はじめによんでください
アダム・スミス『諸国民の富』ノート
On Adam Smith's "An Inquiry into the Nature and Causes of
the Wealth of Nations"
このページは「マイケル・ムーア vs. アダム・スミス」の授業 の資料編です。この資料の出典は、堂目卓生『アダム・スミス:『道徳感情論』と『国富論』の世界』中公新書(No.1936)、東京:中央公論新社、 2008年、とくに第4〜8章、 Pp.143-267.からとりました。ここで触れられる項目は下記のとおりです。(授業ポータル:暴力について考える(2010年))
こ のページを作ったあとに、大阪大学大学院経済学研究科長の堂目卓生さんと出会いました。堂目先生におかれましては、私のページのいくつかの内 容をご存知で、このページの趣旨についても、学生・院生諸氏が、上掲の本や、それに関連する書物を紐解き(繙き)、アダム・スミスへの思索を深めるための ものだと、モラルサポートしていただけることを念じております。なお、堂目先生のご著作からのOCR読み取りなので、誤変換が含まれています。自分で原著 ——どこの図書館が書店でも簡単に手に入るものですので——と対照してチェックをおねがいします。私のサイトは、みなさんの自習と学習の意欲を促すサイト で、これだけで勉強できるサイトではありません!
■ 豊かさとはどういうことか? ■分業 ■分業の効果 ■資本蓄積 ■経済発展 ■経済理論:重商主義 ■財政 ■交換性向 ■互恵市場 ■交換社会 ■市場の条件——「見えざる手」 ■労働者階級 ■労働者の限界 ■個人の浪費 ■地主の怠惰 ■土地・地代・借地人 ■商人 ■戦費という無駄 ■政府の浪費 ■土地に対する愛着 ■労働集約度および付加率 ■エコノミック・ヒストリー ■大変革は意図せざるところにある ■植民地統治 ■植民地政策の誤り ■重商主義の欠陥 ■国債による国家の弱体化 ■自由競争 ■規制緩和
■豊かさとはどういうことか?
「すべての国民の年間の労働は、その国民が年聞に消費するすべての生活の必需品や便益品を供給する原資であって、消費される必需品や便益品 は、つねに、国民の労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである。/したがってこの生産物、またはこの生産物で 購入されるものと、それを消費する人びとの数との割合が大きいか小さいかに応じて、その国民が必要とする必需品と便益品が十分に供給されているといえるか どうかが決まる。/この割合は、どの国民にあっても二つの異なる事情によって規定される。すなわち、第一には、その国民の労働が一般に使用される際の熟 練、技量、および判断力によって、そして第二には、有用な労働に従事する人びとの数と、そうでない人びとの数との割合によって規定される。国の土壌や気候 や国土の広さがいかなるものであろうとも、そうした特定の状況の中で、その国民が受ける必需品と便益品の年間の供給が豊かであるか乏しいかは、それら二つ の事情に依存する」(堂目 2008:143-144)。
■分業
「必需品と便益品の供給が豊かであるか否かは、それら二つの事情[労働生産性と生産的労働・不生産的労働の比率]のうち、後者よりも前者に よるところが大きいように思われる。猟師や漁夫からなる未開民族においては、働くことのできる個人は、すべて、多かれ少なかれ有用労働に従事し、自分自身 を養うとともに、自分の家族または種族のうち、狩猟や漁獲に出かけるには高齢すぎたり、若すぎたり、病弱にすぎたりすることに努める。しかしながら、その ような民族は極度に貧しいために、幼児や高齢者や長びく病気にかかっている者を、ときには直接に殺害するか、ときには放置して飢え死にさせるか、野獣に食 われるままにしなければならないことがしばしばある。少なくとも彼らは、そう考えている。/これに反し、文明化し繁栄している民族の間では、多数の人びと は全然労働しないのに、働く人びとの大部分よりも十倍、しばしば百倍もの労働の生産物を消費する。しかし、その社会の労働全体の生産物はきわめて多いの で、すべての人が十分な供給を受けるし、最低最貧の労働者ですら、倹約かつ勤勉であれば、未開人が獲得しうるよりも大きな割合の生活必需品や便益品を享受 することができる。労働の生産力のこの増大の原因、および労働の生産物が社会のさまざまな階級や状態の人びとの聞に自然に分配される法則が、本書の第一編 の主題をなす」(堂目 2008:146-147)。
