Aristoteles, Metaphysica
アリストテレスの『形而上学』は、全14巻のものであるが、全体としてのまとまりはない。それは、それぞれ別の時期に書かれた論文・講義草稿・ 講義録の類の集成だからである。ただし、 第1巻(Α)- 第3巻(Β)- 第4巻(Γ)- 第6巻(Ε) 第7巻(Ζ)- 第8巻(Η)- 第9巻(Θ) 第10巻(Ι)- 第13巻(Μ)- 第14巻(Ν) の3群は、それぞれ内容的にまとまりが認められ、紀元前2世紀末の著作目録の記述から、元来この書物はこの10巻構成でまとめられ、 第2巻(α)、第5巻(Δ)、第11巻(Κ)、第12巻(Λ) の4巻は、別の独立した著作が後から補足的に追加・挿入されたものだと考えられる[5]。
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かいせつ
第14巻 - 数
第14巻(Ν) - 数(全6章)
第1章 -
原理は「反対的に対立するもの」ではあり得ない。プラトン学徒(アカデメイア派)はその原理を反対的に対立するものであるとし、その一方を「質料」(不定
の二)であるとした。この説の諸形態。「一」と「多」についての解明。
第2章 -
「永遠的な実体」は構成要素から成るものではあり得ない。パルメニデスが「存在の唯一性」を唱えたのに対してその事実上の「多数性」を説明するのがプラト
ンの任務だったが、「一」と「不定の二」ではその説明はできなかった。「エイドス的数」も「数学的数」も離れて存する実体ではあり得ない。
第3章 -
「数」を実体であるとする諸見解に含まれる種々の難点について。ピュタゴラス派は数学的諸対象を永遠的なものであるとしながら、他方でそれらを生成するも
のであるとしている。
第4章 -
事物の構成要素または原理と「善」や「美」の関係について。原理は「善」であるだろうが、「善」は実体ではなくて述語ではないか。もし「一」と「不等」
(大小)が原理であるなら、「一」は「善」で「不等」は「悪」か。しかし原理は「善」ではないか。「善」は原理か、原理の結果か。
第5章 -
それらは諸々の「数」をいかにしてそれらの原理・構成要素から生成させ得るか。また「数」がいかにして他の存在諸事物の原理であり得るか。要するに「数」
はいかなる「数」にせよ事物の「始動因」でもなく「質料」でも「形相」でもなく「目的」でもない。
第6章
-「数」を事物の原理として何の役に立つか。ピュタゴラス派の「数」論について。彼らの考えた「数」と事物事象との関係は「類比的」「比喩的」「空想的」
であってそこには因果関係は存在しない。結語。
文献
その他の情報
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