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メキシコの歴史

History of Mexico

池田光穂

征服前史
【メキシコ中央高原】
1)メキシコ中央高原では、7世紀頃、テオティワカンが破壊され、トゥーラと呼ばれる群小都市国家群が割拠した。そのうち有力なのは、中央高原の南側に位 置するショチカルコと北側に位置するイダルゴ州のトゥーラ・シココティトランであった。トゥーラ・シココテイトランは、古文献のトゥーラにほぼ同定される ことからトルテカ帝国説を生み出したほどの力をもっていた有力なトゥーラであった。一方、テオティワカン崩壊後、マヤのセンターは一時的に繁栄するが、や がて戦争、乱伐による食糧不足、気候の変化、疫病、交易路の変化など複合的な要素によって疲弊し、9世紀頃に崩壊していく。これ以後からスペイン人による 征服までの時期を後古典期 (Postclassic period / stage) と呼ぶ。
2)メキシコ中央高原には、気候の寒冷化によって、北方からチチメカ人の侵 略が開始される。そのために多くのトゥーラ群は破壊されたり征服されたりした。14世紀後半、テスココ湖の西岸にあるアスカポツァルコを首都とするテパネ カ王国にテソソモクという英傑があらわれ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモク没後、15世紀前半、テスココ、トラコパンとともに三都市同盟を築 き、テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握ってアステカ帝国を形成する。アステカは、ベラクルス州からゲレーロ州までの一 帯、オアハカ州の一部と、ソコヌスコと呼ばれるチャパス州の太平洋岸までの地域を征服する空前の版図を誇る帝国を形成していた。一方、ミチョアカン州に は、ツィンツンツァンを都とするタラスカ王国があり、アステカ帝国と一歩も譲らぬ力を誇っていた。これら、メキシコに繁栄した古代文明は、ピラミッド型神 殿や都市を築き、独自の宗教観に裏付けられた天文学によって正確な暦を発明していたこと、特に数学の分野では、人類史上初めてゼロの概念を発明したといわ れる。


【ユ カタン】ユカタン半島では、チョンタル人ではないかと考えられる「プトゥン」商人によるユカタン半島沿岸での交易活動がさかんとなり、ユカタン半島北部の チチェン・イッツァ、マヤパン、ウシュマルなどの都市国家がその恩恵を受けて繁栄した。ユカタン半島北部には、古典期の終末からこの時期にかけて、前述の ウシュマルのほかに、ラブナー、カバー、サイールなどの都市国家ないしは祭祀センターが築かれ、プウク様式の名で知られる優美な建築物が建てられた。「プ トゥン」商人たちは、コスメル島にイシュ・チェル女神の「神託所」を築いたため、コスメル島は繁栄していた。

1519
エルナン・コルテスを長とする約500人のスペイン人がメキシコ湾に到達し、トラスカラ王国を味方につけて首都テノチティトランまでやってきた。当初、皇帝モクテスマ2世はコルテスを歓迎してテノチティトランに住まわせた。

1520
1520年に先住民の反乱がおきると一時撤退するが、アステカ帝国に圧迫されていたトラスカラ王国の助けを得て反撃した。アステカ側ではクイトラワクが皇帝に立てられてモクテスマ2世は殺されたが、クイトラワクもスペイン人のもたらした天然痘によって若くして没した。

1521
モクテスマ2世のいとこの皇帝クアウテモックはコルテスらと戦ったが、首都から船で脱出しようとしたところをコルテス軍につかまり、1521年8月31日、アステカ帝国は滅亡した。


アステカ帝国が滅亡すると。首都テノチティトランは破壊され、スペイン式の都市が建設されそれが今のメキシコシティとなった。メヒコはスペインの「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領」の中心地となり、アステカ、マヤ、カリブ海島嶼のスペイン植民地が再編された。


ス ペイン支配が始まると、スペイン人が持ち込んだ麻疹や天然痘などの疫病によって、多くの先住民が命を落とした。さらに、植民地当局の苛烈な統治によってメ キシコのインディオ人口は激減し、約2500万人いた人口が約100万人ほどに落ち込んだと推測されている。この数はアメリカ合衆国を大きく上回る数であ る。[要検証 – ノート]また、インディオとスペイン人の通婚も進み、メスティーソが生まれることになった。更にアフリカから黒人奴隷が連行された。

1546
1546 年にサカテカスで銀山が発見されたことを皮切りに、メキシコでは第一次銀ブームが起きた。こうして採掘された銀はアルト・ペルー(「上ペルー」の意、現在 のボリビアに相当)のポトシ鉱山と共にスペイン帝国の歳入を支えたが、、ユトレヒト同盟(オランダ)と戦争を行うスペイン軍の戦費や、スペイン王室と貴族 の奢侈、そして南米のポトシ銀山から流出した銀とともに太平洋を渡ってフィリピン経由で行われた清との交易(ガレオン貿易)に決済された。このため、銀貨 はスペイン本国やフィリピンやアメリカ大陸といったスペイン領内で有効に使われることは少なく、主にイギリス、オランダ、フランス、アジアに流出した。

