ならずよんで ね!

1933-1941:ナチス政権掌握からT4計画の中止まで

1933-1941: From the Nazi takeover to the suspension of the T4 program

垂 水源之介

★ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学: Nationalsozialistische Rassenhygiene

1. よい優生学、わるい優生学
2. 1883-1911:フランシス・ゴルトン 「優生学」からドレスデン「国際衛生博覧会(人種衛生学特別部会)」まで
3. 1912-1920:ロンドン第1回国際優 生学会議からビンディングとボーへ「生きるに値しない生命の根絶の許容」まで
4. 1921-1932:ニューヨーク第2回国際優生学会議から第3回 国際優生学会議まで
5.1933-1941:ナチス政権掌握からT4計画の中止まで
6. 1942-1945:ヴァンゼー会議およびシンティ・ロマに対する ヒムラー絶滅命令以降ヒトラー自殺および敗戦まで
7.1945年以降:ナチスの優生学と医学的戦争犯罪の審理と処罰
8.優生学と人類学との学的関係について



 1933 年3月のナチ政権掌握から1941年6月のナチスドイツがソビエト連邦に侵攻し、第二次世界大戦が始まる時期におけるドイツの人種衛生学ならびに優生学と はどのような時代であったのか。それを理解するためには、ナチス政権下における、ヒトラー独裁体制と科学技術者や医学者が、官僚としてどのように関与した のかという概観について知ることが重要である。ヒトラーは政権掌握後、さまざま大学や研究所に赴いて最新の科学技術のデモンストレーションを視察すること を好んだと言われる[ジェイコブセン 2015: Beyerchen 1977; Weiss 2013]。そのため、ナチス時代における科学史や社会思想史研究では、従来の技術官僚政治(technocrate)に加えて、断種や安楽死などの優生 学的処置、非人道的人体実験やユダヤ人等の民族絶滅政策などに医学研究者、法学者、人類学者、民族学者、そしてそれらの「政策」に管理者として関わった軍 人官僚などの「人種専門家(Rassenkundler)」が広くナチス体制における政治に関わったことを評して民族官僚政治(ethnocrate)と いう用語を生み出すに至っている[eg. Procter 1988: Koonz]。そして、そのような官僚たちの揺籃となったが親衛隊である。

  親衛隊(Schutzstaffel)は、1925年にヒトラー自身が命名し、1929年に第四代目の親衛隊全国指導者となるハインリヒ・ヒムラーによ り、巨大な官僚的民兵組織であるが、同時に、人種的に優れた精鋭集団に成長していた。ナチの政権掌握後、それまで官僚や大学教授であったエリート知識人 は、イデオロギー的関心あるいは縁故主義の利害関係など様々な理由により、文字通りこぞって親衛隊に入隊し、政府や大学あるいは高等研究機関は親衛隊員の 資格をもった人たちにより占められるようになった。1935年9月以降、帝国市民からユダヤ人を排斥する目的のためにニュルンベルク法が施行される前後か ら、ユダヤ人研究者は実質的に排斥や亡命を余儀なくされ、健康な壮年までの管理職はほぼすべて、大学教員全体でも6割以上が親衛隊員だったという [Procter 1988:86]。

 1933 年のナチの政権直後に「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」が施行されたことについて前節で触れた。この法律は、遺伝性疾病にかかった者は、医学の経験 上、その子孫が身体的又は精神的に重大な遺伝性障害にかかる可能性が高い場合、外科的手術(不妊手術)により子孫を残すことができないようにすることがで きる、というものである。そして、この法律が遺伝性疾患は[以下現在は廃れてしまった疾患名もあるがそのまま記す]、(1)先天性精神薄弱症、(2)精神 分裂病、(3)躁鬱病、(4)遺伝性てんかん、(5)遺伝性振戦、(6)遺伝性失明症、(7)遺伝性難聴、(8)重度の遺伝性奇形、(9)重度のアルコー ル依存症者である。今日の知見ではアルコール依存症者は、いかなる遺伝因子もその原因として知られていないが、立法者たちは遺伝性疾患かあるいは社会防衛 論的配慮から不妊手術の対象可能者に分類されている。この立法にあわせて裁判官、医務官、開業医からなる多数の「遺伝健康裁判所」が創設され、裁判所が不 妊手術の決定の権限をもち、不服の場合には「高等遺伝健康裁判所」に上訴することができた。不服却下の場合は、国は強制力をもって不妊手術を実行すること が可能になった。施行後1年間の間に、84,600件が遺伝子保健法廷に持ち込まれ、62,400件が強制不妊手術となった。4千人近くが不妊手術当局の 決定に対して控訴し、そのうち3,559件は不服申し立てが行われた。その翌年、1935年には88,100件の裁判と71,700件の不妊手術が行われ た。ナチス政権末期には、200以上の「遺伝子保健裁判所」が作られ、その判決により40万人以上が自分の意思に反して不妊手術を受けることになった [Black 2012; Proctor 1988 Ch.4]。このような法律施行後の短い間に効率的に不妊手術が行われたのは、強制を可能にする司法制度の創設と整備であるが、同時に、エドウィン・ブ ラック[2012]によると多国籍企業であったIBMが、ナチスドイツの行政にパンチカードを含む人口管理システムを納入したからであると主張している。 実際にアメリカでは1896年の国勢調査の時にハーマン・ホレリスが創案したパンチカードシステム「タビューレティングマシーンズ」が採用されて、同名の 会社が1911年にはC-T-Rという会社に統合され、後者が1924年にIBMに社名を変更し、ヨーロッパでもタイムカードやパンチカードシステムの販 売と管理の営業を開始しているからである[Wikipedia, online]。

