サイエンス・コミュニケーション入門
Introduction
to Science Communication
文部科学省の定義だと「サイエンスコミュニケーションは、科学のおもしろさや科学技術(ぎじゅつ)をめぐる課題を人々へ伝え、ともに考え、意識 を高めることを目指した活動」らしい。だが、これはあまり目的オリエンティドなので、日本語のウィキペディアの「サイエンス・コミュニケーション(science communication)とは、パブリック・コミュニケーションの一種で、非専門家に対して科学的なトピックを伝えることをさす」ものとして 理解したほうがよろしいでしょう。しかし、財団法人「日本サイエンスコミュニケーション協会」という団体には、ポータルにサイエンスコミュニケーションの 定義もなく、本当にこの団体は「やる気」があるのか、ちょっと心配である。
ウィキペディアの英語では、誰に対しての啓蒙コミュニケーションがきちんと区分されていて、大変好ましい:
Science
communication is the practice of informing, educating, raising
awareness of science-related topics, and increasing the sense of wonder
about scientific discoveries and arguments. Science communicators and
audiences are ambiguously defined and the expertise and level of
science knowledge varies with each group. Two types of science
communication are outward-facing or science outreach (typically
conducted by professional scientists to non-expert audiences) and
inward-facing or science "inreach" (expert to expert communication from
similar or different scientific backgrounds). Examples of outreach
include science journalism and science museums. Examples of inreach
include scholarly communication and publication in scientific journals. |
科学コミュニケーションとは、科学に関するトピックを知らせ、教育し、
認識を高め、科学的発見や議論に対する驚きの感覚を高めることである。科学コミュニケーターと大衆の定義は曖昧で、専門性や科学知識のレベルはそれぞれの
グループによって異なる。科学コミュニケーションには、外向きまたは科学アウトリーチ(通常、プロの科学者が非専門家の聴衆に対して行う)と内向きまたは
科学「インリーチ」(類似または異なる科学的背景を持つ専門家から専門家へのコミュニケーション)の2種類がある。アウトリーチの例としては、科学ジャー
ナリズムや科学館などがある。インリーチの例としては、学術的コミュニケーションや科学雑誌での出版などがある。 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Science_communication |
https://www.deepl.com/ja/translator |
下記のエッセーは、1990年代中頃の状況を描いたものだが、人間の「身体」をキーワードにして、科学と技術の関わりを論じているので、まず入
門がわりに読んでいただきたい。
1.はじめに
現在、人間と技術の関わりかたが、問い直されている。わけても、我々の生活と密接に関連し、大きな影響を及ぼしているのは、ライフサ イエンスとコミュニケーションの両分野であろう。
「経済学で定義される技術とはインプットをアウトプットに変形する生産関数のことである」(岡田 2019:1)
ライフサイエンスの領域においては、医療機器(ME)の発達による臨床検査情報の迅速化や高度化、遺伝子レベルでの診断、凍結受精卵 保存などの生殖技術、集中治療や手術管理技術、新素材による人工骨・関節や人工臓器、などの発達が顕著である。
コミュニケーション分野では、衛星放送、文字放送、(今日ではガラパゴス技術の代名詞なったが)ハイビジョンなどのマスコミュニケーション媒体 の多様化、情報収集システムの迅速 化、市民レベルでの情報ネットワーク、パソコンネットなどは、誰でもすぐに列挙できよう。
これらの、分野はハイテクと呼ばれる高度先端技術によって、今日、格段の進歩を遂げつつある。ハイテクは、このような技術体系が単独 に機能しているだけでなく、それぞれが相互に関連させることができるという、いわばネットワーク化の技術が洗練されていることに特色がある。例えば、腎移 植や骨髄移植に関する臨床検査情報は、複数の機関で検索、照合できるような情報網のなかで、共有され、その情報交換が迅速化することによって、移植の効率 は飛躍的に向上する。
ライフサイエンスとコミュニケーションのあり方は、このように相互に関連している。そして、これらの技術の中で、我々の身体のあり 方、五感をはじめとする知覚による人類の体験などは、大きく変わろうとしている。
このような動向に対する人びとの受け取り方は概ね肯定的である。しかし、同時に、身体に直接的に関わってくる問題でもあり、長期にわ たる慢性的な影響を危惧する声も常にある。
以下において、これらのハイテクと身体のかかわりあいについて、とくに見落されがちなマイナスの側面を注視し、概括的に論じる。
※「イノベーションの定義」
2.問い直される「人間」と「自然」
我々が抱かざるを得ないのが、エネルギー浪費型の技術に依存したような現在の「進歩」に対する漠然とした不安である。これは、地球環 境問題における具体的な諸課題において、なかば現実のものとして、我々の眼前に提示されている。