1550 スペインの植民地支配システムはエンコミエンダ制と呼ばれ、植民者に征服地の統治を委任する内容だったため、恣意的かつ搾取収奪的統治が行われた。また、 スペイン人による先住民への苦役など苛酷な支配、従来の食糧生産システムの破壊による飢餓などが、先住民の死亡率を高めた。カトリック司祭であったラス・ カサスはこのような事態を憂慮して、スペイン王室へ直訴したため、1550年には「バリャドリード論争」とよばれる植民地問題に関する一連の議論が交わさ れた。
17世紀
17 世紀になると人口減少によってインディオ共同体の多くが崩壊したことと、それによるインディオの疲弊により、1631年にレパルティミエント制が廃止され た。これにより、クリオージョの地主とメスティーソ、インディオの小作人からなるアシエンダがメキシコ各地に誕生した。

18世紀
18 世紀半ばにボルボン朝のカルロス3世によってボルボン改革が進められると、農業開発やマニュファクチュアが振興され、経済開発が進んだ。1767年にはイ エズス会が追放された。ボルボン改革によってインテンデンテ制が導入されると官職はガチュピン(ペニンスラール、半島すなわちスペイン本国出身者を指す) によって独占され、クリオージョによる政治参加は絶望的な状況になった。

19世紀初頭
19世紀初頭にはメキシコは全世界の銀供給量の半分以上を供給していたが、メスティーソ、インディオ、黒人といった大多数の人々はほとんどその恩恵に浴することができず、深刻な貧困に喘いでいた。
1776年7月アメリカ独立宣言
1783年9月パリ条約で米英戦争集結
1787年5月合衆国憲法制定会議(〜9月)
1789年4月ワシントン、初代大統領就任
1794-1799
ス ペインによる支配は300年続いたが、18世紀後半のボルボン改革の後にメキシコも啓蒙の時代を迎えると、アメリカ独立戦争やフランス革命に影響された土 着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。1794年にはフアン・ゲレーロの陰謀が、1799年にはマチェーテの陰謀が発覚し、こうしたクリオー ジョによる独立運動は厳しく弾圧された。
1800年12月ジェファーソン大統領就任
1803年4月米国、フランスよりルイジアナを購入
1808
1808 年にフランス帝国がスペインに侵攻し、ナポレオン・ボナパルトは兄のジョゼフをホセ1世としてスペイン王位に就けると、それに反発する民衆蜂起を契機とし て、スペイン独立戦争が始まった。イスパノアメリカ植民地は同王への忠誠を拒否し、1809年にはキトとラパスで、1810年にはカラカスやブエノスアイ レス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタで自治を求めるクリオージョがフェルナンド7世への忠誠を唱えて植民地政府から行政権を奪取しよう と反乱を起こした。メヒコ市でも1808年8月にクリオージョ達が副王イトゥリガライを恫喝し、自治を求めて議会を開いたが、これはガチュピンのクーデ ターによって破綻した。
1808年5月ナポレオンによるスペイン支配(〜1814年4月)
1810
こ のため、1810年9月16日にミゲル・イダルゴ司祭によってスペイン打倒の「ドローレスの叫び」が発表され、メキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋 が切られた。当初イダルゴの反乱は反スペイン人反乱だったが、インディオ、メスティーソを巻き込んだ大衆反乱となるうちにクリオージョを含んだ富裕な白人 とそれ以外の階級闘争となり、クリオージョがイダルゴから離反した。このため8万人をも動員しながらメヒコ市の攻略に失敗し、1811年1月にイダルゴは 捕らえられ、7月に反乱を指導したことを悔いて処刑された。
・1812年3月カディス憲法公布

1813
イ ダルゴの部下だったメスティーソの神父、ホセ・マリア・モレーロスは民衆を率いて戦いを継続した。モレーロスはアカプルコやオアハカなどの主要都市を攻略 して基盤を築き、1813年11月にチルパンシンゴの議会でメキシコ共和国の独立を宣言し、1814年10月にはアパチンガン憲法を制定したが、クリオー ジョ富裕層の協力を得ることが出来なかったためにこれは挫折した。ナポレオン戦争が終結するとスペインはイスパノアメリカの反乱の鎮圧に本腰を入れだした ために、スペイン軍のアグスティン・デ・イトゥルビデによってモレーロスは敗れ、1815年11月に処刑された。以後は当初の指導者たちはほとんど処刑さ れ、以後独立運動はグアダルーペ・ビクトリアやビセンテ・ゲレーロなどが率いる山間部での散発的なゲリラ部隊のみとなった。
1819年2月米国はスペインからフロリダを購入(アダムズーオニス条約)
1820
遥 か南で解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティンが諸国を解放する中、黒人、インディオ、メスティーソらの下層民衆による反乱を恐れるペ ルー、アルト・ペルー、キューバ、プエルトリコ、中央アメリカ、メキシコのクリオージョはスペインの絶対王政を維持しようとしていたが、1820年にスペ イン本国で自由主義的なリエゴ革命が勃発すると、王党派・保守派クリオージョは本国で採択された自由主義憲法に反発してスペインへの抵抗を叫ぶようになっ た。この時流をうまくつかんだクリオーリョの軍人アグスティン・デ・イトゥルビデがメスティーソやインディオを含む独立派ゲリラ軍と、保守的クリオーリョ らを、「スペインへの反発と独立志向」という共通点でまとめることに成功し、副王以下の植民地軍は屈服した。1821年にはヌエバ・エスパーニャ副王領は 廃止され、メキシコは独立を達成した。