  ナチと優生学の結びつきを代表する研究者がオイゲン・フィツシャーである。彼は、1927年ベルリン・ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝 学・優生学研究所(KWI-A)所長に就任すると同時に、ベルリン大学人類学教授に就任した。フィッシャーはナチが政権掌握した1933年にベルリン大学 総長に就任してその後2年間務める。フィッシャーの総長時代の写真にナチ式敬礼するする写真が有名であるが、フライブルグ大学時代の友人のマルチン・ハイ デガーが1933年の総長就任時に即時にナチに入党したこととは異なり、ナチスに入党するのは1940年になってからであり、1942年にベルリン大学を 退職する。彼は古巣のフライブルグに戻るが、カイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所は「オイゲン・フィッシャー研究所」に改称される。 彼のKWI-Aへの学術的貢献が評価されたためである。戦後、1947年連合軍による脱ナチ化プログラムの審査を受けて、ナチス時代の名誉を剥奪される。 1954年になりフライブルグ大学名誉教授職の地位を回復している。1967年に94歳で亡くなる。

  ナチス時代のドイツの人種衛生学・優生学ならびに人類学史を考えることにおいて、オイゲン・フィッシャーとその所長であったKWI-Aの所縁についての知 識は欠かせない。ナチス時代の人種衛生学優生学研究の拠点であったKWI-Aは、カイザー・ヴィルヘルム科学振興機構(Kaiser -Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften, KWG)の下部組織である。KWGは、文字どうり皇帝の名を冠した1911年にドイツ帝国で設立された科学機関で、日本でいう日本学術振興会(1932年 創設)に相当するが、国家予算におけるシェア比、総額、そして規模は、KWGのほうが20年先んじているがはるかに大きい。KWGの資金調達は、国内外か らおこなわれ、国内ではドイツ科学緊急協会(Notgemeinschaft der Deutschen Wissenschaft)が組織され、個人、産業界、政府から資金が集められ、海外からは設立当初からロックフェラー財団がナチス政権期の初期でも協力 していた。KWGには、大小さまざまな研究所やラボラトリーが運営されて、ドイツ国外(ブラジルなど)にもあり、1946年までに、およそ55の下位研究 施設があった。ちなみに、日本の国立公衆衛院(現在の国立保健医療科学院)は1923年にロックフェラー財団が、関東大震災復興の一環として資金援助を申 し出て、1930年から34年にかけて建築や施設資料などの支援を得て完成し、1938年に官制公布により厚生省所轄の機関になっている。さて、KWGは 第二次大戦敗戦後の1946年7月によって解体されたが、その2か月後にベルリンの西側にマックス・プランク協会として再建されて、今日のマックス・プラ ンク研究機構として現在までドイツの科学研究の指導的役割を果たしている。

  カイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut für Anthropologie, menschliche Erblehre und Eugenik, KWI-A)は、AKGの研究ネットワークのなかでも比較的大規模な施設であり、ベルリンのダーレム地区にあった。建物は現在ベルリン自由大学の施設とし て使われているが、1927年に設置されたが、発足時から、人類学部門・人類学遺伝部門・優生学部門の三部門体制が続いた。1929年の世界恐慌で発足当 初から運営が危ぶまれ閉鎖の危機があった時に、ロックフェラー財団が資金提供を申し入れ、ナチスの政権掌握後の1935年ごろまで支援を続けていたとい う。1920年代以降の反ユダヤ主義に人種衛生学が知見を提供していたにもかかわず、アメリカのユダヤ人社会事業家のジェイムズ・ローブは、たミュンヘン の精神医学研究所時代に、エミール・クレペリンの患者であったために、同研究所が1924年にKWGに移管された後にも、KWGならびにKWI-Aに、 1940年まで資金援助をしていたという。

 1927年のKWI-Aの発足当時の所長はオイゲン・フィッシャー (ベルリン大学人類学教授併任)、人類学部門はフィッシャーが兼任し、人類遺伝学部門はオトマール・フォン・ヴェルシュアー(1896-1969)、人種 衛生学部門はヘルマン・ムッカーマン(1877-1962)がそれぞれ部門長であった。建物の一部はロックフェラーが資金提供している。開所式典には国際 優生学協会連盟(IFEO)の会長のチャールズ・ダベンポートが挨拶をしている。発足当時の研究所は、血液型の人種的多様性の研究と、遺伝学研究における 双子を比較して遺伝因子と後天的な発現——今日エピジェネシスと呼ばれる現象——の関連性を研究プロジェクトに主力がおかれた。研究人類遺伝学部門長の フォン・ヴェルシュアーは遺伝学研究における双子の方法論と、病気や異常の遺伝の研究におけるパイオニアであった。