そこには、「本来の姿」から逸脱した人間を、「自然」 という環境の中に連れ戻したい、という願望が見て取れる。あるいは、「人間の身 体もまた自然[あるいはその一部]である」という発想もうかがえる。そこで、問題にしたいのは、そのような発想は、どこからやって来たのか?、ということ である。
自然を切り開き、それを統御するという思想は、西洋独特のものである、という主張がある。他方、伝統的東洋あるいは日本においては、 「自然への愛着」とその摂理に従う原理がある、というのである。
だが、東洋における治水潅漑などのシステムの歴史やその伝統的知識の水準は、どうであろうか? 日本における盆栽や、近世における庭 園造営をみれば、いかに人工的に統制された環境のなかに、「自然のモデル」を取り込もうとしたか、その努力の足跡がわかるというものだ。そして、自然を愛 するはずの日本人が、国土を未曾有の乱開発に陥れているのである。東洋人の「自然への愛着」という理念的性向と、彼らが現実に自然とどのように関わったか と言うことは、分けて考えねばならない。
自然と人間を、あるいは、自然と文化を対峙させる概念は、どのような社会においても認められるのであり、後者が前者に対して高い価値 をおくという図式は変わらない。ただ、西洋の科学技術が導入された社会で、広範な自然破壊が進んだのは、効率のよいシステムがもたされた結果なのである。
我々は、「自然」を慈しみ、そこに帰るべきだと言われるが、人間にとっての環境をこのような図式で位置づければ、「自然」への回帰 は、考えるほど容易なものではない。なぜならば、そこには人間が考える限りの「自然」概念が投影されており、その枠組みの中で、自然を組替えることにしか 関心がないからである。
自然と文化(→レヴィ=ストロース「自然と文化」の読解)
3.テクノロジー公害
技術の発達が、人間の存在のあり方にとって脅威となることは、産業革命の当初から今日に至るまで−−批判内容こそ千差万別だが−−変 わることなく指摘されてきた。だが、今日における科学技術の発達は、工業化の初期の時代に比べると、その変化の速度がきわめて著しく、身体にとって「自 然」でないような生存環境が急速に造られつつある、という独特の危機感がある。
そのような例として、テクノストレスを挙げてみよう。テクノストレスとは、人間とコンピュータの微妙な関係が崩れた時に生じる症状で あるが、今日では、オフィス・オートメーション(OA)の導入が現代人に与える精神および身体的不適応状態の全般をさすと考えてもよい★1。
それには多様な症状がある。VDT(モニター・ディスプレイのこと)を長時間見つづけることによる眼のちらつきや、肩や腕の疲れ −−日本では労災が一部認定されている「頚肩腕症候群」−−に始まり、内臓の異常、OA機器そのものに対しての不適応や心身にわたる障害を起こし、職務が 完全に遂行できなくなるもの、OA機器には十分適応できるのだが、職場あるいは家族との人間関係に不調和を起こすものなど、あらゆる不適応症状を観察する ことができる。
このようなストレス反応は、OA化以前における機器操作の得手、不得手という問題とは、性格を異にする。それは、明らかに、コン ピュータが人間の知覚や認知活動に、具体的に介入してきたことに根ざしている。
すなわち、それは、コンピュータとのコミュニケーションの齟齬であったり、コンピュータとの間で得られた関係を、そのまま人間にあて はめることによって、他の人びとの不調和を起こす−−後者は機械によって苦しめられるのではなくて、逆に、生身の人間関係に苦痛を感じるようになる。例え ば、コンピュータによる迅速な作業の「時間感覚」に慣れてしまい、現実の人間との対応にいらいらするようになる、という具合いである。
ビジネスおよびゲームのプログラムソフトあるいはOA機器では、たいてい「対話型」の操作体系がアルゴリズムとして組み込まれてい る。我々は、そのようなアルゴリズムに従って作業するわけだが、実際には「機械と対話(コミュニケーション)」するという体験を行っているような感覚を もってしまう。
ロボット工学者は、試作した機械に愛称をつける習慣があるが、今日においては、それがオフィス内のコンピュータに対しておこなわれる のだ。
コンピュータやOAとは、大量の情報を効率よく処理する機械やシステムであったはずである。しかし、現実は、取り扱う情報をどんどん 肥大させ、ソフトウェアのための情報収集がおこなわれ、OA化することそのものが自己目的化していく傾向にある。このような情報への過重な期待とその処理 に負われる状況も、テクノストレスの生成をさらに加速している。
4.情報化とヒューマニズム
情報化社会は、さらに厄介な問題を抱えている。情報の集中化が、個人のプライバシーの尊厳に抵触するような事態を引き起こすことが、 それである。
プライバシーは、今日の日本では「個人に関する情報」として理解されやすい。しかし、法的には人格的諸利益の総体と解され、その概念 の発祥の地、米国においては、自己の領域に属する事柄を決める権利(自己決定権)としてプライバシーが理解されていることは注目すべきである★2。
すなわち、個人情報への「侵害」は、人格という抽象的実体のみならず、具体性をもった身体に対する「侵害」にもなり得る★3。これ は、「自己の領域」を厳格に確定しようとする人びとの具体的な知覚認識にも叶っている。このようにして見ると、個人の秘密としての情報を暴露されたときに 感じる恥辱感とは、極めて身体的な「恥辱の」感覚に近いものであることが、容易に理解できよう。
個人情報が日本において、無配慮に「流通」しており、このことに対する懸念が問題化しつつあるが、未だプライバシー感覚は、米国のよ うな身体感覚化にはいたっていない。だが、巷間におけるプライバシーの「暴露」には、しばしば個人の性生活に関する「秘密」が暴かれることから、個人に関 する情報(プライバシー)が身体−−それも最も危険な領域である性的部分−−への「侵襲」であるとみなすことも可能であり、「個人に関する情報」と 「その身体感覚」には強いつながりがあるとみてよい。
このような事態に際して、市民社会はどのように対応してゆけばよいのだろうか? それには、現代人が情報化社会にみる不安材料を検討 しなければならない。
例えば「情報化による個人情報の集中」という社会問題がある。国家や地方公共団体が、効率よく業務を進めるためには、このような集中 化がなされることは、やむを得ないという意見がある。しかし、どのような情報を、どのように管理されているかという実態が、不明瞭のままでは、さきに言っ たような、権力による市民への「侵襲感」を払拭することはできないだろう。総務庁や警察庁などがまとめた報告書など★4があるが、国家権力による提唱は、 デリケートな問題を含んでいる。
