はじめによんでね!

大阪大学と医療人文 学の未来

Prolegomena to Medical Humanities in University of Osaka

池田光穂

第41 回 大阪大学医療人文学研究会

日時: 2022年3月11日(金) 14:00~16:00
場所: Zoomオンラインミーティング(事前申込不要・100名迄)

14:00-14:45 
講演「大阪大学と医療人文学の未来」
   池田光穂(大阪大学)
   司会 山中浩司(大阪大学)
15:00-15:45
パネルディスカッション「池田医療人文学を読み解く」
   パネリスト 池田光穂(大阪大学)、山中浩司(大阪大学:兼進行役)
         中岡成文(哲学相談おんころ)、霜田求(京都女子大)
15:45-16:00
参加者との質疑応答

事前申込不要 ・ 参加無料

当日時間になりましたら下のリンクからzoomにご入室ください
https://us06web.zoom.us/j/82125346824?pwd=UHRyN2l6MGNOWlJ1eEZVK3hpN0FFUT09
ミーティングID: 821 2534 6824 パスコード: 713734

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16:20-18:00
オンライン懇親会
研究会とは別室zoomですので、参加希望者はこちらのフォームからお申し込みください。
https://forms.office.com/r/gURA24rje0
(乾杯をしますのでお好きな飲み物と共にご参加ください)
http://square.umin.ac.jp/med-hum-osaka/next.html
https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/ou-history


澤 瀉久敬(おもだか・ひさゆき)1904-1995
中 川米造(なかがわ・よねぞう)1926-1997
西 暦
池田光穂(いけだ・みつほ) 垂水源之介・Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij (b. 1956)
伊勢市生まれ——生家は神宮の御師

1904
1901年府立大阪医学校校長佐多愛彦(Aihiko SATA, 1871-1950)「医育論」で、医学教育は大学でなされるべき旨の主張をおこなう。1903年大阪高等医学校に昇格。


1905



1906



1907



1908



1909
佐多愛彦ら「医育統一の建議書」を小松原栄太郎文部大臣に提出


1910

宇治山田第一尋常小学校入学

1911



1912



1913
大阪高等医学校は大阪医科大学と改称することが承認される。

第一次世界大戦勃発
1914



1915



1916
醫術開業試験制度の廃止(全廃プログラム)
県立宇治山田中学校入学

1917



1918
大 学令(大正7年12月6日勅令第388号)以降、それまでの医学専門学校が大学に昇格する(つまり佐多愛彦の大阪医科大学は別格だった)。ただ し、陸軍省と海軍省は医専卒の軍医のリクルートを求めていたために、この政策には難色を示す。

第一次世界大戦終結 1919



1920



1921
教育評議会は、専門学校全体の制度改革に着手する。
田辺元『科学概論

1922

第三高等学校文科丙類(仏法)に入学。ボート部

1923



1924



1925

京都帝国大学文学部哲学科入学。西田幾多郎、田邊元に師事。
3月23日、旧植民地の朝鮮・京城(ソウル)生まれ。父は穀物取引業を 営む中川泰治、母は美貴で、米造は長男。
1926



1927



1928

京大哲学科卒「メーヌ・ド・ビランの推理」(指導教官は九 鬼周造教授、『「いき」の構造』は1930)同年、九鬼はフ ランスより帰国。九鬼周造に親炙する。
1929



1930


府立大阪医科大学が、国へ移管されると同時に、台北帝国大学に続く第8 番目の大阪帝 国大学となる。1933年(昭和8年)には旧制大阪工業大学を合併した。
1931
大政翼賛会医界新協議会開催
・馬場和光『「人」の醫學概論』南江堂書店(橋田邦彦校閲)

1932



1933



1934

大学院を退学し、仏政府招聘留学生。パリ大学留学中、久保秀雄 (1902-1985)※当時助教授と親交を結 ぶ——パリ大學都市の日本館(1929 年竣工)で2人は暮らす。

1935

『メーヌ・ド・ビラン』を出版。

1936

第9回国際哲学会(デカルト「方法序説」出版三百年)に出席。その後、 12月 帰国[久保、中川知一教授の後をついで阪大生理学教室教授となる]。

1937
教 育審議会が設置。
京都帝大講師(購読担当)

1938

沓掛みゑ子と結婚。
京城、竜山公立中学校(旧制=五年制)に入学。
1939
7帝国大学、6官立医科大学に13に臨時医専が設立設立。1945年ま でに官立6校、公立14校、私立4校、の医専が増設される。前線での醫師逼迫のため。昭医会は「医学教育刷新案」を発表。