 人種衛生学部門長のムッカーマンは元イエズス会士の変わった経歴の持 ち主で、アメリカにも留学したことがあり、神学、生物学、哲学を学んだ後、プレッツが創設したドイツ人種衛生学協会の会員にもなった。1926年にイエズ ス会脱会後も聖職者でありつづけた。彼は、遺伝的に健全なものは結婚相談所などを介して国家が育成する(=正の優生学)であり、遺伝的に問題のある人は施 設内に隔離(=負の優生学)すべきという信条の持ち主であった。人種衛生学協会の地方グループ組織化にも熱心で、1930年には文字通り『優生学 (Eugenik)』という雑誌の共同創刊者にもなった。その意味ではムッカーマンは根っからの人種衛生学徒であった。しかし、アメリカの断種法の影響を 受けて、かつナチスが社会的影響力を発揮するなかで、人種衛生学と優生学の間にはほとんど差異がなくなり、結婚の禁止や不妊手術(断種)という生命操作へ の介入を人種衛生学者たちが議論するようになると、ムッカーマンとキリスト教会の関係は緊張関係をはらむものになった。とくに、カトリック教皇ピウス11 世が1930年12月31日に回勅(Casti Connubii)を出し、結婚の神聖さ、優生学的施作への明確な反対、産児制限とセクシュアリティの回復ならびに、人工妊娠中絶禁止の再確認をおこなっ た。この回勅には、後に最初のT4計画を阻止したミュンスター枢機卿のフォン・ガーレンが直接ローマに赴いてその布告を促したという経緯がある。そして、 これは現在でも実際に効力をもち、世界の生命倫理学者が知っておくべき常識にもなっている。

 しかしながら、ムッカーマンはそれにひるむことなく1932年7月に プロイセン州保健評議会の「公共における優生学」審議の過程で、ほぼ1年後にナチス政権のもとで公布される「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」にほぼ類 似する優生学法の草案を提出しいている。このプロイセン州保健評議会は保健政策の意思決定に重要な役割を果たし、会議に参加したのは、ムッカーマンのほか に、エルヴィン・バウア、アグネス・ブルーム、オイゲン・フィッシャー、ベンノ・シャイス、ハンス・ハルムセン、ショイマン、人口学者で帝国統計局長のフ リードリヒ・ブルグデールファー、さらには、カトリック神学者ヨーゼフ・マイヤー、精神科医カール・ボンヘッファー、ヒュブナー、ラング、クルト・ポー リッシュ、エミール・シオリ、オットマール・フォン・ヴェルシュアー、弁護士エバーマイヤー、ハイムバーガー、エドワード・コールラウシュ、そして、ナチ ス時代に帝国保健省の指導者となるレオナルド・コンティも参加していた。

 しかしながら、政権掌握後のナチスはカトリック教会とは当面宥和政策 をとるためにムッカーマンに優生学政策への積極的関与は都合が悪く、またナチス党員ではないために1933年にムッカーマンはKWI-Aの人種衛生学部門 長を解任される。ムッカーマンの後任者は、ミュンヘンで遺伝学の教育を受けたフリッツ・レンツ(1887-1976)であった。レンツは、同年グロート ヤーンが創設したベルリン大学社会衛生学の講座の教授にも就任している。レンツはKWI-Aの人種衛生学部門長に就任後にナチスに入党し、4年後の 1937年にはKWI-Aの所長に就任する。レンツはナチ政権が組織した「人口・人種政策専門家委員会」のメンバーになった。ナチス入党以前より北方人種 説ならびに反ユダヤ主義者であり、1941年に出版された『形態学・人類学研究(Zeitschrift für Morphologie und Anthropologie)』誌において、自ら関与した1935年のニュルンベルク法を回顧し「外見的な特徴と同じくらい重要なのは個人の血統であり、 金髪のユダヤ人もまたユダヤ人である。北欧人種の外見的特徴のほとんどを持ちながら、それにもかかわらず、ユダヤ人の精神的傾向を示すユダヤ人がいるの だ。したがって、国家社会主義国家の法律は、ユダヤ人を外見的な人種的特徴によってではな く、家系によって適切に定義しているのである」(Fritz Lenz, Über Wege und Irrwege rassenkundlicher Untersuchungen, in: Zeitschrift für Morphologie und Anthropologie Bd. 39, 3/1941, S. 397)と述べている。

 フランスと国境を面して1918年の敗戦以来、1925年のロカルノ 条約により再確認されていた非武装地帯ラインラントにヒトラーは1936年3月にヒトラーが突如進駐を開始する。「ラインラントの混血児(バスタード)」 たちへの不妊手術の実施の責任者になる。1930年代になっても、ドイツの黒人とその肌の色に対する偏見は、ほとんど国民文化の一部になっていたと思われ るが、その淵源はオーストリアの民族学者・人類学者であったオットー・ペッヒのベルリン遊学時代のメンターで同じくオーストリアの形質人類学の碩学であっ たフェリックス・フォン・リュシャンの肌色色彩チャートの考案[1889]以降、人種分類に肌の色を客観的に定義することにはじまり、フィッシャーの頭蓋 計測、ヴェルシュアーの血液型分類など時代を追うにつれて洗練されてゆく。とりわけ1904-1908年のヘレロ戦争における大規模な黒人に対する南西ア フリカにおける人種研究が進むが、ドイツの研究者は黒人とそれ以外の人種の混血集団に非常に興味をもった。しかし、海外植民地からの兵隊のリクルートをす すめ黒人との混血に対してそれほど抵抗のなかったフランス兵に対して、ドイツはその偏見を爾来持ち続けていた。医学および人種衛生学にもとづくドイツ領内 におけるナチスの優生学政策は、命令と指揮実行系統が複雑で不明瞭なユダヤ人絶滅計画とは異なり、先行する立法にもとづいて専門家諮問会議の議決を通して 実行されるので、ラインラントの混血児たちへの優生手術も短期間の間に効率よく優生手術が実行された。この断種手術は1937年から開始されて800名の 児童に施された。それにも関わらずこのプログラムはナチス時代には、多大な努力をして秘匿されたという[Samples 1996]。

