1921-1932:ニューヨーク第2回国際優生学会議から第3回国際優生学会議まで
1921-1932, From the Second International Eugenics Conference in New York to the Third International Eugenics Conference
垂
水源之介
★ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学
第1回国際優生学会議(1912)でのアメリカにおける広範囲にわたる精神障害者への断種報告は、ドイツと英国の人種衛生学者や優生学者に対して、精神障
害の遺伝現象について明らかになれば、合理的な断種の法制化が推進できるという確信を抱かせたようである。ここでいう精神障害は現在の用語であり、当時は
精神病と精神遅滞という疾病と障害概念に区別され、後者の知能の発達の遅れに対して今日からみれば理論的に根拠のないほどの瑣末な診断基準にもとづく分類
が進んでいた。そのような状況のなかで、ドイツの著名な精神病医であったエミール・クレペリンは、かつての患者であったユダヤ系のドイツ-アメリカ人の銀
行家ジェームズ・ローブらから多額の寄付を受けてミュンヘンにドイツ精神医学研究所(Deutschen Forschungsanstalt für
Psychiatrie)を1917年に開所した。研究所は、臨床部門、脳病理部門、血清部門、家系部門の四部門体制であった。その7年後の1924年か
らは、カイザー・ヴィルヘルム科学振興機構(KWI)の後援を受けるようになり、KWIの研究ネットワーク機関になった。しかし1929年の世界恐慌の少
し前からは機構からの助成も滞るようになり、その頃から、ロックフェラー財団からの多額の寄付を受け、その研究体制をもちなおした。ロックフェラーからの
援助の理由は、クレペリン自身が、精神病歴、犯罪歴、アルコール依存症の病歴などの家系調査研究と遺伝の関係について関心をもち、家系部門にエルンスト・
ルーディンを擁して、広範囲に研究を進めていたのである。先に述べたように、アメリカは断種立国ともいえる断種の州法化政策が先行していたので、その遺伝
的根拠——すなわち優生学的対応の可能性——について、精神医学研究所からの研究成果を求めていたのである[Adams 2013:94]。 |
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さて、その後の
オイゲン・フィッシャーであるが、彼は1919年に保守右派政党であるドイツ国民人民党(DNVP)に入党し、1927年に離党した。フィッシャーは
1921年にエルヴィン・バウアーとフリッツ・レンツと3人で共著『人類遺伝学と人種衛生学の基礎(Grundriß der
menschlichen Erblichkeitslehre und
Rassenhygiene)』を著した。この本はミュンヘン一揆クーデター未遂事件で有罪判決を受けてランツベルク刑務所に収監されており『我が闘争』
を口述筆記中のアドルフ・ヒトラーに大きな刺激を与え、彼の人種観の形成、とりわけアーリア人種の優秀さと反ユダヤ主義の主張の正しさに科学的根拠を与え
たと言われている。1933年末に57歳で亡くなるバウアーを除いて、フィッシャーとレンツは文字通りナチの桂冠人類学者、桂冠人種衛生学者になった。す
なわち、フィッシャーは1927年にKWI-Aの所長に就任し、レンツは1913年から33年まで『人種ならびに社会生物学雑誌(Archiv für
Rassen- und
Gesellschafts-Biologie)』の編集主任を経て1933年にKWI-Aにある3つの部門の一つの優生学部門の部門長を務めることなっ
たからである。 |
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前節では、優生
学的断種の実践ではアメリカが世界をリードする先進国になり、ドイツでは19世紀末に応用優生学とも言うべき人種衛生学という概念を作り出し、同時にそれ
を支える自然科学的な人種理論(Rassentheorie)を世界に先駆けて整備をしていた。ドイツではこの時期は、第一次大戦後の帝政の廃止と政治的
かつ経済的社会状況の混乱から生まれたワイマール共和国の時代であったが、プレッツやシャルマイヤーらが提唱した人種衛生学の議論が、当時の社会医学・衛
生学・医学統計学・医事法学などの社会科学の研究者との議論や論争が『人種ならびに社会生物学雑誌』などの雑誌の中で華々しく展開されていたことは特筆し
ておくべきことである。この時期において、人種衛生学から出発して、当時の人口問題や衛生問題などを統合した社会衛生学(Sozialen
