日本におけるキリスト教布教と西洋音楽の導入について
The Missionary of Christianity and the Introduction of Western Music in Japan
隠
れキリシタンの聖母子像,
Santa Maria y niño Jesus, en la imagen de la secta nombrada Kakure
Kirishtan (Crisrtiano Secreto) en la isla Ikitsuki, Hirado, Nagasaki.
☆ 皆川達夫『オラシヨ紀行 : 対談と随想』日本基督教団出版局、1981年にある「東西文化史年表」(pp.262-271)、皆川達夫『キリシタン音楽入門』日本キリスト教団出版局、2017年などを参照に制作した。
西
暦/年号 |
日本 |
ヨーロッパ |
1543/天文12 |
ポルトガル船が種子島に漂着、鉄砲を伝える。日欧通交の嚆矢 |
・ジュ
ネーブ詩篇歌(1539):「ジャン・カルヴァンの下で作成された、聖書の詩篇による韻律詩篇の賛美歌集」 ・プロテスタント(ルター派)のコラール集が出版:「コラール(Choral)は、 もともとルター派教会にて全会衆によって歌われるための賛美歌である。 現代では、これらの賛美歌の典型的な形式や、類似した性格をもつ作品をも含めて呼ぶことが多い」 |
1544 |
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1545 |
ト レント公会議(-1563; Council of Trent) 「会 期の中で特別委員会の設置による禁書目録の制定も意図されたが、教皇の判断に一任されることになった。また、カテキズム書、聖務日課、ミサ典書およびウル ガータ訳聖書の改訂も教皇の判断に任された(これらは後に実施され、20世紀に至るまでカトリック教会のスタンダードとなった)。教皇はさらに決議事項の 円滑な実現のための枢機卿委員会を任命した。彼らは公会議文書をラテン語で出版し、司教団を通してヨーロッパ各国に公会議文書を配布し、各国語に翻訳され た。自らの教義を再確認し、カトリック教会からすべての汚れを洗い流そうとしたトリエント公会議は、20世紀の第2バチカン公会議に至るまでカトリック教 会の方向性に大きな影響を与え続けた重要な会議となった。次に公会議が行われるのは実に300年以上経過した後の第1バチカン公会議になる。」 | |
1546 |
足利義輝が室町幕府13代将軍となる |
マルチ
ン・ルター歿す。ドイツでマイスタージンガー(Meistersinger)が流
行:「マイスタージンガーは、
ドイツ各地の宮廷を遍歴していたミンネゼンガー(吟遊詩人)たちが、中世貴族の没落に伴って都市に住み着いたのが始まりと考えられている。15-16世紀
にかけて、ニュルンベルクをはじめとする南ドイツの諸都市を中心に、手工業者の親方や職人、徒弟たちが組合に集い、詩と歌の腕を磨き合う文化が栄えた」 Codex Manesse, UB Heidelberg, Cod. Pal. germ. 848, fol. 399r, Meister Heinrich Frauenlob |
1547 |
グラレアヌス(Heinrich Glarean)
音楽理論書『ド
デカコルドン(Dodekachordon)』教会旋法の理論に大きく貢献した。 |
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1548 |
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1549 |
イエズス会士ザビエルが鹿児島に来航、キリスト教を伝える。油彩の聖母子像を示す。布教時に洋楽を
伝えたと言われる。 |
イギリス国教会[イングランド教会 Church of
England](1534年創設)の賛美歌の最初の曲集が編纂される。 |
1550 |
ポルトガル船が平戸に入港する。 |
ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝(Le Vite delle più
eccellenti pittori, scultori, e architettori )』 |
1551 |
ポルトガル船豊後に入港。ザビエルが大内義隆にクラヴォ(Clavichord)を贈呈。9月、ザ
ビエルは豊後府内入城あたり船上でチャラメラ(ズルナ?)、
フラウタ(フルート)を演奏しつつ入港。その後、ザビエルはゴアに帰る。 |
クレマン・マロー(Clément Marot)
訳のクロード・グーディメル(Claude
Goudimel, c.1514-1572)『ジュネーブ詩篇(Genevan Psalter,
also known as the Huguenot Psalter)』(Goudimel : Messe,
'Le bien que j'ay' : VII Sanctus)。フィリッ