1821
9月、ヌエバ・エスパーニャ副王領は廃止され、メキシコは独立を達成した
1821
1821 年9月27日にアグスティン・デ・イトゥルビデ将軍がメヒコ市に入城し独立を宣言した。イトゥルビデはカトリック信徒の保護と財産の保護、人種的平等を 謳った。
・1822年5月イトゥルビデによる立憲君主制(〜1823年3月)=メキシコ第一帝政(First Mexican Empire
当初はスペインのフェルナンド7世が国王に迎え入れられる予定だったが、フェルナンド7世が拒否したために翌年5月には自らメキシコ帝国皇帝アグ スティン1世として即位した。しかし国家運営に失敗したため、1823年にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍が共和制を支持して反乱を起こすと、 アグスティン1世は失脚して退位し、1824年10月にはメキシコ合衆国憲法が制定されてメキシコは連邦共和国となった。また、アグスティン1世は 1821年に中央アメリカを併合したが、1823年3月に共和派による革命で打倒され、同年中米地域が中央アメリカ連合州として独立した。
1823年12月モンロー宣言
1824
1824年には初代大統領にかつての独立戦争の英雄グアダルーペ・ビクトリアが就任したが、独立戦争による産業の疲弊は激しく経済は壊滅状態だった上に、カウディージョと呼ばれる土着の軍閥政治家たちが権力闘争を展開し、国政は乱れた(→10月共和制への移行)。
・1824年憲法公布

1827
1827 年にスペインによる再侵略の可能性に備えてスペイン人を追放したため(第一次スペイン人追放)、流通業を担っていたスペイン人がいなくなるとメキシコの経 済は大混乱し、1827年には最初の債務不履行に追い込まれた。さらにイトゥルビデ追放後も保守派と自由主義派による政権争いが激化し、1829年に自由 主義者のビセンテ・ゲレーロがクーデターによって大統領になった。ゲレーロはスペイン人の完全追放(第二次スペイン人追放)、黒人奴隷制廃止、教会財産の 接収、キューバの独立の支援などを行ったため、メキシコの再植民地化を目指したスペイン軍による再征服が行われた。サンタ・アナ将軍の活躍によりスペイン 軍は撃退されたが、
・1830年に1月に保守派のアナスタシオ・ブスタマンテ副大統領が反旗を翻し、ゲレーロは追放された。第一次ブスタマンテ政権(〜1832年8月)
1828年12月ジャクソン大統領就任
1833
ブ スタマンテは大統領に就任後、ルカス・アラマン蔵相の保護貿易政策によって繊維産業を中心とした国内工業の育成が進んだが、中央集権政策は地方諸州の反発 を呼び、ブスタマンテ政権は崩壊した。保守政権が崩壊すると、
・1833年にサンタ・アナが選挙によって大統領に就任した。同年、ゴメス・ファリアス副大統領を追放。1833年法

1836
一 方、北部のコアウイラ・イ・テハス州には1821年以来アメリカ合衆国からアングロ・サクソン系の移民が黒人奴隷を引き連れて入植していたが、1829年 にゲレーロが奴隷制を廃止すると中央政府への不満が高まり、その後の中央集権政策への反対もあってアングロ・サクソン移民が1835年に反乱を起こすと、 1836年3月にテキサス共和国として独立を宣言し、テキサスにおいて奴隷制が復活した。
サンハシントの戦いでサンタ・アナ軍敗れる(1836年4月21日)
サンタ・アナ将軍はアラモの戦いでアングロ・サクソンの反乱者を 打ち破るが、サミュエル・ヒューストンの率いるテキサス軍にサン・ハシントの戦いで敗れ、捕らえられたためにメキシコはテハス州がテキサスとして独立する ことを承認した(1836年5月14日ベラスコ協定に調印)
アラモ砦事件(3月6日)
1839
テ キサスの独立後、メキシコは大混乱に陥った。財政状況の悪化により給与の遅滞が続いたために軍の反乱が頻発し、さらに地方諸州がテキサスに倣ってユカタン 共和国やリオグランデ共和国として独立を宣言した。また、列強も混乱するメキシコに介入を目論み、1838年から1839年にはフランス軍がメキシコに侵 攻した(菓子戦争)。この戦争でサンタ・アナは左足を失ったが、救国の英雄としてのカリスマ性を増幅し、以降サンタ・アナのメキシコ国政における立場は不 動のものとなる。
・1840年2月ユカタン州独立を宣言(〜1843年12月)
・1841年サンタ・アナ大統領に就任(〜1842年10月)
・1844年12月エレラがクーデタに成功、サンタ・アナを国外追放
・1840年1月リオ・グランデ共和国樹立(〜11月)
・1841年10月テキサス共和国ラマー政権はニューメキシコ占領に失敗
1845
一 方、アメリカ合衆国はテキサスに対する野心を隠さず、1845年7月にアメリカ合衆国がテキサス共和国を併合する。
・パレデスは、サン・ルイス・ポトシ綱領を発表。
・1846年5月にアメリカ合衆国はメキシ コ(パレデス大統領)に宣戦を布告し、米墨戦争が勃発した
。サンタ・アナ率いるメキシコ軍は1847年9月にメヒコ市を攻略されて敗北し、1848年2月にグアダルーペ・イ ダルゴ条約が締結されて戦争はメキシコの完敗に終わった。メキシコはテキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ以北の領土(いわゆるメキシコ割 譲地)をアメリカ合衆国に割譲し、実に国土の半分を喪失した。
・1845年3月1日米国タイラー大統領はテキサスの米国連邦加盟の共同決議に署名する。
1846
米墨戦争(Mexican–American War)が勃発(5月8日パロアルトの戦い)

