1912-1920:ロンドン第1回国際優生学会議からビンディングとボーへ「生きるに値しない生命の根絶の許容」まで
1912-1920,
From the First International Eugenics Conference in London to Binding
and Boeh: “Acceptance of the Eradication of Lives Not Worth Living”
垂
水源之介
★ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学:Nationalsozialistische Rassenhygiene
1912
年、ロンドンで第1回国際優生学会議が開催される。主催は、その前年に亡くなったゴルトンが創設した英国優生学教育協会である。参加者は400名以上に及
んだ。会長は、チャールズ・ダーウィンの四男の息子でこの会議のスポンサーでもあったレナード・ダーウィン。彼は長く国会議員を務めていて、この会議には
62歳で、この会議をきっかけに優生学の論文や著作を手掛けるようになる。レナードは会議の開催演説で、より良い人間を育てるための原理原則の導入には勇
気が必要だと説いた。この当時はそれほど優生学には明るくなかったが、この会議以降、英国における優生学運動のオピニオンリーダーになる。1928年に
『優生学とは何か』を出版するが、その9年後に優生学の叢書のシリーズとして翻訳されている。この会議の座長には、グラハム・ベル、チャールズ・ダベン
ポート、アルフレッド・プレッツや、ミュンヘン衛生学研究所所長のマックス・フォン・グルーバー、さらには英国の内務大臣ウィンストン・チャーチルも務め
ている[British Medical Journal
1912:253]。当時チャーチルは国会議員であるが英国の優生学関連の立法——とりわけ精神障害者への断種——に熱心であり、何度か立法化のために画
策したが、レナード・ダーウィンの母方の親族で国会議員で自由党のウェッジウッド第一男爵ことジョサイア・ウェッジウッド(1872-1943)により当
時阻止されている。 |
|
会議は4つの分科会から構成され、第一部会は遺伝の身体的側面と異種交配について、第二部会は優生学の社会科学への影響、第三部会は法律への影響を検討さ
れた。そして第四部会は隔離と断種という方法を通して「適切な/不適切な」生殖促進と生殖阻止の方法について議論された[British
Medical Journal
1912:253]。会議の目的は、優生学知識のさらなる発展と、それを各国政府によって法制化することの必要性を論じ、国際間のネットワークを構築する
ことだった。そのため、国際優生学「常置委員会」が目論まれたが、ドイツからきたプレッツらは、この決定に不満であった。ドイツではすでに、国際人種衛生
学協会が設置されており、この会議で、英米のからの会員をリクルートできれば、国際常置委員会のイニシアチブはドイツが取れることを目論んでいたからであ
る。 |
|
ドイツは、アメリカに対しても優生学政策で後塵を拝している状況であった。1907年にルイジアナで障害者に実際に断種がおこなわれ、1910年代には
14州で断種法が制定され、1911年に『優生学に関連する遺伝』を上梓したチャールズ・ダベンポートが運営するコールトスプリングハーバー研究所内にあ
る優生学記録局(ERO)が軌道に乗り始めていたからである。アメリカが精神障害者に対する断種に対して容易に勧められた背景には、州法レベルでロビー活
動を地道におこなえば合法化されることや、民間の在野の研究者が、農業の育種研究を通して、優生学研究に参入することができたからである。とりわけ、アメ
リカの西海岸での断種の実践とその研究においてはこの時期、ポール・ポペノー(1888-1979)が特筆に値する。このスタンフォード大学出身で、当時
農業研究者であったポペノーは、1913年から1917年まで『遺伝雑誌(Journal of
Heredity)』の編集に携わり、優生学と社会衛生学——ドイツ流の人種衛生学という用語は普及せずこのように代替的に呼ばれた——に関心を持つよう
になる。とくにローズウェル・ジョンソンとの共著『応用優生学(Applied
Eugenics)』(1918)は大学教科書の体裁をとって大いに売れたという。その本のなかで、精神障害者を「人間の屑(waste
humanity)」と呼び、農業施設に強制隔離して、農事労働に従事させ、そこでの収益で収容施設の費用として賄うというアイディアは、実際に実行され
ることはないものの人気を博した。カリフォルニア州では1909年にすでに精神障害者への強制不妊手術が合法化されていた。この立法化に関与したヒューマ