1940
日 本産業衛生協会が「医学教育刷新案(実行案)」が発表される。その冒頭に「医育は医道を中心として学・術・道の三者帰一を体得することにある。しかし、従 来の医道は道が閑却され抽象的観念となり、医術は道を離れて技巧に堕したことから医育の光彩が失われ医風の退廃が来した」と記される(金子ら 2021:21)。また、その5)では「人文的教養の欠如」を嘆く(金子ら 2021:22)
・3月に久保教授は奉書で医学概論の開設の旨を澤瀉に伝え、講義を依頼 する。澤瀉は拒絶するが、最終的に田辺元(1885-1962)教授の勧めにより受諾(澤瀉 1984:135)。
・阪大で全国初の医学概論の講義が始まる[4月〜]同年大阪帝国大学講 師。1年生を対象にした医学概論では「医学の哲学」開始
・久賀路石『醫の哲學的考察』博文館。
・3月6日付教授会にて、軍陣医学「国家国防医学」のカリキュラム(図にリンク)が、大阪帝国大学で構想される。そのなかに医学概論の構想も含ま れる。当時の医学部長は佐谷友吉(泌尿器科)。
・澤瀉(2007:242-243)の弁によると、医学概論の用語は 久保の創案になるものであり(馬場和光[1932]の書名を除いてこの用語はなかった)。
1941
→国防医学と「医学概論」は同根の可能性が高い。3月6日『学科課程改 革委員会案趣旨』A3版サイズで10枚、ガリ版のなかに「次の述べるが如き内容を有する醫學概論なる科目を先ず追加せんとする意義が存する」とのも文言あ り(野村 2008)
→野村は、この医学概論の哲学の部分は、澤瀉による文案作成の可能性があると指摘するが、なんら根拠はしめされておらず、また、澤瀉(各種)は、久保ない しは、久保が田辺元の影響などを指摘しており、3月の末までこの国防医学と医学概論のカップリングについて不案内であった可能性が大である(中 川米造の1941年の箇所を参照)。
医学概論では、科学論としての医学を講じる(澤瀉 2007:218) 2.16 理学部に南方科学研究会発足、規約制定 /3.7    農学部に南方農林資源研究会発足、第1回講演会開催/5.9工学部に南方工学研究会発足、発会式挙行。第1回講演会開催/6月医学部に南方医事研究会発 足。同じ頃医学部薬学科に南方生薬研究会発足。
1942
2月国民医療法公布:日本医療団の結成。大東亜建設審議会がそれまでの教育審議会を引き継ぐかたちで改組、総力戦体制における医療の再編成がすすむ。 3月に橋田邦彦文部相を会長に「医学教育刷新協議会」が開催。「医業の根本義は国家意識に基づき、個人を対象とした医学教育を一転して団体、国家を目標と して進む」(金子ら 2021:30)
医学概論では、体系的叙述を試みる(同上)
・ジーゲリスト『醫 學序説』高山坦三訳、人文閣。
京 城の竜山公立中学校(旧制)を卒業後)旧制・松江高等学校に進学(1945年3月松江高等学校 卒業[戦時下での修業年限短縮])。当時、高 橋敬視(1891-1948)という哲学教員がいた。授業はほとんどなく「援農」労働奉仕に駆り出される。肺結核を意味する「肺尖カタルと肋膜炎」と診断 されショックに。しかし、後に「異常なし」と診断され、その後の経験に大きな影響を与えたと後に述懐(中川『学問の生命』1991:32-34)。
1943
「決戦体制確立方策ニ関スル閣議申合セ」 により「決戦」の用語が教育や行政の中で使われるようになる。5月高等専門学校長会議が開催され岡部文部大臣は訓示で、今次大戦は国民精神の戦いであり、 科学戦である旨の発言が発せられる。同5月28日官公私立医専・歯科医専校長会議にて、予防医学、軍陣医学、臨床実習の時間を増やすように指示がある。
・澤瀉は、医学概論(医学哲学)の講義を通して医学理論の哲学的考察に よ り、この頃「医学の哲学」を構想する(佐藤 2011:117)
・気と体の関係(澤瀉 2007:219)
・1944年10月5日の講義が、『医学概論——科学について』の序論の内容。大阪の創元社の谷口正元より出版の働きかけがある。
・この年の後半から、米軍機の攻撃が激化する。
松江高等学校卒業後、京都大学医学部入学、1か月程度の講義の後、舞鶴 港で港湾荷揚げ作業に従 事、そのまま終戦(敗戦)を迎える。
1944

・1944年の11月〜8月出版内容につきクレームがつき、出版差し止 めを食う。
・澤 瀉久敬(1904-1995)『医 学概論 第1部科学に就いて』創元社、を10月に出版。初版1万部が売りきれる。佐藤(2011:117)によると、これは当時の医師数の 1割にあたる数字だという。久敬の14才年長の兄は万葉集研究者で京都帝国大学の澤瀉久孝教 授。