「テキサスを併合したアメリカは、メキシコとの国境をリオグランデ川 (Rio Grande) 以北としていた。一方、メキシコは同様にリオグランデ川の北側を流れるヌエセス川 (Nueces River) 以南としており、両国の主張には相違があった。時のアメリカ大統領ジェームズ・ポークは、アメリカの主張するテキサス州の土地を確保するよう軍に命じた。 これを受けたザカリー・テイラー将軍の率いる軍隊はヌエセス川を南に超えて、メキシコの非難にもかかわらずブラウン砦 (Fort Brown) を築いた。1846年4月24日にメキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕らえたことから戦闘状態となった。パロアルト (Palo Alto) およびレサカ・デ・ラ・パルマ (Resaca De La Palma) での国境衝突および戦闘の後に、連邦議会は5月13日に宣戦を布告した。南部出身者と民主党がそれを支持した。一方北部出身者とホイッグ党員は一般に、戦 争の宣言に反対した。メキシコは5月23日に宣戦を布告した。

アメリカの宣戦布告後、アメリカ軍はロサンゼルスを含むカリフォルニアのいくつかの都市を占領した。モンテレーの戦いは1846年の9月に起こった。 1847年2月22日、ブエナ・ビスタの戦いでテイラー将軍がアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍配下のメキシコ軍を破り、アルタ・カリフォルニア とニューメキシコの占領を確実なものにした。ウィンフィールド・スコット将軍配下のアメリカ軍は、海上からベラクルス(大西洋岸)を攻略、引き続きセロゴ ルド(メキシコ中部)と進撃し、メキシコの中心部チャプルテペク城(メキシコシティ)も攻め落とした(進撃は3月9日に始められた)」米墨戦争
1847
戦 後、メキシコは再び大混乱に陥り、1847年にはユカタン半島のマヤ族が白人支配に反旗を翻してカスタ戦争が勃発した。1853年にはアメリカ合衆国南部 人の海賊 ウィリアム・ウォーカーが傭兵を率いて侵略を行い、バハ・カリフォルニア共和国を樹立した。ウォーカーはメキシコでは撃退されるが、後にニカラグアを占領 し、大統領となった。保守派の大物政治家ルカス・アラマンはこの混乱を収拾できる唯一の人物だと見込んで、失脚していたサンタ・アナを再びメキシコに呼び 戻した。
1847 年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了した(カリフォルニア征服)。1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イ ダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の 管理権を与えた。アメリカはこれに対し、1825万ドル(現金1500万ドルと債務放棄325万ドル)を支払った。

このメキシコ割譲により、メキシコは国土の1/3を失った。これによる国民の不満もあり、1864年8月22日には政権が交代し、また中央集権国家のメキシコ合衆国に戻った。不毛の砂漠地帯だったこれらの土地ではあったが、その1年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらに後の20世紀前半にはテキサス州で無尽蔵といわれた油田が発見され、石油ブームが起こることになる」米墨戦争
1853
1853 年6月にアラマンが死去するとサンタ・アナは再び独裁者となり、1850年代には失地の回復を目指すメキシコはイギリスやフランスなどの支援を受けて再戦 準備を整えるが、クリミア戦争により主要支援国の財政状態が悪化したため計画自体が頓挫した。1854年にはガズデン協定を結んでメシーリャ地方をアメリ カ合衆国に売却した。しかし、サンタ・アナの保守支配は国内の自由主義者の反発を呼び、1855年8月にフアン・アルバレスらによって率いられた自由主義 者によって追放された。
・1853年7月ペリー提督、浦賀に来航。
1855
1855 年にサンタ・アナが追放され、アルバレスらが臨時政府を樹立すると、臨時政府は自由主義に基づいた「レフォルマ」と呼ばれる改革が行われ、保守勢力の後ろ 盾となっていたカトリック教会と国家の政教分離、フアレス法(1855年)により司法制度の近代化が図られ、全てのメキシコ人の法の下での平等を実現し、 レルド法(1856年)により教会財産の没収、さらに自由主義的な1857年憲法の制定などが行われた。

