1945年以降:ナチスの優生学と医学的戦争犯罪の審理と処罰
Since 1945: Trials and punishment of Nazi eugenics and medical war crimes
垂
水源之介
★ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学:Nationalsozialistische Rassenhygiene
1945
年4月30日にヒトラーはベルリンの総統地下壕で自殺した。遺言にもとづいて海軍のカール・デニッツ元帥が大統領に指名し、戦争の継続を指示したが、各軍
の降伏が続き、ついに大統領は国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥名でアルフレート・ヨードルに降伏文書調印の権限を与えた。ヨードルと連合
国軍総司令官ドワイト・アイゼンハワー元帥は5月8日の未明に降伏文書に調印した。これでヨーロッパ大戦は終結することになる。 |
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連合軍は1945年初頭には、ナチスドイツの敗北を予想していたために、戦争中はドイツの科学技術の分析をおこない、敗戦が確実視されるようにその武器や
関係者への押収や捕縛や査問を通して、ソ連側に取得されることなく、英米側に情報や科学者を確保するような動きがあった。また英米の側にも熾烈な競争があ
り、とりわけ米国は戦略情報部(Office of Strategic Services,
OSS)がその任を担っていた。OSSは、それまであった情報調整局(COI, Office of the Coordinator of
Information,
1941年6月18日〜1942年6月)が改組して、1942年6月13日にできたものである。OSSは第二次大戦後の1945年9月20日には解散し
て、陸軍省の所管の部局(MO,
X-2など)と国務省所轄の部局(R&A=調査分析部)に別れるので、OSSが存在していた期間は、およそ3年3ヶ月ほどである。第二次大戦中か
らアメリカは、ナチスドイツの科学技術に関心をもち、ドイツの科学者を占領と共に米国に連れてきて、研究や技術開発に従事させる計画である。 |
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その中で戦後ながい間機密にされきて当事者以外知られていなかったものにペーパークリップ作戦がある。ジャーナリズムを含むこの種の研究の存在がより明確
に明らかになるのは、1998年のアメリカの「ナチ戦争犯罪情報公開法(Nazi War Crimes Disclosure Act, (5
U.S.C. § 552 note),
1998)」の制定後のことらしい。これは、第二次世界大戦後、ドイツ人科学者たちを極秘の軍事契約のもとにアメリカに連れてきた政府の諜報計画
(intelligence program)と定義される。ペーパークリップ作戦は、JIOA:統合諜報対象局(JIOA, Joint
Intelligence Objective
Agency)[1945-1962]の承認のもとに、米国陸軍防諜部隊(Counterintelligence Corps, Army
CIC)によって実施された秘密作戦である。ただし、これには大きな問題があった。ひとつは、ナチスドイツに忠誠を誓った「体制派」の科学者は、潤沢の研
究費の給付とともにナチスドイツに忠誠を誓っていた。また、Vロケット開発(V1,
V2)のように(空襲に耐えることができる)地下工場で、ユダヤ人をつかった奴隷労働に従事させていた工員がいた。また、目覚ましい軍陣医学の進歩は、強
制収容所の囚人を使って、非人道的な実験をおこなった末の「成果」であった。実際、医学研究における人体実験を禁止したニュルンベルグ・コードは、ニュル
ンベルク裁判後におこなわれた、通常「ニュルンベルク医学裁判」にもとづいて策定されたものであった。この裁判での訴追理念についてはのちに日本の戦争犯
罪裁判についても検討されている[National Archives Working Group
2006]。このため、戦争犯罪を問われた被告たちを、米国に本国に召喚するのは困難を極めた。しかし、軍部ならびに情報部は、たくみに戦争犯罪者である
科学者たちを、結果的に1,600名以上を招聘し、ビザを与え、医学や化学、あるいは破壊技術に関する兵器開発に従事させることに成功した。その背景に
は、戦後に激化する冷戦構造があり、科学者をソビエトに奪うことは、米国の軍事的優位を損なうことになるという「大義」を優先させたようなのである。本稿
は、ナチスドイツの人種衛生学・優生学の歴史を追いかけるために、この作戦の詳細はアニー・ジェイコブセン[2015; Jacobsen
2014]に譲るが、実際にはロケット技術開発などで、パイロットに生じる高高度での気圧の急激な減少や、北海に墜落したドイツ空軍の爆撃機の低体温症へ
の対策研究に、アウシュヴィッツなどの収容者のユダヤ人を使った人体実験がおこなわれている。これに関わった医学者たちの多くは、ナチの人種衛生学や優生
学におけるアーリア人優越性について学んだ人類学者や基礎医学者であった。 |
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ナチスの主要閣僚を裁いた裁判がニュルンベルク裁判(1945年10月20日〜1946年10月1日)であり、国際法的にはa項と呼ばれた「平和に対する
罪」と、この裁判が開始される前の8月8日に国際軍事裁判所憲章で規定された従来の戦争犯罪(b項)の拡大的解釈であるc項の「人道に対する罪」が採用さ
れていた。これはユダヤ人ほかの人たちの大量虐殺の責任に対して訴追するための要件とされた。なお極東軍事裁判では大規模な虐殺であった南京事件では交戦
法違反として問われc項は不問にされた。ニュルンベルク裁判では、審理中に死亡した2名を除いて22名の判決がくだった。22名のうち12名に死刑がくだ
り、無罪は3名のみであった。 |
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ニュルンベルク裁判が結審されてから2ヶ月後に、ニュルンベルク継続裁判がはじまる。裁判は、1. 医師裁判、2. エアハルト・ミルヒ裁判、3.
