はじめによんでください

ヴァルター・ベンヤミン

Walter Benjamin, 1892-1940


1892年 7月15日 ベルリンで生まれる(以 下の情報は日本語/英語ウィキ ペディア「ベンヤミン」等を参照にしています)

1912年 フライブルグ大学入学(→翌年ベルリ ン大学)

1913年 ゲルショム・ショーレ ムは《始まり》サーク ルの演説でベンヤミンをはじめてみる(ショーレム1973:197)。

1915年 ゲルショム・ショーレムを知る(ショーレム1973:197)。ミュンヘン大学

1916年 「言語一般および人間の言語につい て」

1917年  Dora Sophie Kellner (1890-1964)と結婚、スイスへ移住(→ベルン大学)「来たるべき哲学のプログラム」道籏泰三訳、晶文 社)

1918年 シュテファン(長男)生まれる。エル ンスト・ブロッホと知り合う

1919年 「ド イツ・ロマン主義における芸術批評の概念」(博士論文、ベルン 大学)

1920年 ベルリン、「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」を公刊

1921年 パウル・クレーの「新しい天使」を入 手。「翻訳者の使命」(Banjamin_NIkolai_Leskov1936.pdf)

1922年 「ゲーテの〈親和力〉について (Goethes Wahlverwandtschaften (Goethe's Elective Affinities, 1922))」

1923年 『パリの憂鬱』"Le Spleen de Paris"の翻訳を出版。テオドール・アドルノ、ジョルジ・ルカーチ、ジークフリー ト・クラカウアーと知り合う

1923 「翻 訳者の使命」:Die Aufgabe des Übersetzers. In: Charles Baudelaire, Tableaux parisiens (Ubertragung), Heidelberg, 1923

1924年 カプリ島に滞在(アーシャ・ラツィス と知り合う)「ドイツ悲劇の根 源」を執筆。「ゲーテの「親和力」について」を発表

1925年 「ドイツ悲劇の根源」を教授資格申請 論文として、フランクフルト大 学に提出するが拒否される。プルーストの「失われた時を求めて」の翻訳を始める。

1926年 パリに旅行する。「一方通行路」の一 部を執筆。父、死去する。マル セイユに旅行。モスクワに旅行

1927年 プルースト「花咲く乙女たちのかげ に」の翻訳を出版。パリに旅行し パサージュの研究を始める。

1928年 「ドイツ悲劇の根源 (Ursprung des deutschen Trauerspiels (The Origin of German Tragic Drama, 1928))」「一方通行路(Einbahnstraße (One Way Street, 1928))」を出版。ショーレムよりエルサレム大学に招聘される。年末からアーシャ・ラツィスと同棲する。

1929年 妻ドーラとの離婚訴訟を始め る。ブレ ヒトと知り合う。 少年少女向けのラジオ番組に出演

1930 年 パリ滞在。3月離婚が成立する。8月、北極圏旅行。11月母、死去 する。ヘッセルとの共訳でプルースト「ゲルマントの方へ」刊行。ショーレムによると、この時期以降、ベンヤミンの思考は根本的に変化(「彼の固有の哲学的 使命の否定」あるいは「転回」と表現)するという(ショー レム1973:198)。

1931年 「カール・クラウス(Karl Kraus (1931 in the Frankfurter Zeitung))」「写真小史」「破壊的性格」

1932年 2月、3月にフランクフルト放送局 で、放送劇が放送される

1933年 3月中旬パリ(フランス?)へ亡命。 社会学研究所の紀要に執筆協力 を開始。4月から半年ほど、イビサ島に滞在。10月、パリへ戻る。

1934年 「生産者としての作家」

1935年 「パリー19世紀の首都」(5月)、 「複製技術時代における芸術作 品 (L'œuvre d'art à l'époque de sa reproduction méchanisée) 」(10 月) の執筆着手(?)

