かならずよんで ね!

11:「空 気と空間づくり」から考えるイノベーション・キャンパスの実現:

「いのち=」 をすべての人間にもたらす会社になろう

(旧版)

On Changing our university atmosphere to Challenging campus!

池田光穂・松浦博一・宮本友介

◎ このページは、ダイキン工業株式会社による「基礎検討フェーズ報告書・研究テーマ提案」から「2020年度共同研究委受託研究」のフィージビリティ調査研 究である。調査研究班は、池田光穂・松浦博一(大阪大学COデザインセンター教員)と宮本友介(大阪大学大学院人間科学研究科)である。

空気とは雰囲気 を感じる前に、 我々が呼吸する息の「源(みなもと)」です。

空気は、我々が呼吸する息の「源(みなもと)」であ る。息ができなければ空気をきれいにしたり、「空気で答え」 を出しても、答えが出た時に、人が死んでしまっては意味がないではないか?(→ダイキン「空気で答えを出す会社」)

以下はウィキペディアの「息(いき, ドイツ語 Atem)」 からの《いのち》のサブセクションからの引用である:

「古代ギリシアでは息は「Ψυχή (プシュケー, Psyche)」と言ったが、この語はやがて命や魂・心まで指すようになった。(日本語でも「いき (息)」から派生して、「いきる(生きる)」という表現が生まれたという)。古くから息はいのちのもっとも明らかなしるしだとされていたわけであ る。 ヘブライ語では「 רוח (ルーアハ)」という語があったが、それが古典ギリシア「語に翻訳される時は別のギリシア語、πνευμα(プネウマ, pneuma)が当てられたが、この語はπνεω を語源としており、「大いなるものの息」という意味である。ラテン語に訳される時はspiritus(スピリトゥス)の語が当てられ、この語感は現代英語 のspirit(スピリット)へと継承されている。 生死を見分ける基本的な方法として まず息をしているかどうかを確かめるという方法は現在でも広く行われている。「まだ、いきがある」「だめだ、もういき をしていない」などと言う。 作品が影響力や“いのち”を持っている場合に「息が通った作品」などと言う。作品などが長く生命を保っていることを「息が長い」と言うことがある。 英語ではinspiration インスピレーションと言うと神の息吹を吹き込まれること、つまり霊感を吹き込まれることを言い、expiration エクスピレーションと言うと、息を吐くこと(抜けること)や、いのちが無くなること(=死)などを意味する。」

ウィキペディアのヘブライ語の風「 רוח (ルーアハ)」の項目である(ヘブライ語は母音表記がないのでそれを補い右か ら左によむ:翻訳は、google translator を元に修正)

רוּחַ היא תנועה של חלקיקי אוויר רבים יחד בכיוון מסוים. עוצמת הרוח יכולה להשתנות מרוח מלטפת וכמעט בלתי מורגשת ועד לסופות הרסניות, המגיעות למהירות של כ-300 קמ"ש ויותר. הרוחות מהוות מרכיב חשוב במדעי מזג האוויר (מטאורולוגיה) ומשמשות כלי חשוב לחיזוי מזג האוויר.

風とは、多くの空気粒子が特定の方向に一 緒に移動することである。風の強さは、そっと愛撫するような感知できない風から、時速300km以上の速度に達する壊滅的な嵐までさまざまである。風は気 象科学(気象学)の重要な要素であり、天気予報の重要なツールなのである。
הגורם המרכזי ליצירת רוחות הוא הפרשי לחצים באטמוספירה המתורגמים לאנרגיה קינטית שהיא רוח. הפרשי הלחצים נוצרים בעיקר מהפרשי טמפרטורה בטמפרטורת האוויר. סיבות נוספות ליצירת רוח הן הפרשים במשקל הסגולי של גושי אוויר והגאומטריה של פני כדור הארץ. הסברים אלו עדיין אינם מכילים את כל מגוון הרוחות ואת דרך יצירתן. למשל, עדיין לא ברור באילו נסיבות נוצר טורנדו. 風 の形成の主な原因は、風である運動エネルギーに変換される大気の圧力差である。圧力差は、主に温度差によって形成される空気の温度。風が形成される他の理 由は、気団の比重と地表の形状の違いによる。これらの説明には、まだすべての種類の風(=精神・いのち)とそれらが作成される方法が含まれているわけでは ない。たとえば、竜巻がどのような状況で発生するのかはまだ未解明なことが多い。