ポ・ネリ(Filippo Romolo Neri, 1515-1595)がローマで「オラトリオの集い(Oratory
of Saint Philip Neri)」[YouTube]をはじめる。 |
1552 |
大内義長は、周防山口に南蛮寺(大道寺)建立を許可。降誕祭においては
じめてラテン語による歌ミサをあげる。この年、ザビエルが中国で沒する。 |
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1553 |
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1554 |
ゴアより入港した第三次宣教師団は『カント・チャン』の書1冊と「オル
ガンの歌の書」を携行(典礼音楽伝来の最初の記録) |
ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ『ミサ曲集』第1巻。フェンリャーナ(Miguel de Fuenllana)『ビウェラ曲集』[YouTube] Vihuela built by Kahlil Gibran |
1555 |
府内の邦人信徒ら、聖週間をはじめとして、死者の記録などに聖歌を歌
う。 |
パレストリーナがシスティナ礼拝堂の歌手になるが、すぐに解任。ヴィ チェンチーノ(Camisano Vicentino, 地名)のアルキチェンバロ。アウグスブルグの宗教和議 |
1556 |
宣教師トレース、豊後の府内に教会堂と病院を建設。 |
スペイン王フェリーペ二世即位 |
1557 |
平戸で歌ミサがあげられ、入港のポルトガル船員も参加して小山の上のク
ルスに向かい、チャラメラ(ショーム)やフラウタを奏しオラショを唱えながら行列。府内(=大分市中心部)で日本人聖歌隊による聖週間典礼がおこなわれる。 |
エネストローサ(Luis Venegas de Henestrosa,1510-1557,English)『器楽曲集』 Tobias Stimmer woodcut engraving of a woman with a bass shawm, circa 1570-1577. |
1558 |
平戸の領主松浦隆信、領内の宣教師を追放。 |
ジョゼッフォ・ツァルリーノによる音楽理論書『音楽教程』。英国エリザベス一世即位。 |
1559 |
大友義鎮(よ
ししげ)が府内をポルトガル人に開港する。 |
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1560 |
キリスト教布教が公許(室町幕府足利義輝)。九州をはじめ西日本各地の教会に学校を設置し、(西洋)音楽教育が組織化す
る。メキシコ版『サカラメント提要』刊行。ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela, 1526-1572)は1560年(永禄3年)、苦労の末に将軍足利義輝に謁見、砂時計を献上。大友義鎮や伊勢貞孝の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。 |
オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso; Orlandus Lassus)がミュンヘン宮廷楽長になる。 |
1561 |
アイレス・サンチェスが府内で15名の少年を選び、声楽と器楽を教授する。 |
パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)がローマの聖マリア・マジョーレの楽長(Santa Maria Maggiore 1561–1566)となる。 |
1562 |
肥前の大村忠純、横瀬浦を開港してポルトガル船を誘致。(翌年の1563年)大村忠純は洗礼
を受け、最初のキリシタン大名となる。三弦(蛇皮線)の輸入 |
ヴェネツィアの聖マルコ楽長アドリアン・ヴィラールト(Adrian Willaert)が歿す。トレント公会議で多声
的教会音楽の弊害が問題となる。 |
1563 |
大村忠純のコスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres, 1510-1570)からの受洗(最初のキリシタン大名)。ルイス・フロイスが来日。生月島で千人をこす人々が聖歌をうたいつつ行
列する。 |
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1564 |
平戸に教会堂天文寺を建てる。アルメイダらの指導の下に平戸の少年たち
は、主要なオラショや聖歌をラテン語と日本語でうたいこなす。高山右近父子受洗。 |
ガリレオ・ガリレイ、シェークスピアが生まれる。ミケランジェロ歿す。
カルヴァン歿す。 |
1565 |