しかし、私的企業に対する、権力的介入が必要とされる面もある。それは、信用金融社会を迎え、個人情報が金融機関に集中している実態 であり、プライバシーの点から、やはり大きな問題をはらんでいるからだ。国家が市民の権益を守るという点からみると、なんらかの対策がなされるべきだとい う意見もでてくるのである。
5. 身体技術の復権
現代は、伝統的なコミュニティーの機能が崩壊した時代、という見方がある。そこで、しばしば耳にするのが、「人びとの心が貧しくなっ た」というフレーズである。
だが、「心の貧しさ」を定量することはできない。もし、仮にそのような心性を認めたとしても、実際には、具体的な行動が観察されなけ ればならない。最後に、それを「身体技術」という視点からとらえ直してみよう。
身体技術とは、「自己あるいは他人の身体に関する等身大−−すなわち個人が自分で処するレベル−−の技術」のことである★5。広義に は傷病を直したり、健康管理をおこなう技術も含められるが、医療などの専門化した技術は、そこには含めない。あくまでも、自己および他者の身体の周辺での 対処技術のことを言っている。
この技術は、たんにセルフケアをおこなうだけではない。身体は、他者との重要な媒介点であることから、他者への接し方の技術でもある のだ。
子供たちは、身体を縦横無尽に使う遊びのなかに、他者との身体的な接触を感じ、その対処を学んでいく。このことは、他者に対する腕力 の振舞いの限度(=手加減)を体得する契機にもなる。また、自分や他者の傷病に対して、どのように振舞うか、どうすれば病気の傷みを評価でき、それに対し て適切な行動がおこすことができるかを体得してゆく。看病なども、その重要な技術を構成する一部であると言えよう。
このような技術の継承や修得は、本来子供が成長の中で、自分自身あるいは仲間たちの助力によって、身につけてゆくものであった。
しかし、長期にわたる規格化された学校教育、友人関係の範囲がクラスや学年などの年齢階梯に分極化されること、学校外における自然環 境の減少、お稽古ごとや学習塾などの「学校外」施設への収容、などの要因によって、次第に、身体技術を「学習」するチャンスを失い、やがて、その伝承その ものも後退していったものと推察される。
現実に、現代日本における都市の若者たちの間には、このような身体技術が失われて、新たな「人間関係性の様式」が形成されつつあると 言われる。この関係性の多くは、ファンクラブ、テレメッセージ、コンピュータネットなど、今日の新しいメディアに依存している。このようなメディアは、す べて対人関係における、即物的な身体性を完ぺきに排除したかたちで行なわれていることは、この身体技術を考える上で示唆的である。
今日における「医療化現象」−−傷病だけでなく生活そのも のが近代医療によって統制されていく現象−−の中で、身体技術という知的体 系が崩壊している事実も見逃せない。
健康診断や検診の態勢は、病気の早期発見・早期治療を促し、健康への配慮を人びとに啓蒙することには貢献した。しかし、他方で、「病 気」のもつ認知的脅威を一層おおきくした。例えば、臨床検査データが示す、病気のリスクファクターという概念は、「潜在的な病者」(=病者予備軍)を作り 上げ、病気への配慮というかたちで、日常の生活を統制することに成功した。このような現象は、病気への対処を近代医療に独占させる結果となった。
都市における夜間救急において、重篤な傷病人が拒絶−−むろん拒否には医療設備の不備やスタッフの不在などの複数の理由が挙げられる −−され社会問題化する一方で、家庭内で十分に対処できる傷病でさえ救急車で運ばれてくる場合があるという。このような例として、乳幼児の夜間の発熱があ る。この場合には、その子供の父母に、子供の病気を観察し対処する身体技術が欠落している、と言うことができるのである。都市における核家族による居住形 態によって、子供の養育に関する祖父母の身体技術が、うまく父母に伝わらず断裂していることは、容易に推測できる。
では、このような身体技術を我々に取り戻すには、いかなる方法があるのだろうか?、学校教育?、社会教育?、コミュニティー運動?。 問題は予想したよりも広範であり、身体技術の実態を多極的に調査研究し、これらを成果を取り込んだ、社会システム全体について、身体技術の「復権」を目指 していく他はないように、思われる。
クレジット:旧クレジット「身体をとおしてみた技術と人間のかかわり」西暦2000年の原稿です
註
★1:Brod,Craig.Tecnostress,Addisson-Wesley Publishing,1984 [クレイグ・ブロード『テクノストレス』(池・高見共訳)新潮社、1984]
★2:塩野宏「情報化とプライバシー」『機械と人間』(東京大学教養講座11:竹内啓編))東京大学出版会、1985
★3:米国連邦裁判所が、女性の「中絶する権利」を認める裁定を下した時、それは女性のプライバシーに帰属することがらである、とされ たのである。
★4:総務庁行政管理局編『行政機関における個人情報保護対策』ぎょうせい、1987;警察庁長官官房編『情報化とセキュリティ』ほう しょう出版、1986 など。前者にはOECDによる個人情報管理についての勧告が再録されている。後者は、取締当局からの視点で書かれた情報保護マニュアルでるが、個人のプラ イバシー保護という点には殆ど触れられていない。
★5:身体技法(techniques du corpus)については、マルセル・モースになる論考がきわめて著名である。モースによると、あらゆる身体の所作は、その担い手が属する文化の仲でコー ド化され、修得されていく、技法をこのように呼んだ。「身体技術」の名称も、理論的にはそれを継承しているが、本稿では「身体を護りながら発達させてい く」という点に、より多くの力点をおき、文化的なコードと同様に、生物学的な視点も加味している。
概要(引用はすべてウィキペディア) |
サイエンス・コミュニケーション(英: science
communication)とは、パブリック・コミュニケーションの一種で、非専門家に対して科学的なトピックを伝えることを指す。科学コミュニケー
