看護教育における文化人類学の役割
The role of cultural anthropology in nursing education
池田光穂
看護人類学とは看護研究における人間研究の探求の一分野であり、ケアの普遍的
側面と、ケア行動の文化的修飾に関する調査研究をおこなう。まず看護人類学の学問的定義や
他の学問領域の関係を解説した後、いのち、くるしみ、出産、排泄、痛みの普遍的要素と文化的要素の相互連関について紹介する。後半は、心霊手術、近代医療
の歴史、感染症の隠喩、心身症、臨床コミュニケーション力など、従来の近代看護学から抜け落ちたテーマを通して看護学を逆照射する。 ・看護人類学(Nursing Anthropology, Anthropology of Nursing) ・看護人類学入門(Introduction to Nursing Anthropology) ・看護人類学から人類学的看護へ |
出典:Chrisman,N.J."The role of anthropology in nursing education", Practicing Anthro- pology,10(2),p.6 and 19,1988
看護分野における人類学的な諸知識の重要性が日本においても認識される様になってきた。そのために特に米国で発展した「看護における人類学」 とその社会文化的背景を知ることは重要である。現実にこの領域はすでに20年近くの学問的な蓄積があり、米国内での多民族に対する個別の看護教育や海外援 助の場に利用されて10年近くの歳月が経っている。今回紹介するのは、筆者の人類学・看護教育の実践の中からこの分野の基礎的な概念枠組みを簡潔にまとめ たものである。
看護における人類学の主要な役割は、人間の総体へ看護の視点を取り戻すことである。つまりその対象は機能不全の臓器系や疾病過程ではなく、全 体的な人間なのである。さらにケアすることに人類学的な含みを持たせることでもある。よく言われるように、ケアは看護者の強力な感情である。しかし看護者 は患者の多様な信条や行動を受け入れるかのごとく口先だけのサービスをおこない易く、現実の実践の場において患者の信条や行動を受け入れるのは極めて難し い。このような批判は特に人類学の専売特許ではないが、その障害の原因となっているのは現代の生物医学的な(デカルト流の)思考様式であると指摘される。
看護に携わる人々に対して重要な点は「文化的な多様性の受容」である。人類学は人間の研究に際して全体論的ならびに比較論的なアプローチを 採ってきた。全体論的な視点は看護における人間全体を看るという点と繋がり、看護に携わる人々に人類学が要請する比較論とは「文化に感受性のあるケア」で あれということである。その目的は看護者自身が持つ自民族中心主義(つまり、自分が属する文化に対して優越性を持ちそれ以外の文化を偏見をもって過小評価 すること)を減少させることである。これは特に異文化看護において有効になるばかりでなく、看護の局面において看護者自身が体験する反応(怒り、笑い、 ショック)の中に正常ではあるが同時に危険なこの感情が現われることを看護者は自覚すべきである。
自民族中心主義の議論はさらに患者が属している文化と社会に関心を向けることになる。これは題目だけの原則論ではなく、患者という具体的実体 を通して理解することである。ここには人類学者の民族誌的なアプローチを看取ることも可能である。またこの議論は疾病(disease)と病気 (illness)の区分に明確にし、専門家の問題としての病(sickness)と人々の経験としての病の取り扱い方の違いを了解すべきである。そこか ら導き出されるのは様々な病気の信条体系(illness belief system)の観念であり、文化的に異質のヘルスケア状況の中で看護者にどのようにそれらを学ばせるかという関心である。教育の場において重要なのは、 ステレオタイプな民族医学を教授するのではなくその民族集団が意味を付与する病気の一覧を提示することであり、文化的に異なる信条や実践について学生の関 心を持たせることであると、筆者は主張する。看護学生、大学院生、臨床の場、およびコミュニティーにおいて状況に応じた教育のスタイルがあり、「文化に感 受性のあるケア」がそれぞれの場面で重要となる。
人類学の概念、全体論的観点、人間の文化行動に対する柔軟なアプローチは看護の分野において十分受け入れられる素地は持っていると筆者は結ん でいる。 筆者の論述のスタイルは、彼自身のワシントン大学での実際の人類学および看護の教育の経験から出てきたものであり、説得力を感じさせる。それは看護に関 わる教育者でありながら看護実践者ではないという彼の立場が、調査される住民にとってアウトサイダーでありかつインサイダーでもある文化人類学者の立場と オーバーラップするからでもある。
さて看護教育における人類学的な視点は、多民族であり多元化社会である欧米において有効であり、我国においては<異文化である患者>のメタ ファーでしか有り得ないと思っている読者は意外と多いのではなかろうか。しかし評者は、それが異文化概念の乱用であり、文化を共有する文脈にいる患者への 理解の努力を怠るような責任回避になり得るような言説の構造を持つことを指摘したい。そして理論的な探求を怠り、このような浅学な言説を振り回す専門家に こそ、より責任があろう。医師−看護婦関係の文化批判論的な指摘は本誌No.8の本欄で紹介されているが、人類学的な指摘は現状の技術的な改善にも根元的 な批判にもなり得る幅の広いパースペクティブを持っている。そして人類学の理論的な成果を日本における看護の領域にどこまで生かせるかという検討は、今度 は評者自身を含め広く医療人類学の効用を説く研究者に課せられた問題となるであろう。