ポルトガル船が福田港に入る。キリシタン宣教師が京都より追放される。 サンチェスが天草壱岐に赴いて、少年少女混声の聖歌隊を組織。府内学校日課には「毎土曜日にはヴィオラ・デ・アルコ伴奏で、種々のモテットを歌う」との記 憶がある。ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela, 1526-1572)は1565年(永禄8年)足利義輝が殺されると京を追放となり、堺に逃れた。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで奮闘した。この間(1560-1565)、高山友照、右近父子らに洗礼を授けた。 | ジョゼッフォ・ツァルリーノがヴェネツィア聖マルコ楽長となる。トマス・デ・サンタ・マリア(Tomás de Santa María)の『鍵
盤技法論』 |
1566 |
大徳寺の聚光院が建てられ、狩野永徳が襖絵を描く。 |
アントニオ・デ・カベソンが歿す。アンドレア・ガブリエリ(Andrea Gabrieli, ca1953-1585)、ベネツィアの聖マルコ聖堂のオルガン奏者に就任。 |
1567 |
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1568 |
肥前の大村忠純が、大村、長崎に教会を建てる。薩摩琵琶の祖、島津日新 (忠良)が歿す。島原口之津に少年 少女聖歌隊がつくられる。 | ネーデルランド独立戦争 |
1569 |
織田信長がフロイスに京都布教を許す。 |
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1570 |
大村忠純が長崎をポルトガル人に開港する。 |
パリに「詩と音楽のアカデミー」が設立される。 |
1571 |
レパントの海戦。ジョバンニ・アニムッツィア(Giovanni Animuccia)没する。ルッツァスコ・ルッツァスキ(Luzzasco Luzzaschi)『マドリガーレ曲
集』第1巻 |
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1572 |
サン・バ
ルテルミの虐殺。ビクトリア『モティトゥス曲集』第1集。ローマ教皇グレゴリウス13世即位。 |
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1573 |
三方が原の戦い。 | |
1574 |
狩野永徳「洛中洛外屏風」を、織田信長が上杉謙信におくる。 |
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1575 |
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1576 |
安土城が築かれ、狩野永徳らが障壁画(しょうへきが)を描く。このころ
に「聖母被昇天の教会」(京都南蛮寺)が改築される |
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)が沒する。エステバン・ダーサ(Esteban Daza, c.1537-c.1596)『ビウエラ曲集』[YouTube]。神聖ローマ帝国ルド
ルフ2世。 |
1577 |
京都南蛮寺の梵鐘(妙心寺春光院蔵)イエズス会章と1577年の銘。オルガンティーノが織田信長に会
う。高山右近の領地高槻にキリシタン信徒が増える(松田 1965:45)。 |
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1578 |
大友宗麟
(義鎮)受洗(8月25日)。神父はフランシスコ・カブラル、洗礼名はフランシスコ。 |
カベソン(Antonio
de Cabezón)『オブラス・デ・ムジカ』出版(Obras de música para tecla, arpa y
vihuela, Madrid, 1578)。 |
1579 |
巡察使アレッサンドロ・ヴァリニアーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)が島原口之津に上陸する(最初の来日)。二台のオ
ルガンを携行した。 |
ユトレヒト同盟。 |
1580 |
このころ、セミナリオ、コレジオが開校する。音楽教育を重視。有馬晴信
が洗礼を受ける。宮廷で幸若舞(こうわかまい)のあと三味線が演奏される。 |
ルカ・マレンツィオ(Luca Marenzio, 1553-1599)『マドガーレ曲集』第1巻。モンテーニュ『エセー』。ポル
トガルがスペインに併合される。 |
1581 |
織田信長が安土で洋楽を聞く。 |
ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei, c.1520-1591)『古代音楽と現代音楽に関する対話』(女王
バレー・コミック)。ゲレーロがイタリアに旅する。 |
1582 |
九州三侯の遣欧少年使節がローマに向かって出版。本能寺の変。 |
モンテベルディの最初の曲集出版。 |
1583 |
このころイタリア人画家ニコラオ(ジョバンニ・ニッコロ; Giovanni