ション、科学技術コミュニケーションとも呼ばれる。多くは職業的な科学者が主体となる(アウトリーチ活動や科学普及活動と呼ばれる)が、現在ではそれ自体
が一つの職業分野となっている。サイエンス・コミュニケーションの形としては、科学博覧会、科学ジャーナリズム、科学政策(英語版)、メディア制作などが
ある。また学術雑誌などを通した科学者同士のコミュニケーションや、科学者と非専門家の間のコミュニケーションを指すこともある。後者は特に、科学を巡る
公の討論や市民科学活動の中で見られる。日本のサイエンス・コミュニケーションについては、さまざまな団体が活動を行っている。
科学研究や科学教育への支援を呼び込むために行われる場合もあれば、政治的・倫理的な問題に関する意思決定のための情報を周知させるのが目的の場合もあ
る。近年では、単純に科学的な研究成果を伝えるより、科学の方法や過程を伝えることを重視する傾向が強くなってきている。これが特に重要となるのは、科学
的方法の制約を受けないことから容易に流布する科学的俗説に対処するときである[1][2][3][4]。
サイエンス・コミュニケーションについての考え方は時代とともに変遷を経てきた。科学者同士が研究について公に交流することをサイエンス・コミュニケー
ションに含めるならば、その源流は17世紀のイギリスで最初の科学学会(王立協会)が成立したことに求められる[5]。科学者コミュニティが公衆に科学を
伝える動きの先鞭をつけたのは、1831年に創設された英国科学振興協会である[6]。社会や経済における科学技術の役割が拡大するとともに、一般市民を
対象とした理解増進活動の重要性は不動のものとなった。しかし、20世紀の後半から、核技術やBSE問題、遺伝子組み換え食品問題などをきっかけに一般市
民の科学に対する不信が顕在化され始め、トップダウン的な知識の伝達の有効性に疑問が寄せられるようになった。現在では、多様なステークホルダーによる科
学への関与や双方向的な対話を基本理念として、コンセンサス会議やサイエンスカフェのような新たな形式のサイエンス・コミュニケーションが実施されている
[7]。 |
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モチベーション |
職業訓練の需要が存在することもあって、サイエンス・コミュニケーショ
ンは一つの学問分野となっている。専門学術誌には Public Understanding of Science や Science
Communication
がある。研究者の多くは科学技術社会論に依拠しているが、科学史や一般的なメディア研究、心理学、社会学が入り口となることも多い。学問分野としての成長
を受けて、応用的・理論的なサイエンス・コミュニケーション研究を専門に行う学部を設立した大学もある。その一例はウィスコンシン大学マディソン校ライフ
サイエンス・コミュニケーション学部である。サイエンス・コミュニケーションの分野には、農業従事者とそれ以外が学問的・職業的な観点から農業について交
流する農業コミュニケーション(英語版)や、ヘルス・コミュニケーション(英語版)などがある。
ジェフリー・トーマスとジョン・デュラントは1987年の著書で科学の公衆理解(英語版)[8]、すなわち科学リテラシーを向上させるよう訴え、様々な根
拠を提示した。公衆が今以上に科学を享受するようになれば、科学研究費の水準が向上し、法規制がより進歩的になり、訓練された科学者の人材が増加するとさ
れた。また、訓練された技術者や科学者が増えることで経済的な国家競争力が強められる可能性があるという[1]。科学は個人にとっても有益となりうる。科
学そのものが魅力を持つこともあり、たとえばポピュラーサイエンスやサイエンスフィクションではその側面が利用される。高度技術化が進む中、社会的な問題
について話し合うのに基礎的な科学知識は役に立つかもしれない。幸福感についての科学は個人にとって直接的に明確な意義を持つ科学研究の例である[1]。
政府や社会も科学リテラシーの向上から恩恵を受ける可能性がある。有権者の見識は社会の民主化を推進する原動力である[1]。それに加え、道徳的な問題に
ついて意思決定を行うのに必要な知識が科学から得られることがある(たとえば動物は苦痛を感じるか(英語版)、人間活動が気候変動に与える影響、さらには
道徳の科学(英語版)といった問題に関する疑問に答えてくれる)。
バーナード・コーエンは科学リテラシー増進の理念にいくつかの懸念を投げかけた。コーエンは第一に「科学の偶像化」を避けよと説く。言い換えると、科学教
育で必要なのは、公衆が科学を尊重しつつも科学が絶対に正しいと盲信しないようにすることである。結局のところ科学者は人間であり、完全に利他的なわけで
もなく、何もかもを理解できるわけでもない。また、サイエンス・コミュニケーションに携わる者は、科学を理解していることと、科学的な思考法を身につけて
ほかの局面でも応用できることとの違いを正しく認めるべきである。実のところ、訓練された科学者といえども、科学的な考え方を人生の中で応用することに必
ず成功するわけではない。コーエンは科学主義と呼ばれてきた考え方に対して批判的である。つまり、科学があらゆる問題に対する最善の(あるいは唯一の)対
処法だとするべきではない。また、様々な天体までの距離や鉱物の名前といった「雑多な情報」を教えることを批判し、その有用性に疑いを投げかけている。ほ
とんどの科学知識は、公の議論の対象となって政策転換につながるのでなければ、学習者の人生に実質的な変化をもたらすことはないだろう[1]。
科学の公衆理解という観点に基づく学術研究に対しては、科学技術社会論の研究者から多くの批判が寄せられている。たとえば、スティーヴン・ヒルガートナー
が1990年に論じたところによれば[2]、科学の普及についての(彼がいう)「支配的な見解」の中では、正確な知識を備えた集団とそれ以外との間に明瞭
な境界があると考えられがちである。公衆を知識が欠如した集団と定義することで、科学者たちは専門家としての自己認識を際立たせることになる。科学の普及
活動は境界作業(英語版)[†
1]の一つの形となる。このように理解するならば、科学者と非科学者との間で行われる科学コミュニケーションという営みそのものが、この図式を強調するこ