■分業の効果
「文明国においては、最下層の人でさえ、何千人もの人びとの助力と協力を通じて、[中略]彼が普通に使う生活設備の供給を受けている。たし かに、地位の高い人びとのもっと法外な奢侈に比べれば、最下層の人の生活設備は実に単純で容易に見えるにちがいない。しかし、ヨーロッパの王侯の生活設備 が勤勉で質素な農夫のそれよりも優っている程度は、後者の生活設備が、何万もの裸の未開人の生命と自由の絶対的支配者であるアフリカの国王のそれよりも 優っている程度には必ずしも及ばないであろう。(『国富論』一編一章)」(堂目 2008:157)。
「多くの利益を生み出すこの分業は、もともとは、それが生み出す一般的富裕を予見し意図するという人間の英知の結果ではない。それは、その ような広範な有用性をめざすわけではない人間本性の中のひとつの性向、すなわち、ある物を他の物と取引し、交換し、交易する性向の、きわめて緩慢で漸次的 ではあるが、必然的な結果なのである。この性向が人間の本性の中にある、それ以上は説明できないような本源的な原理のひとつであるのかどうか、それとも、 この方がもっともらしく思われるが、推理したり話したりする人間の能力の必然的な結果であるのかどうか、そのことは、本書の研究主題にはならない。(『国 富論』一編ニ章)」(堂目 2008:158)。
■資本蓄積
「どの国民でも、労働が用いられる際の熟練、技量、判断力の実際の状態がいかなるものであれ、その状態が変わらなければ、年間の供給が豊富 であるか稀少であるかは、有用労働に従事する人びとの数と、従事しない人びとの数との割合による。後に明らかにするように、有用かつ生産的な労働者の数 は、どこでも、彼らを働かせる資本の量と、資本が用いられる方法とに比例する。それゆえ、第二編は、資本の性質、資本がしだいに蓄積されていく仕方、そし て資本の用いられ方に応じて資本が作動させる労働量の相違を扱う」(堂目 2008:148-149)。
「資本の蓄積は、ものごとの性質上、分業に先立っていなければならない。資本の蓄積先行して進むことに応じてのみ、分業の進展が可能になる のである。分業が進むに同数の人びとが加工する原材料の総量は大幅に増加する。また、各人の作業が徐々に単純化されていくとともに、それらの作業を容易に し、短縮するために、さまざまな新しい機械が発明される。したがって、分業が進む中で、同数の職人に雇用を与え続けるためには、以前と同量の食料のストッ クとともに、分業が進んでいなかったときに必要とされた量よりも多量の原材料と道具のストックが、前もって蓄積されていなければならない(『国富「論』二 編序論)」(堂目 2008:178-179)。
■経済発展
「労働が用いられる上での熟練、技量、判断力に関してかなり進歩した諸国民は、労働を全体として向かわせる方向に関して、きわめて異なる計 画にしたがってきた。それらの計画は必ずしもすべて生産物の増大に等しく有利であったわけではない。ある国の政策は農村の産業に特別な奨励を与えてきた し、別の国の政策は都市の産業に与えてきた。ほとんどどの国も、すべての種類の産業を平等かつ公平に扱ってはこなかった。ローマ帝国の没落以来、ヨーロッ パの政策は、農村の産業である農業よりも、都市の産業である工芸、製造業、商業を優遇してきた。この政策を導入し確立したと思われる事情は第3編で説明さ れる」(堂目 2008:150)。
■経済理論:
重商主義 「さまざまな計画は、おそらく、最初は特定層の人びとの私利や偏見によって、社会全体の福利に及ぼす影響についての配慮や予見もなしに導入されたのであっ た。しかし、それらの計画はきわめて多様な経済理論を生んだ。それらの中の、あるものは都市で行なわれる産業の重要さを強調し、別のものは農村で行なわれ る産業の重要さを強調した。それらの理論は、学識者の意見だけでなく、主権者や国家の政治方針に対しても大きな影響を与えた。私は第四編で、それらの理論 と、それらがさまざまな時代や国民に与えた主要な影響を、できるかぎり十分かつ明確に説明することに努めた」(堂目 2008:150)。
■財政
