ならずよんで ね!

1942-1945:ヴァンゼー会議およびシンティ・ロマに対するヒムラー絶滅命令からヒトラー自殺および敗戦まで

1942-1945: From the Wannsee Conference and Himmler's extermination order against the Sinti and Roma to Hitler's suicide and defeat

垂 水源之介

★ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学:Nationalsozialistische Rassenhygiene

1. よい優生学、わるい優生学
2. 1883-1911:フランシス・ゴルトン 「優生学」からドレスデン「国際衛生博覧会(人種衛生学特別部会)」まで
3. 1912-1920:ロンドン第1回国際優 生学会議からビンディングとボーへ「生きるに値しない生命の根絶の許容」まで
4. 1921-1932:ニューヨーク第2回国際優生学会議から第3回 国際優生学会議まで
5.1933-1941:ナチス政権掌握からT4計画の中止まで
6. 1942-1945:ヴァンゼー会議およびシンティ・ロマに対する ヒムラー絶滅命令以降ヒトラー自殺および敗戦まで
7.1945年以降:ナチスの優生学と医学的戦争犯罪の審理と処罰
8.優生学と人類学との学的関係について



 ヴァンゼー会議 (Wannseekonferenz, Wannsee Conference)とは、15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である。会議は 1942年1月20日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。しかしながら、会議が開かれる以前からアインザッ ツグルッペン(Einsatzgruppen)という部隊は占領下の東ヨーロッパやソ連においてヨーロッパユダヤ人を組織的に殺戮していた。ナチス政権は 広大な占領地域に分散し居住する多数のヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅させるために必要な官僚組織の協調体制を確立できずにいた。官僚組織は異なる省庁に属 し、それらはしばしば互いに競 合していたからである。よってナチス政権は「ホロコースト計画完遂の阻害要因は、各省庁がヨーロッパ・ユダヤ人の抹殺を必ずしも優先事項として取り扱わな かったことにある」と考えた。そこで、ヨーロッパユダヤ人の絶滅を優先事項とすることを再確認し、関係省庁の上層幹部に必要な権限を取り戻し、複雑に絡み 合う官僚組織の多くが最終的解決を共同して実行できるようにするためにヴァンゼー会議が開催された。会議主催者であり、かつ議長はヨーロッパ・ユダヤ人問 題の最終的解決を任務とする国家保安本部の事実上の長官職にあるラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将が務めた[ヴァンゼー会議記念館 2015]。この会議は、その前年の1941年7月31日ゲーリングから「ユダヤ人問題の最終的解決」(Endlösung der Judenfrage)の委任を手紙でハイドリヒが受け、この権限に基づき、を企画し、翌年の念頭に実現したものである[大野 2001:60-61]。

 ヴァンゼー会議のメンバーは、会議後に公式議事録(ヴァンゼー・プロ トコル)をまとめたアイヒマンほか、議長ハイドリヒほかゲシュタポ・警察治安関係者5名、大管区および占領地区関係3名、内務関係2名、法務関係2名、首 相官房から1名、外務関係1名、人種移民関係1名であり、いわゆる人種衛生学や優生学関係者はいない。このことは何を意味するのだろうか。それは、 1935年のニュルンベルク法の施行以降、ユダヤ人排斥に医学的科学的知見は必要なくなり、ユダヤ人種問題は、法と治安の管轄領域に移行したからである。 また、1939年9月以降の、ポーランドにおける親衛隊の武装殺戮に特化した部隊であるアインザッツグルッペン——ハイドリヒはその全体の指揮官——によ るポーランド人およびユダヤ人への殺戮行為や強制移住のように、親衛隊が組織的に大量殺戮に関与していたおり、これは純粋に軍事的作戦行動であり、医学や 科学を必要とするものではない。

 むしろ、アインザッツグルペンは、前章で説明したT4計画のほうから 応援を要請されてドイツ以外の新たな侵攻・侵略地での精神障害者の組織的殺戮に関与した。1942年前にアインザッツグルッペンが行った最大の大量殺戮 は、1941年9月29日と30日に、9月19日にドイツ軍に陥落したウクライナのキエフ市中心部の北西にある渓谷バビ・ヤールで行われたもので、2日間 でユダヤ人が33,771人が殺害された[Evans 2008:227]。