とにしかならない。あたかも、科学コミュニティが一般人に手を差し伸べるのは、そのもっとも強固な境界を強化するためでしかないかのようである(M・ブッ
チやB・ウィンの著作に基づく[9][10])。このように、一般市民に知識が欠如していることを問題視して、トップダウン的な啓発活動を行おうとする考
え方は批判的に「欠如モデル」と呼ばれるようになった[6]。
生物学者ランディ・オルソンは別の観点から科学の公衆理解に関する危惧を表した。反科学的な集団は強い動機を持ち資金が潤沢であることが多いため、政治的
中立を志向する学術団体は後れを取る可能性があるというのである。オルソンはこの懸念を裏付ける例として否認論(英語版)(たとえば地球温暖化に対するも
の)を挙げている[3]。ジャーナリストのロバート・クラルウィッチも同様に、科学者が情報を発信すると、否応なくAdnan
Oktar(トルコの宗教指導者、イスラム創造論者)のような人物との競争にさらされると論じた。クラルウィッチが伝えるところによれば、トルコには世俗
主義の強い伝統があるにも関わらず、Oktarの活動により、おもしろくて読みやすく価格も低い創造論の教科書が数千校にのぼる学校で販売されているとい
う[4]。宇宙生物学者デイヴィッド・モリソン(英語版)は、反科学に対処するために研究に支障が出たことが何度かあったと発言している。未知の天体(ニ
ビル)が地球と接近して大災害(ニビル大災害(英語版))をもたらすという風説による社会不安を和らげるよう要請されたのだという。これは2008年に始
まり、2012年、2017年と繰り返された[11]。 |
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メソッド |
海洋生物学者で映画監督でもあるランディ・オルソン(Randy Olson)は「科学者ぶ
るのはやめよう ― スタイルの時代に本質を語るには」[†
2]と題する本を出した。同書でオルソンは、科学者にもっとコミュニケーションするよう促すことがなおざりにされてきた現状について述べ、同輩である科学
者に向けてもっと「気楽になる」よう説いた。さらに、公衆とマスコミに科学を伝える最大の責任は科学者にあるとした。そしてそれを行うならば、社会科学の
十分な理解を下敷きにしなければならない。科学者も物語のような効果的な説得の技法を使うべきだ、というのがオルソンの主張である。とはいえ、科学者が語
る物語はストーリーが魅力的というだけでなく、現代科学に忠実でなければならない。それが困難だったとしても、ただ正面から取り組むしかない。オルソンは
カール・セーガンのような人物が優れた普及家だと述べ、その理由の一つは意識的に好感が持てるイメージを作り上げたためだと指摘した[3]。
カリフォルニア工科大学の卒業式の式辞において、ジャーナリストのロバート・クラルウィッチは Tell me a
story(お話してください)という題でスピーチを行った。そこで彼は、科学者には科学や自身の研究を面白く説明するよう求められる機会が実は多い、そ
のような機会を逃してはいけないと語った。クラルウィッチによれば、科学者はニュートンがしたように公衆を遠ざける道を選んではならず、ガリレイにならっ
てメタファーを使いこなさなければならない。科学が容易に理解できなくなっている現代では、メタファーの重要さは増す一方である。さらに、科学の現場で起
こっているサクセスストーリーや苦闘の物語を語ることで、科学者が現実の人間だということを伝えられる。スピーチの最後には、科学的な価値観が普遍的な重
要性を持つことや、科学的な観点とは単なる意見ではなく訓練によって得られた見識なのだということを公衆に理解してもらう大切さを訴えた[4]。
俳優アラン・アルダは科学者と博士課程学生が演劇コーチの指導を通じてコミュニケーションに習熟できるようにする活動を行っている(ヴァイオラ・スポーリ
ンの演技法を用いている)[12]。 |
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公衆・大衆 |
「科学の公衆理解」運動に対しては、そこで想定されている公衆がどこか
ブラックボックスのようで受動的だという批判が数多く寄せられてきた。その結果、公衆に対するアプローチのあり方は変化した。近年のサイエンス・コミュニ
ケーション論の研究者や実践家は、非専門家の話に喜んで耳を傾けようとするだけでなく、レイトモダン・ポストモダンの社会的アイデンティティが流動的で複
雑であることを意識するようになってきた[14]。分かりやすい部分としては、公衆すなわちpublicという言葉の代わりに複数形のpublicsや
audiencesが使われ始めた。Public Understanding of Science
誌の編集者エドナ・アインジーデルはpublics特集号で以下のように説明している。「欠如フレームやpublicsの画一化が当たり前だった時代は過
ぎ去った。今や我々の目に映るpublicsは、能動的かつ聡明で、多様な役割を持ち、科学を受容するだけでなく形作ることもできる存在である
[15]。」しかしながら、アインジーデルはさらに進んで、どちらの見方もpublicとは何なのか規定しているのだから、ある意味で公衆を画一化してい
ることは変わらないとした。科学の公衆理解運動がpublicsを無知な存在として矮小化したとすれば、それに代わる「科学技術への公衆関与」運動は
publicsを参加意識と生来の道徳、素朴な集合知を持つ存在として理想化したのだという。スザンナ・ホーニグ・プリーストは現代の科学支持者
(audiences)に関する2009年の概説で[13]、科学コミュニケーションの使命とは、非専門家に科学の活動から疎外されたと感じさせず、かと
いって過度に関与を求めないことなのかもしれないと結論した。望むならいつでも参加して構わないが、人生を賭けて飛び込んでいく義務は負わないというわけ
である。
公衆の科学に対する知識や関心度を調査することは、「科学の公衆理解」の観点と強く結びつけられた手法だと(一部に言わせれば、不当にも[16])考えら
れている。そのような調査を行うこと自体が「必然的に、公衆には科学的な理解が不足しているというイメージを形成するもの」[17]』という批判がある
[6]。米国においてその種の調査研究を代表するのはジョン・ミラー(Jon D.