Hygien)を創始したアルフレッド・グロートヤーン(1869-1931)は、その代表的な学者でありかつ政治家であった。 |
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すなわち、ワイ
マール期のドイツでは社会衛生学とは、医療の公衆衛生学的な統治術(arts of
governability)を通して社会全体を良導する政策そのものであった。興味深い事に、それに先立つ20年前の台湾においても、後に満鉄総裁にな
る後藤新平が、児玉源太郎総督の下で台湾総督府民政局長(就任後すぐに民政長官、任期:1898-1906)に就任し台湾統治を「生物学的原則」に基づく
ものであることを述懐している。後藤の台湾での業績には、臨時台湾旧慣調査会、台湾総督府医学校および総督府研究所の創設、阿片漸禁策などがあるが、この
生物学的原則は、今日でいうところの社会ダーウィニズムの原理を行政的に制御しようとするものである。それだけではない、後藤の内務省衛生局長の前任者で
実質的に内務省の後見者であった初代衛生局長官の長与専斎は1872年にベルリンに留学し、医学的知見により社会を統治する科学、すなわち衛生
(Hygiene)という訳語を創案し、かつ内務省の部局名として命名し、その局長に就任した。在野の医師であった後藤を見出し長与に紹介したのは第3代
陸軍軍医総監の石黒忠直である。長与の後に衛生局長官に就任していた後藤を児玉に紹介したのも、石黒であった。医師でないのは児玉のみであるが、児玉もま
た日清戦争後の帰還兵を受け入れる臨時陸軍検疫部長時代(1895)に、広島県似島検疫所で活躍していた後藤の能力を高く評価していた。 |
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さて、グロート
ヤーンは、第一次大戦前の、1912年にベルリン大学社会衛生学の講師にならびに衛生学研究所の主任に就任している。同年『社会衛生学事典』を編纂し、
1914年には単著『個人衛生学および社会衛生学からみた出生減少と産児調節』を公刊し、翌1915年から1920年までベルリン市医事局衛生部長に就任
している。大戦後の、1920年にベルリン大学社会衛生学の教授に就任。1926年からは国際連盟衛生教育委員になり、27年からは2年間ベルリン大学医
学部長を務めた。彼の研究ならびに社会実践上の関心は優生学的観点からの結婚相談、人口問題(産児調節と出生減少対策)、そして居住環境問題などである。
彼は人種衛生学にも十分すぎるほどの知見と意見——精神障害者やアルコール依存症あるいはてんかん患者の社会的隔離と断種という主張——をもっていたが、
だが彼は当時の穏健な社会改革をめざすドイツ社会民主党(SPD)の帝国議会代表であり、ナチ的な人種主義や反ユダヤ主義はみられなかった。実際に、グ
ロートヤーンが属していたベルリン人種衛生学会は1917年に『結婚前の健康診断書の法的な交換と人種衛生的な結婚の禁止について(Uber den
gesetzlichen Austausch von Gesundheitszeugnissen vor der Eheschließung
und über rassenhygienische
Eheverbote)』という90ページ弱のパンフレットを発行し、のちのユダヤ人とドイツ人の結婚を禁止したニュルンベルク法(1935)の関連医学
法案で、結婚前の医学検査を求めた「婚姻優生法」の施行に先駆けた提案をおこなっている。 |
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グロートヤーン
よりも二世代ほど若い社会衛生学者のうち、後にナチの医療官僚になる人たちは、より積極的にナチの人種衛生学の理想を追求する傾向が強い。川越
[2004]は、フリードリヒ・ブルクデルファー(1890-1967)とアーサー・ギュット(1891-1949)の2人の社会衛生学者のその後を追い
かけて比較バイオグラフィー分析を試みている。政治学博士のブルクデルファーは、人口問題および家族統計の専門家で、ナチによる政権掌握以前の1929年
から1939年まで、ドイツ統計局の人口・企業・文化統計部長を歴任した。彼は、1933年7月から施行される「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律
(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses
einleitete)」の立法手続きに関与している。1930年代後半には帝国新ドイツ史研究所(Reichsinstituts für
Geschichte des neuen Deutschlands)において、いわゆる「ユダヤ問題(Forschungsabteilung