רוחות מעצבות את פני הקרקע, הדיונות וההרים. הרוחות יוצרות גלים בים, מפיצות את אבקני הצמחים וזרעיהן, הן מסייעות לעופות לרחף ולנדוד ומהוות מרכיב מרכזי במערכת הקירור של האדם. הרוח משמשת להפקת אנרגיה. הרוח משיטה אוניות, ורוח הסחר נקראה כך משום שהשיטה אוניות מסחר מפורטוגל דרומה לכיוון אפריקה ומשם זרם הגולף נשא אותם לאמריקה.
風。 風は土地、砂丘、山を形作る。風は海に波を作り、植物とその種子の花粉を分散させ、鳥が飛翔して移動するのを助け、人間には冷却システムの重要な要素とな る。風はエネルギーを生み出すために使われる。風が帆船を推進させる。そして貿易風はポルトガルから南にアフリカにそしてそこからメキシコ湾流がそれらを アメリカに運んだので(大西洋における帆船の交易によ)そのように名付けられたのである。
המילה 'רוח' בשפה העברית יכולה להתקיים הן בצורת זכר והן בצורת נקבה, אך בימינו נהוגה הצורה הנקבית へブライ語の「息=風=精神」という言葉 は、男性形と女性形の両方で示される可能性があるが、今日では女性形として使用される。

●聖書の中に登場する息

創世記2章7節:「2:7主なる神は土のちりで人を 造り、命の息(ニシュマット・ハイーム)をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」

※この場合の息は、ルーアではない。ネフェッシュ =生命=魂というのは、息をしてる状態なのである。ニシュマット・ハイームは複数形、単数の用法だとネシャマト・ハイームである。ネシャマは魂。ラテン語 のアニマは「動いている」。ネフェッシュのラテン語訳でアニマと訳す。プシュケーの 「シュー」は息の音である。類似の用例は多数ある。日本語の「いのち」は、森重敏(もりしげさとし, 1922-2007)によると、いのちの「い」は生きの「い」と、後(のち)、つまり息をした「後」に、いのちになっているのではないかと主張していた。

ヨブ記7章7節:「記憶せよ、わたしの命は息にすぎ ないことを。わたしの目は再び幸を見ることがない。」

ヨブ記27章4-4節:「わたしの息がわたしのうち にあり、神の息がわたしの鼻にある間、わたしのくちびるは不義を言わない、わたしの舌は偽りを語らない。」

ヨブ記33章4節:「神の霊はわたしを造り、全能者 の息はわたしを生かす。」

詩篇146章4節:「その息が出ていけば彼は土に帰 る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。」

イザヤ2章22節:「あなたがたは鼻から息の出入り する人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。」

エゼキエル 37章5節:「主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息(ルーアハ)を入れて、あなたがたを生かす。」

エゼキエル 37章9-10節:「時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息(ルーアハ)に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生 かせ」。そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれには いった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。」

この箇所の息は風(ルーアハ)である。すでに枯れ 骨になったイスラエルの民衆が、主なる神の指示により息(ルーアハ)を吹きかけることで、自分の足で立てる人間として甦ったということだ。

マタイ27章50節:「イエスはもう一度大声で叫ん で、ついに息をひきとられた。」

ヨハネ19章30節:「すると、イエスはそのぶどう 酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。」

ヨハネ20章22節:「そう言って、彼らに息を吹き かけて仰せになった、「聖霊を受けよ。」

使徒行伝17章25節:「また、何か不足でもしてお るかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、」

テサロニケ人第二2章8節:「その時になると、不法 の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。」

●「風は音がする」すなわち魂としての息は音で

使徒行伝2章1-2節:「五旬節の日がきて、みんな の者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってき て、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。」 ※この場合の風は、霊のようなものだ。

ダイキンの「空気で答えを出す 会社」における〈答え〉を、私たち=池田・松浦・宮本流に応答してみよう!!

