

 このように、陰謀説や終末論のイメージなど、ヒューストン・チェンバ レンの『19世紀の基礎』は、今日の常識からみれば、非常に奇妙な思想の産物のように思われる。しかし当時の時代的背景に戻してみると、ここにみられる西 洋の悲観主義と類似のものが多くある。ゴビノー『人類の不平等に関する試論』(1855)や、『19世紀の基礎』、この後に公刊されるオズワルト・シュペ ングラー『西洋の没落』(1918,1922)さらには、エドガー・ユング『劣等者たちの支配』(1930)には、西洋の優秀な人種やそれが生み出す文化 や文明が、非西洋の人種や文化によって侵食されてゆくという共通の論調がみられる。このような19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの白人が直面した時 代状況には漠然とした人種的不安(Rassenangst)がみられるのは思想史家が指摘するところである[小野 2004]。

 フィッシャーは1908年ドイツ領南西アフリカへの調査旅行をした 後、帰国し、1909年ドイツ人種衛生学会の地方部会を設立し、1912年ヴュルツブルク大学助教授、翌1913年母校のフライブルグ大学に助教授として 戻る。後述するレホボス・バスターズ(Rehoboth Basters)における人種研究で、人種的特徴がメンデル遺伝すること証明した[Gessler 2000]。第一次大戦中は医官として従軍。敗戦後の1918年に母校のフライブルグ大学附属解剖学研究所教授としてヴィーダーサイム教授の後任として復 帰することになる。

 さて、1883年ドイツ帝国が領有を宣言した南西アフリカ(現在のナ ミビア)で、オイゲン・フィッシャーは、1908年ごろドイツ人またはボーア人の男性とコイサンあるいはコイコイ(Khoekhoe)と呼ばれる女性や奴 隷として導入されたマレー系女性との「混血」民族集団であるレホボス・バスターズを身体計測を含む人類学・民族学調査をおこなっている。310名にわたる 子供の身体計測のデータは1913年の論文で公刊された[Lusane 2003:50]。バスターは孤児や非嫡出を意味するオランダ語("bastaard")に由来するが、2世紀弱の間の民族生成(ethno- genesis)の過程のなかでアイデンティティをもつようになり、19世紀最後の四半世紀ごろには、南アフリカから北上してきたバンツー系のナマ人とヘ レロ人による家畜の強奪などを通して民族紛争状態にあった。実際に1904年から1908年までつづいたヘレロ戦争では、ナマとヘレロへのドイツの交戦に なり、ドイツはバスターを同盟軍として取り扱った。この同時期に交戦や平定にまつわるシャークアイランド収容所への強制移動のためにヘレロとナマ虐殺 (Völkermord an den Herero und Nama)と呼ばれる惨事がおこり、ヘレロとナマのあいだに数万人から10万人程度の犠牲が出たと言われる。この事件は1985年になってようやく国連の ウィテカー報告書[Whitaker 1985]により、20世紀における最も早い時期におこった虐殺(genocide)であると認定されている。フィッシャーは開戦前にバスターズを実地調 査しており、帰国後データを分析してある特定の人種的形質の遺伝がメンデル法則に従うことを証明したが、オルソガとエリクセンによれば、ヘレロ戦争の最中 の1906年にはすでにシャークアイランド収容所に行き、死んだ囚人の頭蓋骨収集のプロジェクトがはじまったという[Olusoga and Erichsen 2010:225]。実際に、2011年10月にナミビアに頭骨20個体分が返還された時の報告によると、ドイツのベルリン医科大学にあった300個体が 当時収集されたものだと報道されている。また2014年にはフライブルグ大学からナミビア由来と鑑定された14個体分が返還されている。それによると、オ ルソガらの主張する1906年ではなく、フィッシャーがバスタードを調査した1908年に実際に頭蓋骨等が収集され、フライブルグ大学のアレクサンダー・ エッカー・コレクションのために約200個体の頭蓋骨をドイツにおくり、その際には8体が「ホッテントット(コイコイの旧名称)」、4体が「ヘレロ」とラ ベリングされていたという[UNI FREIBURG online]。

 ドイツにおける南西アフリカにおけるヘレロ戦争とオイゲン・フィッ シャーらの人種研究は、その後のドイツにおける黒人観、とりわけ黒人恐怖=嫌悪(negrophobia)に多大なる影響を及ぼしている[Lusane 2003; Scheck 2006]。このことは隣国フランス植民地時代の黒人観とは好対照をなす。フランスは1624年に早くも新大陸のフランス領ギアナを皮切りに、17世紀が 終わるころまでに、グアドループとマルティニク、サン・ルシア、そしてスペイン領だったイスパニョーラ島の西に創られたサン・ドマング(現在のハイチ)を 領有し、黒人奴隷の解放と植民地「市民(シトワイヤン)」の権利付与に対して、軍隊の派遣による戦争の経験を通して、人種的な偏見を胚胎しながらも、早く も黒人種を帝国の中に組み込むことを行なっていた[バック=モース 2007]。しかしながら、ドイツのそれは、ヘレロ戦争における強制収容所と殲滅、さらには人種研究を通した劣等性に関する科学研究が付随していた。した がって、論者の中には、30数年後におけるユダヤ人やロマ・シンティに対する絶滅収容所(Vernichtungslager)における制度的虐殺のシス テム[Arendt 1951]の先駆けであるという主張もある[Kiernan 2007]。このドイツとフランスの黒人種に対する人種観の違いは、後に述べるように1940年のナチスドイツによるフランス占領後のドイツ軍による黒人 フランス兵虐殺という事態を生む。