1945
ハバロフスク裁判はじまる
妻みゑ子死別。 2 年生の夏休み前の6月、邦人引き上げの「復員船」に乗船する舞鶴で医療助手の募集。医学生でありながら、外科主任(「にせ医者」経験)となる。途中「山澄 丸」に二度乗船する。 この経験は『医事新報』に後に寄稿。山澄丸は、総トン数:6.850トン、速力:12.5ノット、登録寸法:128.0×18.2メートル、建造年:昭和 19年、船の種類:貨物船、主な引揚地:ナホトカ・大連、就航回数:13回、引揚乗船者総数:24.716名。http: //www.geocities.jp/k_saito_site/hikiagesen1.html 中川の結論(述懐)は、中国侵略と植民地への移住がなかったら、戦争と敗戦がなかったら、引き揚げ船で病没する人などはいなかったのではないか、というも の(佐藤 2011:124-125)。
1946

『仏蘭西哲学研究』創元社
・京都帝国大学で医学概論の講義をおこなう。中川米造と高橋浩は、澤瀉の私邸に訪問する。

中川は澤瀉久敬『医学概論第1部科学について』を読み、私淑し、やがて 澤瀉を訪れ師 事することになる。京大内に「医学概論研究会」を創 設。「醫学概論の必要性」『芝蘭會雑誌』。
1947

大阪帝国大学法文学部の創設[翌年、新制大学文学部に昇格]
・澤瀉は高橋により『芝蘭』に「医学概論の三部門の有機的関係について」を執筆する(3月)


1948
医療法(昭 和二十三年法律第二百五号)
・3月『医学概論——生命について』創元社
・旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校などを統合し、 文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部の5学部と一般教養部からなる新制大阪大 学が発足。
・「日本医事新報」、医学を語る座談会124号→『医学と哲学』に収載。

京都大学医学部(耳鼻咽喉学)卒業。同年、結婚。
1949

『医学と哲学』
5月耳鼻咽喉科医局に入局[志願医員助手→志願医員]、10月に助手 (耳鼻咽喉科)に採用される。同 50年9月医師免許取得。
1950
『細菌戰用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人 ノ事件ニ関スル公判書類』公刊。
荻野和子と結婚

1951

・5月『医学概論——科學について』『医学概論——生命に ついて』創元社
9月保健診療所に配置換(〜1954年2月)「青年科学史家集団」が形 成され、青木靖三、広重徹、坂本賢三[吹田事件(1952年)に参加]、荻原明男、山田慶児、中岡哲郎、後藤邦夫らと共に中川はこの集団の活動に参加(中 岡 2001:62)。 1952

大阪大学文学部教授(哲学哲学史第一講座) (澤瀉はS28年と記載するがこれは間違いか?)(澤瀉 1981:229)
1953


8 月大阪大学医学部講師(衛生学講座)に就任/1953年澤瀉久敬が大阪大学文学部教授に就任。澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき, 1904-1995)が1941年より開講した大阪大学医学部での医学概論の授業に参加していたものと思われる。これ以降、中川の自称する専門分野は医学 概論となる。当時の職務命令書によると、実際に[大学院]授業担当になるのは1956年4月からであり、所属教室は、生理学第一教室である。これは澤瀉久 敬と親交の厚かった生理学第一教室の久保秀雄教授[在任1937-1966]の計らいによるものであろう[関連リンク]。ではこの間、中川が何をやってい たのか?——少な くとも1955年8月までは学位論文の実験・執筆に勤しんでいたのだろう。また学位取得後は、澤瀉や久保ならびに梶原三郎医学部長[衛生学教授で丸山博 (1909-1996)の前任者在任1952-56;梶山の生 没1895-1986]との良好な関係をもちながら医学概論にむけての本格的な勉強をしていたと思われる。私(池田)も中川がこの頃を回顧して「当時、随 分勉強させてもらった」旨の発話を聞いたことがある。
1954
中川米造、大阪大学医学部講師(衛生学講座)に就任。同年、澤瀉久敬 は、大阪大学文学部教授に就任。


大阪大学大学院医学研究科生理系専攻教授を兼任。
『科学入門——ベルクソンの立場にたって』
8 月24日付で医学博士の学位(論題 Relation du Systeme Nerveux Vegetatif et de L'equilibre - Essai d'une Synthese Psychophysiologique. 旧制 学位記番号 3485)を京都大学より授与されている。生理学専攻の授業担当を正式に任命される1年前に「神経学の理論的問題」の標題 で医学概論特論の授業担当している。これは1955年に新制大学院が発足したため、医学概論がその主科目のひとつになったか らと言われている。(1949年に新制大学の発足されたので年次進行で6年後に医学研究科の新制大学院は発足か?)[百年史 p.235]。
1955
7 月、日本共産党第6回全国協議会(六全 協)で武装闘争戦術を放棄する。森永砒素ミルク事件が 発覚(現在の表記では、森永ヒ素ミルク中毒事件)1969年12月以降の裁判闘争を支援した丸山博研 究室と関わることになる。丸山研究室 のこのサークルは「森永ヒソミルク中毒追跡調査会」と呼ばれる[百年史 p.232による]。丸山博は、衛生学教授に赴任してから4年後の1962年に、講義おいて森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げるようになる。[中岡 (2001:62-63)によれば、砒素ミルク事件へのコミットは、六全協ショッ ク以降の科学史家としての生活と意識の建て直しであったと考えられると指摘]。