ン・ベターメント財団は、1929年に発行された財団報告書のなかで約6千件の手術の要約を報告している。 |
|
ドイツ国内でも、アメリカの優生学の成功から学ぶ必要が叫ばれた。オーストリア=ハンガリー帝国時代の人種衛生学者であったゲイザ・フォン・ホフマン
(1885-1921)は、オーストリア=ハンガリー帝国領事館員としてカリフォルニアに滞在し、同州における優生学的政策をつぶさに観察し、1913年
に『北アメリカにおける人種衛生学(Die Rassenhygiene in den Vereinigten Staaten von
Nordamerika)』をミュンヘンにて発刊したが、これは、20世紀初頭の人種衛生学の世界的展開について、前年の第1回国際会議で米国の後塵を拝
していたと考えていたドイツ人学者に対して優生学研究のリードという図式に再考を促し、また人種衛生学パラダイムの自信を回復させた。どういうことだろう
か。ホフマンはまず、優生学を、負の優生学と正の優生学に分けた。負の優生学は、断種などの不妊手術や移民の禁止という、悪い遺伝因子の排除を積極的に進
めることである。進化学では逆淘汰——富裕階層のような優秀な遺伝因子をもつ出生率が下がり悪い遺伝因子をもつ低所得集団の出所率が上がる——と言われて
いる現象への、悪い因子の排除を意味している。アメリカでは精神障害者への断酒が進められたので、負の優生学は成功していると評価する。他方、正の優生学
は、優秀な遺伝因子をもつ者の人口増加であり、そのことにより劣悪因子を人為的に駆逐するという発想である。この正の優生学に人種衛生学は積極的に関与す
べきだとホルマンはドイツの学者たちに訴える。19世紀から、ゴビノーは優秀なアーリア人という人種カテゴリーが提唱され、ヒューストン・チェンバレンは
1899年の著作『19世紀の基礎』の中で、アーリア人とセム族(ユダヤ人)の先天的優劣を説き、当時の言語学起源論から、アーリア人のインド・ヨーロッ
パ共通文化説や、有史以降アーリア人がセム系やラテン系の拡張により純粋アーリア人は北方人種として存在するという「優秀人種の神話」が構築されていた。
そして、アメリカの白人優越論の優生学者のマディソン・グラントは1916年に『偉大なる人種の消滅(The passing of the
great
race)』を表し、優秀な北方白人種とはアーリア人にほかならないと研究成果を出す。これに、ホフマンの正の優生学の主張が結びつくと、衰退する優秀な
アーリア人の衰退を食い止めて、ユダヤ人の排斥とアーリア人の人口増加と生活の質の向上という、後のナチスの人種政策を見事に予言するものになっている。
実際に、ナチスは結核対策、禁煙運動、全粒パンの普及、がん対策など、1980年代に全世界の健康水準をあげる世界保健機関の推奨と見紛うばかりの先進的
な政策を進めることになる[プロクター 2003]。 |
|
19
世紀末から20世紀初頭の優生学の実践においては、アメリカ合衆国のそれがリードしていたが、当時の医科学や基礎理学研究の水準の高さにおいてはドイツが
自負しており、また、それを国策として推進しようとしていた。カイザー・ヴィルヘルム科学振興機構(KWG)は、1911年にドイツの自然科学振興を目的
として設立され、国家や行政から正式に独立した研究機関を設立維持することを目的としていた。この研究機関は、物理学者、化学者のワルター・ボーテ、ペー
ター・デバイ、アルベルト・アインシュタイン、フリッツ・ハーバー、オットー・ハーンら著名な理事が指導し、評議員会が指導にあたった。しかしながら、優
生学研究で、ドイツに支援をしたのはロックフェラー財団である。ベルリンで3人目の女性医師であり1906年からの人種衛生学協会の会員であり、かつての
アフルレート・プレッツの弟子であった人種衛生学者のアグネス・ブルーム(1962-1943)に、ロックフェラー財団は、彼女に対してドイツではじめて
の優生学研究に資金援助をしている。彼女の研究は、アルコール依存症に遺伝的傾向がみられるかどうかというものであった。 |
|
19
世紀末のドイツ帝国時代にプレッツやシャールマイヤーによって人種衛生学が生まれたが、この初期の提唱者たちには、遺伝的疾患や、家族歴というかたちで犯
罪学からスピンオンした犯罪家系の遺伝因子、あるいは性的奔放や、精神病の家族因子などをダーウィニズムの原理によって集団から除外すれば、遺伝的に問題
のない子孫が生まれないだろうという、理念的な楽観論者たちであった。しかし、アメリカにおける断種(不妊手術)の実態をホフマンらの報告を知ったドイツ
の人種衛生学者たちは、より具体的に政策として結びつけること必要性を感じた。第一次大戦に従軍し、敗戦の辛酸を舐めた人種衛生学者たちには、国際衛生博
覧会(1911)や第1回国際優生学会議における知的興奮は遠い過去の話になり、社会の再建と研究生活の正常化が急務であった。ドイツとアメリカの両地域