 したがって、ヴァンゼー会議以降に組織的なユダヤ人虐殺がはじまった のではなく、親衛隊のリーダーであったヒムラーとその盟友ハイドリヒは、ヴァンゼー会議以前から組織的なユダヤ人やポーランド人などの大量殺戮行為を実施 していた。この会議の意義は、ハイドリヒが議長になり、先にのべたように、法と治安、警察、人種移民、占領地政策など、ドイツ人以外の「人種」の計画的か つ組織的殲滅を総合的に実践するというコンセンサスを形成するためのものであった。ホロコースト研究で有名な歴史学者ラウル・ヒルバーグ[1997]は、 大著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の各所において、またクロード・ランズマン監督『ショアー』(1985)の中のインタビューにおいても、ユダヤ人虐殺 にナチが専念するようになり、前線への軍部の補給にも事欠くようになり、結果的に戦争の終結を早めてしまったほどであった。

 なお、ホロコーストはユダヤ教の「供犠獣を丸焼きにした」燔祭を意味 する英語で、フランス語ではショアー、ヘブライ語ではハショア(השואה)で、もともとはユダヤ人に対するナチによる大量虐殺をさす言葉であった。しか し、ホロコースト研究が進むにつれて、ユダヤ人以外も以下の人たち(民族や集団、あるいは疾病障害)が1933年からの12年間に犠牲になったと言われ る。すなわち、ユダヤ人:600万人、T4計画犠牲者:第1期7万人と第2期11万人合わせて18〜20万人、ロマ・シンティ(ジプシー)22万〜150 万人、スラブ人:約200万人、そして、エホバの証人信者:約3,000人、男性同性愛者:数百〜数千人、反社会的犯罪者:数千人、カトリックおよびル ター派聖職者:不詳(ディートリヒ・ボンヘッファー(1906-1945)が有名)。である(犠牲者の概数はホロコースト百科事典:https: //encyclopedia.ushmm.org/による)。

 ユダヤ人に対するホロコーストについての詳述はこの論文の責ではない ので、ヒルバーグの著作を含めて類書に譲るが、人種衛生学や優生学、あるいは、医学や人類学研究とホロコーストは大いなる関係がある。それはすでに述べた ように、ホロコーストを正当化するための人種理論(Rassenkunde)は完成していたのであるが、今度はそれぞれの分野の研究者が、強制収容所の中 の医学施設で人体実験が広範囲におこなわたり、大学や研究機関が人体の研究材料を強制収容所で処刑された遺体から調達する体制が生まれたことである。

 これらのことは、倫理的スキャンダルであることと、他ならぬ親衛隊所 属の医師や研究者は大戦中から自覚していたようで、敗戦と同時に大量のデータが廃棄されたり、秘匿されたりした。しかし、この時期にも人種医学の医学研究 雑誌が刊行され続けていたために、論文が印刷物の形で残っていたり、また生き延びた元被験者たちが、戦犯裁判——ニュルンベルク継続裁判12法廷のうち最 初の医師裁判が有名——にて証人として声をあげたり、戦後にも戦犯告発裁判があったり、また、医学史研究者たちが秘匿されたり、忘れ去られていた資料の発 掘を通して明らかになってきた[e.g. Weiss 1990; Klee 2003, 2010]。その数も膨大に報告されているので、ナチス特有の文脈のなかで代表的であったり、また民族学研究などとも関わりをもつ2、3の例を紹介しよ う。

 まず、親衛隊大尉(SS-Hauptsturmführer)ヨーゼ フ・メンゲレ(1911-1979)である。人類学と医学の博士号をもつ彼は、1943年初頭からアウシュビッツ-ビルケナウ収容所の医師として働き、貨 車に詰め込まれていたユダヤ人収容予定者を停車場にて、収容かそのままガス室かの生死の選別をおこなっていたり、双子研究の人体実験のための双子児童の発 見に熱心だったために、収容者からは死の天使(Todesengel)の名で噂された。アウシュビッツは、もともと労働収容所であったが、1941年10 月ごろより絶滅収容所(Vernichtungslager)を機能をもたされるようになった。絶滅収容所という名称はナチの正式名称ではなく、1942 年1月のヴァンゼー会議後の決定には本格化する「ユダヤ人問題の最終解決」のために大量殺戮設備が本格化する。この時に対象になったのはユダヤ人だけでは なく、「帝国ジプシー法」などのドイツ領内の非ドイツ人の「劣等民族」とされたロマやシンティと呼ばれる人たちが含まれる。このことに関わった心理学者で 人種学者のエヴァ・ユスティンについては後ほど触れる。