4月生理学専攻の授業担当を正式に任命される。この年の医学概論特論 テーマは 「形態学と機能論の論理」。


1956
6月16日大阪北逓信病院で生まれる。
医学概論特論「病者論と医師論」(澤瀉)

1957

医学概論特論「社会医学の基礎的問題」(澤瀉)
(梶原三郎の退官の後に)丸山博(1909-1996)衛生学教室の教 授として赴任
1958

医学概論特論「健康の科学としての医学理論」(澤瀉)
医 学概論 ——医学について』東京創元社
中 川米造、イアゴ・ガルドストン(Iago Galdston, 1895-1989)『社会医学の意味』を法政大学出版局より翻訳刊行する。「社会の中で病む個体の、感性的な救済への要請は、非合理的と言える」「この ような、非合理な人間の主体性を、科学の名の下に提出し、実践的に解決しようとするもの、それが社会的ないし社会学的ということに他ならない」(中川 1973:137)。そこから佐藤は、中川医学概論(医学哲学)は、患者中心の医療を説いたのではなく、「医学を語る・見る・関わる主体として患者側に 立っている主体」であると喝破している。
1959
(3歳)この頃、小児結核に罹患。母は後年父が僕に罹患させたと怒って いた。
澤瀉久敬、大阪大学より医学博士授与(内容は「医学概論」の著作)
日本科学史学会の医学史分科会(大阪)が丸山博教授[衛生学、在任 1958- 1973]のもとで発足、翌1961年より『医学史研究』の発刊がはじまる。この時、おそらく宗田一と知己になる(→「医療と神々」)。医学概論特論「理 論生物学」
1960
1月19日、日米相互協力および安全保障条 約(新安保条約)調印。5月20日【60年安保】衆議院本会議、日米新安保条約を強行採決。全国の大学で60年安保闘争が起こる。新安保条約は6月19日 に自然承認される。

医学概論特論「医学思想史」
1961
豊中にある稲荷幼稚園に入園、その後、西吹田幼稚園に転園。
京都大学より文学博士号
丸山博は、衛生学教授に赴任してから4年後の1962年に、講義おいて 森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げるようになる。
1962



1963
(7歳)11月22日JFK(すなわちケネディ大統領)暗殺。NHKの 朝の番組スタジオ102で野村泰治(1922-2002)アナウンサーが 「米国から衛星中継の第一報は大統領の暗殺という悲しいニュースからお伝えしなればなりません」と喋っていることが今でも記憶に残っている。

東パキスタン(バングラディシュ)調査旅行。『医学の弁明』。解剖学教 室の小濱基次教授は1964年〜1967年にかけてタイ、マレー、東パキスタン、インド、アッサム、ネパールで人類学調査している。助教授は欠田早苗 (1931-)
1964
(8歳)東京オリンピック。小児結核罹患は4,5歳ごろには治癒してい たが、レントゲン検査で肺に石灰化した「影」が映り小学校の間、毎年、病欠を取り、母に北逓信病院に連れて行か れた。天六駅から市電に乗った記憶がある。また、母は天神橋筋商店街での買い物が好きで、病院後には付き合わされたが、これには退屈して辟易した。

助 教授に昇進(衛生学講座)。医学概論の担当ポストは単独であったため研究室は、衛生学教室(丸 山博[1909-1996]教授)に附属するかたちで処遇される。丸山と共に「森永ヒ素ミルク中毒症」の追跡調査(=「14年目の訪問」1969年頃?) をはじめる。『日本科学技術史体系・医学1』日本科学史学会編、第一法規、1965年
1965

3月 生理学第一教室の久保教授の退官。「医学概論」の世話教室は衛生 学教室となる。澤瀉は大阪大学文学部長(同、評議員)に就任。
東アフリカへの調査旅行
1966


日本科学史学会編集の『日本科学技術史体系・医学編1.2』第24・ 25巻を丸 山と中川が編集担当し出版(第一法規)。この頃、大阪大学医学部学生自治会・医学教育研究委員会は『医学教育』を発刊し続けていた。岩間吉也の医学研究科 改革論(1967)
1967