の優生学研究にロックフェラー財団は財政的支援を惜しまなかった。特に、第一次大戦後の経済的不況のなかで、ロックフェラー財団は、プレッツの教え子の人
種衛生学者アグネス・ブルームのアルコール依存症と遺伝因子の研究に資金援助をおこなった。同財団の優生学に対する研究資金援助はナチが政権をとった
1933年以降もしばらく続くほどであった。 |
|
その中で、法学と医学が結びつく医事法学研究で、ドイツの人種衛生学にも多大なる影響を与える小著が公刊される。わずか60ページほどのその著作は、刑法
専攻の法学者カール・ビンディング(1841-1920)と精神科医で神経病理ならびに解剖学者であるアルフレート・ホッヘ(1865-1943)の共著
『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁:その方法と形態(Die Freigabe der Vernichtung
lebensunwerten Lebens : ihr Mass und ihre
Form)』である。共著といってもその内容は、ビンディングが、不治の病(その中には「白痴」も含まれる)「生きるに値しない命」が福祉政策などの社会
的コスト負担になり、その当事者ならびに家族さらには社会にも負担になるために、いかにすれば刑法理論——他者の生命を終わらせることは殺人罪に該当する
——を使わずに、つまり法秩序(Rechtsordnung)を維持しながら、正当にそのような命を終焉させることができるのかを考察をしたものである。
奇しくもワイマール時代には疾患や福祉あるいは老後には社会的コストを充当させる政策がドイツ史上はじめて登場する。そして、24歳年下のホッヘが「生き
るに値しない命」を持つ者の病態や障害について医学的に解説をして、法学的決定に対してどのような医学的処置つまり安楽死の処置が合法化されるのかについ
て検討している。。この小冊子はビンディングの死後にホッヘの校注をつけて出版したもので、ホッヘの追悼の辞も含まれる。 |
|
この冊子の出版は出版当時は、次のような理由で一部の人たちだけに注目された。すなわち国家が法秩序の維持を理由に、不治の病の人を死に至らしめることが
できるのか。これは目的をもって殺害する計画的殺人(謀殺)とも異なり、殺人のように違法性を理解してもなお殺意を抱き殺害に至らしめる故殺などでもない
からである。これを可能になることとは、国家が(不治の病であるゆえに)市民の命を奪うことができる理由はいかなる理論を立てても困難だからである。しか
しながら、20世紀初頭における治療医学の進展は患者の生殺与奪を可能にするレベルにまで進展していた。実際、ビンディングとホッヘが提案した「安楽死の
法的正当化」の難問(アポリア)は、21世紀の今日の西ヨーロッパが抱える問題でもある。 |
|
しかしながら、この冊子は1933年の「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」の公布を経て、1939年8月にヒトラーが医師と助産婦に対する内務省令を発
し「障害者と障害新生児」を保健局に届けることを義務化し、身体障害児の安楽死計画が開始する時に再び思い出される。そしての1か月後の1939年9月親
衛隊中将で帝国衛生保健全権(のち保健委員)のカール・ブラントに対して「不治と判断される人間に対して、慎重な診察の上に安楽死がもたらされるよう、特
定の医者の権限を拡大する責任を与える」というヒトラー命令、後にアクツィオーン・ティ・フィア(Aktion
T4)という精神障害者への組織的かつ大量安楽死計画において、この「生きるに値しない命」という用語が政治用語として使われるようになる。そのために、
とりわけビンディングはナチの精神障害者やユダヤ人虐殺の理論的貢献者という汚名を長い間かぶるという不幸に遭い、ライプチヒ市当局は1909年に彼に付
与した名誉市民を、2010年になって取り消した。日本でも、この書物の翻訳と注釈書が2001年に出版されて2020年に再版されるが、その書名副題に
は「ナチス安楽死思想の原典からの考察」と記されているが、ビンディングもホッヘにもナチスの桂冠学者と呼べるような責はなく、むしろ、歴史的文脈を無視
して、現在の価値観から道徳的非難するものとなっているのは不幸なことである[森下・佐野編著 2020]。 |
★図表の資料は、ポータルページ「ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学」にアクセスしてください。
★用語・略語
リンク
文献
その他の情報
++
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
☆☆