 1933年3月23日ドイツにおける全権委任法の通過、すなわち第三 帝国の成立と、その4ヶ月後の7月14日に公布された「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」は、ドイツの人種衛生学者や社会運動家のみならず、英米の優生学者たちが絶賛した。
 しかし、その2年後の1935年のニュルンベルク法つまり、「ドイツ 人の血と名誉を守るための法律」(Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehre)と「帝国市民法」(Reichsbürgergesetz) により、反ユダヤ絶滅政策を正当化する、北方アーリア人種概念を正当化するための優生学的な研究が続いて発表されると、英米の優生学者たちはそれまで絶賛 していたり、あるいは、比較的歓迎気味であったが、今回ばかりは完全に声を潜めた。ニュルンベルク法について、これまで断片的に触れてきたが、ナチスの人 種衛生学政策を考える上で重要な法律なので、ここで記そう。ニュルンベルク法は「血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」2つの要素からなっていたこ とは左記のとおりである。しばしば、ニュルンベルク法には、この2つの法律に連動して複数の法律が制定されている。結婚前のカップルが医学検査をうけるこ とを求めた「婚姻優生法」やロマやシンティなどを強制移住や民族浄化を通して将来殲滅するための根拠となった「帝国ジプシー法」などがあった。

 「血と名誉を守るための法律」はユダヤ人とその同族の市民との結婚を 禁止する法律である。つまりドイツあるいはその同族の血統をもつ者だけが帝国市民であると規定したもので、これはまさに血液保護法 (Blutschutzgesetz)とも言えるもので、ユダヤ人と非ユダヤ人の間の結婚と婚外性行為は禁止された。次に「帝国市民法(RBG)」は帝国 公民法と訳されることもあるが、「帝国市民」だけが完全な政治的権利を持つと規定されている。そしてこの市民は「ドイツ人またはその近親者の血を引く」市 民でなければならない。これが血統にもとづくドイツ人の第一区分の規定である。その次の第二区分として「ドイツ国民と帝国に忠実に奉仕する意思と能力があ ることを行動で証明できるものが規定されている。この2つの区分は「ドイツ人または同族の市民」でなければならない。そして、第三区分として「ドイツまた は同族の血」を引いていない者として市民として資格が与えられるものである。これは外国生まれの白人で北方人種(アーリア人)が申請によって資格が与えら れるものであったが、この申請は非常に難しいもであった。施行後1年間の間に1万通を超える申請書の中から、いくつかの予備審査を経て、合格したのはわず か数通であった。申立人の世界大戦への参加や「運動」に対する政治的なメリット、人種的な外見、性格の評価などが、審査基準とされた。

 しかし、これだけでは、ユダヤ人——ドイツには改宗ユダヤ人も多くい わゆるドイツ人との間のいかなる形質的差異も峻別化は不可能である——組織的排除は不可能であり、「血と名誉を守るための法律」も婚姻の禁止を規定してい るために、この二法だけで、ユダヤ人をドイツ社会から排除することは不可能である。それを規定するのが、二法に付随したさまざまな法律とそれに基づく運用 である。例えば、同化した「ユダヤ人の混血児」には、選挙権と「暫定的な帝国市民権」しか与えられなかった。帝国市民権法の結果、ユダヤ人が公職に就くこ とは、政令で禁止された。1933年の職業公務員復権法のいわゆるFrontkämpferprivilegによってそれまで解雇を免れていたユダヤ人公 務員も、1935年12月31日をもって辞職しなければならなくなった。さらに、ユダヤ人は政治選挙の投票権を失った。1938年、ユダヤ人医師と弁護士 は帝国市民権法のさらなる政令(1938年7月25日のRBG第4政令と1938年11月30日のRBG第5政令)により資格を剥奪されました。そして、 1941年11月25日にヒトラーによって発布された帝国市民権法第11号令が重要な意味を持つようになった。これにより、ドイツ系ユダヤ人は外国に居住 すると市民権を剥奪されることになったのである。国外追放の場合、ユダヤ人は国境を越えた時点で市民権を失い、同時に生命保険や年金保険の請求権を含むす べての財産が正式に国家に移管されることになった。
 これらの組織的かつ構造的なユダヤ人排除を可能にしたのが、ドイツが それまで培ってきた人種衛生学のさまざまな知見と民族学がこれまで培ってきた家系調査の奇妙で非科学的な節合である。ミシュリング(Mischling) は、ニュルンベルク法の施行以降に、アーリア人と非アーリア人(ユダヤ人など)の混合祖先を示すため考案された法律用語である。この言葉はもともと雑種、 雑種、混血という一般的な意味を持つナチの公式用語での使用以外では混血児(Mischlingkinder)という言葉は後に第二次世界大戦後に非白人 兵士とドイツ人母の間に生まれた戦争孤児を指すのに使われた。ナチスは「ユダヤ人」の人種的定義を見出すことができなかったため、代わりに先祖の宗教的背 景をもとに、ある人物がアーリア人であるか「ユダヤ人」であるかを判別することとした。「完全なユダヤ人」(IstjudeまたはVolljude)を、 宗教的所属や自認にかかわらず、ユダヤ教の信徒に入信した祖父母やユダヤ人の配偶者を持つ人が少なくとも3人いる者と定義し、2人のユダヤ人の祖父母がい る人は法的に「ユダヤ人」あるいは「法的妥当性によるユダヤ人」(Geltungsjude)と呼んで区別した。1939年の帝国国勢調査によれば、第1 級で約72,000人、第2級で約39,000人、それ以上の級では数万人のミシュリンゲ(Mischlingge; 複数形)が存在したが、これらは帝国によってアーリア人と見なされたため記録されていない可能性がある[Bazyler 2012:84-85]