「最初の四編の目的は、国民の収入は何によるものなのか、あるいは、さまざまな時代と国において国民の年間の消費を満たす原資がどのような 性質のものであったのかを説明することである。これに対して、最後の第五編は、主権者または国家の収入を扱う。この編で私が示そうと努めたのは、第一に、 主権者または国家にとっての必要な費用は何であるのか、またそうした費用のうちのどれが社会全体の一般的納付金によって支払われるべきか、またそのうちの どれが社会のある特定部分だけの、つまりある特定の成員たちの納付金によって支払われるべきか、第二に、社会全体が負担すべき費用の支払いを社会全体が負 担するのにどのような方法があるのか、そうした方法のそれぞれがもっ主な利点や欠点はどのようなものであるのか、第三に、そして最後に、近代のほとんどす べての政府が、税収のある部分を担保に借金をするに至った理由や原因、つまり国債を発行するに至った理由や原因は何であるのか、また国債が、真の富、すな わち社会の土地と労働による年生産物に対してどのような影響を与えてきたのかということである」(堂目 2008:153)
■交換性向
「交換性向の本当の基礎は、人間本性の中であのように支配的な説得性向なのである。説得するための何かの議論が提起されるときには、それが 適切な効果をもつことが、つねに期待される。ある人が月について、真実とはかぎらないことを何か主張するとき、彼は反論されるかもしれないことに不安を感 じるであろう。そして、もしも説得しようとしている人が彼と同じ考え方をしていることがわかれば、彼は非常に喜ぶだろう。したがって、われわれは大いに説 得能力を養成すべきであり、実際に、われわれは意図しないでそうしているのである。人間の全生涯が説得能力の訓練に費やされるのだから、その結果、物を交 換するために必要な方法が取得されるにちがいない」(堂目 2008:160)。
■互恵市場
「人間社会のすべての構成員は、相互の援助を必要としているし、同様に相互の侵害にさらされている。必要な援助が、愛情から、感謝から、そ して友情と尊敬から、相互に提供される場合は、その社会は繁栄し、そして幸福である。[中略]しかし、必要な援助が、そのように寛容で私心のない動機から 提供されることがないとしても、また、その社会構成員の間に相互の愛情や愛着がないとしても、その社会は、幸福さと快適さにおいてるとはいえ、必然的に解 体することはないであろう。/社会は、さまざまな人びとの間でーーさまざまな商人の間でそうであるように——相互の愛情や愛着がなくても、社会は有用であ るという感覚によって存立する。そして、社会は、その中の誰も他人に対して責務や感謝を感じなくても、人びとが、ある一致した評のもとで損得勘定にもとづ いた世話を交換することによって、いぜんとして維持されるのである。(『道徳感情論』二部二編三章)」(堂目 2008:161-162)。
「われわれが食事ができると思うのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心に期待するからではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの関心に期待するか らである。われわれが呼びかけるのは、彼らの人間愛に対してではなく、自愛心に対してであり、われわれが彼らに語りかけるのは、われわれ自身の必要につい てではなく、彼らの利益についてである。(『国富論』一編二章)」(堂目 2008:163)。
■交換社会
「分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物のうちのきわめてわずかな部分にすぎなくなる。人が欲求の圧倒的大部分を充足 するのは、自分の労働の生産物のうちで、自身による消費を超える余剰部分をのうちで自分が必要とする部分と交換することによってである。こう交換すること によって生活するようになり、言いかえれば、ある程社会そのものが商業社会と呼ぶのが適当なものになる(『国富論』一編4章)」(堂目 2008:166)。
■市場の条件——「見えざる手」