医学部において最終講義「大阪大学と医学概論」。文学部での最終講義 「個性について」。澤瀉久敬・大阪大学を定年退官、南山大学教授 に就任。

1968
(12歳)メキシコオリンピック:走り幅跳びでとんでもない世界記録を 打ち立てたビーモン選手に感動する。開催の10日前の10月2日の大学生への大虐殺「ト ラテロルコの夜」については知る由もなかった。

森永ヒ素ミルク中毒事件を、丸山教授とともに調査。
1969
この年、東大当局から依頼を受けた警視庁が1969年(昭和44年)1 月18日から1月19日に封鎖解除を行った東大安田講堂攻防戦はTVにより (その理由は不詳だったけど)大きな影響をうけた。3月 - 吹田市立第二小学校を卒業、新設された吹田市立第六中学校に入学する。開校当初は、校舎建設が間に合わず豊津中学に間借りしていた。このころ中学から近く の垂水神社も遊び場になり、後の垂水源之介の名前の由来になる。
松井喜代子と結婚、西宮に転居。
中 川『医学をみる眼』(→治療者の類型論、時代にドミナントな医学の歴史的変遷タイプ)和田心臓移植を告発する会 編『和田心臓移植を告発する——医学の進歩と病者の人権』保健同人社。「本当は医学と科学は違うものなんですが、医師にはそれを、同じ次元で考えている傾 向があると思うんです」(和田心臓移植を告発する会 1970:218)。
1970
3 月〜9月 - 大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(大阪万博, EXPO70)に地元民の中学生に夥しい回数をもって訪問し、往時の「科学技術信仰」に心酔する。中学2年生の時に若い数学の坂東教諭が担任になり憧れ る。陸上部に入部して、もっとも精神的影響をうけた体育の野口先生と出会う。
『医の倫理:医学講演集』誠信書房
妻和子死去。
学 部内に新設された教育企画調整室の創設に関わり、5期10年間副室長を務める。教育企画調整室という医学教育カリキュラムの改革部局が設置される背景に は、1960年 末に絶頂を極める大学紛争を形成する流れのひとつに無資格医の医局労働搾取に関するインターン闘争[ca.1965-1968]があったからである。 1970年には丸山博教授が代表になったアーユルヴェーダ研究会が発足する。丸山が 退官した73年以降は、中川研究室で1984年まで月例研究会が開催されるようになる。
1971
野口先生が担任になる。野口先生は熱血漢のよい先生だったが「鬼の野 口」といわれて、陸上部ではシゴかれた。
・第四回世界医学教育会議(コペンハーゲン)に日本医師会の代表の一人 として参加。医学概論(iatrogie)の必要性について講演。

1972
 吹田市立第六中学校を卒業。4月大阪府立春日丘高等学校普 通科に入学。入学3か月後に勧誘に負け陸上部に入部。ハードル競技をはじめる。

丸 山博教授退官。丸山は1969年以降、森永ヒ素ミルク事件の中毒後後遺症調査 会活動のため、小児科学教室と反目関係にあったため名誉教授の称号を与えられなかったといわれる[この挿話はよく語られるが事実関係は不詳]。12月「森 永ミルク中毒の子どもを守る会」(当時)、国、森永乳業の三者により「確認書」が締結される。
1973
陸 上のハードル競技に芽が出ず、ハンマー投げに転向したい旨を顧問の小川教諭に訴えるが、痩身の体ゆえ許可が与えられなかった。月に一度の部内記録会でエン トリーが認められたために、ハンマー投げのパートの佐々木先輩に秘密特訓をうけて、おなじ投擲セクションの岡本君の記録を破り、顧問の許可を受ける。それ 以降、ハンマー投げの練習に勤しむ。高二の生徒会の書記に選出されて、二度の校内投票で「制服自由化」を勝ち取る。
・日仏会館創設50周年を記念して、ベルナール・フランク、中村雄二郎、澤瀉久敬らにより日仏哲学会が創設され、初代の会長の公園を澤瀉がお こなう。
「森永ヒ素ミルク中毒訴訟」の原告側証人として出廷。(2年後の『医療 的認識の探究』巻末に「付録・ヒ素ミルク中毒訴訟の証言メモ」として収載)『医療的認識 の探究』参照。4月「ひかり協会」(公益財団法人ひかり協会)設立
1974
高 校総体のハンマー投げで近畿大会の6位に入賞し夏の全国大会(福岡)に出場するが予選にて敗退。当時は新幹線は岡山まででそこから在来線の特急に乗る。大 阪選手団の先頭の入場行進で皇太子(現在、上皇)夫妻にヒトラー式の経験をする。遠方の皇太子には、後に青年海外協力隊壮行式の御接見とその後のパーティ で間近に見ることができた。
・古稀記念論文集『フランスの哲学』全3巻、東大出版会。

