ネットにおけるゴースト問題
So called the Ghost Problem in the internet
機械の中の幽霊とは、ルネ・デカルトの、内的に省察する自己の ドグマ(身体=機械から切り離された内省する自己=幽霊)に関 するギルバート・ライル(Gilbert Ryle, 1900-1976)による批判の表現である。(G・ライル)『心の概念』1949年。つまり、デカルトは心(res cogitans)と身体(res extensa)をわけ、前者に、直観、自由、分割不能、破壊不能そして自由意志という特権的な立場を与え、自己としての同一性の根拠も 心にあるものとして扱われる。にもかかわらず、我々は心と身体の両方をもつ存在としてある。あるいは、他方で、私というものは、私の身体と関連づけられて はじめて意味をもつ。このようなデカルトの人間観を嘲笑して、ギルバート・ライルは、我々は機械(身体)の中に住む幽 霊(心)なのだと表現した。デカルト的身体観——身体と心の二元性が特色で、それぞれの属性を対比的に描いたために合理主義 者がしばしば夢想するファンタスマ(幻影)の例にしばしばあげられる——の問題を的確に言い表した重要な比喩である。士郎正宗(1961-)原作のマン ガ・アニメ作品『攻殻機動隊』の英語タイトルは ghost in the shell だが、これはギルバート・ライルのこの表現に由来する(ユダヤ人ジャーリストであるアーサー・ケストラー[Arthur Koestler, 1905-1983]の同名の評論(1967)がある)が、ネットワー クのゴーストは、明らかにデカルト的でオカルト的な心の概念を隠喩するテーマと議論がさまざまなところで登場する。そして、人間の中のゴースト (Ghost in Human)は、明らかにデカルト的でオカルト的な心の概念を隠喩するテーマと議論がさまざまなところで交錯する。
「心は機械につながれた幽霊ではなく、それ自体が妖怪のような機械なのだ。人間の身体はエンジンであるが、それは普通のエンジンではない。なぜ なら、その働 きの一部は、その内部にある別のエンジンによって支配されているからである。それは目に見えず、音も聞こえず、大きさも重さもない。このエンジンがどのよ うに身体のエンジンを制御しているのか、何もわかっていないのだ。」(Ryle 1949:20)
(私たちは、自己(セルフ)とは独立した存在であり、自分が持っているか存在しているかのどちらかであると考えるのが普通である。哲学者トーマ
ス・メッツィンガーは、『自我のトンネル』の中で、そうではないと主張している。自己というものは存在しない。意識的な自己は、脳が作り出したモデルの内
容であ
り、内的なイメージであるが、イメージとして体験することはできない。私たちが経験することはすべて、仮想現実の中の仮想的な自己なのだ。「しかし、もし
自己が実在しないのであれば」、なぜ、そしてどのように自己が進化してきたのだろうか?脳はそれをどのように構築するのだろうか?私たちは今でも魂や自由
意志、個人の自律性、道徳的説明責任を持っているのだろうか?認知の科学が進化論と同じくらい論議を呼んでいる今、『エゴ・トンネル』は心の謎に驚くほど
独創的な切り口を与えている)。——哲学者トーマス・メッツィンガーのセルフは存在しないという馬鹿命題はG・ライルの機械の中の幽霊におけるセルフと不
可分である身体から切り離された内省するセルフ=幽霊の論証で証明済じゃないか?進化論や人工知能を持ち出して屁理屈こねるところがますます怪しいね。
では、もし奥野(2002:45)のいうテクノアニミズムが、下記のようなものであれば、それは連子符テクノがついたアニミズム概念の革新でもなんで もなく、単なる非西洋的な機械(非人間)と人間(動物)の一体感を表現するだけの非心身二元論を言い換えているだけにすぎないものになってしまう。奥野は それで満足なのだろうか?
「マクルーハンにしても、ウィーナーにしても、ドーキンスにしても、一方で強引なまでに「人間機械論」を主張しておきながら、最終的には、
人間が機械とはぎりぎりのところで「決定的に違う」と必死で言いたがる。おそらくそれは、彼らが西欧の近代的価値観にとらわれているからだろう。
ぼくたちに必要なことは、その西欧近代主義の価値観から、人間と他の生物、あるいは機械との違いを強調することではなく、遠いぼくたちの祖先がほかの動
植物と交わしていたアニミズムの世界を、近未来の情報環境に取り返すことだ。
かつて、東アジアに住む人々が、自分たちの周りの動物や植物、草木虫魚とあまねく話をしていたように、今日、この地域で電子機械が環境化するとともに、
そこに生きる若者たちは、クルマやケータイ、コンピュータ、ロボットなどと親和的な関係をもっている。これを、今日のアニミズム、つまり「テクノ・アニミ
ズム」と名づけることができるだろう」(奥野
2002:45)。
機械の中の幽霊とは、デカルトの、内的に省察する自己のドグマ(身体=機械から切り離された内省する自己=幽霊)に関 するギルバート・ライルによる批判の表現である。(G・ライル)『心の概念』1949年。つまり、デカルトは心(res cogitans)と身体(res extensa)をわけ、前者に、直観、自由、分割不能、破壊不能そして自由意志という特権的な立場を与え、自己としての同一性の根拠も心にある ものとし て扱われる。にもかかわらず、我々は心と身体の両方をもつ存在としてある。あるいは、他方で、私というものは、私の身体と関連づけられてはじめて意味をも つ。つまり、デカルトのこのような相矛盾した人間の身体観あるいは霊魂観を嘲笑して、ギルバート・ライルは、我々は機械(身体)の中に住む幽霊(心)なの だと(皮肉として)表現した。
しかしながら、完璧なマシーンとしての生物——映画『エイリアン』のなかの医療担当アッシュの言葉——このようなアニミズムを導出する考え方を 人間——そ して奥野——は棄て切れない。デカルト的身体観——身体と心の二元性が特色で、それぞれの属性を対比的に描いたために合理主義者がしばしば夢想するファン タスマ(幻影)の例にしばしばあげられる——の問題を的確に言い表した重要な比喩である。士郎正宗(1961-)原作のマンガ・アニメ作品『攻殻機動隊』 の英語タイトルは ghost in the shell だが、これはギルバート・ライルのこの表現に由来する(ユダヤ人ジャーリストであるアーサー・ケストラーの同名の評論(1967)がある)が、ネットワー クのゴーストは、明らかにデカルト的でオカルト的な心の概念を隠喩するテーマと議論がさまざまなところで登場する。
このようなサイバー時代における(アニミズムを良しとすれば)闇雲な多幸感ないしは(ア
ニミズムを無知蒙昧とすれば)ペシミズムに対抗できるのは、サイバーパンクをお
いて他にはない。
イライザを意識す
る「私」=人間(動物)には他者とコミュニケーションする社会的能
力が備わっている(=生得的に組み込まれている)ために、そのスイッチが容易に入り[なぜ?]、イ
ライザを人間ないしは人間的能力を持っているものと錯認
する。これは、他者を理解したつもりでも、後から誤解であったことを自覚することと同じメカニズムを説明している。ただし、この能力は人間の両眼からの
データを大脳上で立体像として構成する能力に似て、我々の身体知覚を手掛かりにして〈過激に〉対人コミュニケーションの範囲を拡大する能力と欲望を、我々
自身に与えてくれる。イライザを誤解することは、その能力の拡大に伴う代価なのであった
ことがわかる。彼女の父親の怒りと裏腹に、この種のエピソードが認
知科学の可能性を拓いてくれたと同時に、その限界を明らかにすることに貢献したのではないだろうか?
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文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099