「どの個人も、できるだけ自分の資本を国内の労働を支えることに用いるよう努め、その生産物が最大の価値をもつように労働を方向づけること にも努めるのであるから、必然的に社会の年間の収入をできるだけ大きくしようと努めることになる。たしかに個人は、一般に公共の利益を推進しようと意図し てもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。[中略]個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれて、自分の意 図の中にはまったくなかった目的を推進するのである。それが個人の意図にまったくなかったということは、必ずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身 の利益を追求することによって、個人はしばしば、社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである。(『国富論』四編 二章)」(堂目 2008:170-171)。
「同業組合の排他的特権と、徒弟法、および特定の職業での競争を、それがなければ参入によって増えるかもしれない数よりも少人数に限定する すべての法律は、程度は劣るにしても独占と同じ傾向をもっている。それらは一種の拡大された独占であり、しばしば何世代にもわたって、またすべての種類の 職業で、特定商品の市場価格を自然価格以上に保ち、そこで用いられる労働の賃金と資本の利潤とを自然率よりもいくらか高くする。市場が自然価格を上回る状 態は、それを生んだ行政上の規制があるかぎり続くであろう(『国富論』一編七章)」(堂目 2008:172)。
■労働者階級
「労働者階級のうち、上層で育った人たちは、本来の職業では仕事を見つけることができないため、最下層の仕事を求めるようになるだろう。し かし、最下層の仕事も、もともとの働き手だけでなく、他のすべての階層からあふれてきた働き手が過剰となっているため雇用を求める競争は激しくなり、労働 の賃金を、労働者の最も惨めで乏しい生計の水準で引き下げるだろう。多くの人びとは、こうした厳しい条件でさえ雇用を見つけることもできず、飢えるか、あ るいは物乞いをするなり、極悪非道を犯すなりして、生計を求めることになるだろう。(『国富論』一編八章)」(堂目 2008:181-182)。
■労働者の限界
「労働者の利害は社会の利害と緊密に結びついているとはいえ、労働者は社会の利害を理解することも、社会の利害と自分の利害との結びつきを 理解することもできない。労働者の生活状態は、必要な情報を受け取るための時聞を彼に与えないし、たとえ十分な情報を得たとしても、教育と習慣のせいで適 切な判断を下すことができないのが普通である。したがって、公共の審議において、労働者の声は、特定の場合には、雇い主によって、労働者の利益のためでは なく雇い主の利益のために、鼓舞され、扇動され、支持されることがある。しかし、その場合を除けば、労働者の声は、ほとんど聞いてもらえないし、尊重もさ れない」(『国富論』一編十一章)」(堂目 2008:203)。
■個人の浪費
「浪費についていうなら、支出に駆り立てる性向は、現在の享楽を求める情念である。この情念は、ときには激しくて、きわめて抑制しがたいこ ともあるが、一般には瞬間的で、たまにしか起きない。これに対し、貯蓄に駆り立てる原理は、自分の状態を改善しようとする欲求である。この欲求は、一般に は平静で非激情的ではあるが、胎内からわれわれとともに生まれ、われわれが墓に入るまで決して離れることがない。[中略]ほとんどの人は、支出性向にとき どき支配され、また、人によっては、ほとんどの場合に支配されるのであるが、大部分の人びとにおいては、生涯の平均をとれば、支出性向よりも倹約性向の方 が優位を占め、その優位さは著しいように思われる。(『国富論』2編3章)(堂目 2008:190)。
■地主の怠惰
「[地主階級・資本家階級・労働者階級の]三つの階級の中で、地主階級だけは、収入が労働も気苦労もなしに、いわばひとりでに、彼ら自身の 企図とは無関係に入ってくる。境遇が安楽で安定していることの自然な結果として、地主は怠惰になり、そのため、彼らは単に無知であるだけでなく、公的に定 める規則の結果を予測し理解するために必要とされる知性の活用もできないことが多い。(『国富論』一編十一章)」(堂目 2008:192)。
■土地・地代・借地人