1975
3 月大阪府立春日丘高等学校普通科を卒業。岩手大学ならびに帯広畜産大学を受験するが落第、一年間の浪人生活をする。この時期に、友人の兄(京都大学文学部 学生)の影響でハイデガー『存在と時間』を知る。北海道大学の恵適寮のTVドキュメントをみて北海道大学に志望を変える。
『九鬼周造全集』の編集委員
『医療的認識の探究』
1976
北 海道大学受験に失敗し、4月鹿児島大学理学部生物学科に入学。5月26日ハイデガーの訃報を知る。音楽鑑賞会というサークルに入部し、石飛先輩と知り合 う。石飛先輩の誘いで法文学部に赴任したばかり田村克己講師と知り合う。田村先生との出会いが、自分の転職が文化人類学であること知らしめてくれたが、そ のことを自覚するのは、さらに12年後であった。

朝 日新聞社編『現代人物事典』で小坂富美子(1947- )が「中川米造」の項目を執筆(1976年ごろ)公刊する。同年に出版された『医の倫理』にて、近代医学の論理的帰結としての人体実験は必然的であると の見解に到達する。それは、近代医学の論理と、古典的な倫理観(=医学の進歩は犠牲を必要とした)の組み合わせによる帰結であり、その犠牲者は、権力を持 たない者、「障害者」「社会的弱者」、被支配的民族などが、インフォームド・コンセントなしにおこなわれた(佐藤 2011:122)。大阪大学アメリカ人講師のフィリップ・カール・ペーダ氏が「ジーンズ姿の女子学生の受講を 「作業着であり、女性にはそぐわない。もっとエレガントであってほしい」という理由で教室から締め出し」たという。学生側は抗議し「ペーダ氏が大阪大学を 退職する形で収束」する(出典はこちら)。 このことに関して、1980年当時の中川は、私たち(池田ならびに佐藤純一)に、問題の当時、ジーンズでできたスーツを購入し、抗議の意味で、医学部に出 勤してきたという。その時の中川は、同じデニム生地のスーツを来ていて、環境医学の教室員が中川に質問した際の出来事である。
1977



1978
冬より、宮崎県日南市の京都大学霊長類研究所附属観察施設(幸島)でニ ホンザルの個体識別調査を開始する。メンターは鹿児島大学理学部の柿沼好子教授と宮崎大学教育学部岩本俊孝講師。


1979

※中川の思い出によると(澤瀉編『命』p.117)、中川の教授昇進を 喜び、久敬(76歳)は中川夫妻をフランス料理屋に招待する。
大 阪大学大学院医学研究科に修士課程が新設されることに伴い、衛生学教室を改組する計画があり衛生学教室の教授に就任(54歳)——当時は衛生学講座で環境医学になる のは2年後の1982年——に就任する(旧・衛生学教室教授は後藤稠[ごとう・しげる, 1923-1997])。大阪大学から医学概論教室が消失する(佐藤 2011:113)。(澤瀉が書いたといわれる)「医学概論」の木札があり、中川はそれを大切にする(佐藤 2011:115)。
・その際に、環境医学・医学概論教室の名称を希望したが、医学概論は助教授ポストであり(野村拓がその後を継ぐ)、認められず、中川は「環境医学・集団社 会医学概論」という名前で登録を許された。ただし、教育の対象は修士課程の学生であり、医学部の学生が教育対象から外されたので、中川はそのことを、澤瀉 には話さなかったことを述懐している(『命』p.118)
1980
鹿児島大学理学部生物学科卒業。大阪大学大学院医学研究科医科学修士課 程に入学。同年夏から1981年春にかけて大阪大学蛋白質研究所代謝部門にてラットの視交叉上核の補酵素の代謝の可視化に関する光学的分析手法について研 究する。
4月、佐藤純一がはじめての博士課程の大学院生になる。佐藤は1982年以 降、木曜会あるいは木曜ゼミと呼ばれる中川研究室のゼミナールの実質的運営者となり、1988年7月に発足した医療人類学研究会[中川会長][資料]発 足・発展・休会を経て、医療文化研究センターにおいて若手研究者および市民向 けゼミナールを続けていた[2007年3月末現在/現在は消滅し、医療社会学研究会が、その活動を継続しています。2014年現在]。1980年公刊され た『医療的行為の論理』の「医療的人間論」において、人が医療者になっていゆく 過程を、レヴィ=ストロースが引用するフランツ・ボアズの「ケサリード」を範にとり、科学的知識の習得ではなく、試行錯誤を繰り返しながら「ある範囲の治 療法」に確信をもつ方途にしかないと述べる(佐藤 2011:127-128)。佐藤によると、このような確信は、中川が自分自身の臨床経験を語る時に、自分の研修医時代の経験はほとんど語らず、1946 年6月からの舞鶴とそこから往還した復員船乗船時代の「にせ医者」ばかりを語ることにきたのではないかと推理している。同年公刊された『医療的行為の論 理』の「医療的人間論」において、人が医療者になっていゆく 過程を、レヴィ=ストロースが引用するフランツ・ボアズの「ケサリード」を範にとり、科学的知識の習得ではなく、試行錯誤を繰り返しながら「ある範囲の治 療法」に確信をもつ方途にしかないと述べる(佐藤 2011:127-128)。佐藤によると、このような確信は、中川が自分自身の臨床経験を語る時に、自分の研修医時代の経験はほとんど語らず、1946 年6月からの舞鶴とそこから往還した復員船乗船時代の「にせ医者」ばかりを語ることにきたのではないかと推理している。医師は、自分がきち んと治療できな い、あるいは自分の力で患者が本復したという確信を持てな いにもかかわらず、患者に科学的知識をもつように振る舞う間にジレンマがあることを指摘している。そのため、科学的知識に強い信念をもつ医師が自分が病気 になった時には(一般の人よりもなお逆に)「みじめさ」を感じるのではないと主張する——同じく「医療的人間論」より。佐藤は、この時期(1980年前 後)であるとは明示しないが、澤瀉が医学概論を Philosophy of Medicine と翻訳していたが、中川はそれを Medical Humanities あるいはそのまま外来語として「メディカル・ヒューマニティズ」と呼ぶようになったという。蒼穹社社主の野島さんは、中川医学概論に共鳴して雑誌『メディ カル・ヒューマニティ = Medical humanity』を発刊するが、その時期は1985年である