Niccolò)が来日し、各地で絵を教える。彼は長崎と有馬で救世主の絵を描く。オルガンティーノが豊臣秀吉に謁見。大阪に天主堂の敷地を与え
られる。 泰西王侯騎馬図屏風(Giovanni Niccolòの作品ではなくその影響を受けた者の作) |
アンドレア・ガブリエリ(Andrea Gabrieli,c1533-1585)『詩篇曲集』[Missa brevis in F]。ジローラモ・フレスコバルディ(Girolamo Frescobaldi,1583-1643)生まれる。 |
1584 |
遣欧少年使節、リスボン到着。ニッコロ有馬の新聖堂にキリスト像を描
く。 |
ダ・パレストリーナ『雅歌によるモテトゥス曲集』、ラッスス『懺悔詩篇歌』
出版。ジョバンニ・ガブリエリ(Giovanni Gabrieli, c1554-1612)が聖マルコのオルガン奏者となる。 |
1585 |
遣欧少年使節、ローマ入り。グレゴリオ13世に謁見(同年没)。使節謁見見聞録が
刊行。サラマンカ版『サカラメンタ提要』刊行。 Portrait of Ito Mancio by Domenico Tintoretto 1585 |
ハインリッヒ・シュッツが生まれる。タリスが沒する。ソフォクレス「エ
ディプス王」がアンドレア・ガブリエリの合唱付きで演奏される。ティントレットが遣欧少年使節団の肖像を描く(のち消失)。教皇グレゴリウス13世沒す
る。シリトウス5世即位。ガブリエリ『16声部のためのミサ曲』 |
1586 |
豊臣秀吉、1586
年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給。 |
ヤコブ・ガルルス『モテトゥス集』。アンドレア・ガブリエリ沒する。ヨ
ハン・ヘルマン・シャイン生まれる。オシアンダー『コラール曲集』。楽譜の銅板印刷はじまる。ジェズアルドがヴェノーサ公となる。 |
1587 |
豊臣秀吉のバ
テレン追放令により、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制。 大村純忠、大友宗麟が沒する。 |
ジョバンニ・ガブリエリとアンドレア・ガブリエリ『コンチェルト集』を出版。 |
1588 |
細川忠興(ただおき)夫人ガラシャ受洗。 |
『ムジカ・トランサルビーナ』刊行。ウィリアム・バード『世俗曲集』。パレトリナー
聖週間のための『悲歌曲集』スペイン無敵艦隊の敗北。 肖像は、ウィリアム・バード。 |
1589 |
||
1590 |
遣欧少年使節団の帰国(活字印刷機を持ち帰る)。有馬の聖堂でミサを挙行。ヴァリニアーノは第2 回目の来日。活字印刷を伝える。ヴァリニアーノは八良尾で洋画を教える。長崎が教会領から秀吉の公領となる。 | モンテベルディがマントヴァ宮廷に仕える。ツァルリーノ沒する。 |
1591 |
『諸聖人の御作業』が加津佐学院から最初のローマ字綴りにより日本語で
印刷出版される。その扉絵の諸聖人の図は日本で最初の銅版画となる。帰国した遣欧使節団一行は京に上り、秀吉の門前で洋楽器による合奏をおこなう。国内にて『サントスの御作業の内抜書』ならびに『どちりなきりしたん』がこの頃刊行。 |
ハスラー『宗教曲集』。ガルトルディ『バレット曲集』 |
1592 |
文禄の役。朝鮮出兵。「王侯騎馬図屏風」は、このころに描かれる。天草
本『イソップ物語』『平家物語』。名護屋城完成。『どちりなきりしたん(ローマ字本)』がこの頃刊行。 |
モンテベルディ『マドリガーレ曲集』第3巻。 |
1593 |
フランシスコ会宣教師来日。八良尾(はちらお)神学校画学舎
で、日本人画学生が油絵の技法を習う。『隆
逹小唄集』(→隆達) |
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1594 |
伏見城完成 |
ラッスス、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ沒する。ヤコポ・ペーリによるオペラ『ダフネ』(現在は
消失)。カルロ・ジェズアルド『マドリガーレ曲集』第1巻。 |
1595 |
マドリード版『サカラメンタ提要』刊行。 |
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1596 |
土佐浦戸でサ ン・フェリーペ号事件おこる。銅版画「聖家族」浦上天主堂、1596、日本のセミナリオ有馬にての記述あり。人形浄瑠璃はじまる。秀吉は再度、禁教令を出す(対象は京都のフランシスコ会)。 | |
1597 |
慶長の役、朝鮮に再出兵。長崎で二十六聖人殉教。 |
ポルトガルのカレイラ沒する。ジョヴァンニ・ガブリエーリ『シンフォニア
曲集』。トマス・モーリー『音楽への手引き』。オラーツィオ・ヴェッキ『老いの戯言』。 |
1598 |
絵師の海北友松(かいほう・ゆうしょう)は石田三成と筑紫に旅行する。
エヴォラ版『イエズス会日本書翰集』が刊行さ
れる。秀吉死す。 |
ナントの勅令。フェリーペ2世沒する。 |
1599 |