 さてアウシュビッツに到着する前のメンゲレと人種衛生学の関係につい て述べよう。メンゲレは。ボン大学で基礎医学教育を受けてから人種研究のメッカでありベルリンと双璧をなすミュンヘン大学医学部で人類学の博士号を 1935年に取得する。1931年から鉄兜団——ワイマールの保守的なパラミリタリー組織——に関わり政治運動にも興味を抱いていた。1937年1月にフ ランクフルト大学の遺伝学・人種衛生学研究所に入所し、双子研究で著名なオトマール・フォン・ヴェルシュアー(1896-1969)の助手になり彼をメン ターとして、唇裂と口蓋裂あるいは顎裂をもたらす遺伝的要因について研究した。この研究によりメンゲレは1938年に今度は医学博士号を取得する [Lifton 1986:340]。メンゲレはこの前年の1937年にナチに入党している。1938年に親衛隊にリクルートされ、軍事訓練を経て、国防軍に召集され、軍 医として活躍する。1941年にウクライナに赴任し、1942年に深い戦傷を負い、戦役続行不能とされる。回復後、親衛隊の人種・移住本部(SS- RuSHA)に異動し、KWI-Aの所長に就任した元のメンターのフォン・ヴェルシュアーとの親交を再開する。1943年フォン・ヴェルシュアーはメンゲ レに強制収容所に勤めて医学研究を継続するように諭した。そこでアウシュビッツを志願し、拠点医官(SS-Standortarzt Eduard Wirths)となり、ビルケナウのロマ家族キャンプ(Zigeunerfamilienlager)の主任医として働く。アウシュビッツは、アウシュ ビッツとビルケナウとモノヴィッツの3つの収容所のコンプレックスで、前二者が強制収容所で、モノヴィッツは工場と併設された強制労働収容所であった。メ ンゲレのそこでの仕事は、ロマ(ジプシー)の収容病人の診察と経過観察で、治療行為というものはなく回復が望めない者はガス室に送るものである。この仕事 に加えてメンゲレは自分の研究「材料」として収容者、とりわけ双子の児童をさがし、身体計測や定期的に診断をおこなっていた。

 1944年にこのロマの収容所部門で頭部の壊死性潰瘍性口内炎 (noma)が発生した時に、チェコ出身のユダヤ人でノルウェーで逮捕されて収容所におくられてきたベルトルト・エプシュタイン医師を協力者にして研究を おこなった。メンゲレは治療法の研究で、収容者に細菌に感染させる人体実験をおこない、およそ三千人ちかい犠牲者を出した。この病気は頭部に著しい変形を もたらすので、死後は頭部と臓器を摘出され、親衛隊の医学アカデミーに送付された。エプシュタインは、敗戦までこの仕事で働かされ、1945年1月のソ連 軍によるアウシュビッツ解放後に、ソビエトが主宰した戦争犯罪裁判で、メンゲレの人体実験について証言している[Koren 2004:92; Lifton 1986:296]。それ以外にもメンゲレはアウシュビッツたくさんの研究をおこなった。一卵性双生児、虹彩異色症(目の色が2色に分かれる)、小人、身 体的異常のある子どもに興味をもち、人体計測や殺害後に解剖して調査した。これには1944年5月29日にアウシュヴィッツに到着したハンガリー系ユダヤ 人の医師で病理学者のミクローシュ・ニシリ(Miklós Nyiszli, 1901-1956)を使い、その臓器や身体の標本はベルリンの新博物館に併設された民族学博物館(Völkerkundemuseum, Neues Museum)ならびにフォン・ヴェルシュアーなどに送られた。また、女子収容所でチフス流行がおこると、感染症者がいるバラックの収容者全員をガス室に おくり、徹底的に消毒し、清潔にされた収容者を入れるという公衆医学的観察すらおこなった。妊娠した女性を探しだし、人体実験がおわった後には、ガス室に おくったり、双子の身体を節合させて人為的にシャム双生児をつくることを試みたという。数少ない生存者の証言によると、メンゲレは被験者になる子ども達に 「メンゲレおじさん」と自称して安心させてから、感染を伴う人体実験を繰り返していた。彼のこの異常とも言える人格は、精神科医ロバート・リフトンによれ ば共感力の欠如と表現され、また戦後、メンゲレの息子ロルフ・メンゲレはインタビューに答え、戦後の自分の父親には反省したところがなかったと表現してい る[Lifton 1986:376; Posner and Ware 1986:48]。