1855
レ フォルマ:このレフォルマはメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされたことは事実だが、反面レフォルマは先住民共同体の解 体やカトリック的価値観の喪失をも伴ったため、既存の保守派の猛反発と共にインディオ農民の保守派への合流をも引き起こし、1856年には全国各地で農民 と保守派による大反乱が起きていた。

1857
このような情勢の中で1857 年12月1日に新憲法下初の大統領選挙によって自由主義穏健派のコモンフォルトが就任したが、12月17日にスロアガ将軍がクーデターを起こすとコモン フォルトは失脚した。しかし、ベニート・フアレス(Benito Juárez)最高裁長官は保守派への徹底抗戦を誓ってアメリカ合衆国に亡命した後、ベラクルスに上陸して臨時政府を樹 立し、レフォルマ戦争が勃発した

1860
フアレス政府は1860年12月25日にメヒコ市を攻略したが、戦争中に旧支配層は没落し、新興大土地所有者層が台頭した。また、3年に及んだ内戦の際に膨らんだ有償支援の返済が追いつかなくなり、後の債務不履行に繋がることになった。
・11月の大統領選でエブラハム・リンカーンが当選。12月にサウスカロライナ州の合衆国からの離脱を宣言
1861
1861 年5月にフアレスは選挙によって正式にメキシコの大統領に就任したが、地方では保守派軍がゲリラ化して抵抗を続け、さらに財政状況も長年の混乱のため絶望 的になっていた。その最中に英仏は莫大な債務支払いを要求したが、メキシコにはもはや支払い能力がなかったためにフアレスがこれを拒否し、7月17日に債 務不履行を宣言すると、イギリス、フランス、スペインは10月31日にメキシコ武力介入を決定し、ベラクルスが三国の軍隊によって占領された。
・2月には、ミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス州も合衆国から離脱する。アメリカ連合国を結成。
アメリカ南北戦争(the Civil War; American Civil War, 1861-1865年)
・4月サムター要塞の戦い

1862
1862 年4月にイギリスとスペインは撤退したが、フランス第二帝国のナポレオン3世はメキシコ全土の占領を計画していたために英西軍との撤退には応じず、フラン ス外人部隊を含むフランス軍の精鋭をベラクルスから中央高原に送った。1862年5月5日にプエブラの会戦Batalla de Puebla)でメキシコ軍はこのフランス軍を撃退するが、し かし、メキシコにおける「カトリック帝国」樹立という野心を持つナポレオン3世は更に増援部隊を派遣し、1863年5月17日にプエブラが、6月10日に はメヒコ市がフランス軍によって攻略された。フアレスは北部に脱出して抵抗を続けたが、フアレス派の拠点は南部のポルフィリオ・ディアス将軍が抵抗するオ アハカ州や、北部のフアレスが指導する数州のみとなり、若干の抵抗はあったものの戦争はフランス軍優勢で進んだ。
 
1863-1864
首都が陥落するとナポレオン3世はオーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝として送り込み第二次メキシコ帝国が樹立=第二帝政(1864年)された。この措置は保守派のメキシコ人によって支持されたが、マクシミリアンは信教の自由の容認、教会財産国有化などの措置により保守派メキシコ人が離反した。
・メキシコ第二帝政(1861-1867)
・1863年3月グラントが北軍総司令官に就任。
1865
1865年に南北戦争を終結させたアメリカ合衆国がフアレス軍に物資の供与を始めると事態は流動的になり、1866年フランス軍の撤退が決定されると後ろ盾を失った皇帝マクシミリアンは自由派軍に敗れて6月19日に銃殺され、メキシコ帝国は崩壊した。
・1865 年3月には北軍の最後の攻勢であるアポマトックス方面作戦が開始され、4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は4月3日に南部の首都リッ チモンドから撤退し、西へと退却した。しかし追いすがる北軍と4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、リーが降伏して南北戦争は事実上終了 した(南北戦争)。
1866
1866年フランス軍の撤退が決定されると後ろ盾を失った皇帝マクシミリアンは自由派軍に敗れて6月19日に銃殺され、メキシコ帝国は崩壊した。7月13日にディアス将軍の率いる自由派がメヒコ市に入城し、7月15日にフアレスが帰還してメキシコに共和制が復活した
1867
・1867年5月15日メキシコ皇帝マクシミリアン処刑。
・1857年憲法を軸に新たに打ち建てられた復興共和国では自由主義者が主導権を握ることになったが、自由主義者の中にも文民と軍人の二つのグループが存在した。フ アレスに代表される文民は、フアレスを除いて概ね高等教育を受けた白人であり、理想主義的な傾向を有していたが、ディアスに代表される軍人は概ね高い教育 を受けていないメスティーソであり、現実主義的な傾向が強かった。どちらも自由主義者達であり、メキシコの近代化=西欧化を図る点では同じであったが、こ の差異は近代化政策を実行する際の手段の差になって顕在することになった
Restored Republic (1867–1876)