「大土地所有者は、土地改良の現状が提供しうる水準を上回る地代を借地人に要求した。借地人たちは、これに同意する条件として、土地を改良 するためにどれだけ資本を投入しても、それが利潤とともに回収されるだけの期間、土地の保有を保障されるという条件を提示した。地主は、虚栄心から、この 条件を喜んで受けいれたが、それは高くつくことになった。長期借地契約の起源はここにある。(『国富論』三編四章)」」(堂目 2008:211)。
■商人
「商人や親方製造業者は、しばしば郷土の寛大さにつけこみ、郷土の利害ではなく自分たちの利害が公共の利害と一致するのだという、まことに 単純ではあるが正直な信念から、郷土を説得して彼の利益をも公共の利益をも放棄させてきた。しかしながら、商業や製業のどの部門でも、業者たちの利害は、 つねに何らかの点で公共の利害とは異なるし、それに対立することもある。市場を拡大し、競争を制限することは、つねに業者たちの利となる。市場を拡大する ことは、しばしば公共の利益と十分一致するであろう。しかし、競争を制限することは、つねに公共の利益に反するにちがいない。競争の制限によって、業者た ちは利潤を自然な水準以上に引き上げることができ、自分たちの利益のために、他のすべての同胞市民たちに、ばかげた税を課すことができる。商業上たは規制 について、この階級から提案されるものには、つねに多大けるべきであり、最も周到な注意だけでなく、最も疑り深い注意を払っ慎重に検討した上でなければ、 決して彼らの提案を採用しれ川害が公共の利害と一致しない階級の人びと、一般に公共を欺くこと、とする階級の人びと、そして、実際、これまで多くの場合に 公共を欺き級の人びとから出されている提案なのである。(『国富論』1編11章)」(堂目 2008:194)。
■戦費という無駄
「四回にわたる対仏戦争の過程で、イギリス国民は、戦争によって毎年生じる臨時費の他に、一億四五OO万ポンド以上の債務を背負うことに なったのだから、戦費の総額はどう計算してみても二億ポンドを下回ることはない。名誉革命以来、さまざまな場合に、この国の土地と労働の年間生産物のこれ ほどの大きな部分が、異常な数の不生産的な人びとを維持するために使用されてきた。もしそれらの戦争が、これほど多額の資本を、不生な方向に向かわせな かったならば、その大部分は、自然に、生産的な人びとの維持に使用されただろうし、彼らの労働は、自分たちの消費の全価値を利潤とともに回収したであろ う。[中略]その場合、今日までに国の真の富と収入がどれほど速く増大しえたか像することさえ容易ではないであろう。(『国富論』二編3章)」(堂目 2008:194-195)。
■政府の浪費
「政府の浪費は、富と改良に向けてのイングランドの自然の進歩を遅らせたには違いないが、それを停止することはできなかった。[中略]政府 が重税を取り立てる中で、諸個人の倹約や品行方正によって、つまり自分自身の状態をよりよくしようとする一般的で継続的な努力によって、資本は、黙々と、 そして徐々に蓄積されてきたのである。[中略〕したがって、国王や大臣たちが奢侈禁止法や外国産奢侈品の禁止禁止によって、個人の家計を監視し、その支出 を抑制するような素振りをするのは、非礼僭越のきわみである。国王や大臣こそつねに、また、何の例外もなしに、社会の最大の浪費家なのだ、彼らは自分たち 自身の支出をよく監視するがいい。そして、個人の支出は安心して個人にまかせておけばいい。もし国王や大臣の浪費が国を滅ぼすことがないならば、国民の浪 費が国を滅ぼすことは決してないであろう。(『国富論』2編3章)」(堂目 2008:196)。
■土地に対する愛着
「農村の美しき、田園生活の楽しさ、それが約束する心の平静、そして不当な法律によってじゃまされないかぎり与えられる独立心、これらは多 かれ少なかれ万人を引きつける魅力をもっている。そして、土地を耕作することこそ人間の本来の運命であったのだから、人類の歴史のあらゆる段階において、 人間は、この原初の仕事への愛着をもち続けているように思われる。(『国富論』三編一章」(堂目 2008:199)。
■労働集約度および付加率