 フランスにあるストラスブール大学(Université de Strasbourg)では、2015年にユダヤ人コミュニティに対して複数のユダヤ人遺骨を行なった。そして2022年5月には同大学は、ナチス帝国大 学時代のユダヤ人の人骨取集や強制収容所からの人体実験を含む臓器標本に関する詳細な歴史調査に関する500ページに及ぶ報告書を公開した [Université de Strasbourg, online]。この大学は1941年10月からのナチス占領時代にはストラスブルグ帝国大学(Reichsuniversität Straßburg)と呼ばれ運営や授業はすべてドイツ語で行われていた。ストラスブール郊外にはナツヴァイラー・ストルートホーフ強制収容所が、フラン ス領内では当時唯一の強制収容所でありそこでは約2万人が犠牲になっている。標本作成の責任者はストラスブルグ帝国大学解剖学教授アウグスト・ヒルト (1898-1945)であった。ヒルトはマンハイムで生まれたが父親はスイス人の商人であるためにスイス国籍として生まれたが、医学を学んだハイデルベ ルグ大学にハイデルベルグ・ノルマニア友好会(Burschenschaft Normannia zu Heidelberg)という反ユダヤ主義団体に加盟し、ドイツ国籍を取得した。「いくつかの恐竜における交感神経系の境界索の研究」で同大学から医学博 士号を得て、ハイデルベルグ大学解剖学研究所に勤務し、1930年から同研究所助教授に就任した。ナチの政権掌握の年の1933年に親衛隊に加入し、その 後、グライフスヴァルト大学正教授と解剖学研究所所長、母校のフランクフルト大学医学部解剖学教授を経て、1941年10月よりナチ化されたストラスブル グ帝国大学解剖学研究所所長に就任した。ヒルトは学位論文の時代から交感神経系の解剖学研究に専念し、帝国大学に赴任する以前の1939年には短期間であ るが、ベルリンの陸軍医科大学の薬理学・軍事毒物学研究所でマスタードガス(ロスト)の研究をした。ヒルトはマスタードガスで負傷したドイツ兵の回復と治 療の研究をおこなっていた。しかしながら、ストラスブルグに赴任してからは、ユダヤ人収容者を被験者とするマスタードガスの人体実験を近隣のナツヴァイ ラー・ストルートホーフ強制収容所でおこない、さらに収容所内にも研究室を設け、死亡後の遺体の解剖や頭蓋骨や臓器の摘出をおこなっていた。ヒムラーの側 近で親衛隊大佐であったルドルフ・ブラント(1909-1948)は、ナチスドイツの考古学やオカルト研究の機関であったアーネンエアベの事務長ヴォルフ ラム・ジーヴァス(1905-1948)を1941年11月23日の大学開所式典で、ヒルトに引き合わせ、広範囲にわたる人体実験の推進を促した。ヒルト は第二次大戦末までに少なくとも86体のユダヤ人人骨コレクションを入手していたが、その入手先は自分が運営する、ナツヴァイラー・ストルートホーフ強制 収容所のほか、アウシュビッツにおいてブルーノ・ベガーや、先に述べたブラントやジーヴァスなどの親衛隊隊員であった[Hale 2003]。

 シュトラスブルク帝国大学でヒルトの部下であった時代に医学犯罪に関 与したと言われるブルーノ・ベガー(1911-2009)は医師ではなく、人類学と民族学を専攻していた点で、注目に値する。ベガーはドイツの人種人類学 者、民族学者、探検家であり、アーネンエアベ協会(Ahnenerbe, Forschungsgemeinschaft Deutsches Ahnenerbe)に勤務していた人物である。1938年から39年にかけて親衛隊少佐でもあった探検家で鳥類学者であったエルンスト・シェーファー (1910-1992)のチベット探検旅行に参加し、SSの人種・居住局(SS-Rasse- und Siedlungshauptamt)でユダヤ人の識別を手伝い、後にヒルトのもとでユダヤ人の骨格の解剖学研究コレクションを作るために殺される被験者 を選ぶのに協力した[Pringle 2006:144]。