また、この 時代にオーギュスト・コントの実証主義がガビノ・バレダによって導入され、当時のブラジル帝国と同様に以降半世紀に渡って実証主義は教育に影響を持ち、実 証主義者の合言葉だった「自由と秩序と進歩」はメキシコの標語となった。実証主義的な理念により教育はカトリック教会から世俗化され、義務教育が導入さ れ、「野蛮」とみなされたメキシコの土着文化やカトリック的な伝統は弾圧され、全国民にスペイン語教育と自然科学、数学教育を通した合理的な人間を生み出 すような教育が行われたが、他方でこのような姿勢は非スペイン語住民であるインディオの言語や文化の弾圧にも繋がった。マクシミリアン処刑 後、フアレス政権は戦争によって膨張した軍備の削減に努め、大軍縮を実践した。経済面ではメキシコにおける資本主義の発展が目指され、外国資本の導入によ る国内開発が進み、1873年にはベラクルス=メヒコ市間を結ぶ鉄道が完成し、メキシコの経済空間に大きな影響を与えることになった。

1871
1871年の大統領選挙では現職のフアレスと共に、フアレスの後輩であったセバスティアン・レルド・デ・テハーダとポルフィリオ・ディアス将軍が立候補し、フアレスが勝利したものの、

1872
1872 年7月にフアレスが急死したためにレルドが大統領に就任した。しかし、1876年にはフランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアス将軍がレルドの再選に 反対して反乱を起こし、11月に反乱軍は首都を攻略した。ディアス将軍は1877年に選挙を行い、大統領に就任した。
・Porfiriato (1876–1910)

1877
ディ アスは議会のレルド派や地方のカウディージョに特権を与えて体制に組み込むことによって軍事独裁体制を樹立し、自身による統治のみならず、傀儡大統領を据 えて中央集権体制を確立することによって、軍事力を背景にした「ディアスの平和」とも呼ばれることになるメキシコ史上初の長期安定を実現した。
The rule of Porfirio Díaz (1876–1911) was dedicated to the rule by law, suppression of violence, and modernization of the country.[48] This period of relative prosperity is known as the Porfiriato. As traditional ways were under challenge, urban Mexicans debated national identity, the rejection of indigenous cultures, the new passion for French culture once the French were ousted from Mexico, and the challenge of creating a modern nation by means of industrialization and scientific modernization.[49] Díaz remained in power by rigging elections and censoring the press. Possible rivals were destroyed, and popular generals were moved to new areas so they could not build a permanent base of support. Banditry on roads leading to major cities was largely suppressed by the "Rurales", a police force controlled by Díaz. Banditry remained a major threat in more remote areas, because the Rurales comprised fewer than 1000 men.[50] Díaz was an astute military leader and liberal politician who built a national base of supporters. He maintained a stable relationship with the Catholic Church by avoiding the enforcement of constitutional anticlerical laws. The country's infrastructure was greatly improved through increased foreign investment from Britain and the US, and a strong, participatory central government.[51] Increased tax revenue and better administration dramatically improved public safety, public health, railways, mining, industry, foreign trade, and national finances. Díaz modernized the army and suppressed some banditry. After a half-century of stagnation, where per capita income was merely a tenth of the developed nations such as Britain and the US, the Mexican economy took off and grew at an annual rate of 2.3% (1877 to 1910), which was high by world standards.[51]


一方で、ディアスは実証主義を信奉するシエンティフィコ(科学主義者)と呼ばれるエリートを登用し、権威主義体制の下でフアレス政権から続いていた国家の近代化=西欧化が推進された。こ の時期には積極的な外国資本の導入が行われ、工業化が進み、銀、銅、石油の開発を軸に進んだ鉱山の開発、鉄道の敷設、輸出作物用のプランテーションの建設 などが外国資本によって行われ、経済は発展した。特に合衆国資本による鉄道建設は目覚しく、1876年に600kmであった鉄道の総延長は、1910年に は約20,000kmに達した
La modernidad igualmente llegaría paulatinamente, a través de ideólogos que desde el siglo xviii proponían ideas transformadoras: el reformismo juarista, intentos de reforma en 1892 y 1903 por parte de los "científicos" del Porfiriato,12​ la revolución de 1910 y la Constitución de 1917. Al menos entre las élites porfiristas se identifica plenamente la intención de vivir y pensar de un modo secularista, copiando rasgos de Europa.12​ Otros autores sitúan el fin del latifundismo con la Reforma Agraria de Lázaro Cárdenas.Tampoco el fin de la modernidad está bien definido, pudiendo abarcar desde el fin del Maximato, con el que se estabiliza y establece el Estado mexicano, hasta cuando se hace efectiva la reforma agraria.
ディアスの改革主義、ポルフィリオ主義者の「科学者」による1892年と1903年の改革の試み、1910年の革命、1917年の憲法など、18世紀以 来、変革のアイデアを提案してきたイデオローグを通じて、近代も徐々に到来していったのである。また、ラティフンディズム(=大土地所有制)の終焉をラサ ロ・カールデナスの農地改革とする著者もいる。 近代の終焉の時期も明確ではなく、メキシコの国家が安定し確立したマキシマートの終焉から農地改革が有効になった時期までとされる。