 このような人種分類は、1942年のヴァンゼー会議での決定以降、組 織的なユダヤ人らの殲滅事業(ホロコースト)に絶大な力を発揮するわけだが、市民生活の現場では、どのように人種衛生学の知見が反映されたのであろうか。 それは、人種衛生学による血液型による弁別と民族学の家系調査の手法にもとづく家系図の整理である。これは、血液証明書という身分証明書の携帯義務と、親 衛隊人種・移住本部(RuSHA)によるファイリング登録制度によって支えられていた。親衛隊人種・移住本部は、1931年ヒムラーとリヒャルト・ダレ (1895-1953)に設立されて、当初はダレに本部長に就任し、ナチスの有名ンア土地に根ざした一種の血族的農本主義運動「血と土(Blut und Boden)」を展開したが、1938年にヒムラーにより罷免されている。RuSHAは、ニュルンベルク法施行時には、組織・管理部、人種部、教育部、家 族・相続部、都市計画部、記録報道部、人口政策部の7つの部門で運営されていた。血液証明書を発行する業務はRasse und Siedlungs(RUS)の指導者またはその人種検査官(Eignungsprüfer)によっておこなれたが、市民向けには「ニュルンベルク法 (Die Nürnberger Gesetze)」という家系図の模式図にもとづいて人種分類申請をしていたようで、それらの審査にもとづいて人種証明が受ければ血液証明書が発給された [Weingart et al. 1988:505-513]。

 ナチスドイツにおける人種分類やアーリア人を頂点とする人種優越思想 ならびにセム民族(ユダヤ人の隠喩)をはじめとする有色人種の劣等性についての社会啓蒙は、「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」やニュルンベルク法の条 文との齟齬をおこすことなく、大量の雑誌をとおして普及が試みられた。『新しい民族:人口政策と人種福祉の啓蒙冊子(Neues Volk : Blätter des Aufklärungsamtes für Bevölkerungspolitik und Rassenpflege)』はその代表である。この雑誌は、はナチスドイツの人種政策局(ORP)の月刊誌。1933年に、医師で親衛隊であったヴァル ター・グロース(1904-1945)によって創刊された雑誌。最高販売部数は、30万部で、医師の待合室、図書館、学校、そして個人購入された。その雑 誌のテーマは、アーリア人種の「卓越性」と、ユダヤ人、ポーランド人、および他の人種グループの欠陥についての宣伝にあった。

 グロースは、ゲッティンゲンやミュンヘンで学んだ後に医師になり、医 学生としての訓練中にナチに入党した。ナチスドイツ医師連盟という党派性のつよい若い医師団に加盟し1932年にはそのリーダに選ばれた。医師であるため にナチの優生政策や反ユダヤ主義的言動が評価されて、翌1933年のナチの政権掌握時には副総統であるルドルフ・ヘスにより人口政策・人種福祉啓蒙局 (Aufklärungsamt für Bevölkerungspolitik und Rassenpflege)の局長にわずか29歳で任命される。ユダヤ人問題に関してはアルフレッド・ローゼンベルク『二十世紀の神話』(1930)に書 かれた反ユダヤ思想を反映する形でかかれた。グロースは、これまで述べたような人種衛生学者のような研究業績はなく、またナチス政権後半に影響力を失うヘ スやローゼンベルグの庇護のもとにあったために、ハインリッヒ・ヒムラーらの東欧での安楽死やユダヤ人やロマ・シンティの絶滅政策にも関わっていない。し かしながら、彼が編集指揮した『新しい民族』は、学校や図書館で非常に広く読まれ、また、記事の内容も写真やイラスト多用し、優生思想や人種の優劣、障害 者の遺伝因子の社会的排除など、ナチス期における人種衛生学の啓蒙普及に絶大なる力をもっていた。

 『新しい民族』記事の内容は、健康に関する記事のほかに、同盟国の独 裁者であるベニート・ムッソリーニのプロフィール、ヒトラー・ユース・キャンプに関する報告、旅行のヒントなど多岐にわたりましたが、つねに優生学と人種 的な宣伝を欠かすことはなかった。また、その雑誌のもつレトリックは巧妙で、好ましくない劣等人種については、具体的に言及せずに、ゲルマン民族である アーリア人の人種的優越性を強調することで、逆に、それ以外の劣等人種を暗に批判するという方法がとられた。


 例えば、ある記事のなかでは、アーリア人の農地面積の減少をしめす人 口統計を、平易な方法で示して、ユダヤ人が伝統的なドイツの農民を圧迫追いやることを示していた[Koonz 2003:117-119]。また、この雑誌は、優生学的な断種について紹介し、健全な子どもと精神遅滞と子どもたちの写真を併置したり、理想的なアーリ ア人家族と、非アーリア人夫婦カップルだけの写真を併置することで、優生学的な人間の「科学的」選別を正当化することに寄与した。ニュルンベルク法の施行 (1935年9月15日)以降は、ユダヤ人に対する攻撃はさらに露骨になり、ユダヤ人の生活の豊かさを強調することで、ドイツ人はユダヤ人に同情しないこ とを積極的に宣伝した。そのため、雑誌のページは増え、それともともにユダヤ人を非難するページも増加した[Koonz 2003:198]。