 ベガーは、イエナとハイデルベルクで人類学、地理学、民族学を学び、 ベルリンに渡ってハンス・ギュンター(1891-1968)の下で博士号を取得した。ギュンターは、ナチス・ドイツ時代の学者、政治家。かつてオイゲン・ フィッシャーに学んだことのある人類学者あるいは人種衛生学者として、ナチスの人種政策・民族政策とりわけローゼンベルクの「ユダヤ人問題研究所」などの 活動やそこで生まれる理論研究などに多大な影響を与え、また彼の人種分類に関する教科書は、ナチス時代のドイツでベストセラーになり、「人種学の法王」 (Rassenpapst)と綽名された。1938年から1939年にかけては、「親衛隊」ハインリヒ・ヒムラーのアーネンエアベ協会を後援とする「ドイ ツ・チベット遠征隊エルンスト・シェーファー」に人種専門家として同行した[Hale 2003]。ヒムラーおよびアーネンエアベの構想のなかではヨーロッパ人の「起源」としてのチベットという先行歴史研究を多少なりとも歪んで受け止められ た説があり、北方コーカサス人種の起源を探せというミッションをシェーファーやベガーに与えたのである。ベガーは、チベットの民衆と貴族の頭部の写真(マ グショット)をほぼ2,000枚近くを撮影し、かつ、多くの頭部を中心とした生体計測をおこなった[Pringle 2006:161]。ブンデスアーカイブでは、ベガーが撮影したチベット人のマグショットやベガー自身が生体計測している写真が多数に残っているが、この 生体計測にはチベット人の協力がそれほど得られず、チベットとコーカサス人種の関係について類縁を証明するデータを得ることができなかった。

 彼は失意のうちに、戦地に赴く。ちょうど東部戦線でドイツ国軍は「コ ミサール命令」が発せられていることを知る。これは赤軍の将校や通信兵など重要な情報をもつ捕虜は殺害するとする前線での命令である。ベガーは、トルクメ ン、ウズベク、カザフ、キルギス、カルムイク、タジキスタンがそのコーカサス起源の人種の移動ルートにあたるという仮説をたてて、そこでの捕虜への生体計 測のあとに石膏型取りをして、さらに殺害して頭蓋骨を収集できると考えた。恐ろしい計画ではあるが、ベガーは1941年の夏に覚書をヒムラーに直接提出し て、その計画に任命してほしいと懇願した。ヒムラーから手紙を回されたジーヴァスは、その直前に接触をしたアウグスト・ヒルトとベガーを引き合わせ、それ をヒムラーが指揮する自分が事務長として関わる研究協会であるアーネンエアベの研究プロジェクトにしようと画策した。そのため、この覚書の副本をヒムラー の個人顧問をしていたルドルフ・ブラントに送り、相談することにした。東部戦線の戦況は芳しくなく、また前線でコミサール命令は実行できても、わざわざ頭 部を切断してドイツ領内に送ることなどは非現実的であった。1943年初冬のスターリングラードで敗北を喫した時以降、このベガーの計画は完全に反故にさ れた。[Pringle 2006:233]。それに救いの手を差し伸べたのがアドルフ・アイヒマンである。アイヒマンは、1942年末にソビエト赤軍兵士をアウシュビッツに約1 万人移送したので、ベガーが必要としている頭蓋骨が手に入るとジーヴァスに手紙を書いた。ベガーとアーネンエアベ所属人類学者のハンス・フライシュハッ カー(1912-1992)が実際にアウシュビッツに捕虜を調べにいくと、彼らの見立てで「内陸アジア人」と思われる捕虜が4名しかいなかった。しかしな がら、ベガーとフライシュハッカーは、ほぼ1週間にわたってその4人を含めて、ポーランド人2名、ユダヤ人86人の92名の身体計測した。それ以外にも百 人以上の生体計測をおこなった時に、チフスなどの伝染病で倒れたり隔離されたりしたが、他の収容者の予防のためにガス室に送られた。このようにベガーらの プロジェクトは中途半端に終わったが、当時でも上司であったシェーファーに手紙を書いて自分たちが発見した「内陸アジア人」についての人種的特徴を詳細に 報告している。アウシュビッツでのチフスの流行が苛烈になったために、ベガーらは26個の頭骨を処理して、ヒルトのためにストラスブルグに送られた。この 頭骨はアウシュビッツから発送されたので、外国由来の解剖学標本として保管されたために、どこからどのように採集されたのかという追跡に困難を極めたとい う話がある[Reitzenstein 2018:263]。