生月島の領主・籠手田安一(こてだ やすかず)と一部正治、800人の信徒とともに、長崎に脱出。 |
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1600 |
関ヶ原の戦い。オランダ船リーフデ号で英国人ウィリアム・アダムズ(三
浦按針)が来日する。リーフデ号船首(下写真)。天草、有馬、長崎などでオルガンその他の洋楽器の生産がはじまる。長崎版『どちりなきりしたん(国字本)』『おらしょ』が刊行。 左:リーフデ号船首にあったエラスムス像。右:長崎版『どちりなきりしたん(国字本)』 |
ヤコポ・ペーリのオペラ「エウリディチェ」。ジョヴァンニ・ガブリエーリ「霊と肉の劇」。イギリ
ス東インド会社設立。 |
1601 |
||
1602 |
ドミニコ会、アウグスティノ会宣教師来航し布教を開始する。 |
ロドヴィコ・ヴィアダーナ(Lodovico Grossi da Viadana, c1560-1627)『通奏低音つき教会コンチェルト曲集』 |
1603 |
江戸幕府はじまる。出雲阿国(いずものおくに)の歌舞伎踊。ルイス・ソテロが東北地方への布教を開始する。 |
エリザベス女王沒する。シェークスピア『ハムレット』。フィリップ・デ・モンテ(Philippe de Monte, 1521-1603)沒す
る。トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548-1611)『6声部のためのレクイエム』演奏 |
1604 |
生糸貿易に糸割符制度をもうける。狩野内膳「豊国祭屏風」が描かれる。 |
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク『詩篇曲集』 |
1605 |
長崎コレジオから日本最初の印刷楽譜『サカラメンタ提要(Manuale ad
Sacramenta)』が出版。二代将軍秀忠。 |
モンテベルディ『マドリガーレ曲集』第5巻。ミヒャエル・プレトリウス(Michael Praetorius, 1571-1621)『シオンの
ミューズ』 ・Manvale ad Sacramenta Ecclesiae ministranda. D. Ludouici Cerqueira Iaponensis Episcopi opera ad vsum sui cleri ordinatum., 1605(『教会の秘跡を執行するための提要.日本司教ドン・ルイス・セルケイラがその配下の聖職者のために作成した(サカラメンタ提要)』) |
1606 |
||
1607 |
林羅山、
将軍侍講となる。 |
モンテベルディ・オペラ「オルフェオ」 |
1608 |
姫路城。日教上人像(油絵、伝・信方作)。オランダ船来航、国交はじま
る。 婦女弾琴図(大和文華館)——伝・信方 |
モンテベルディ・オペラ「アリアンナ」 |
1609 |
生月のガスパル西玄可(福者)殉教。 |
|
1610 |
モンテベルディ『聖マリアの晩課』 |
|
1611 |
隆達が 沒する。 | ヴィクトリア歿す。ヴァージナル曲集『パルセニア』 |
1612 |
名古屋城完成。家康、キリシタン禁教令を発布(慶長17)。伊東マンショ、長崎で病没。 | ジョバンニ・ガブリエリ、ハスラーが沒する。 |
1613 |
江戸幕府再度、キリシタン禁教令を発布。伊達政宗の家臣・支倉常長が西欧に出発。コレジオの教師リストに、オルガン奏者や聖歌隊指揮者としての日
本人の名前が記載される。竹管を用いた純国産オルガンその他の楽器類が作られ聖堂に設置される。 |
モンテベルディがベネチア聖マルコの楽長になる。ジェズアルド歿す。 |
1614 |
オランダが平戸貿易をはじめる。キリシタン禁教令により、原マルチノ(Martinão Hara, c.1569-1629)、キリシタン大名高山右近国外追放され
る。支倉常長、スペインに到着。八橋検校誕生。 右上より(時計回りに)、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、上中央はメスキータ神父。 |
グレゴリオ聖歌・メディチ版。モンテベルディ『マドリガーレ』第6集 |
1615 |
高山右近、マニラにて1月6日(1615年2月3日)沒する。古田織部
沒する。本阿弥光悦が鷹ヶ峰に光悦町をつくる。浄瑠璃太夫・杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)江戸に下る。支倉常長はマドリードで受洗。ローマでパウルス5世に謁見。 Hasekura portrayed during his mission in Rome by Archita Ricci, 1615 (かつて言われたClaude Deruetは誤り) |
カラヴァジョが描くPope Paul V |
1616 |
家康歿す。 |
シェークスピア沒する。 |
1617 |
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1618 |
