かならずよんで ね!

ソクラティック・ダイアローグ

Socratic Dialogue

池田光穂

日本語における「ソクラティック・ダイアローグ」略してSDは、2005年前後から、大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室を中心に、少人数のグループで、ファシリテーター(議論の産婆役のソクラテス)が参加者の対話者を促し、拡散的に議論を放談する方法論のことである(→「対話コンポーネンツ」)。この手法の実質的考案者である中岡成文さんから直接伺ったことがある。僕がすばらしいと思ったのは、このSDの特徴は、ファシリテーターが、1)まとめない、2)発話者の発言を遮らない(ただし一度の発語時間を制限する方法もある)、3)発語を強制しない、といういわゆる《3ない構造》か らなっているところがすばらしいと思った。このことにより、日本の社会に、フリースピーチに似た「とにかくみんなの前で話す習慣をつくる」「ディベートの ように相手を遮ったり論難したりせずとにかく他人の話を聞く」「発語の独占的時間を利用してより伝えたいことを効率的に話す」という3つの訓練や習慣をつ けることができるということで、鷲田清一が提唱した「対話の哲学」を、日本社会の中に確実に定着するよい技法だと、私は思った。

他方で、あの熱血教室教授のマイケル・サンデル先生( Michael Sandel, 1953- )の授業のように、学生や生徒に話かけ、そこから、自分の言いたいことを誘導する、リアル・ソクラテスの技法と、日本のSDはちょっと違うんじゃないかなと思うことがある。TV なんかで知ったサンデル先生の話は、編集もしてるようだが、きちんと時間内に、脱線もせず、結論が導きだせるように計画的作り込んでいるはずなのに、強制 されたように感じることはない。さすが、コミュニタリアン(=日本ではこの彼の政治思想について詳述されることがない。NHKか監修教授の仕業か?)の手 管かもしれないが、議論を通して合意に達するような「仕掛け」が、上記のSDにはない。実際のリアル・ソクラテスの技法(その意味ではよい意味での手管。 僕はソクラテスの技法はソフィストの知的伝統と交錯・共有していると思う)は、「私は何もしらない」「定義をおしえてくれ」「ふむふむ、それで……」「で は(君の思えでは)こうなるわけだけど、これではどうかな?」と言葉の正しい意味での産婆役に徹するところがえらい。つまり、それは人工知能にやらせても よいのだが、対話して人がなぜ満足するかというと、人は《自分の意見や見識を他者に言うことを通して、自分を確認したり、自分を主張する》ことができるか らだ。

このようなトレーニングを、遠隔授業でおこなうとす ると、学生は、事前にテキストや映像資料を見て、また関連する用語や概念をしらべて、はじめて授業に臨める。そして、授業は、先生が学生に教えるのではな く、先生が学生に対して「君が学んだことを教えてくれ」とお願いすることが主眼となる。先生は、適宜、学生の論理に入って、学生の論理により議論を組み立 て、それが先人たちが到達したことと照合し、その相違点と共通点を明らかにし、その相違点について、的確に指摘し、相対主義の立場にたって、双方の意見の 対立を弁証法的に解消してあげることだ。

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