法曹裁判、4. 親衛隊経済管理本部裁判、5. フリードリヒ・フリック裁判、6. IG・ファルベン裁判、7. 捕虜裁判、8.
親衛隊人種・移住本部裁判、9. アインザッツグルッペン裁判、10. クルップ裁判、11. 大臣裁判、12.
国防軍最高司令部裁判、の12の法廷からなる裁判である。この裁判のうち、ナチの人種衛生学・優生学に関係の深い審理は、1. 医師裁判と8.
親衛隊人種・移住本部裁判であるが、それ以外にも、2.
国防軍空軍元帥のエアハルト・ミルヒ裁判では、V2ロケット生産などでのユダヤ人労働者への虐待や奴隷労働とあわせて先に触れた空軍関連の医学実験へのユ
ダヤ人収容者の利用や致死に関する管理最高責任の罪が問われたり、6. IG・ファルベン裁判や10.
クルップ裁判などは、企業が奴隷労働にユダヤ人や捕虜を使役したり、また、そこで使った毒ガスなどの製造や使用の責任が問われているため、関連する戦争犯
罪と考えられる。 |
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しかし、より需要なものは医師裁判(1946年12月9日 - 1947年8月20日)、と8.
親衛隊人種・移住本部裁判(1947年10月-1948年3月10日)であることは言うまでもない。医師裁判は、ハロルド・セブリング(1898-
1968)ほかの3名の裁判官たちが審理した。被告たちは。ナチス体制下で重要な地位にあった医師や医療関係者、ナチス・ドイツの人体実験や安楽死計画に
関与した者たちである。また医師裁判は、ニュルンベルク継続裁判と総称される12の裁判の中で最初に行われた裁判である。23人の被告人が裁かれ、うち7
名が絞首刑となった。ここで問われている人種衛生学ならびに優生学の上の罪は、まず1933年7月の「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律」が問われ、この
法律は重い精神障害をもつ児童(のちに成人に拡大される)不適合者を断種したり組織的かつ計画的に安楽死あるいは殺害することで純粋人種育成を図るナチの
構想の一環を成すものと判断された。とりわけ1939年9月に当時の総統官房長フイリップ・ボウラーに命じ、「安楽死」に関し医師たちと協議させ、直ちに
T4計画を実行したこと、その後、安楽死計画の対象者は、不治の身体障害者や精神異常者だけにとどまらなかったこと、T4計画の実行最高責任者である親衛
隊中将のカール・ブラント(1904-1948)ら、23名が裁かれ、4審まで審理されて16名が有罪、そのうち7人が死刑に処された
[Freyhofer 2004]。 |
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医師裁判において歴史的にきわめて重要なことは、審理の過程で、裁判
官たちは、ニュルンベルク・コードという医学の人体実験に関わる重要なルールを定めて、その規範からナチの医師たちを裁いたことである。そのコードとは、
被験者の自発的な同意が絶対に必要であること、実験は、社会の福利のために実り多い結果を生むとともに、他の方法や手段では行えないものであるべきであ
り、無計画あるいは無駄に行うべきではないこと、実験は、あらゆる不必要な身体的、精神的な苦痛や傷害を避けて行われるべきであること、死亡や障害を引き
起こすことがあらかじめ予想される場合、実験は行うべきではないこと、などの10項目が定められた。それは、医師裁判において被験者の致死を伴う実験も、
ドイツ軍兵士の人命を救うため、人類普遍の治療法に貢献するなどのさまざまな弁明が被告や弁護団から主張されたためである。ナチの医師たちを裁くこの審理
のために、その後の生命倫理・医療倫理の実践的な格率が、ここで生まれたのは反面教師とは言え画期的なことであった[Freyhofer
2004:Chap.III]。 |
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医師裁判の結審があってから、親衛隊人種・移住本部裁判(1947年
10月-1948年3月10日)がはじまる。3名の裁判官なかの一人ジョンソン・クロフォード判事(1889-1955)は、医師裁判の判事のメンバーの
一人である。この裁判は、親衛隊人種・移住本部(RuSHA)の活動、とりわけRuSHAは、ヒムラーを最高責任者として、ドイツ国民統合のための帝国委
員会(Reichskommissar für die Festigung des deutschen Volkstums , RKFDV
)、ドイツ民族送還事務所(Volksdeutsche Mittelstelle ,
VoMi)そして、レーベンスボルンや、研究機関であるがアーネンエアベを下部組織や関係組織として持っていた。前者のレーベンスボルンは、アーリア人種
の人種的優越性をたかめるために、親衛隊隊員と未婚の女性との間での性交により純潔人種の集団的育成やSS隊員家族への養子縁組を組織したのみならず、東
欧地域への侵攻の際には、アーリア人種と認定された子どもを誘拐し、レーベンスボルンの養子縁組センターに組織的に移送していた。また、非アーリア人の女