Miller)である。ミラーは科学に「目を向けている」「関心のある」とみなせる公衆(言わば科学ファン)と、科学や技術にそれほど関心がない集団とを
区別したことでよく知られている。ミラーの研究は、アメリカの公衆が以下に示す科学リテラシーの4つの特質を備えているか疑問を投げかけた。
教科書的、事実的な科学の基礎知識
科学的方法の理解
科学技術のポジティブな成果を高く評価すること
占星術や数秘術のような迷信への信奉を持たないこと[18]
ジョン・デュラントが英国の公衆を対象に行った調査[19]はいくつかの点でミラーと同様のアイディアに基づいていた。しかし、デュラントらはどちらかと
言えば知識の量より科学技術への態度の方に関心を持っていた。彼らはまた公衆が自分の科学知識にどれだけ自信を持っているかに注目し、「知らない」という
回答を選ぶこととジェンダーとの関係などを考慮した。ユーロバロメーター(英語版)調査はこのようなアプローチや、もっと「科学技術への公衆関与」の影響
が強いアプローチを取り入れていると見られる。この調査はEU諸国の世論をモニターするもので、政策立案と政策評価に寄与する目的で1973年から行われ
ている。題材は多岐にわたり、科学技術のみならず、国防、ユーロ、EUの拡大、文化も含まれる。近年のユーロバロメーター調査『気候変動に対するヨーロッ
パ人の態度』[20]はよい例である。この調査では回答者の「主観的な知識レベル」に焦点をあてており、何を知っているか確かめるのではなく「…について
個人的に十分な知識がありますか?」という訊き方をしていた。 |
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フレーム分析 |
科学コミュニケーションの研究には、人が状況や活動をどのように理解す
るかを分析する手法であるフレーム分析(英語版)が用いられる。
以下にフレームの例を挙げる[21]。
公の責任(Public accountability):
科学技術を公共もしくは特定団体の利益に寄与するものとして扱う。法的管理、透明性、政策決定などに重点を置く。
科学技術の暴走(Runaway technology):
科学技術の発展を警戒すべきものとして扱う。事故を起こした原子力発電所の写真を提示するなど。
科学の不確実性(Scientific Uncertainty): 科学を専門家間のコンセンサスに過ぎないものとして扱う。 |
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ヒューリスティックス |
我々が日々行っている意思決定は膨大な数に上るため、すべてについて注
意深く入念に検討するのは現実的ではない。そのかわり、ヒューリスティックとして知られる心理的なショートカットを用いることで、完全ではなくともまずま
ず納得のいく結論を速やかに得ようとするのが普通である[22]。以下に挙げる3種のヒューリスティックはトベルスキーとカーネマンが最初に提唱したもの
だが、それ以降にも様々なものが論じられている[23]。
代表性ヒューリスティック(英語版):
ある事象が確からしいかどうかを関連性に基づいて判断すること。たとえば、AがカテゴリBに属する見込み(キムという名の人物はシェフであるか?)や、事
象Cが過程Dから得られる見込み(表表裏裏と続いたコイン投げは無作為に行われていたか?)がどれほどあるか。
利用可能性ヒューリスティック:
ある事象が起きる頻度や蓋然性を、その事例がどれだけ容易に想起されるかに基づいて判断すること。たとえば、自分と同年代の大学生が何人いるかを見積もる
場合、回答は実際に何人の大学生を知っているかに影響されるだろう。
係留と調整:
不確定な要素がある中で意思決定を行うときに用いられる。初めに何らかの出発点(係留点)を設定し、修正を加えながら仮説を完成させていく。たとえば、あ
る講義が次の春学期に何人の受講者を集めるか見積もる場合、回答者はまず直前の秋学期の受講者が何人だったか思い出し、秋学期と春学期でどちらが人気が高
くなるか考えて見積もりを修正していくことだろう。
もっとも効果的な科学コミュニケーションの試みは、ヒューリスティックが日常的な意思決定の中で果たしている役割を考慮に入れたものである。多くのアウト
リーチ活動計画は公衆の知識を向上させることのみに焦点を当てているが、研究によると(たとえばBrossard et al.
2012[24])、知識レベルと科学的な問題に対する意見との相関は、あるとしてもわずかでしかない[25]。 |
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公共科学の誕生 |
ルネサンスと啓蒙時代を経て一般向けの言説の中に科学研究が現れ始めた
が、19世紀になるまで公衆が科学に出資したり科学に親しむことは一般的ではなかった。それ以前の科学研究は、私的な後援者に依存しており、王立協会のよ
うな排他的な集団の間で行われるのがほとんどだった。19世紀に中産階級が台頭した結果、漸進的な社会の変化により公共科学(英語版)が成立した。ベルト
コンベアや蒸気機関車のような19世紀の科学的発明が人々の生活様式を改善したことを受けて、大学その他の公的機関は大々的に科学的発明に資金を提供して
科学研究を振興させようとし始めた[26]。科学の成果は社会にとって有益であったため、科学的な知識の探求は科学という一つの職業となった。当時存在し
ていた科学に関する公共の議論を行う場としては、米国科学アカデミーや英国科学振興協会(British Association for the
Advancement of
Science、BAAS)のような学術団体がまず挙げられる[27]。BAASの創立者の一人であるディヴィッド・ブリュースターは、「科学の1本の支
流を追求する人が、ほかの分野の探究者と理解しあえるように」、また「科学を志す学生が自らの仕事をどこから始めればよいかわかるように」、研究者がそれ
ぞれの発見を円滑に伝えるための定期刊行物が必要だと信じていた[28]。科学が職業化されて公共圏へも導入されたことで、科学はより広い受け手に伝達さ
れるようになり、それへの関心も高まった。 |
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19世紀の科学メディア |
メディアの制作形態は19世紀に変化を遂げた。蒸気機関による印刷機が
発明されたことで、時間当たりに印刷できるページ数が増大し、印刷物が安価になった。書籍の価格は徐々に下がって労働者階級でも手が届くようになった
[29]。文書を所有して知識を得ることはエリートだけの独占ではなくなった。歴史家アイリーン・ファイフは、19世紀に労働者階級の生活を改善するため
に一連の社会改革が行われた中で、大衆の知的向上の観点から知識の普及が重視されたことを指摘している[30]。その結果、教育のない層の知識を向上させ
ようとする改革の動きが起きた。ヘンリー・ブルーム(英語版)が代表を務めていた「有用な知識を普及させるための協会」[†
3]はすべての階級が読み書き能力を身につけられる制度を設立しようとした[31]。