Judenfrage)」研究部にも属して研究を続け、1939年にはバイエルン州統計局長に就任して、ミュンヘンにおいてドイツ外務省のためにマダガス
カルにユダヤ人を再定住計画プロジェクトについての人口問題の観点から専門家報告をおこなっている。医師で人種衛生学者であったギュットは、開業医の後、
医療審議官という公務員の後、ナチの政権掌握の前年の1932年11月にナチス(NSDAP)に入党し、翌1933年5月帝国内務省の公衆衛生局(Amt
für Volksgesundheit,
直訳では民族保健局)に勤務を開始した。同じ年のAWI-Aの理事会のメンバーになる。さらに同じくそ年の秋には親衛隊上級大将に昇進し、1934年2月
には公衆衛生局長に就任している。その年の10月には人種・入植局(Rasse- und Siedlungshauptamt,
RuSHA)閣僚として移籍している[Klee 2003:210]。 |
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ギュットのこの
ような栄達の理由は、ブルクデルファー同様、いや、ブルクデルファー以上に1933年「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」に、精神医学者で人種衛生学者
のエルンスト・ルーディンやワイマール時代には判事であったファルク・ルットケ(1894-1955)らとともに深くかかわった。当時、ギュットは「遺伝
性疾患の子孫予防に関する法律」の父とまで呼ばれた。この法律はすでにワイマール時代からギュットらの人種衛生学の専門家たちから準備されていて、ナチ政
権下で障害児の父親の請願というプロパガンダを契機に、それまで署名をためらっていたと言われているヒトラーが一気に裁可したものだと言われている。この
法律により1945年までに、最大40万人の男女が不妊手術を受け、6000人が死亡したと言われている。その後に続く関連法令、すなわち1935年6月
の同法改正法、同年9月の血縁保護法(Blutschutzgesetz)——外国出生者(外国人)との結婚と婚外交渉の禁止、10月の「ドイツ民族の遺
伝的健康の保護に関する法律(Gesetz zum Schutze der Erbgesundheit des deutschen
Volkes)」により、遺伝性疾患や精神的障害を持つ人と健常者や非障害者との結婚が完全に禁止となった。 |
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これまでの説明
が、ナチの政権掌握以降にまで踏み込んでしまったが、ここで強調したいのは、第1回国際優生学会議(1912)以降、これから説明する第2回国際優生学会
議(1921)の10年間の間に、人種衛生学のパイオニアとしての自負をもつドイツが、断種政策においてアメリカに後塵を拝していたという劣勢感を抱き、
精神医学や人口動態学などの巻き込んで統合学際科学化を推し進め、関連する社会科学とりわけ法学研究を巻き込んで、法制化の可能性について研究を積見かね
ていたことである。ここで、第2回国際優生学会議への参加が、その後のドイツの人種衛生学ならびに輸入学問である優生学とどのような統合化を遂げるのかを
検証することである。なお、第1回国際会議では、同時に国際優生学学会が開催され研究発表があった。しかし第2回のニューヨークでの開催には、当初第1回
開催の3年後の1915年に開催される予定が、第一次世界大戦により中止を余儀なくされて、1921年にようやく開催されることになった。また国際優生学
学会は同時併催されずに、学術講演と国際会議のみで終わった。 |
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第2回国際優生
学会議では、1921年9月25日から27日にかけて、ニューヨークのアメリカ自然史博物館で、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンを議長に開催され
た。アレクサンダー・グラハム・ベルが名誉会長であった。学術講演(実質的には学会発表形式ではあったが)53演題のうち41件すなわち77%がアメリカ
からの発表であった。ただし1918年に第二次大戦が終わってからドイツは敗戦国になり、戦後賠償の問題でハイパーインフレーションが起こり、経済回復が
長引き、このころからドイツでは人種優生学研究が復活しつつあった。また、ヨーロッパで第一次世界大戦によって中断された優生学研究者の
仕事が再開されることになったのである。ヨーロッパと北米だけでなく、ラテンアメリカ(メキシコ、キューバ、ベネズエラ、エルサルバドル、ウルグアイ)、