1936年 「ドイツの人びと」(デートレフ・ホ ルツ名義で発表)。『社会学紀 要』にフランス語訳で「複 製技術時代にお ける芸術作品」Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit (The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction, 1936)が掲載。「物語作家(ニコライ・レスコフ 論)」を発表。


▲▲▲▲1937年 「エードゥアルト・フックスー収集家 と歴史家」「ボー ドレールにおける第二帝政期のパリ, Das Paris des Second Empire bei Baudelaire

"In 1937 Benjamin worked on Das Paris des Second Empire bei Baudelaire (The Paris of the Second Empire in Baudelaire), met Georges Bataille (to whom he later entrusted the Arcades Project manuscript), and joined the College of Sociology."(Wiki, W. Benjamin)


1938年 

"In 1938 he paid a last visit to Bertolt Brecht, who was exiled to Denmark. Meanwhile, the Nazi Régime stripped German Jews of their German citizenship; now a stateless man, Benjamin was arrested by the French government and incarcerated for three months in a prison camp near Nevers, in central Burgundy."(Wiki, W. Benjamin)


1939年 パリに留まり続ける。「叙事詩的演劇 とはなにか」「ブレヒトの詩へ の注釈」「ボードレールのいくつかのモティーフについて」など。9月から11月、開戦にともない敵国人であるベンヤミンはヌヴェール郊外の収容所に収監 (38年?)。

1940年 「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)英訳」執筆(4月ご ろ)(→「歴史的認識の主体について」)。パリを 陥落 直前に逃れてルルドへ向かう。8月はじめ非占領地域のマルセイユへ移る。アメリカへの渡航を企てるも出国ビザが下りず、非合法に徒歩でスペインへ入ろうと する。9月26日、スペインに入国しようとするが、ポルボウで入国を拒否され、大量のモルヒネを飲んで自殺を計り、翌朝死亡。(→「メシア的時間について」)。遺骸は、国境のスペイン側、地中海岸のポルボウに 葬られる

"Returning to Paris in January 1940, he wrote Über den Begriff der Geschichte (On the Concept of History, later published as Theses on the Philosophy of History). As the Wehrmacht defeated the French defence, on 13 June, Benjamin and his sister fled Paris to the town of Lourdes, a day before the Germans entered Paris (14 June 1940), with orders to arrest him at his flat. In August, he obtained a travel visa to the US that Max Horkheimer had negotiated for him. In eluding the Gestapo, Benjamin planned to travel to the US from neutral Portugal, which he expected to reach via fascist Spain, then ostensibly a neutral country."(Wiki, W. Benjamin)

草 稿類のゆくへ

"The others in his party were allowed passage the next day, and safely reached Lisbon on 30 September. Hannah Arendt, who crossed the French-Spanish border at Portbou a few months later, passed the manuscript of Theses to Adorno. Another completed manuscript, which Benjamin had carried in his suitcase, disappeared after his death and has not been recovered. Some critics speculate that it was his Arcades Project in a final form; this is very unlikely as the author's plans for the work had changed in the wake of Adorno's criticisms in 1938, and it seems clear that the work was flowing over its containing limits in his last years."

1950 年(死後出版):Berliner Kindheit um 1900 (Berlin Childhood around 1900, 1950)

自殺の経緯

"The historical record indicates that he safely crossed the French–Spanish border and arrived at the coastal town of Portbou, in Catalonia. The Franco government had cancelled all transit visas and ordered the Spanish police to return such persons to France, including the Jewish refugee group Benjamin had joined. It was told by the Spanish police[when?] that it would be deported back to France, which would have destroyed Benjamin's plans to travel to the United States. Expecting repatriation to Nazi hands, Walter Benjamin killed himself with an overdose of morphine tablets on the night of 25 September 1940 while staying in the Hotel de Francia; the official Portbou register records 26 September 1940 as the official date of death.[2][10][11][12] Benjamin's colleague Arthur Koestler, also fleeing Europe, attempted suicide by taking some of the morphine tablets, but he survived.[13] Benjamin's brother Georg was killed at the Mauthausen-Gusen concentration camp in 1942. Despite his suicide, Benjamin was buried in the consecrated section of a Roman Catholic cemetery."