 ナチスの政権掌握があった1933年に「遺伝性疾患の子孫予防に関す る法律」がすぐに施行されたことは、その後1945年のナチスの敗北までの12年間の期間が医学的全体主義あるいは人種衛生学の帝国であったことを予見す る[Proctor 1988: Koonz 2003]。そして、すでに指摘したように、この法案はナチス以外の多くの人種衛生学の専門家が19世紀末にはじまる、この新しい優生学パラダイムを通し て悪質な遺伝因子を断種によって防げると考えられていた。実際に遺伝子(Gen, gene)という用語は染色体の発見にもとづいてウィルヘルム・ヨハンセンが1909年に提唱したが、1953年にワトソンらによってその実体である DNAと構造モデルの論文までは家系におけるメンデル遺伝現象の観察だけが、遺伝現象を確実に同定するものであった。現在の知識水準からみると科学的知見 を、断種などの社会的実装に適用させることは無謀で無意味なことであるを知っているが、オルダス・ハクスリー[Huxley 1932]などサイエンス・フィクションの作家などわずかな例外を除いて、人種衛生学・優生学がもたらす楽観的未来に、ナチスのみならず欧米の人たちは魅 了された。

 その最悪の悪夢が現実になるのは、1939年9月にヒトラーが文書を もって「不治と判断される人間に対して、慎重な診察の上に安楽死がもたらされるよう、特定の医者の権限を拡大する責任を与える」命令とT4計画すなわちア クツィオーン・ティ・フィア(Aktion T4)という精神障害者への組織的かつ大量安楽死計画の実行である。この実践の思想的根拠となったのが、1920年のビンディングとホッヘによる『生きる に値しない命を終わらせる行為の解禁』である。しかし、同冊子の出版由来についての説明の際に触れたが、T4計画が20年前から始まったのではなく、この ヒトラーの命令を受けて、ナチスの人種衛生学者の頭の中にあった「生きるに値しない命」の実体があり、それに対して安楽死措置を使うことが正当化されるの は、ビンディングの法理にはなく、あくまでもナチスの実行者たちが『行為の解禁』にまで遡及したにすぎない。だが、ナチの医学者の間では、この「生きるに 値しない命」という概念が実体化し、安楽死を正当化するための口実になったことは事実である。

 さて1939年の文書命令は、それを知った医療関係者に対して、安楽 死を可能にする医師の権限はドイツ国内に対して適用されるものであると信じられていた。しかし、実際には1938年3月13日のオーストリア進駐とそれに ともなう併合、すなわち独墺合邦(アンシュルス)が起こる。その1ヶ月後にはウィーン大学医学部長にナチス党員エドゥアルト・ベルンコップが就任する。そ してベルンコップは1942年にはウィーン大学学長にまで昇進する。1938年の秋にはドイツ国内のシナゴーグやユダヤ人商店に対するナチによる組織的な 略奪放火事件「水晶の夜」がおこる。翌1938年1月30日のヒトラーの演説ではそれまでのもととは異なり、諸外国に対する敵意と反ユダヤ主義を明確に打 ち出した。その年の3月にはチェコスロバキア併合、8月23日独ソ不可侵条約締結のそのすぐ後に9月1日スロバキアと共同してポーランドに侵攻する。3日 間で英国とフランスがドイツに宣戦布告して第二次大戦が始まるが、その9月に先に述べたように、ヒトラーはブラントに国内の「不治の病」の者に対する安楽 死権限の付与を医師に可能とする命令を下す。それがT4計画の嚆矢だと言われている。しかしながら、これが始まる前に、ゲーリングの指揮下でポーランド侵 攻が始まるが、同時に親衛隊全国指導者のヒムラーはポーランド領内における精神病患者の虐殺を同時期におこなっている。ヒムラーは、ラインハルト・ハイド リッヒに命じて、アインザッツグルペン(特別行動部隊)を派遣してユダヤ人を含む「反体制」と認定したポーランド住民を多数殺害した。その中に、精神病病 棟の患者も含まれていた。9月27日、ドイツ占領下のポーランドで、西プロイセンのヴェイヘロヴォ(ノイシュタット)で最初の精神科患者の虐殺が行われ、 その後、多くのポーランド国内の施設で病人がさらに殺害された。秋になっても、ドイツ人患者はポメラニア地方の療養所の責任者によって選ばれ、ドイツ占領 下の西プロイセンに連れて行かれ、銃殺された[Gerlant 2015]。