 ヒルトとベガーの接点は、コミサール命令でソビエト赤軍捕虜の処刑死 体からの頭蓋骨の調達のプロジェクトの瓦解し、その代わりにアウシュビッツで調達した頭骨を標本として献呈したことにとどまった。

 ナチスドイツが、ユダヤ人と並んで熱心に社会から排斥しようとした民 族にロマ・シンティがいる。ここでロマ・シンティという民族呼称について解説しておく。ロマというのはヨーロッパに古くから住んでいるジプシーと呼ばれて きた民族である。ロマはドイツ流の民族起源論的な説明ではインド・ヨーロッパ系の民族で遊牧民として東方から到来してきた人たちである。ジプシーは英語 で、ドイツ語ではジゴン(Zigeun)、それ以外にもフランス語:Tzigane、スペイン語:gitano、イタリア語:zingaro、ポルトガル 語:cigano、ルーマニア語:țiganなどさまざまな呼称があるが、これはロマあるいはロマ二と現在自称する当事者の人たちから侮蔑語として使われ てきたので、呼称を変えるという国際的な合意のもとで現在はそう呼ぶ。ロマあるいはロマ二は、彼ら言葉であるロマ語で人間のことである。もともとアーリア 系のインド・ヨーロッパ系の出自の価値を高く評価するナチであるが、彼らの評価意識のなかでは同じ出自にも不可触賎民のような扱いを受けており、ナチ以前 から差別や排除の対象であった。シンティは、主にドイツと中央ヨーロッパに住むロマのサブグループの名称である。シンティはフランスのマヌーシュと呼ばれ る集団と類縁関係がある。彼らは長く居住した地域の言語であるドイツ語から影響をうけたシンティ・マヌーシュ語を話す。ナチスドイツではロマ・シンティの 虐殺が重要になるのは、ナチスがアンシュルス(独墺合邦)を経てチェコ西部やポーランド侵攻など東方に版図を広げていったときに存在した「ジプシー」がロ マ・シンティであったからである。

 ロマ・シンティの虐殺の起源は1935年にニュルンベルク法が制定さ れた時に、ロマ・シンティも非ドイツ人として認定された経緯からはじまる。「血と名誉を守るための法律」はユダヤ人との結婚を禁止する規定であったため に、ロマ・シンティとの結婚を禁止する規定がなかった。そのために関連法として同時期に「帝国ジプシー法」が制定されてまずシンティひいては、その上位カ テゴリーのロマそのものが排斥の対象になった。ロマ・シンティを認定し収容所への送致にかかわった人物としてロベルト・リッター(1901-1951) と、その部下であったエヴァ・ユスティン(1909-1966)がいる。リッターは、ドイツの人種科学者(Rassentheoretike)で「ジプ シー研究者(Zigeunerforsche)」で、児童精神医学と犯罪の生物学を専門とする心理学と医学の博士であった。1936年、リッターはナチ ス・ドイツの犯罪警察の人種衛生・人口生物学研究班の班長に任命され、排斥対象になったロマ・シンティの系譜を確定し、「ロマ人とシンティ人が受ける実験 の設計者」となった。彼の研究目的は、ドイツ領内の人口動態を把握し、かつ細分類し、ナチス政府が「人種の純化」という目標に向かってロマ・シンティに組 織的に迫害を行うことを積極的におこなった。収容所のなかでロマ・シンティにもたらされた災厄は単に虐殺だけではなく、人種の劣等性や、滅びゆく民族を 使った人体実験であったことは、先にメンゲレの医療犯罪の例で紹介したとおりである。