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第三世界における看護・医療・文化(※内容的に古いので改訂の必要性を感じています)
池田光穂(1982)
(1)医療人類学と看護理論−米国と日本−
米国の医療人類学会には、その設立の当初から医療関係者、とくに看護や地域医療に関心がある研究者が多く参加していた。人類学理論をどのように 看護や地域医療に応用、展開していくのか、というのが主たる問題意識であった。それが出てきた背景には、多民族・多文化のなかで、お互いの価値観を尊重し 共存をしていこうという「多元社会」を目指す米国の社会文化的事情があるように思える。米国の政治や経済が必ずしも「多元社会」にむかって歩んでいるとは 限らないが、看護や地域医療のなかに社会文化的な要因が大きく関与しているという認識を、それらの実践者や研究者たちが共有していることは明かである。 では、日本ではどうだろうか?。「単一民族社会」という幻想が多くの人々にもたれ、民族的な差にたいして無関心を装い、「一元化社会」を形成しようとす る傾向の強い我々の社会。そこでは看護や地域医療の社会的な問題は、医療における文化的現象として理解されるのではなく、しばしば<平等を妨げる>制度的 あるいは技術的問題として捉えられており、それを乗り越えるために、政治的機構の改革やハイテク医療の実施を訴えてきた。だが日本においても、医療の諸問 題が<医療という文化>から由来するものであるという認識は、徐々にではあるが、生まれてきている。その代表は<患者=異文化>論という主張であろう。米 国の医療では現実に多民族の患者を扱うことが起きているのに対して、日本では「医療者のいうことを聞かない」患者を異文化の人間にしてしまおうというので ある。<患者=異文化>論は、患者を社会文化的な集団の一員として文化の問題として理解しようという動機は評価できるが、患者は本来の意味では<同文化の 人間>であり、我々が共有している<医療という文化>に対する配慮が欠けている点でまだまだ不十分である。
(2)文化の翻訳者としての看護者
では、安易な「異文化」概念を捨てて、「人間的な医療をおこなえば看護者と患者は真にわかりあえる」という使い古された主張に戻っていくべきな のか。しかし、このような考えは、看護側の自己規定−「このような看護者でありたい」という理想−を患者側に押しつけることでもあり、医療がおかれた場や 医療そのものがもつ否定的側面に眼をつむることにもなる。(その意味で、先端化する現代医療における臨死の場に、看護者のもつ矛盾が著しく表面化する黒田 浩一郎氏の報告は興味深い)。このことは、現実の看護における相互作用や従来の看護モデルが、<治療者−患者>関係を軸に形成されてきた事実と無縁ではな い。私の提案は、社会文化的な脈絡を重視しない<治療者−患者>モデルという「理論的に精緻な研究」の手を一旦休めて、<医療という文化>をみつめる看護 者という捉え方をしてみようということである。 そのために使えそうな人類学や社会学の理論や方法は充分に用意されている。要は看護にまつわる身近な疑問を問うてみること、なぜ医師のほかに看護者が必要 となるのか、なぜ医師は男が多く看護者は女が多いのか、医師が白衣や聴診器で象徴されるが、なぜ看護婦はナースキャップなのか、など意外と答えられないこ とがたくさんある。いろいろな人たちがこの問いに答えを出そうと試みているが、誰もが納得した見解は少ない。それは外部の研究者だけの観察や批評だけでは なく、内部の人たちの自発的な問いかけや、その両者の共同という作業によって、より明確に把握されるようになることであろう。(そうしてくると<異文化概 念><文化相対主義><参与観察><フィールドワーク>などの、わけの解らない人類学の業界用語も恐れずに足らないものとなるだろう)。
(3)そして第三世界へ
敢えて言うまでもないが、看護は行為である。そして人間的な行為のなかには、必ずと言っていいほど社会的・文化的な価値観が投影されている。顔 の無い抽象的な「看護」というのは、理論家の頭のなかで構築されたものであって、現実の看護は具体的な作業のなかに現われた行為そのものである。そして 「看護」は、医師集団がおこなう狭い意味での「医療」と患者や社会という「文化」の間をインターフェース(取り持つ)する存在である。従って世界の様々 な、医療−看護−文化を観察することは、我々の社会における看護とはどういうものであるかを知る為のよい契機になるだろう。 世界の低開発地域、いわゆる第三世界とよばれる地域の医療は、われわれ開発地域からの影響を受け様々な展開をしている。第三世界の医療をみる我々の眼 は、(a)開発国という立場から対象を<遅れた>ものとして捉え、(b)社会経済的な脈絡抜きの西洋近代医学の有効性を信じるという立場にたち、(c)自 分の生活空間から切り放されたものとして見る、といった偏見によって曇らされている。しかしその偏見を自覚し、より公平な見地を持とうと努力することは無 駄ではない。そこには医療者がいて、患者がいる。それが我々の社会の医療者と同じではないにせよ、連帯ということを妨げる要因にはならない。大切なことは お互いの差異を認めあい、自分たちのいる状況を批判的に知ることである。
クレジット:看護教育における人類学の役割,メディカルヒュマニティー「海外の思潮」原稿,評者:・・・・池田光穂1988年06月29日
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