こうしてディ アスは経済の発展や治安の回復を実現したが、他方で農村部は大きく疲弊し、労働者は困窮した。特に実証主義者が信奉した社会ダーウィニズム的な観点からイ ンディオやメスティーソの文化への弾圧が進み、更に外国資本の進出による工業化やプランテーション大農園の成立によって、その多くは奴隷的零細賃金労働者 としての厳しい生活を強いられることになった。このため、インディオの反乱や労働争議が相次いだが、それらの殆どは軍隊によって弾圧された。また、 1892年の鉱山法によって地下資源の国家所有の原則が見直されると外国資本が鉱山開発に殺到し、1910年には国内の鉱山の3/4が外国人の所有となっ たように、経済の体質が非常に従属的かつ脆弱なものになった


こ うして独裁制の下での発展による都市部の人口増加や、社会矛盾は大きくなり、各地でゼネストが発生するなど、社会不安が増大した。そして、貧富の差の拡大 により窮乏する民衆や社会不安などを背景にして、独裁制そのものに経済発展によって成立した中産階級から変革の声が上がり、やがて不満は革命となって爆発 することになる。

1906
ディ アス体制は経済拡大によってメキシコ史上初めての長期安定体制を築いたが、他方では大多数の民衆や労働者は植民地時代以来の貧困状態に置かれており、独裁 制への不満を背景に、1906年に中産階級と労働者階級によってディアス独裁の打倒を目指すメキシコ自由党が設立され、失敗に終わったものの幾度かの蜂起 が起きた

1908-1910
このような不安定な情勢の中で、1908年にディアスが1910年の大統領選挙に出馬しないことを表明すると、メキシコ有数の資産家だったフランシスコ・マデーロが「公正な選挙とディアスの再選阻止」を掲げて選挙活動を行い、遂に1910年4月に大統領選挙に立候補したが、投票直前にマデーロは逮捕された

1910
しかし、マデーロの追放と、マデーロ自身による扇動をきっかけにしてメキシコ民衆によって同年11月にメキシコ各地で反乱が勃発し、チワワ州のパンチョ・ビリャの反乱軍が北部を掌握する

1911
1911年2月にマデーロは亡命先のアメリカ合衆国から帰国し、3月には南部のモレーロス州からエミリアーノ・サパタの率いる反乱軍が決起するなど革命はもはや抑えがたい動きとなってメキシコ全土に波及した

1911-1913
し かし、マデーロは5月11日にディアス政権と和平協約を結び、革命運動の中止を布告した。1911年11月の選挙でマデーロは圧倒的な支持を得て大統領に 就任したが、革命派内部の路線の違いが明らかになった。特に土地改革を求めるサパタ派(サパティスタ)は11月25日にアヤラ計画を発表し、メキシコ史上 初の農地改革を支配地で実践し、政府軍と敵対することになった。また、ビクトリアーノ・ウエルタ将軍によってパンチョ・ビリャは逮捕され、初期の革命派の 主要人物の殆どがマデーロ陣営から消えると、事態を収拾できなくなったマデーロ政権は1913年2月9日にアメリカ合衆国の大使と結びついたウエルタ将軍 のクーデターによって崩壊し、マデーロ一派は虐殺された。

1914
し かし、ウエルタ政権はアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン政権によって不承認されたため、コアウイラ州のベヌスティアーノ・カランサやソノーラ州のア ルバロ・オブレゴンが蜂起し、革命は第二段階に入った。一方、北部のチワワ州ではパンチョ・ビリャが亡命先のアメリカ合衆国から帰国し、1914年にビ リャの率いる北部軍は北部を完全に掌握した。また、モレーロス州のエミリアーノ・サパタ率いる南部軍は支配地で農地改革を実践し、強力な基盤を築いた。 ウィルソン政権は革命派を支援する目的で1914年4月にアメリカ海兵隊をベラクルスに派遣し、ウエルタ政権による海外貿易を封鎖すると、勝機を失ったウ エルタは7月に亡命した。

1917
ウ エルタ政権の崩壊後、革命四派路線の違いから二陣営に分かれて対立することになった。1914年12月に北部のビリャと南部のサパタがメヒコ市に入城し、 主導権を握ったが、カランサとオブレゴンはこれに対して共同して戦いを挑み、1916年にはカランサによる主導権が確立した。しかし、大地主出身で保守的 なカランサは対外的には強硬策を採ったものの、内政面では革命による社会改革を拒否し、これをみかねたオブレゴン派の急進自由主義者によって1917年憲 法が制定された。