「ある国の資本が以上三つ[農業・製造業・貿易]の目的のすべてには十分でない場合には、資本のうちで農業に使用される部分が大きいのに比 例して、それが国内で活動させる生産的労働の量も大きいだろうし、この資本の使用がその社会の土地と労働の年間生産物につけ加える価値も大きいであろう。 農業の次には、製造業に使用される資本が最大の量の生産労働を活動させ、年生産物に最大の価値をつけ加える。輸出貿易に使用される資本は、これらの三つの うちで最小の効果しかもたない」(『国富論』二編五章)」(堂目 2008:204)。
■エコノミック・ヒストリー
「ゲルマン民族とスキタイ民族がローマ帝国西部の諸州を侵略した後、何世紀もの問、激変によって引き起こされた混乱が続いた。蛮族が先住民 に対して行なった略奪と暴行は、町と農村の聞の商業を途絶させてしまった。町は見捨てられ、農村は耕作されずに放置され、ローマ帝国のもとでかなり繁栄し ていたヨーロッパの西部地域は、極度の貧困と野蛮に落ち込んだ。混乱が続くなか、蛮族の首長や主要な指導者たちは、地方の土地を獲得または強奪した。土地 の大部分は耕作されていなかったが、耕作されていようといまいと所有者なしに残された土地はまったくなかった。土地はすべて占拠され、しかも、その半は少 数の大土地所有者によって占拠されたのだった。(『国富論』三編二章)」(堂目 2008:206)。
■大変革は意図せざるところにある
「このようにして、社会の幸福にとって最大の重要さをもっ変革が、社会に奉仕しようとする意図をまったくもたない二つの階層の人びとによっ てもたらされた。唯一の動機は、子どもじみた虚栄心を満足させることであった。商人や手工業者も、滑稽さの点では、大土地所有者とくらべてはるかにましで あるにしても、自分たちの利益だけを考えて、一ペニーでも手に入る所なら一ペニーでも運用しようという行商人的性格にしたがって行動したにすぎない。両者 とも、一方の愚行と他方の勤労がしだいに実現しつつあった大変革を知ってはいなかったし、予見もしていなかった。(『国富論』三編四章)」(堂目 2008:212)。
■植民地統治
「ヨーロッパの政策は、アメリカ植民地の最初の建設においても、また植民地の統治に関するかぎり、その後の繁栄においても、誇るべきものは ほとんどない。植民地建設の最初の計画を支配し指導した原理は、愚行と不正であった。すなわち、金や銀の鉱山を探し求めた愚行と、無害な先住民の土地を奪 い取った不正である。先住民たちは、最初に到着した国冒険家たちに危害を加えるどころか、あらゆる親切と歓待をもって彼らを迎った。その後、植民地を建設 した官険家たちは、金銀鉱山の発見という妄想的な計画よりも、もっとまともな、もっと称賛すべき他の動機をつけ加えたが、そうした動機でさえ、ヨーロッパ の政策の名誉になるようなものはほとんどない。(『国富論』四編七章二節)」(堂目 2008:216)。
「植民地が完成し、本国の関心を引くほど重要なものになったとき、植民地に対して本国が行なった最初の規制は、つねに、植民地貿易を本国が 独占すること、植民地の市場を制限して、その犠牲の上に本国の市場を拡大すること、したがって植民地の繁栄を速め、促進するよりは、むしろ遅らせ、阻止す ることをめざすものであった。ヨーロッパ諸国の植民地政策における最も本質的な違いのひとつは、独占の仕方にある。それらの中で最良のもの、すなわちイン グランドの独占の仕方にしても、反自由主義的で抑圧的な程度が、他国よりも幾分ましであったにすぎない。(『国富論』四編七章二節)(堂目 2008:217-218)。
■植民地政策の誤り
「アメリカ大陸と喜望峰経由の東インド航路が発見されたとき、たまたまヨーロッパ人の武力が先住民の武力を圧倒していたため、ヨーロッパ人 は、遠方の園で、あらゆる種類の不正を行なっても処罰されないでいることができた。おそらく、これからは、これらの国の住民はより強くなり、一方、ヨー ロッパ人はより弱くなり、世界のあらゆる地域の住民が勇気と力において対等になるだろう。そうなれば、諸国民は、相互に畏敬の念をもつようになるので、不 正を抑制し、相互の権利を尊重し合うようになるだろう。しかし、すべての国と国の間の広範な貿易が、自然に、あるいは必然的に促進する、知識とあらゆる種 類の改良の相互交流ほど、力の平等を確立するものはないように思われる。(『国富論』編七章三節)」(堂目 2008:223-224)。
■重商主義の欠陥