 アーヘン生まれのリッターはヨーロッパ各地で勉強し、性教育について の博士論文を書き上げた後に、アレルギー性乾癬の遺伝性についての医学論文を発表した後にの、1931年から1932年にチューリッヒの精神科大学クリ ニックの児童精神科に勤務していた。その後、チュービンゲン大学の児童少年精神科の医師として勤務した。このころから人種衛生学関係の論文を発表し、 1935年にはドイツ研究財団(DFG)からの研究委託を受け、ベルリンの帝国衛生局で、非社会的人格、ホームレス、そして「ジプシー」がもつ生物的基盤 の調査をしている。1936年8月に創設された「帝国保健省人種衛生学・人口生物学研究センター」(Rassenhygienische und Bevölkerungsbiologische Forschungsstelle im Reichsgesundheitsamt)のセンター長に就任した。この就任には、エルンスト・リューディンが推薦し、帝国保健省はリッターに「すべて のジプシーとジプシーの雑種を徹底的に人種調査し、選別すること」を命じた。1940年にはベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の法学・政治学部の 人種衛生と犯罪生物学の教授にも就任した。リッターは精神科医として、モリンゲン少年強制収容所の少年囚人の遺伝的予後と7つの「ブロック」(B=「観察 ブロック」、U=「不適格者」、ST=「問題児」、D=「永久失敗者」、G=「時々失敗者」、F=「教育可能性が疑わしい」、E=「教育可能」)に分類し た。このモリンゲンでの実践研究は、ヒムラーが計画していた「コミュニティの中の外国人法(案)」の一環で、青少年強制収容所と後に呼ばれるようになる。 1941年リッターは、ユスティンとともにウィーン少年刑務所を訪問したが、ユスティンは博士論文作成の準備のためにロマ・シンティの少年たちに犯罪傾向 の心理調査をおこなった。

 ドレスデン生まれの児童心理学専攻のユスティンは、長くリッターの助 手を務め、また看護師としての訓練を受けていた。1943年に大学の正規の手続きを踏まずにベルリン大学で人類学の博士号を取得した。論文のタイトルは 「ジプシーの子供とその子孫に不適切な方法で教育されたもの」である。オイゲン・フィッシャーが博士論文と最終試験を指導し、民族学者のリチャード・サー ンワルドが査読をおこなった。彼女は、ロマ語を話し、ロマ・シンティからは信頼も厚かったという。ロマやシンティに対する、ハインリッヒ・ヒムラーによる 絶滅命令は1942年12月16日におこなわれた。もう一人のロマ研究者のソフィ・エアハート(1902-1990)は、同じく帝国保健省人種衛生学・人 口生物学研究センターに勤務し、1938年から1942年まで勤務した。研究所は、1945年までに2万4千人に対して「完全なロマ」「雑種ロマ」「非ロ マ」の分類業務をおこない、そのデータは収容所移送、殺害処分を含む断種などの決定に使われた。つまり、リッター、ユスティン、エアハートは、親衛隊など により集団移住させられたり、一時収容所に収容されたロマ・シンティに対して聞き取り調査や身体計測、各種心理検査などを通して、分類をして、強制収容所 にその調査リスト共に送ることである。そのため、ユダヤ人、政治犯罪者、戦争捕虜とは異なり、ロマ・シンティは家族単位のまま収容所に収容されたために、 逆に、収容所の医師たちの研究材料になることが多かった。
 しかしながら1943年2月のスターリングラード攻防戦でのドイツ軍の敗戦以降、東部戦線からの撤退、1943年以降の収容から絶滅に舵を切った以降、 強制収容所の運用そのものも立ちいかなくなる。1944年7月にはシュタウフェンベルク大佐らのヒトラー暗殺とクーデター計画が未遂に終わり、その後、ヒ ムラーは政権中央から距離を置くようになる。その年の暮れには、ヒムラーはヒトラーに命じられてオーバーライン軍集団司令官に就任し西部戦線で指揮を執る ことに忙殺されて、さらに収容所の運営は各所でますますそれぞれの所長の運用に任されるようになる。1945年2月には、ヒムラーはもはやヒトラーを信用 しなくなり、独自にスウェーデン赤十字を介して英米と独自に和平工作を進める。ヒムラーは敗戦後の戦争責任とりわけ強制収容所での絶滅政策の責任から逃れ ようとして、4月には各地の強制収容所の閉鎖を命じる。特にアウシュビッツなどのポーランド領内にあった絶滅収容者の収容者(囚人)の徒歩による西方への 強制移動は逆に多くの死者を沿道に放置することになる。

★図表の資料は、ポータルページ「ナチスドイツ時代の人種衛生学と優生学」にアクセスしてください。

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