また同協会は、一般庶民に科学の成果を総合的に伝えることを目指して『ペニー・マガジン(英語版)』のような週刊の雑誌を発刊した[32]。
科学に関する出版物の読者が増加するにつれ、公共科学への関心もまた高まっていった。オックスフォード大学やケンブリッジ大学など、一部の大学では公開講
座が開設され、一般大衆の受講を奨励した[33]。19世紀の米国でも巡回講義が一般的に行われ、数百人の観衆を集めていた。この種の公開講座はライシー
アム運動[† 4]の流れを汲むもので、基礎的な科学実験の実演を通して、教育の有無にかかわらず聴衆に科学知識を伝えた[34]。
公共科学の普及とは、マスメディアを通じた一般大衆の啓発だけではなく、科学コミュニティ(英語版)内部でのコミュニケーションが発展することでもあっ
た。科学者はそれまでにも数世紀にわたって自らの研究成果を出版していたが、王立協会の『フィロソフィカル・トランザクションズ』のような伝統的な総合論
文誌はコミュニケーションの場としての重要性を失っていった[35]。19世紀にはそれに代わって、それぞれの分野の専門誌で研究成果を発表することが科
学者のキャリアには欠かせなくなった。科学の普及がさらに進み、論文出版が一般化した結果、19世紀末になると『ネイチャー』や『ナショナルジオグラ
フィック』のような雑誌が多数の読者を獲得して強固な資本基盤を持つようになった[35][36]。 |
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現代のメディアによる科学の伝達 |
科学を公衆に伝える方法は多岐にわたるが、ユニヴァーシティ・カレッ
ジ・ロンドンのサイエンス・コミュニケーション論講師カレン・バルティチュードはそれらを3つのカテゴリに分けた。伝統的なジャーナリズム、ライブ(対面
型)イベント、オンラインの交流である[37]。
伝統的なジャーナリズム
新聞や雑誌、テレビ、ラジオなど。受け手の数について一日の長があり、ほとんどの人はこれらのメディアで科学的な情報を入手している[37][38]。職
業的なジャーナリストによって制作されるため、提供される情報は質が高い(正確に書かれ、見せ方が優れている)と考えられる。伝統的なジャーナリズムには
論点を提起する役目もあり、政府の政策に影響力を持つことがある[37]。短所としては、科学に関するニュースがひとたび主流メディアに流れたら、当事者
の科学者がその伝え方をコントロールできないため、誤解や誤った報道を生みかねない点がある[37][39]。またこの伝達方式は一方向であり、公衆との
対話が起こりえない。さらにまた、ニュースの受け手が科学的背景の全体を理解できるとは限らないので、ニュース内容の範囲を狭めて限られたポイントにだけ
集中させる場合が多い[37][39]。しかし最近の研究では、新聞やテレビ局は「科学の公共圏」の中で広範なアクターを公の討論に引き込む役割を担って
いることも示されている[40]。
ライブイベント
例としては公開講座、博物館、科学館、討論会、サイエンスカフェ、サイエンスアート[1]、サイエンスショー、サイエンスフェスティバル(英語版)があ
る。このスタイルの強みは、より個人的であることと、双方向的であるため科学者が公衆と交流できることである。また科学者が内容をコントロールすることも
可能となる。不利な点としては、受け手の数が限られること、人的資源を集約する必要があり高コストであること、すでに科学に関心を持っている受け手にしか
訴求しないことが挙げられる[37]。
オンラインの交流
たとえばウェブサイトやブログ、ウィキ、ポッドキャストなどは科学コミュニケーションに用いることができる。ソーシャルメディアは言うまでもない。市民科
学のプロジェクトでは、インターネットを通じて一般からデータ収集などの貢献を募ることがあり、オンラインによる科学コミュニケーションの一つの形を提示
している[37]。オンラインコミュニケーションは潜在的に巨大な受け手を持ち、科学者と公衆との直接的な交流が可能である。そのコンテンツはいつでも利
用可能であり、科学者がコントロールすることもできる。また、受け手と送り手の選択によって一方向にも双方向にもコミュニケーションが行える。しかし、コ
ンテンツがどのように受け取られるかをコントロールしづらいことや、常に管理とアップデートを行う必要があることは不利な点といえる[37]。
公衆は面白い科学知識を求めるが、同時にそれが、リスク規制や科学技術ガバナンスに批判的に関与するために必要な種類の知識であることも期待するという研
究がある[41]。したがって、公衆に科学的な知識を伝えるときにはその側面を意識するのが重要である[38](たとえば、科学コミュニケーションとコメ
ディを組み合わせる[2]など)。科学コミュニケーションの分野はまだ歴史が浅いため、公衆がどのように、またどういう動機で科学に関与するか、そして様
々な形の科学コミュニケーションがそれぞれどのような効果を持つかを正確に突き止めるにはさらなる研究が必要である[39][42]。とはいえ近年の研究
は、メディアが科学者による科学的な説明をねじ曲げたり、売り上げのために科学ニュースをセンセーショナルに伝えるというような旧来の見方からは離れて
いっている。文脈主義的な、もしくは審議民主主義のフレームワーク[訳語疑問点]の下で研究を行う者にとって、科学とメディアの相互作用は複雑なプロセス
である。科学とメディアを二つの社会的システム(またはサブシステム。ニクラス・ルーマンのシステム理論[43]による)として捉え、それらの密接な関係
を研究する研究者によれば、科学者の側もまた、一般社会への訴えかけを通じて研究資金を集めようと望み、積極的にメディアに露出しようとする[44]。一
方でメディアの側も、現代のリスク社会におけるリスクガバナンスへの市民参加を支援するために科学報道を行うことを重視している[45]。 |
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Twitterやソーシャルメディアの影響 |
Twitterを使うことで、研究者や大学教員は異なる観点を持つ多様
な観衆に対して科学的なトピックを伝えたり、議論を行うことができる[46]。学術論文の引用件数にTwitterの利用が正の影響を与えることを示す研
究がある。それによると、多くのツイートを集めた論文はほとんどツイートされないものと比べて高被引用論文となる確率が11倍であった[47]。
グンター・アイゼンバッハが著作で指摘しているように、Twitterが科学コミュニティの進歩に直接的な影響を与えていることが研究によって明らかに
なった[47]。Elsevier
Connectの編集長で「科学でソーシャルメディアを使う方法」という記事を書いたこともあるアリソン・バートは、自分の研究内容をTwitterで
シェアすると不利益が生じる可能性があると述べている[48]。
キンバリー・コリンズはPLOSに載せた論文で、Twitterを始めるのをためらう科学者がいる理由を説明した[49]。Twitterのようなプラッ
トフォームについてよく知らないために有意義な投稿ができない者もいれば、Twitterで自分の研究をシェアすることに価値を見出さなかったり、自分の