1981
1981年年頭蛋白質研究所から中之島にある中川米造研究室の門をたた く。同年11月、森村誠一『悪魔の飽食:「関東軍細菌戦部隊」恐怖の全貌! : 長編ドキュメント』を公刊。


1982
大 阪大学大学院医学研究科医科学修士課程修了。修士論文「民間医療の医療人類学的研究—都市における信仰治療行動の事例」は前年から開始した日蓮宗治療儀礼 に関する社会調査をもとにしたもの。同年博士課程(社会医学専攻)に入学。『悪魔の飽食』の中国語訳「 食人魔窟 : 日本关东军细菌战部队的恐怖内幕  / 森村诚一著 ; 祖秉和,唐亚明译,群众出版社 , 1982」が公刊。


1983
同年秋〜冬にかけて国際協力事業団(現国際協力機構)(JICA)青年 海外協力隊(JOCV)隊員に応募する。本人はアフリカあるいは東南アジアでの活動 を希望したが、医学研究科のキャリアをふさわしい唯一の募集(ホンジュラスにおけるマラリア生態学)にのみ合格。合格後に大阪大学微生物病研究所ならびに 住友化学にて都合1か月の研修を受ける。同年暮れにJOCV広尾研修所に入所。
妻喜代子死去(久敬 80歳)。
1984
年 頭、JOCV駒ヶ根研修所に移動。3月にホンジュラス共和国に派遣(同年4月より休学)。1か月後に同国保健省ベクター制御局に配属。首都テグシガルパに 勤務。グリコ・森永事件(讀売新聞社編集部に「森永 まえに ひそで どくの こわさ よお わかっとるや ないか」を記載する「挑戦状」が届く)。


1985
春から夏前にかけて保健省に転属願いを出し、疫学局に配置換え。同国コ パン県ドローレス町への居住をはじめる。8月12日日本航空123便墜落事故。
日本学士院会員に推挙。
日本保健医療行動科学会の創設、初代会長に就任。医療人類学者の波平恵 美子教授とのシンポジウムなど増える。 1986
1月28日米国NASAチャレンジャー号墜落事故。夏にトヨタ財団研究 助成に応募し、秋に採択通知を受ける。しかし、協力隊の任期が満了するまでの助成開始の延期を申請。

医学部医学倫理委員会が設置、委員となる。
1987
春に帰国するも、秋にホンジュラスに戻り、陸路でグアテマラ共和国に出 発。

医療人類学研究会編『医療人類学』発刊(〜1996年)。「退官記念講 演」
1988
春に帰国。同年6月に医療人類学研究会を佐藤純一氏とともに立ち上げ る。秋、日本学術振興会特別研究員(DC)を受験する、面接で同時期に受験したのが上田紀行氏だった。

大 阪大学を定年(63歳)退官し、滋賀医科大学教授[実際は88年より就任し、大阪大学教授 は併任となっていた](滋賀医科大学副学長[当時の学長(1987-1995)は佐野晴洋(1926-2017)佐野は中川の京大医学部の同窓])。 1989年大阪大学名誉教授。1月7日裕仁(昭和天皇)崩御。病いの視座 : メディカル・ヒューマニティーズに向けて / 中川米造編。
1989
3月末、大阪大学大学院医学研究科博士課程社会医学専攻を単位取得済退 学。日本学術振興会特別研究員(DC)として国立民族学博物館外来研究員として勤務を始める。メンターは吉田集而教授(46歳)。学振奨励研究で「ラテンアメリカ地 域を対象とする医療人類学の基礎的研究」で研究助成をうける。ここから私の科研稼業渡世生活(学振リスト図示例)がはじまる。

