トリック=詐術の倫理
Ethics for Quack Doctors
Doctor monkey examining an owl. Detail from the Book of Hours, Arras ca. 1296-1311 Cambrai, BM, ms. 87, fol. 138r.
解説:池田光穂
虚偽(偽医者・薮医者)の倫理的問題:
Ethical Issues on Quackery
●誰がそれをトリックであると表明するの か?
レヴィ=ストロースのシャーマニズム複合(p.197,→p.184)[=呪術力への信仰には、(1)呪術師自身の自覚、(2) 患者や犠牲者が呪術師に対して抱く信仰、(3)公衆の信頼と要求、という3つの相補完する要素がある](ページは『構造人類学』)になぞらえて考える と、トリックの認定には次の3つの種類が考えられる。
(1)本人ならびに側近の申し出によるもの[自分で暴露し告白する]
(2)患者が「治療効果」が無かったことを理由に告発すること
(3)公衆=集団や世論がそれ以外の尺度から(物的証拠などの科学的証明や映像による分析など)それを告発すること、が考えられ る。
●具体的にどんなトリックが使われるの か?(従来の指摘)
隠し持った雲母片で患者の身体に傷をつける。あらかじめ脂肪片を手に隠し持っておき、それを摘出病巣と称する。そのようなトリッ クは、どのような“科学的方法”によって暴露されてきたのだろうか。それは組織片そのものの病理学・組織学的分析、血液型の照合、X線撮影、血液の生化学 的分析などである。
●クワキウトル・インディアンの呪術師の 手管
「失神を装う術。ヒステリー発作の真似。呪歌の習得*。みずから吐瀉する技術。聴診や助産術に関するかなり的確な概念*。『夢み る人』とよばれるスパイの利用法。その任務は私的会話を盗み聴いて、誰かがかかっている病気の原因や症候について何ほどかの情報を秘かにシャーマンにつた えることである。」(p.192)。あるいは、綿毛の房を「口の隅にかくし、潮時に自分の舌をかむか歯茎(ハグキ)の血を出すかしてからこれを血まみれ にして吐き出し、おごそかにこれを病人と居並ぶ人たちに見せて、これが、彼の吸い出しとその他の操作によって患者の身体から追い出された病原体だというの である」(p.193)。これらは総じて「無言劇と奇術と経験的知識の奇妙な混合」(p.192)とみなせる(『構造人類学』)。
【*註から得られる教訓】[呪術師が使う技術をトリックとそうでないものに分ける作業には、それらが治療において効果のないもの とあるものとを(暗黙の内に)区分していることに他ならない。[人類学者の倫理的態度という観点からは]トリックとそうでないものという判断を中断して、 呪術師やシャーマンの治療の効果というものは全体的に論じなければならないことになる。もし、そのような立場を認めるとすると、今度は(生物医学における 効果判定のように)要素還元的に分析する立場は放棄せざるを得ないようになる。あるいはより正確に言えば、二つの体系の間に共通する評価体系を持ち込むこ とには限界があることを認めざるを得ない。]
●プラシーボ効果による治療である場合そ の行為は正当化できるか?
心霊手術師の派手なパフォーマンスによって患者の状態が改善されたことを考えてみよう。非合理的な治療に倫理を持ち込むことはで きないという考えと、科学的に辻褄があった場合の倫理について考える、という2つに分けられる。
(A)科学的観点からみて非合理的な履行内容を要求する契約そのものが無効であるので、合理的な契約における倫理原則が成立しな いという主張が考えられる。
(B)手術が超自然的な“奇蹟”以外の要因でおこったとすれば、それは科学的に辻褄が合わねばならない。そこで考えられるのが、 心霊治療を行なったことによる、(α)自然治癒か、(β)プラシーボ効果、である。この場合、心霊治療を受けたことは治癒の契機にはなったが、直接治癒に 関わったのではない。たまたま偶然に自然治癒したか、あるいはプラシーボ効果を生んだのである。従って治癒したのは自分の身体そのものなのである。
(α)自然治癒の場合。心霊治療と因果関係はなく、たまたま偶然に生起したので、倫理的な問題は起こらない。強いて挙げるなら ば、手術で治ったと主張する術者が患者を欺いていることが道徳に反する事柄である。
(β)プラシーボ効果の場合も同様である。患者が治療を受ける以前から“奇蹟”を治療者に期待して手術を受けたわけであるから、 治療者は奇蹟をおこなったことを患者に証明する(ないしは納得させる)ことができない場合、患者に対して騙した態度をとったことになる。手術師は、患者が 騙されることを知って手術を施行したわけである。
しかしながら、これらの道義的責任問題について追求される潜在的可能性は(患者が治癒を感じなかった場合よりも)はるかに低い。 すなわち、現実的に倫理問題がでることは極めて稀である。だが、騙されることがプラシーボ効果を生み出すための必要な条件であったとき、手術者はその虚偽 を正当化できるだろうか?、「手術は虚偽を行なうことであり、その虚偽のプラシーボ効果によって治癒がもたらせるのだ」と“科学的”に主張する術者は実際 には存在しない。法廷に立った手術者やその弁護人は、別の種類のレトリックを用いる[→●法廷での弁明、を参照のこと]。
●トリックそのものを悪いものと考えない ケース
R・ローズが調査したオーストラリア・アボリジニーのシャーマンは、トリックを指摘された時に「効き目があるからさ」と答えたと いう(「マジカルヒーラー」pp.379-380より孫引)。この場合、トリックを行なうことの道義的責任をシャーマンは感じていない。また患者の側に も治療儀礼の際にトリックが行なわれることを知っている場合もある。(この場合、その社会においてそれはトリックであるというコンセンサスは得られていな い[と推察することができる]。それを“トリック”と認定して質問を発したのは、他ならない外部からきた調査者であるからだ。)
すなわち、トリックという言語は、<誠実>で<オーセンティック>な行為があるという前提に立たないと使用できない。その倫理的 に対極にある<不誠実>で<フェイク><フォールス>なものがトリックだからだ。
●虚偽は「信頼」からの裏切であると解釈 すれば‥‥
心霊手術の患者が、自分におこなわれた治療が超自然的な作用によるものであったと信じていたとき、それが虚偽であることが分かっ た(誰にとって?/どのような方法で?)とき、手術者は患者を裏切ったことになるのか? 患者は裏切られたと感じるのだろうか? 経験的事実からすると、 そのような事実の発覚は、手術師の名声を著しく損ない、クライエントも(そのインパクトの大きさに応じて)減少する。だが、手術で“治った”という確信を もった元患者は、その事実と現実の整合性に関連する疑問に対して何等かの答が求められる(その疑問とは、その時の患者であった自分の身にいったい何が起 こったのか?、ということである)。
虚偽であることが発覚しても変わらない支持が得られることこともある。非常に信頼を受けていたと言われるニセ医者の場合、発覚後 も元患者から“ニセ医者でもかまわない。もう一度、診てもらいたいから連絡先を教えてください”(高田,1989:26)という要請——電話での問い合わ せ——が入ることもある。
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