「諸国民は、自国の利益はすべての隣国を貧乏にしてしまうことであると教えられてきた。各国の国民は、自国と貿易するすべての国民の繁栄を 怒りの目で見て、彼らの利益は自国の損失だと考えるようになった。諸個人の聞の商業と同様、諸国民の聞の貿易は、本来は連合と友情の絆であるはずなのに、 不和と敵意の源泉となっている。[中略]この教義を考案したのも拡げたのも、もとは独占精神であったことに疑いの余地はない。(『国富論』四編三章二 節)」(堂目 2008:228)。
■国債による国家の弱体化
「長期国債によって資金調達を行なう方法をとった国は、すべて、しだいに弱体化していった。最初にそれを始めたのはイタリアの諸共和国だっ たようである。ジェノヴァとヴェネツィアは、それらのうちで、今なお独立国と称しうるただ二つの国であるが、ともに、国債のために弱体化してしまった。ス ペインは、国債による資金調達の方法をイタリアの諸共和国から学んだようであるが、税制が、イタリア諸共和国よりも思慮に欠けたものであったため、本来の 国力の割には、イタリア諸共和国よりもさらに弱体化した。[中略]フランスは、その自然資源の豊かさにもかかわらず、同種の重い財政負担のもとにあえいで いる。オランダ共和国は、国債のために、ジェノヴァやヴェネツィアと同じくらい衰弱している。他のどの国をも弱体化させた資金調達の方法が、グレート・プ リテンにおいてだけ、まったく無害だということがありうるだろうか。(『国富論』五編三章)」(堂目 2008:232-233)。
■自由競争
「優先と抑制の体系がすべて除去されれば、単純かつ明快な自然的自由の体系が自然に確立される。そこでは、正義の諸法を犯さないかぎり、す べての人が自分のやり方で利益を追求することができ、自分の労働と資本を使って、どの人、またはどの階層の人とも自由に競争することができる。主権者は、 遂行しようとすれば必ず無数の迷妄に惑わされ、また、人間のどんな知恵や知識をもってしでも適切に遂行できない義務から、すなわち個人の勤労を監督し、そ れを社会の利益に最も適った用途に向かわせるという義務から完全に解放される。(『国富論』四編九章)」(堂目 2008:237)。
■規制緩和
「グレート・ブリテンに植民地貿易の独占権を与えている法律を、少しずつかつ徐々に緩和し、やがてほとんど自由にしてしまうことは、暴動や 無秩序の危険からグレート・ブリテンを永久に解放する唯一の方策である。それは、資本の一部を過度に成長した事業から引き上げ、保護された産業よりも利潤 の低い他の産業にふり向けることを可能にし、そうせざるをえなくする唯一の方策である。そして、それは、保護された産業部門を徐々に縮小させ、他の産業部 門を徐々に拡張させることによって、すべての産業部門を、完全な自由が必然的に確立し、また完全な自由だけが維持しうる自然で健全で適正な均衡に向かって て、しだいに復帰させることができる唯一の方策だと思われる。(『国富論』4編7章3節)(堂目 2008:239-240)
■アメリカの植民地
「アメリカの指導者たちの社会的な地位を維持し、彼らの野心を満足させる方法としては、本国議会に議席を用意すること以上に明快なものはな いと思われるが、いずれにせよ、何らかの方法を取らないかぎり、彼らが自発的に服従することはありそうにない。われわれは、彼らを武力で服従させようとす る場合に流される血の一滴一滴が、われわれの同胞の血か、あるいは同胞にしたいと思う人びとの血であるということを忘れるべきではない。事態がここまで進 んでしまっているのに、植民地を武力だけで簡単に征服することができると自惚れている人は、非常に愚鈍な人である。/現在、大陸議会と呼んでいるものの決 議を取り仕切っている人びとは、ヨーロッパの偉大な大臣たちでさえ感じることができないほどの社会的重要性を自分の中に感じているであろう。彼らは、商店 主、小商人、弁護士から政治家や立法者となり、今や、広大な帝国のための新しい政治形態を作り出すことに携わっている。そして、彼らは、この帝国が、かつ て世界に存在したことのない偉大で恐るべき帝国になるだろうと自負し、事実そうなる見込みもきわめて大きいのである。(『国富論』四編七章三節)」(堂目 2008:255)。