アジア(日本、インド、シャム)からも代表団が参加した。主賓のレーナード・ダーウィン(第1回の主宰者)は、基調講演で「不適格者の排除」「恵まれない
者の大家族の抑制」「恵まれた者の大家族の奨励」という優生学の必要性を、前回と同じような論調で報告した[Black 2003:235]。 |
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すでに述べたよ
うに、第1回会議で国際優生学常置委員会(Permanent International Eugenics
Committee)が設置されていたが、第2回開催後の1925年には、常置委員会は優生学国際連盟機関 ( International
Federation of Eugenic Organizations, IFEO
)と改名された。ここでも、アメリカは運営のヘゲモニーを握っており、とりわけチャールズ・ダベンポートは、この機関の初期の歴史において圧倒的な力を
持っていた。ダベンポートは、優生学の普及に積極的に国際世論に訴えた。1929年にはIFEOの会長として、イタリアの首相だったベニート・ムッソリー
ニに手紙を書き、望ましくない繁殖を抑制できない「甚大な危険」があることから、イタリアでの優生学プログラムの実施には「最大の速度」が必要とまで警告
している。イタリアはローマカソリック教徒が大多数を占めているために、人工妊娠中絶も含めて強制不妊や結婚禁止には一切政策として踏み込んでいなかった
からである。アメリカに後塵を拝していたドイツであるが、ようやく、1932年、つまりナチスの政権掌握の前年にエルンスト・ルーディンがダベンポートの
後任として会長に就任した。そして、1933年にはドイツでは、ルーディンも立法化に関わる「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」が施行される。ダベン
ポートおよびルーディンの時代のIFEOは、まさに、強制不妊手術や結婚禁止法をなどを通して社会的不適合者の遺伝的排除の国際連絡網が確立しつつあっ
た。そのような流れのなかで、カソリックの多いラテン系の各国からの委員から不満が続出する。ラテン系の優生学者は、不良遺伝因子の集団からの断種などを
通した「負の優生学」ではなく、優良因子をもつ男女による人口の増加を目指す「正の優生学」的政策を指向した。そして1933年になりイタリアの社会学者
コラード・ジーニが、このようなIFEOの「負の優生学」アプローチに根本的に反対する声明をあげ、IFEOの加盟国から、分離独立したラテン系国際優生
学団体連盟を組織した。このメンバーの中には、アルゼンチン、ブラジル、カタルーニャ、フランス、メキシコ、ポルトガル、ルーマニア、スイス(フランスお
よびイタリア系住民を代表とする)。ジーニは、戦後も1965年に生涯を終えるまで「正の優生学」的政策を唱えつづけた。 |
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1911年のド
レスデン国際衛生博覧会のサイドイベントで、人種衛生学の国際ネットワークの盟主になろうと画策したドイツは、その翌年の1912年第1回国際優生学会議
におけるアメリカの優生学政策の評価を通して、自分たちが推し進めている人種衛生学の野心を挫かれたことを、前節の終わりに指摘した。第1回会議において
国際優生学常置委員会が開催されたが、その後に、ドイツのプレッツらは、第2回会議以降は、自分たちが組織する国際人種優生学協会との合併を提案したが、
ドイツのこの提案に賛成したのはスカンジナビアの優生学者たちだけで、その公式な連携関係は構築できなかった。他方、1913年ホフマンの『北アメリカに
おける人種衛生学』の公刊は、優生学に比して人種衛生学の優秀さを、アメリカにおける優生学的見地からの不妊手術の分析を通して、証明するものであった。
ここで強調すべきは、オーストリア=ハンガリー人であった人種衛生学者のホフマンが、アメリカとドイツの単純な学術的な論評にとどまらず、自らの東ヨー
ロッパでの人種衛生学の普及活動を通して、大きな影響力を発揮していたことである。彼はハンガリーの人種衛生学・人口政策協会の学者たちと共同して、ドイ
ツとアメリカの優生思想・人種衛生思想の比較し、かつ受容しようとした。また、ドイツの人種衛生学協会やそのミュンヘン支部、(ドレスデンで組織された)
国際人種衛生学協会、オーストリア人口研究協会、チェコ優生学協会、ハンガリーの人種衛生学・人口政策協会を比較する論文を執筆している。奇しくも、ホフ
マンもまた(後藤新平の台湾の民政統治において先に指摘したように)「生物学」の視座が、その理解と政策の実行に重要であると主張した。 |
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