「史料によれば、彼は無事にフランスとス ペインの国境を越え、カタルーニャ地方の海岸沿いの町ポルトボウに到着した。フランコ政権はすべての通過ビザを取り消し、ベンヤミンが加わっていたユダヤ 人難民グループも含め、そのような人々をフランスに戻すようスペイン警察に命じた。スペイン警察[いつ?]から、フランスに強制送還されると告げられた。 ナチスの手に送還されることを予期していたヴァルター・ベンヤミンは、1940年9月25日の夜、ホテル・ド・フランシアに滞在中にモルヒネの過剰摂取で 自殺した。ベンヤミンの同僚アーサー・ケストラーもヨーロッパから逃亡中で、モルヒネ錠の一部を服用して自殺を図ったが、一命を取り留めた。ベンヤミンの 弟ゲオルクは1942年にマウトハウゼン・グーゼン強制収容所で殺された。自殺にもかかわらず、ベンヤミンはローマ・カトリック墓地の聖別された区画に埋 葬された。」

★ベンヤミン用語集(ボルツとファン・レイイェン『ベンヤミンの現在』より)

アウラ
Aura

アレゴリー
Allegorie

引用(呼び出し)
Zitat

エッセー
Essay

解釈
Interpretation

記憶
Erinnerung

技術
Technik

極端(極限)
Extrem

グノーシス
Gnosis

形而上学
Metaphisyk

根源
Ursprung

作者
Autor

照応
Korrespondenz

商品の物神崇拝
Warenfetischismus

触覚性
Taktilität

ショック(衝撃)
Chok

政治神学
Politische Theologie

想起
Eingedenken

大衆
Masse

注釈
Kommentar

陶酔
Rausch

名前
Name

破壊的性格
Destruktiver Charakter

パサージュ
Passagen

反自然
Antiphysis

万物復興
Apokatasis

批評
Kritik

弁証法的イメージ
Dealekisches Bild

翻訳
Übersetzung

ミメーシス(模倣)
Mimesis

メシアニズム
Messianismus

メランコリ
Melanchorie

文字
Schrift

モナド
Monade

モンタージュ
Montage

遊歩者
Flaneur


Traum

理念
Idee

歴史主義
Historisumus





西暦2020年 ベンヤミンは聖なる 牛である.誰も彼を批判することができない.(Walter Benjamin is a sacred cow. No one can criticize him.- Slavoj Žižek.)

「ベンヤミンが神的暴力を解禁したおかげ で、われわれは法=倫理外の例外状況においてどんなことでも決断できます」ある数理神学者の弁)


関連リンク

  • ちくま文庫版「ベンヤミン・コレクショ ン」目次
  • 翻訳者の課題(原文、英語:対訳)
  • ゲルショ ム・ショーレム
  • 難解なものを難解なま まで理解することは可能なのか?
  • 文献

  • 野村修「ヴァルター・ベンヤミン年譜 1929-1940」『書簡II: 1929-1940』(ベンヤミン著作集15)所収、晶文社、1972年
  • ショーレム、ゲルショム「ヴァルター・ベン ヤミン」『ユダヤ主義と西洋』 高尾利数訳、河出書房新社、1973年
  • ベンヤミンの現在 / ノルベルト・ボルツ, ヴィレム・ファン・レイイェン [著] ; 岡部仁訳, 法政大学出版局 , 2000.3. - (叢書・ウニベルシタス ; 663)
  • 箴言等

    「徹底して反ゲーテ的な信条によるゲーテ解釈が終 わるところから出発するという 錯綜しながらも辿ってゆくことのできる一本の道は、希望に通じているのではなく、また死者たちの晴れ晴れとした目覚めにも通じておらず、むしろ絶望にゆき つく。そして、そこから歴史の天使のこととされる新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)へいたるのです」——ハンス・マイヤー『同時代人ベンヤミン』岡部仁 訳(一部表現を変えた)p.37、法政大学出版局、1994年

    「あらゆる言語は自己じしんのなかで自己を伝達す る。それはもっとも純粋な意味 で 伝達の「メディア」である。メ ディアであること、これはあらゆる精神的伝達の直接性であり、言語理論の根本問題である」。——ベンヤミン(gs2:142=3:16)今井康雄『教育思 想』p.62改変

    「言葉は何を伝達するのか? 言語は言語に対応す る精神的本質を伝達する。この 精 神的本質は、言語のなかで自己を伝達するのであって言語を通して伝達 されるのではない、ということを知っておくことがまず肝要だ」。——ベンヤミン今井康雄『教育思想』p.64


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