 西洋世界における優生学研究のネットワークの嚆矢は、次節で述べるよ うに、1912年にロンドンで開かれた第1回国際優生学会議を嚆矢とすることはよく知られている。しかし、これまで見てきたように、英国のフランシス・ゴ ルトンが1883年に優生学という言葉を定義し、実質的な創設者になる一方で、ドイツ帝国では、アルフレート・プレッツが後のナチスの反ユダヤ的色彩のほ とんどない『人種衛生学の基礎』を公刊したのが1895年である。ゴルトンが1909年に優生教育学会(Eugenics Education Society)による科学雑誌『優生学評論(Eugenics Review)』に発行するそれよりも、ほぼ15年前の1904年にプレッツらはフリッツ・レンツを編集長に定期刊行物『人種ならびにゲゼルシャフト生物 学雑誌(Archiv für Rassen-und Gesellschaftsbiologie)』を創刊し、これは世界で初めて優生学の話題を扱う雑誌となったのである。その翌年には「ベルリン人種衛生 学協会(Berliner Gesellschaft für Rassenhygiene)」を31人の創設メンバーで組織している。この人種衛生学協会は2年後の1907年には、国際人種衛生学会 (International Society for Racial Hygiene)を結成した。
 このように英国とドイツを対比的にみれば、優生学の創設は英国に軍配 があがり、その後の学会組織化にはドイツのほうが有利な展開をしたといえる。しかし、これはもうひとつの優生学先進国であるアメリカ合衆国のことを考慮に 入れると状況が異なる。事実、国際人種衛生学会長として、1912年のロンドン第1回国際優生学会議に出席したプレッツは、合衆国は優生学分野の大胆な リーダーであると表明している[キュール 1999:38; Kühl 2002:13]。「大胆なリーダー(bold leader)」とは果たしてどのような意味があるのか。それは端的にいうとアメリカでは、医師の実践家が1872年に女性への「去勢」がおこなわれ、ミ シガン州では最初の男性への断種が1892年におこなわれ、ベーカー=ベンフィールド[Baker-Benfield 2000:121]によると、1880年代から1900年にかけて、精神障害者への次世代の生殖を断つ去勢あるいは断種というものが盛んに行われ、それが ヨーロッパにも伝わっていたからである。アメリカの優生学の成立は、学知の確立や学会内部での議論よりも、実践が先立ち、優生学研究は、ようやく1904 年になり、ハーバード大学の動物学教授のチャールズ・ダベンポート(1866-1944)が、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーを動かしてニュー ヨーク州ロングアイランドにあるコールド・スプリング・ハーバーに研究所を建てさせ、自らが所長に就いたことからはじまる。ダベンポートは、ゴルトンとそ の後継者であるカール・ピアソンが開拓した生物進化論的アプローチに多大な敬意を払い、ピアソンの雑誌『バイオメトリカ(生物計測学雑誌)』にも関わって いた。しかし、1900なりグレゴール・メンデルの遺伝の法則が再発見されると、彼はメンデル遺伝の著名な支持者に転じ、その応用科学である優生学に後半 生を賭ける決心をしたようだ。ダベンポートは、1910年になり研究所の中に優生学記録局(Eugenics Record Office, ERO)を設置した。

 ダベンポートはそこで、人間の性格や精神的特徴の遺伝の側面について 一連の調査を開始し、何年にもわたってアルコール中毒、ペラグラ(現在ではビタミン不足によることが判明し遺伝疾患ではない)、犯罪性、気弱さ、放浪癖、 知能障害、双極性障害、人種交配の生物学的効果などの優生学について数百の論文と数冊の本を作成した。1911年に出版されたダベンポートの『優生学に関 連する遺伝(Heredity in Relation to Eugenics)』は、長年にわたり大学の教科書として使用された。翌1912年、ダベンポートは全米科学アカデミーに選出された。しかしながらダベン ポートの優生学に関する研究は、他の多くの優生学者や科学者の間で多くの論争を引き起こした。彼の著作は優生学に関するものであったが、その発見は非常に 単純で、今日では遺伝学的常識からはかけ離れたものであった。そのため、多くの人種的、階級的偏見が生じたことは否めない。彼の熱烈な崇拝者だけが、これ を真に科学的な仕事とみなしていた。これはナチス時代の人種衛生学研究にも言えることで、優生学や人種衛生学研究が隆盛をなしていた時期には、むしろそれ に異議を唱える立場こそが、トーマス・クーン[Kuhn 1962:Ch.3, Ch.6]の言う「正常科学(normal science)」からの逸脱(anomaly)とみなされ、排除されていたことがわかる。ダベンポートがコールド・スプリング・ハーバーに在任中、そこ でいくつかの組織再編成が行われた。1918年にはカーネギーワシントン研究所が女性地域社会運動家のメアリー・ハリマンから多額の寄付を受け、EROの 資金調達を引き継いでいる。