性には中絶をすすめたり、より積極的には強要し、レーベンスボルン派遣の医師により中絶手術を受けさせていた。この東方「人種」におけるアーリア人の起源
研究や優劣の判別には、(プロジェクトが失敗したとはいえ)ベーガーらのソビエト軍捕虜からの生体計測や殺害後の頭蓋骨収集などの研究が貢献していた。親
衛隊人種・移住本部裁判は、その起訴理由において、人種的純潔計画そのものが人道に対する罪とされたこと、戦争状況のもとでの誘拐や中絶の強要は戦争犯罪
であること、戦争犯罪組織と戦後に認定された親衛隊のメンバーであることと、され、親衛隊メンバーでない1名の被告を除いて、この3つの起訴理由により裁
判にかけられた。そして、親衛隊のメンバーでなかった1名の被告を除いて、14名のうち13名が有罪になった。 |
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このように、ナチスの人種衛生学・優生学には、戦後重たい審判が下っ
た。にもかかわらず、多くの人は訴追の対象になれども、最終的にはナチ政権下での協力についての審理処罰されない人は多かった。ロマの身体計測や心理テス
トをおこない、ロマ・シンティの人種的「劣等性」を証明をしてから絶滅されることを知りながら強制収容所におくった、エヴァ・ユスティンや上司のロベル
ト・リッターはその代表である。リッターはドイツの敗戦後には、ロマ・シンティのデーターや資料は(敗戦前に公刊された論文や報告書を除いて)すべて廃棄
し、1944年から2年間チュービンゲン大学で犯罪生物学を教え、その後にはフランクフルト・アム・マインの保健局に小児科医として雇われ、臨床や児童保
健の相談で活躍した。彼はナチス時代の部下のユスティンを心理学者として雇用までしている。ユスティンはその後、フランクフルト警察心理学者として働き、
皮肉なことに、ホロコーストの生存者に対する補償訴訟の法制度のコンサルタントとしても活動し、1966年に生涯を終えた[Barth
2005:122]。 |
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なぜ、ナチスの人種衛生学者や優生学者あるいは人類学者たちは裁かれ
なかったのか。さまざまな説明が可能である。ここでは研究者個人の内的理由と、研究者がおかれた外的あるいは歴史的理由の2種類の説明が可能である。ま
ず、内的理由。この研究を通してわかったことは、ナチスの人種衛生学という広範な科学分野[Weiss
1990]の研究者の数が非常に多かったこと。そして、彼らの現場倫理感覚は、アドルフ・アイヒマン裁判でアーレントが指摘したような「悪の陳腐さ」、す
なわちカントの道徳格率すらそらで言えるような教養をもちながらも、自分が携わっているナチの人種計画「全体」を俯瞰する余裕がなく専門家としての日々の
業務に忙殺されていたこと。次に外的あるいは歴史的理由として、ドイツは冷戦により東西にわけられ、ナチの戦争犯罪において東側の陣営のイデオロギーにも
とづいて戦犯の審理がなされたこと。逆に西ドイツでは1960年代後半になるまでは、ナチスの戦争医学犯罪について、反省をしたり、追加訴追する機会がほ
とんどなかったことなどがあげられる。我々が知るナチの戦争犯罪は、ニュルンベルク継続裁判のそれや1980年代以降さかんになる歴史的研究のおかげであ
るが、多くは西側の資料である。また、占領下のドイツでおこなわれた、主に連合軍主体の非ナチ化(Entnazifizierung)の効力がそれほど大
きくなかったせいである。冷戦下で戦後復興をなしとげるためには、元ナチス体制の科学者の知識と技術が不可欠であったからである。 |
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非ナチ化(Entnazifizierung)は、第二次世界大戦
後、ドイツとオーストリア
の社会、文化、報道、経済、司法、政治からナチスの思想を排除するための連合国の取り組みである。ナチス党員や親衛隊員を権力や影響力のある地位から排除
し、ナチズムに関連する組織を解散または無力化し、1946年のニュルンベルク裁判で著名なナチスを戦争犯罪人として裁くことによって実施された。非ナチ
化計画は終戦後に開始され、1945年8月のポツダム協定で固められた。非ナチ化という言葉は、1943年にアメリカ国防総省が初めて作った法律用語で、
戦後のドイツの法制度に関連して狭義に適用されることを意図していた。しかし、その後、より広い意味を持つようになった。さて、西ドイツでの非ナチ化プロ
セスにおいて大学教員や研究員はどのように扱われたのだろうか。ドイツ基本法第131条において、第二次世界大戦後の非ナチ化の過程で公職を追放された者
は、「再雇用」(zur
Wiederverwendung)を付した上で同じ肩書を名乗ることが許されていた。そのため、本稿で述べた、戦後も教育研究に携わることができた者た
ちは、このような再雇用の結果であった。 |
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