 このような文脈の中でみると、この時期からおよそ2年間続くT4計画 は、ナチスは、それを予定して待っていたのように機敏に動くことになる。しかし、これは、ナチの国家的プロジェクトであったがそれにT4という作戦名が命 名されたわけではない。この名前は、ベルリンのミッテ地区ティアガルテン通り4(Tiergartenstraße 4)にあった別荘を本部とするもので、そのような命名動いていたものではない。この計画には、ミュンヘンやベルリンの人種衛生学者は直接関わってはいな い。ヒトラーは、1939年7月にはすでに、帝国保健部長レオナルド・コンティ、帝国総統府長官ハンス・ハインリッヒ・ランマース、総統府副長マルティ ン・ボルマンと協議を行っていた。テーマは、子供の「安楽死」に続いて、精神障害者を殺処分の対象に含めることによる「生きるに値しない命の破壊」につい て、すでに進行中の協議の継続であった。しかし、ヒトラーはその実施をコンティに依頼せず、すでに「子供の安楽死」を主導していた総統府長官(KdF)の フィリップ・ボウラーに依頼したのであった。1939年8月10日、ボウラーは、カール・ブラント、レオナルド・コンティ、帝国内務省の大臣官房長ヘルベ ルト・リンデン、そして彼自身のスタッフであったヴィクトール・ブラック(第二本部長)とハンス・ヘフェルマン(第二本部長)、さらに成人の安楽死を実行 するため必要な医師のリストアップと選抜の計画を立てた。このような下準備が水面下ですすんでおり、9月1日の命令のサインへと続く。総統官邸は、決定さ れた措置に関連して公の場に出てはならないので、形 式的にはKdF第二本部に従属する半官半民の特別管理局が編成され、ヴィクトール・ブラックが責任者となり、1940年4月からベルリンのT4本部を根拠 地にして、ナチスの帝国会計が資金を提供した。常務取締役ディートリッヒ・アラーズを擁するこの中央サービスオフィスT4は外見上独立した機関に細分化さ れていた[Klee 2010]。
 これにより、身体、精神、心理に障害を持つ7万人以上の人々が組織的 に大量殺害されたとされている。これに、先に触れた侵攻占領地域においても病人殺害が常態化し、ナチス時代の犠牲者の累計は1945年までに20万人以上 が犠牲になったと言われている。戦後ドイツでは東西に分かれ精神障害と遺伝の優生学研究はタブーになった。また、精神障害者への医療福祉に対する考え方 は、東西両ドイツのイデオロギー陣営の影響を受けたために、長い間T4計画については沈黙が守られてきた。しかし、統合の前の西ドイツではジャーナリスト のエルンスト・クレー[Klee 2010[1988]]、東ドイツでは法学者のカウル[1993[1976]]たちが精力的に資料を発掘している。

 彼らの情報を整理すると、T4計画では、以下のような手続きが、医療 官僚と現場の医療職(医師、看護師、補助スタッフ)の間で整然と実行されたという。すなわち、殺害計画(人数の数値目標)、殺害方法の決定、該当者の登録 と障害や疾患の分類、生存か殺害かの決定、決済、該当者の移送(ロジスティクス)、殺害の実行、確認と遺族への通知である。最初のT4計画では、まず帝国 療養所・養護施設作業部会では、医療部門と管理部門の設置が決まり、移送をおこなう非営利患者輸送団体が設立された。施設ケアのための慈善基金が組織され て、約400名の雇用が決定された。その後、全国で40名の評価者が任命され、これは、登録用紙の患者記述に基づいて生殺与奪を決定するものであるが、書 類の署名には、偽名を使うことも容認された。まず1939年10月9日の作業部会会議では殺害する患者数は7万人と見積もられ、その諸コストが計算され た。殺害方法については帝国法医学研究所化学物理学部門の責任者が一酸化炭素による提案がなされ、承認された。同会議では、全国の療養所と老人ホームに対 して、それぞれの対象者の病気と労働能力に関して質問する通知者にもとづいて、対象になる患者を記載することが求められた。全国の施設に配布されたリーフ レットでは「統合失調症、てんかん、脳炎、虚弱体質、麻痺、ハンチントン病、老人性認知症、その他神経学的末期症状をもち雇用することが不可能な人間、機 械的作業でしかできない人間。5年以上施設にいた人間、犯罪的な精神障害者、ドイツ国籍を持たない人間」である。この最初の情報提供の通知では、殺害する ことに関する情報は開示されず、統計と情報収集とものとされた。本部に返送された。ファイルは正本と副本がとられ、評価者たちが、そのファイルにもとづい て生死を決定する。評価者の署名はイニシャルでおこなわれた。「処分」決定が降りたファイルは、それぞれの対象者がいる施設におくられ、そのファイルとと もに今度は殺戮センターに専用の輸送車で送致される。離れたバラックにシャワー室とよばれる気密室があり、バラックの隣には移動式の火葬炉が設置された が、シャワー室に入る人たちには見えないように板塀で遮蔽してあった。

 1939年から41年前の3カ年の間にドイツ帝国領内に6つの殺戮セ ンターが建設された。この期間に全国で殺害された被害者は7万人であるのは、すでに述べたとおりである。そしてこの動きは、1938年3月にアンシュルス によってナチスドイツ領になったオーストリアでも同様であった。先に触れたが、ウィーン大学ではその直後にナチ党員のエドゥアルト・ペルンコップが医学部 長に就任し、就任演説では人種衛生学にもとづくナチの方針を絶賛した。すなわち、断種を通して遺伝的に劣った人間を排除し(=負の優生学)、遺伝的に価値 のある人間の育成(=正の優生学)を推進するというものである。ベルコップはその後1943年にウィーン大学学長になるが、戦後まで長く使われた解剖学教 科書は体表解剖学の標準となって広く世界の教科書として利用されるが、1997年になり解剖図のモデルは政治犯として処刑された身体が使われているという 疑惑が出て、ウィーンの上院の報告書はおよそ半分は政治犯のものであったと認定している[Baker 2019]。