大阪大学とダイキンとのコラボ研究なので、この研究 は大阪大学にもダイキンという会社にも福音をもたらすプロジェクトであると私たち=池田・松浦・宮本は信じている(→「(1)鉄は熱いうちに打て、(2)自分が置かれた状況を反 省せよ、(3)行動はすぐに適切にせよ」)。しかし、私=池田のいう、命をもたらす会社になろう、という提案には???なのだ。

だが、希望はまだある。ダイキンの関係者ある准教授 は(池田が颯爽と)「モンゴルでは馬に乗ると風を切るんです。日本ではそれはできぬ」という言葉に大きく感動してくださった。したがって、まだ、ダイキン の側にも、私を言うことを聞く耳はまだあるらしい——よいことじゃ!!!。

モンゴル高原で馬に乗る

もちろん、私も最初から、こんな天才的なことを言っ ていたのではない。最初は山本七平さんの『「空気」の研究』を関連づけて説明し ようとした。しかし、山本七平の空気は、雰囲気(atmosphere)であり、上掲の聖書の用例にみられるような息(breath)や息をする (breathing)ではない。したがって、ダイキンさんのいう「空気で答えを出す」ということは「息を吹きかけることで答えを出す」ことであり、息は 上掲のように「生きる」「命をあたえる」であるので、ダイキンは「人々に命(いのち)をあたえる会社」である。あるいは、ダイキンは「人々に命(いのち)をあたえ る会社」にならなければならない。空気 は生命(いのき)である。

エアコンディショニングは、ライフコンディショニン グである。エゼキエル37章のように、ダイキンは、その製品の通風口から「息(ルーアハ)を吹きかけることで、言語や文化の違いを超えて、人間を普遍的で 生き生きとした人間に甦えらせる」という会社の使命をもっているのである。

九鬼周造『「いき」の構造』の結論の脚注13より

「「いき」の語源の研究は、生、息、行、意気の関係を存在学的に闡明することと相俟あいまってなされなければならない。「生」が基礎的地平であることはいう までもない。さて、「生きる」ということには二つの意味がある。第一には生理的に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられている。した がって「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じている。「息」は「生きる」ための生理的条件である。「春の梅、秋の尾花のもつれ 酒、それを小意気に呑のみなほす」という場合の「いき」と「息」との関係は単なる音韻上の偶然的関係だけではないであろう。「いきざし」という語形はその ことを証明している。「そのいきざしは、夏の池に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ」という場合の「意気ざし」は、「息ざしもせず窺うかがへ ば」の「息差」から来たものに相違ない。また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。ambulo が sum の認識根拠であり得るかをデカルトも論じた。そうして、「意気方」および「心意気」の語形で、「いき」は明瞭に「行いき」と発音される。「意気方よし」と は「行きかた善し」にほかならない。また、「好いた殿御へ心意気」「お七さんへの心意気」のように、心意気は「……への心意気」の構造をもって、相手へ 「行く」ことを語っている。さて、「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料してい る。それは精神的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」お よび「行」は、「意気」の地平に高められたときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである」九鬼周造『「いき」の構造』結論の脚注13より)

●以上の報告をもって、シリーズ「「空気と空間づくり」から考えるイノベーション・キャンパ スの実現」を終える。

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謝辞:手島勲矢・COデザインセンター招へい教授(2021年5月3日)