能が幕府指定の典礼用の正式な音楽である「式楽」とされる |
30年戦争始まる。ヨハン・シャイン『新宗教小曲集』。メイフラワー号で清教徒
アメリカに到着。 |
1619 |
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1620 |
支倉常長、ローマから「常長像」「パウロ五世像」を持って帰国。 Claude Deruet (1588-1660) の作と言われている。 Painted by Antonio Scarbatti? |
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1621 |
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1622 |
英国が平戸より退去。ルイス・ソテロはマニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる、生月のジョアン坂本左衛門、ジョアン次郎右衛門、中江ノ島で殉教。支倉常長が沒する。ザビエル列聖。 |
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1623 |
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1624 |
スペインと国交断絶。猿若勘三郎が江戸に下り、猿若座(中村座)をおこ
す。ルイス・ソテロは、大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教する。ディオゴ・デ・カルバーリョが仙台で殉教。元和8年の大殉教 長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑 |
モンテベルディ「タンクレディとクロリンダの戦い」。サムエル・シャイト『タブ
ラトゥラ・ノヴァ』 |
1625 |
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1626 |
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1627 |
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1628 |
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1629 |
原マルチノ、マカオで沒する。 |
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1630 |
松倉重政によるルソン島侵攻計画。 |
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1631 |
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1632 |
マカオ滞在のヴァレンテの蔵書目録に『サカラメンタ提要』のほか、ラテ
ン語のミサ典書、定式書が記されている。 |
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1633 |
中浦ジュリアン、長崎で殉教。 |
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1634 |
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1635 |
狩野山楽歿す。薩摩小平太が江戸堺町で操芝居を興行。 |
|
1636 |
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1637 |
島原の乱。本阿弥光悦歿す。江戸幕府フィリピン侵攻計画を立案するが、島原の乱勃発で頓挫。 |
ヴェネツィアのサン・カッシアーノ座(Teatro San Cassiano)の公開[Wiki]。 |
1638 |
島原の乱の鎮圧。島原の乱に参加した南蛮画家・山田右衛門作が捕らえられて江戸に移送。『キリシタン・マリア典礼写本』が幕府により没収。 「天草四郎陣中旗」(伝山田右衛門作) |
クラウディオ・モンテベルディ『マドリガーレ曲集』 |
1639 |
鎖国令。ポルトガル人の来航を禁止する |
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1640 |
||
1641 |
||
*** |
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1853 |
ペリー提督、浦賀に来航 |
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1862 |
アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow, 1843-1929)初来日。6日後に生麦事件(Namamugi Incident, 1862)。 |