 またウィーン大学医学部出身で自閉症研究とケアの実践で著名な児童精 神科医ハンス・アスペルガー(1906-1980)は、1938年当時、ウィーン大学の医学部附属病院の教育施設で講義をおこない、ウィーンの児童診療施 設で臨床をおこなっていた。アスペルガーの指導教員はフランツ・ハンブルガーで、ナチスの優生学政策の熱狂的な支持者であった。アスペルガーは生涯ナチス 党員にはならなかったが、1933年のナチスの「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」には賛同している。T4計画は、オーストリアでも同じ原則で運用さ れ、ハンブルガーの運営するシュピーゲルグランド精神医療施設の小児病棟に隣接する建物の中で安楽死させられた。アスペルガーは、別の施設で働いていた が、その過程のなかで200人の障害児を、その教育能力に応じて、生死をわける分類をする7人委員会のメンバーの一人だった。そのうち、44人の子どもた ちが「絶望的」と診断されて、シュピーゲルグランドに移送、35人は殺害された[シェーファー 2019:177-203]。

 しかし、この殺戮システムは1941年8月24日にヒトラー命令文書 でこの運用が停止する。その原因は、7月13日、7月20日、そして8月3日に、ミュンスター大司教クレメンス・フォン・ガーレン(1878-1946) がミサの説教時にT4計画でおこなわれている安楽死による殺人に対して断固たる反対を表明したことである。このことにより、彼は「ミュンスターのライオ ン」と呼ばれるようになった。フォン・ガーレンは、1937年の教皇ピウス11世の優生学や安楽死を拒否する「回勅」の布告を働きかけた聖職者でもある。 先に述べたように、T4計画は極秘ではないが、システマティックではあるが、現場での書類のサインをイニシャルで済ますことができるなど、比較的秘匿性を 保持するように運用されていた。しかし、毎年数万人の被害者が出て、遺族にも通知されるシステムであり、カトリック信者の間にも同様がおこり、そもそも優 生政策に反対の立場をとるフォン・ガーレンは運用当初から教区から連絡を受けていただろう。

 フォン・ガーレンの都合3回にわたる説教はT4作戦批判に止まらな かった。まず7月の説教では、彼は、ナチス政権下での裁判なしの収監や失踪、予告なしのカトリック施設の接収、ゲシュタポ(秘密警察)を通した恐怖政治を 批判した。そして、第三帝国に正義が欠けており、ドイツ市民としての正義を要求すると述べた。2回目の説教では、ナチスに対するカトリック教会のこれまで の書面による抗議は無駄であることが証明され、良心的宗教者が収監されていることを訴えている。そして8月の3回目の説教で、精神障害者の非公開の施設へ の移送と、その後に家族への通知という事実があるとのべ、これは非公開の施設で「殺人」がおこなわれていることに他ならないと弾劾し、神の法にもドイツの 国法にも抵触する。それゆえに、その「証拠」をミュンスターのあるヴェストファーレン州の検察に提出したという。フォン・ガーレンのこの3回の説教は文字 化されて非合法印刷の形でドイツ中に流通した。また、この地下パンフレットは連合国側にも流れて、イギリス空軍はその一部をビラにしてドイツ領内に空中か ら散布したという[Lifton 1986: 64]。

 この通知を受けたナチスの閣僚たちは激怒し、死刑にすべきという者も 出たが、宣伝相ゲッベルスはミュンスター市民のさらなる反発を生むと慎重論を展開し、ヒトラーにそれに応じた。フォン・ガーレンのこの説教は、反ナチの運 動家に大いに刺激を与え、ショル兄妹は平和主義の学生抵抗運動組織「白バラ」を立ち上げることとになった。 フォン・ガーレンらの宗教的かつ市民的抵抗に より、それまでのT4計画のプロトコルの中止を余儀なくされた。しかしながら、T4はドイツ領内だけでなく帝国の支配地に拡大されたかたちで「継続」され たことがわかっている。それは、1942年から本格化するユダヤ人の移送と強制収容所での奴隷労働従事から、絶滅収容所における組織的かつ計画的殺戮がは じまるが、精神障害者から、国家労働に適さない身体障害者、療養所ならびに老人ホームの収容者に対する「安楽死」を、これまでのT4計画の拠点から、各地 の強制収容所や絶滅収容所に移して実行しようとするものであった。これは、各収容所の監督官とSS大将の間で「特別扱い14f13 (Sonderbehandlung 14f13)」というカテゴリーで呼ばれたので、これによる移送と殺害は14f13計画(die Aktion 14f13)という。14というのは収容所の監督医務官の数字(符丁)であり、対象者ファイルには死因による分類にはf1,f2などという分類がなされ て、障害者や老人を対象にするこの処刑にはf13の番号が振られたからだという。14f13計画もまた、T4専門家からなる医師委員会のメンバーは収容所 に赴き、ファイルに記載された情報にもとづいた簡単な問診をおこない、生殺与奪の「選別」をおこなった。フォン・ガーレン司教の1941年7月から8月説 教演説に先立つ、4月からザクセンハウゼン強制収容所などでおこなわれ、ブッヘンヴァルトやアウシュビッツの収容者は、T4計画で設置されたゾンネンシュ タイン殺戮センターなどで殺戮されている。

 このように、14f13計画は、ファイリングシステムと移送という手 の込んだ手法からはじまったが、1944年4月11日からは親衛隊本部の指示により、それ以来、登録表の作成も、医学委員会による対象者の選別も行われな くなった。これ以降、殺害予定者の選定は収容所監督医務官、つまり原則として収容所医師の独占的な責任となった。

★図表の資料は、ポータルページ「ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学」にアクセスしてください。

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