明仁即位の大嘗祭(11月22-23日大嘗祭は即位の礼[11月12 日]の一環)挙行反対の署名をす。
1990


医 学会総会(京都:岡本道雄(Michio OKAMOTO, 1913-2012)会頭)において「医学史展示」委員長に就任する。七三一部隊記録展示を企画するが他の委員の非協力にあり、写真の提示にのみ終わる。 滋賀医科大学を退官した(65歳)。財団法人ひかり協会理事長に就任。大阪国際女子大学(1994-96) 、仏教大学(1996-死亡時まで)教授を歴任。
1991
4月民間のNGO医療文化研究センター主任研究員(センター長:中川米 造大阪大学名誉教授)を名乗る。「文化現象としての医療」編集プロジェクトはじまる。

「病 気の理解のされかたや医療の形式を文化現象として捉える立場を医療人類学というのだが、 その 視点から、現代医療を切り取る言葉を選んで注解を試みたものが本書である。それぞれは医学一般用語よりも社会的・文化的な意味の強い言葉であるので、異論 も多いであろう。しかし、そうした異論はコミュニケーションの前提である。今、ますます医療の社会性が問われようとしているときである。長らく密室状況に 閉ざされていた医療世界を開くための一助として読まれることを、期待してやまない」——中川米造「刊行によせて」より
1992
4月医療人類学研究会編『文化現象としての医療』メディカ出版、 1992年。東日本学園大学教養部助教授として就任。


1993
同年の年頭から東日本学園大学土産田照夫事務局長(当時)から依頼を受 けて医学部の併設されていない同大学名に「医科を付すことが可能か?」という宿題をうけて「医 療なら可能である旨の報告書」を書き回答する。


1994
4月東日本学園大学は北海道医療大学に改名。4月熊本大学文学部地域科 学科文化人類学講座助教授(上司は櫻井哲男教授)。
2月26日死去

1995


仏教大学教授に就任。医学史研究会代表幹事に就任。7月7日宗田一死 去。10月10日丸山博死去。
1996


佐 藤純一「(中川)先生のこれまでの医学概論は、多くの人を変えましたか?」中川米造「わからん......でも、種はまいた。これからは、あたたちの仕事 だ」9月30日腎癌摘出後の肝転移が発見され、それにより自宅にて家族に看取られながら死亡。10月6日NHK,ETV特集「病と誌をみつめて——医学者 中川米造の遺言」
1997


友吉唯夫「中川米造先生の医学観:思い出と追悼」『からだの科学』 199号:94- 97.石原理年、石田純郎、中島憲子「追悼・中川米造大阪大学名誉教授」『医譚』復刊73号 Pp.6-9, 1998.
1998



1999
同年夏すぎから2YK問題が騒がれる。


2000
夏に熊本大学文学部の出版助成に応募採択される。この年の暮れはグアテ マラで21世紀をむかえる。


2001
3月『実践の 医療人類学』。12月国立民族学博物館時代のメンター吉田集而教授が脳幹出血で倒れる(51歳)。

Margaret Lock, Twice dead : organ transplants and the reinvention of death, University of California Press (2002)において、Margaret Lock教授は、その書を「故中川米造に捧ぐ」と献辞する。
2002
10月熊本大学文学部地域科学科文化表象学講座教授/熊本大学大学院社 会文化科学研究科教授・併任(文化政策論専攻)


2003



2004



2005
4 月より大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)・臨床部門・教授。ただ し授業カリキュラムは熊本大学に組んでいたので、併任教授として 1年間認められた。自弁でも授業担当すると志願したが、そのほとんどは免責されて、集中講義1コマで勘弁してもらった。このため熊本大学文学部には大変感 謝している。


2006



2007
8月24日柿沼好子鹿児島大学名誉教授死去(享年75歳)


2008


11月7日「医療の原点を振り返る:癒しの医学」(滋賀医科大学図書館 「中川米造回 顧著作展:”医”とは何かを問いつづけて」10月30日〜11月30日)
2009



2010
6月22日国立民族学博物館時代のメンター吉田集而教授肺炎にて死去。 千里会館にて師の死顔を拝む。享年60歳


2011



2012



2013



2014



2015
8月から 大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)・センター長


2016
6月から大阪大学COデザインセンター・社会イノベーション部門教授


2017



2018



2019



2020
4月大阪大学COデザインセンター長


2021



2022

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