 日本においては、そもそもゴルトンの思想そのものが入っておらず、 1900年以前の優生学は、雑婚論などに留まり、萌芽的時代であるといわれる[横山 2020:200]。医学者で近代的な医史学研究の泰斗であった富士川游(1865-1940)は、24歳の時に、ドイツのイエナ大学に留学しておりエル ンスト・ヘッケルの人種主義と優生学を結びつける有機的な生命論や、プレッツの人種衛生学についても学んだはずである。1889年からわずか1年の留学で あったが、富士川は1905年には雑誌『人性』を発刊しており、1918年まで全17巻を編集している。それは心理学、生物学、人類学、犯罪学、人種衛生 学、宗教学、哲学などを、国内外のトレンドを紹介し、優生問題の論文を多く収載している。日本の優生学を、このような思潮ではなく、政策化が提案されるの には、1916年の永井潜の政府諮問機関の保健衛生調査会での優生学提言まで待たねばならない。

 このような状況のなかで、人種衛生学がすでに確立し、世界の優生学研 究のなかでイニシアチブを発揮したいドイツは、1911年5月から10月までドレスデンで国際衛生博覧会(Internationale Hygiene-Ausstellung Dresden 1911)を開催する。この博覧会のスポンサーはカール・リンナー(1861-1916)で口腔消毒うがい薬で財をなした社会慈善家である。彼は1899 年のドイツ公衆衛生協会(Deutschen Verein für Volkshygiene)の創設メンバーのひとりで、1903年にライプチヒで開催された「病気一般とその対策(Volkskrankheiten und ihre Bekämpfung )」国内博覧会での成功をもとに、国際博覧会を企画した。

 この博覧会では、歴史や民族、感染症や熱帯病、社会保険制度、科学製 品、医療機械、化粧品やサプリメント、スパやリーゾート、住居、食生活、疾病管理・救援サービス、陸軍・海軍・植民地時代の衛生管理、それらのロジスティ クスなど、およそ医療保健政策に関するさまざま情報が展示された。海外からも、ブラジル、中国、イギリス、フランス、イタリア、日本、オーストリア、ロシ ア、スイス、スペイン、ハンガリーの11カ国がそれぞれの展示部門で各国の情報を提供した。これらの学術展示に加えて、各国のパビリオン展示もあり、とり わけロシア、中国、日本のパビリオンに人気が集まったという。

 この博覧会のサイドイベントとして、世界の公衆衛生学者の集会、とり わけ「国際人種衛生学協会」の公式会合や、母性保護と性の改革のための最初の国際会議なども開催された。優生学者の会合は翌年の第1回国際優生学会議の準 備会議としても重要なものであった[Kühl 2002:13, 114n3; 2013:17]。この衛生博覧会の成功は、ドイツの医療関係者の間で大きな反響を呼び、その後、1926年の開催されたGeSoLei (Gesundheitspflege, soziale Fürsorge und Leibesübungen)や、1930年のドレスデンで開催の第2回国際衛生博覧会では同様の運用モデルが採用された。

 第一回博覧会の後には、この世界からの展示品をもとに、翌1912年 に衛生概念の普及のための教育センター(Volksbildungsstätte für Gesundheitspflege)として「ドイツ衛生博物館(Deutsches Hygiene-Museum)」として開館し、後に触れるナチス時代は、人種衛生学のセンターとして、また1945年以降は旧東ドイツの衛生博物館とし て、東西ドイツ統合後の現在も同名の博物館として機能している。来場者は約520万人で、当時の国際博覧としては大成功したもののひとつである。

 このように1912年までの優生学・人種衛生学を振り返ると、国際的 には、優生学の提唱者であるゴルトンを生み、その後、生物計測学や生物統計学の理論を洗練させていった英国、当時すでに「断種立国」とも言えるほど優生学 的実践が先に登場し、その実践を正当化するためにデータと研究の蓄積が続けられていくコールドスプリングハーバー研究所優生学記録局(ERO)を擁した米 国、そして、優生学(Eugenik)という外来語を輸入しながらも人種衛生学という、人種の理論研究と有害遺伝の人為的排除を総合した——当時はまだ策 定中の——科学の提唱国というドイツの三ヶ国が優生学・人種衛生学の先進諸国であったと言える。

★図表の資料は、ポータルページ「ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学」にアクセスしてください。

★用語・略語

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