ディスコミュニケーションの定義と理論
Definition of dis-communication and its theories
解説:池田光穂
◆ ディスコミュニケーションのこれまでの定義
ディスミュニケーションという用語は、和製英語であり、通常はコ ミュニケーションの機能不全あるいは不能の状態を指すときに使われる。例えば「両者のあいだにディスコミュニケーションがある」などと使われる[文献リンク先の野村一夫 (Online)の議論が参考になる]。これをディスコミュニケーション I (ワン)と仮に呼んでおこう。
◆ ディスコミュニケーションについての新しい定義(提唱)
しかし、ここでいうディスコミュニケーションは、コミュニケーションの不全や不能状態のことをさすのではなく、反コミュニケーション、矛盾 コミュニケーション、ゼロ度(あるいは零度)のコミュニケーションということを想定している。つまり、コミュニケーションの概念で捉えられることは、コ ミュニケーションがある/ない、よい/わるい、同一の価値体系のなかで判別される概念をさしている。これに対してディスコミュニケーションは、そのような 数直線上の概念でとらえない、ゼロ度の状態をさしている(下図を参照)。これを先のものに区別して便宜的にディスコミュニケーション II (ツー)と呼んでおこう。
※画像をクリックすると単体で見られます
つまり、ディスコミュニケーション II とは、コミュニケーションがなにもないにもかかわらずあると強弁すること、あるいは機械やネットワークとのコミュニケーションを自分と同じような生命体と コミュニケートしていると錯認すること、あるいは「自分とのコミュニケーション」という(自己言及的な)モノローグ、身体や物体あるいは非物体や「神」や 「自然」とのコミュニケーションなどが、典型的なディスコミュニケーションの事例である。
有名なヤコブソンのパラディグム(隠喩の系列:代置的 substitutive)とシンタグム(換喩の系列:陳述的 predicative)の図式と失語症の関係、つまり前者は相似性の異常(例:指し示したい単語が表現できず、まったく別のもので置き換わったり、示し たい言葉が失われその単語の説明をおこなう)と関連し、後者は単語の異常ではなく、統語の異常あるいは隣接性の異常「失文法症 agrammatism 」(例:かつての電報文のように単語の羅列で適切な助詞が欠けているために文章に滑らかさや正確さが欠けてしまっているもの)に対応する(下図参照:なお 隠喩と換喩に関するヤコブソンの理論に関する説明は「コミュニケーション・スタディーズ」 を参照してください)。
つまり、コミュニケーションの零度に収斂する際には、(1)パラディグム不全が原因によるディスコミュニケーション(=メタファーが有効に転送 されない情報不全)と、(2)シンタグムの不全化によるディスコミュニケーション(=シンタックスを発信者の構成のように再構成することができない情報不 全)がある。
これらは、メッセージ伝送における不全すなわち受信者がデコードできない困難さを表現するものであるが、通信を途中で傍受できないようにするた めには、暗号化のための基礎理論にもなり、生産的利用も可能であることも付記しておこう。
この新しいディスコミュニケーションの定義について理解するためには、コ ミュニケーションに関する伝統的な理解が必要である。それがわかれば、その矛盾項としてのディスコミュニケーションは容易に理解できるはずであ る。
Shannon and Weaver, 1949, p.7 に近い作図(図をクリックすると4倍に拡大します)
ディスコミュニケーションとは、このような理論から逸脱する一切の異質のコミュニケーションを包摂することを構想しています。
つまり、(1)共通物(コモン)をもたないコミュニケーションのようなもの、あるいはコミュニケーションもどき、(2)一体感を必要としないコ ミュニケーション、あるいはコミュニケーションをはじめる前の初期状態(フォーマットされていない?コミュニケーション)、(3)伝達や伝染を一義的なも のとしないもの、(4)伝わる/伝わらないという尺度基準を欠くものなどのことを指します。
文化人類学者のクリフォード・ギアーツは「厚い記述」という論文の中で、まばたきを例にして、コミュニケーションにおけるメッセージの送受信に おけるメッセージの解読過程について有名な議論をおこなっている。
少年がこちらをみて、目配せとしてのウィンクした時には、我々はそれを彼がいたずらを成功して、こちらに合図を送ったものとして解読することも できるし、他方で、ただたんに眼にゴミが入ったということも考えられる。このメッセージを正しく解読し、情報を〈共有〉するためには、メッセージの送り手 の少年と、それをみて二通り(あるいはそれ以上の可能性)の解釈をおこなう観察者である私の関係性や、それらがおこなわれた社会的文脈を考慮する必要があ るということである。
メッセージは多義的に解釈(解読)される可能性があり、また偶然の現象(眼にゴミが入る)と必然の現象(私と彼の間の関係や出来事がおきた時の 状況からそのように判断できる)を、人類学者はさまざまな状況を手がかりに解釈しなければならないのです。それが、ギアーツのいうところの文化の理解にほ かなりません。
もしコミュニケーションが文化の理解に関する分析の俎上に乗せることができるのであれば、ディスコミュニケーションもまた(さまざまな理論装置 を鍛え直す必要はあるが)研究可能であることを我々に示唆する。
文献・リンク
コミュニケーションの数学的理論 : 情報理論の基礎 / C.E.シャノン, W.ヴィ ーヴァー著 ; 長谷川淳, 井上光洋訳. -- 3版. -- 明治図書出版, 1977(The mathematical theory of communication / by Claude E. Shannon and Wa rren Weaver. -- University of Illinois Press, 1949)
C・ギアツ「厚い記述——文化の解釈学的理論をめざして」『文化の解釈学I』 (吉田禎吾ほか訳)岩波書店、1987年 (Geertz, Clifford.,1973, Thick description: Toward an interpretive theory of culture, in "The Interpretation of Culture", New York: Basic Books.,pp.3-30.)
フランクファート、ハリー・G『ウンコな議論』山形浩生訳、東京:筑摩書房、2006年
冒頭のファニア・パスカルとウィトゲンシュタインの「犬に轢かれた気分」をめぐる、コミュニケーションのメッセージ性と真理への取り組みに 関する秀逸な議論。ウィトゲンシュタインの想定を超えるパスカルに対する応答の意味が、現代のコミュニケーション理論における隠喩表現と真理に関する関す る重大な問題提起をしていること。これだけでも読むに値する議論である[→関連リンク]。
野村一夫「コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論」
http://www.socius.jp/lec/10.html (最終確認日 2009年7月15日)
池田光穂「構造的ディスコミュニケーション概念への批判」(サイト内リ ンク)
____「ディスコミュニケーションの理論に関する覚書」(サイト 内リンク)