アカウントに研究の情報を投稿する時間がない者もいるのだという[49]。中には、職業上の情報を発信したり提案やコメントを受けたりするには
Twitterはふさわしくないと考える者もいる[48]。とはいえ、コリンズの調査対象となった科学者の28%は、Twitterでの発信は多くの多様
な受け手に届くため好ましいと考えている[49]。
人気ブログBoing
Boing(英語版)の科学エディターで『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニストでもあるマギー・コースベーカーは、オンラインで職業科学者として適切
に振る舞うには、ソーシャルメディア上でプライベート用と仕事用のペルソナを使い分けることが重要だとコメントしている[48]。これらの発見によると、
学術研究についての内容をプライベートなアカウントから投稿すると、Twitterユーザーに混乱したメッセージを送ることになりかねない。
Twitterを利用したアウトリーチ活動が良い結果を生んだ事例はいくつもある。2017年9月、ある母親がカナダ昆虫学会に対し、虫が好きすぎて学校
でいじめを受けている8歳の娘を激励するよう依頼した。昆虫学会が#BugsR4Girls(虫は女の子のもの)というハッシュタグを付けたツイートでこ
の件を発信すると、大きな話題を呼んで社会とメディアを巻き込んだムーブメントに発展した[50]。この顛末はアメリカ昆虫学会誌のサイエンス・コミュニ
ケーション特集号に論文として報告され[51]、女児も共著者として自らの体験を寄稿した[50]。
2017年、ピュー研究所ジャーナリズム・メディア部門が実施した調査により、ソーシャルメディアユーザーのおよそ4分の1が科学関連のページやアカウン
トをフォローしていることが明らかになった[52]。このグループは、ソーシャルメディアから得た科学ニュースは他のメディアよりも重要であり、信頼度も
比較的高いと回答した[52]。
フレッド・ハッチンソンがん研究センターで科学的キャリア開発部門の長を務めるカレン・ピーターソンは、アカデミックなキャリアを歩み始めたばかりの研究
者に対し、FacebookやTwitterのようなソーシャル・ネットワークを使った交流によってオンライン上での存在を確立する重要性を訴えた。キャ
リア開発の観点からは、ソーシャル・ネットワークは知り合いを増やし、研究上のアイディアを交換するなどの利点があるという[53]。
『ネイチャー』によると、3000人を超える科学者・技術者への聞き取りの結果、彼らの間に巨大ソーシャルメディア・ネットワークや研究プロフィールサイ
トが浸透していることがわかった[46]。エレナ・ミラーニは科学とサイエンス・コミュニケーションに関するTwitterハッシュタグをリストするプロ
ジェクトSciHashtagを設立した[54]。Twitterは今や研究者にとって生活の一部になったと言える[46]。 |
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科学の公衆理解 |
科学に対する公衆の意識(public awareness of science)、(Public Understanding of Science)、
科学技術への公衆関与(public engagement with science and
technology)、これらはすべて20世紀後半に国や科学者が起こした運動の中で作り出された用語である。19世紀末に科学は職業的な活動となり、
国の影響を受けるようになった。それ以前には科学の公衆理解が論題として大きく取り上げられることはなかった。ただし、一部の著名人は専門家ではない公衆
を対象とした講義を行っていた。その一人であるファラデーが行っていたのは、英国王立研究所(Royal
Institution)が1825年から現在まで実施している名高いクリスマス・レクチャーである。
20世紀に至って、科学をより広い文化的コンテクストの中に置き、科学者が一般大衆に理解されるような形で知識を発信することを目指す団体が出現した。英
国においては、1985年に王立協会が作成したボドマー報告書(正式な題名は The Public Understanding of
Science
「科学の公衆理解」)が、科学者と社会との関係を再定義するきっかけとなった[6]。この報告書は「連合王国における科学の公衆理解の性質と程度を見直
し、それが先進民主主義の観点から十分であるか検討する」意図で作成された[55]。作成委員会は遺伝学者ウォルター・ボドマーが議長を務め、ナレーター
でもあるデイビッド・アッテンボローなど著名な科学者が参加していた。報告書では様々なセクターに対して科学の理解増進のための施策が提言されたが、特に
科学技術の専門家に対し公衆とのコミュニケーションを促したことは画期的であった[6]。ここで公衆は(互いに重なり合う)5つのグループに分類された。
すなわち (1) 私的個人、(2) 民主社会の市民、(3) 科学の専門家、(4) 中堅管理職と労組専従者、(5)
政治家や実業家である[56]。その前提として読み取れるのは、すべての人が科学をある程度理解している必要があり、そのためには若年のうちから科学に関
して適格な教師に教えを受けなければいけないということである[57]。報告書の中ではテレビや新聞などのメディアが今以上に科学を取り扱うよう提言され
ていたが、それがもとになって、科学コミュニケーションのプラットフォームを提供するen:Vega Science
Trustのような非営利団体が設立された。
第2次世界大戦が終わると、英国と米国のどちらにおいても、科学者に対する一般の見方は称賛から不信へと大きく振れた。このためボドマー報告書では、社会
への関与を避けることで研究費の調達が阻害されているのではないかという科学コミュニティの懸念が強調されていた[38]。ボドマーは英国の科学者に対
し、彼らには研究内容を公知のものとする責任があると訴え、より広範な一般大衆に科学を伝えることを奨励した[38]。ボドマー報告書の発刊を受けて、英
国科学振興協会、王立協会、王立研究所は協同して「科学の公衆理解のための委員会」[†
5](COPUS)を設置した。これらの団体が協調に踏み切ったことで、科学の公衆理解運動に真剣に取り組む趨勢が生まれた。COPUSは公衆理解を増進
するアウトリーチ活動を特に対象とする補助金の交付も行った[58]。ついには、科学者が研究成果を広く非専門家コミュニティに向けて公表するのが当たり
前だという文化的変革がもたらされた[59]。英国のCOPUSは既に廃止されたが、その名はアメリカで「科学の公衆理解のための連合」
(Coalition on the Public Understanding of
Science)として受け継がれた。この団体は米国科学アカデミー、アメリカ国立科学財団から資金を拠出されており、サイエンスカフェやフェスティバ
ル、雑誌発行、市民科学のような各形式のポピュラー・サイエンス分野のプロジェクトに重点を置いている。 |
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