|
1865 |
長崎大浦天主堂建設、潜伏キリシタンが発見される。 |
|
1868 | 4月7日(慶応4年3月15日)太政官「切支丹及び邪宗門の禁令」の高札が掲げられる(→「五榜の掲示」) | |
1873 | 2月24日太政官布告第68号により「切支丹及び邪宗門の禁令」の高札を撤去 | |
1877 |
アーネスト・サトウは九州を旅行、西郷隆盛と会見。この年、西南戦争。 |
|
1879 |
片山直人『キリシタン・マリア典礼書写本』を文部省博物館(現、東京国立博物館)に寄贈。 |
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1895 |
サトウ、上野の博物館で「祈祷書の詩篇の古写本」を閲覧。 |
|
1899 |
サトウ、片山直人『日本竹譜』(1886)を英訳する。 | |
1923 |
新村出『キリシタン・マリア典礼書写本』を筆写。 |
●引証の「伝言ゲーム」か、本当のところの出典が不明な悲しい事例
小泉 優莉菜「かくれキリシタンと音楽 : 日本への西洋音楽の伝播と祈りの音楽の変容」比較民俗研究 (28) 179-202 2013年11月
「日本人の弦楽器の演奏は実に聞くに堪えないものであり、今後才能の無い者には一切鍵盤楽器を除く弦楽器の教授をしてはならない」12)
「カント・ドルガン(なんらかの多声合唱曲)の演奏も聞くに堪えない。今後はカント・チャン(グレゴリオ聖歌)のみ練習させること」13)
ともにヴァニーノ『イエズス会士服装規定』11)より(小泉 2013:【誤】183)。
11)竹井(1998:【誤】73-74)。12)【誤】海老沢(1983:104)。13)【誤】海老沢(1983:104)。
※出典箇所に対する引用者(池田)による訂正: 当該文献にあたり、11)竹井(1998:73-74)には、文献に対応するのは『セミナリヨの規則』『セミナリヨの少年のための日課時間表』ならびに 『羅蘭日辞書』の3点しかみつからない。じっさいに『イエズス会士服装規定』の記述があるのは、竹井(1998:76)である。また、12)海老沢 (1983:104)には、フロイスによる演奏の様子の記述はあるが「聞くに堪えないもの」等の引用文は一切発見できない。竹井(1998:76)が引用 しているのは、竹井の文献の第IV章の脚注10)にある文献は、海老沢ではなく、竹井(1998:56-57)本人のものである。しかしながら、肝心の竹 井(1998)の文献にも、『イエズス会士服装規定』の引証についての文献の指示がなく、その近傍の註から、村上直次郎訳『イエズス会日本通信(上)』真異国叢書1、1969:162 雄松堂書店の可能性があるが、確かめることができなかった。
● 横 田 庄一郎『キリシタンと西洋音楽』朔北社, 2000年
大 航海時代に日本にもたらされたのは、鉄砲とキリスト教だけではなく、音楽を含むヨーロッパの文物であった。当時の日本人は強い好奇心をもってこれを利用 し、楽しんだ。天正19年(1591年)、豊臣秀吉は、ローマから帰ってきた少年使節の奏する西洋の音楽を大いに喜んだ—ザビエルのもたらした宗教、そし て音楽。 目次 第1章 ザビエルの右手 第2章 西洋音楽の始まり 第3章 日欧音楽比較 第4章 少年たちの歌ごえ 第5章 神学校の音楽教育 第6章 少年の音楽使節 第7章 秀吉のアンコール 第8章 慶長十年のグレゴリオ聖歌 第9章 殉教する西洋音楽 第10章 四百年のオラショ
● 洋 楽渡来考 : CD&DVD版 / 監修・解説皆川達夫, 日本伝統文化振興財団(発売) , 2006
CD1:
サカラメンタ提要
CD2: キリシタン・マリア典礼書写本 : 耶蘇教写経 : 東京国立博物館所蔵
CD3: 生月島の「かくれキリシタン」の「オラショ」
DVD: 生月島のかくれキリシタン
●洋 楽渡来考再論 : 箏とキリシタンとの出会い / 皆川達夫著,日本キリスト教団出版局 , 2014
箏曲『六段』の原曲はグレゴリオ聖歌『クレド』だった?著者の指揮による双方の同時演奏DVDを交え、仮説を検証。前著『洋楽渡来考—キリシタン音楽の栄光と挫折』への補論も収録し、歴史に埋もれたキリシタン期の洋楽伝来の実態に光を当てる。
目次
1 マドリード版『サカラメンタ提要』(長崎版『提要』底本の有無;マドリード版『サカラメンタ提要』;マドリード版の内容 ほか)
2 キリシタン期の日本における「連祷」をめぐる諸問題(「連祷」とは;16世紀以降の「連祷」;キリシタン期日本における「連祷」 ほか)
3 箏曲『六段』の成立に関する一試論—日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い(クレドとは;クレドと六段の重ね合わせ;キリシタン期の日本におけるクレド ほか)
リ ンク
文 献
そ の他の情報
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