「アメリカで生まれた人びとは、アメリカが帝国の政治の中心から遠く離れていることは、それほど長く続かないだろうと考えるかもしれない し、その考えには、もっともな理由がある。アメリカにおける富と人口と改良のこれまでの進歩は非常に急速であり、おそらく一世紀もたてば、アメリカの納税 額がプリテンの納税額を超えるであろう。そうなれば、帝国の首都は、帝国全体の防衛と維持に最も貢献する地方へと自然に移動することになるであろう。 (『国富論』四編七章三節)」(堂目 2008:257)。
「私は、この統合が容易に実現できるとか、実施にあたって、困難を、しかも大きな困難をともなわないとか言うつもりはない。もっとも、私は 克服できそうもない困難があるという話をこれまで聞いたことはない。おそらく、主な困難は、事柄の本質からではなく、大西洋をはさむ両岸の人びとの偏見や 世論から生ずるのであろう。(『国富論』四編七章三節)」(堂目 2008:258)。
■経済的意味からみたアメリカの独立
「もし分離案が採用されるのなら、グレー ト・プリテンは、平時の植民地防衛の年間経費からただちに解放されるばかりでなく、自由貿易を効果 的に保障する通商条約を植民地との間に締結することができるだろう。自由貿易協定は、現在グレート・ブリテンが保有している独占貿易よりも、商人にとって は不利だが、大多数の国民にとっては有利なものである。このようにして良友と別れることになれば、近年の不和がほとんど消滅させてしまった本国に対する植 民地の自然な愛情は急速に復活するだろう。そうなれば、彼らは、分離するときに結んだ通商条約をい今までも尊重するだろうし、貿易だけでなく戦争において も、われわれを支持し、現在のような不穏で党派的な臣民であるかわりに、最も誠実で好意的で寛容な同盟者になってくれるだろう。こうして、古代ギリシャの 植民地と母都市との間に存在したのと同種の、一方の側の親としての愛情と他方の側の子としての尊敬が、グレート・プリテンとその植民地との間に復活するだ ろう。(『国富論』四編七章三)」(堂目 2008:260)。
「グレート・ブリテンは自発的に植民地に 対するすべての権限を放棄すべきであり、植民地が自分たち自身の為政者を選ぴ、自分たち自身の法律 を制定し、自分たちが適切と考えるとおりに和戦を決めるのを放任すべきだと提案することは、これまで世界のどの国によっても採用されたことのない、また今 後も決して採用されることがない方策を提案することになるだろう。植民地を統治することがどれほど厄介で、必要な経費に比べて植民地が提供する収入がどれ ほど小さくとも、植民地に対する支配権を自発的に放棄した国は、いまだかつてない。植民地の放棄は、しばしば国民の利益に合致するとしても、つねに国民の 誇りを傷つけ、さらに重要なことには、支配階層の私的な利害に反するであろう。[中略]最も夢想的な熱狂家でも、そのような方策を、少なくともいつかは採 用されるであろうという、真剣な期待をいくらかでももって提案することは、ほとんどできないであろう。(『国富論』四編七章三節)」(堂目 2008:262)。
「ブリテンの支配者たちは、過去一世紀以 上の問、大西洋の西側に大きな帝国をもっているという想像で国民を楽しませてきた。しかしながら、 この帝国は、これまで、想像の中にしか存在しなかった。これまでのところ、それは帝国ではなく、帝国に関する計画であり、金鉱山ではなく、金鉱山に関する 計画であった。それは、何の利益ももたらさないのに巨大な経費がかかってきたし、現在もかかり続けている。また、今までどおりのやり方で追求されるなら ば、すでに示したように、植民地貿易の独占の結果は、国民の大多数にとって、利益ではなく、単なる損失だからである。/今こそ、われわれの支配者たちが ——そして、おそらく国民も——ふけってきた、この黄金の夢を実現するか、さもなければ、その夢から目覚め、また国民を目覚めさせるよう努めるべきときで ある。もしこの計画を実現できないのであれば、計画を断念すべきである。もし帝国のどの植民地も帝国全体の財政を支えることに貢献させられないのであれ ば、今こそ、グレート・ブリテンが、戦時にそれらの領域を防衛する費用、平時にその民事的・軍事的施設を維持する費用から自らを解放し、将来の展望と計画 を、自の丈に合ったものにするよう努めるべきときである。(『国富論』五編三章)」(堂目 2008:263-264)。
リ ンク
文 献
そ の他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099