1919-1920
そ の後も内戦は続き、1919年にはだまし討ちでサパタを暗殺し、カランサは内戦を終結させて全メキシコの支配権を確立したが、既に労働者や農民の支持を 失っており、更には同盟者だったオブレゴンをも敵に回したため、1920年に旧サパタ派と結んだオブレゴンの反乱によってカランサ政権は崩壊し、同年5月 9日にオブレゴンはメヒコ市に入城した。


オ ブレゴンはゲリラ戦を続けていたビリャ派を武装解除し、サパタ派が求めていながらカランサ時代に停滞していた農地改革も再び実施された。1920年9月に オブレゴンは正式に選挙を経て同年12月1日に大統領に就任した。現在12月1日はメキシコの大統領の日となっている。

1923
オブレゴンは農地改革と軍制改革を実行し、地方軍閥をメキシコ連邦軍に統合したが、この措置はメキシコ軍内の反対に遭い、1923年にデ・ラ・ウエルタ将軍が軍の約4割を動員して反乱を起こした。オブレゴンは反乱軍を破ったが、両勢力の弾圧によって多くの犠牲者が出た。

1924-1929
1924 年に就任したプルタルコ・エリアス・カリェスはオブレゴンと同様にソノーラ州の出身だったが、国家の非宗教化政策を進めたためにカトリック教会との対立が 強まり、1927年1月1日にカトリック信者の一群が蜂起し、クリステロ戦争が勃発した。その後、1928年にオブレゴンが暗殺されると、1929年の国 民革命党の結成を境にカリェスは黒幕として再び政界に進出し、メキシコの政治を事実上支配した。


1920 年代はオブレゴンを初めとしてソノーラ州出身者によって大統領職が独占され、再建期と呼ばれることになった。この時期にメキシコの民族意識の高揚や、地方 軍閥の統合、経済の再建、農地改革が進み、ニカラグアでのサンディーノ戦争ではアメリカ海兵隊と戦うサンディーノを支援するなど独自外交も続いたが、 1929年の世界恐慌勃発後には、革命政権は右傾化し、腐敗の様相を帯び始めていた。

1925
文化面では、革命後の民族意識の高揚と共に初代教育相ホセ・バスコンセロスによってメキシコ壁画運動が推進され、バスコンセロスの発表した『宇宙的人種』(1925年)によってメキシコの国民意識の起源をインディヘナに求めるインディヘニスモ運動が確立した。

1934 1934年にカルデナス政権が成立した。当初カルデナスはカリェスの傀儡政権としての色彩が強かったが、1935年6月に民衆の支持を背景にカリェスをア メリカ合衆国に追放し、カリェス派は政治から排除された。カリェス派の追放後、カルデナスは革命後停滞していた農地改革や、労働者保護、軍制改革を行い、 さらにボリビアに次いでラテンアメリカ二番目となるアメリカ合衆国資本の鉄道や石油会社の国有化を断行し、1940年にはメキシコ石油公社が設立され、国 民経済の確立に努めた。また、文化面ではインディヘニスモの称揚や、国立工業大学の設立が行われた。スペイン内戦に対しては共和派を支援して政治亡命者を 多数受け入れ、ソビエト連邦から追放されたレフ・トロツキーの亡命をも受け入れるなど自主外交が進み、カルデナス政権期にメキシコ革命は一つの完成を遂げ た。
1940
1940 年に成立したマヌエル・アビラ・カマチョ政権は、カルデナス政権期に悪化した資本家、地主、カトリック教会、アメリカ合衆国との関係改善に努めた。第二次 世界大戦期の1942年5月、メキシコの領土への攻撃ではなく、メキシコのタンカー「ポトレロ・デ・リャノ(Potrero del Llano)」が13日に、「ファハ・デ・オロ(Faja de Oro)」が20日に、ナチス・ドイツのUボート(それぞれU-564とU-106)によって沈められたことから、22日メキシコはナチス・ドイツ、大日 本帝国およびイタリア王国に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。太平洋戦争には空軍の一部を派遣してフィリピンの戦いで日本軍と交戦している。ラテン アメリカ諸国ではメキシコとブラジルだけがドイツ及び日本と海外で戦うために軍隊を派遣した。

1945-
第二次世界大戦後のメキシコは順調な経済成長を見せ、政権も制度的革命党(PRI)政権によって文民統治が維持された。1946年にはメキシコ革命党が制度的革命党(PRI)に再編され、メキシコにおけるコーポラティズム(組合主義)国家体制が完成した。


こ うして成立したコーポラティズム体制は、それまでの革命路線を修正して労働者や農民よりも資本家や大地主に重点を移しながら経済開発を進めていった。 1950年代から1970年代までの間、他のラテンアメリカ諸国ではクーデターが頻発し、軍事独裁政権が数多く誕生していったが、メキシコは文民統治体制 を維持しながら「メキシコの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成、1968年にはラテンアメリカ地域初の近代オリンピックであるメキシコシティオリンピッ ク を開催している。他方この時期は外交において親西側諸国の立場から親米政策を維持しながらも、キューバ革命後のキューバに対する米州機構による制裁の反対 や、日本、ユーゴスラヴィア、インド、インドネシア、カナダといった新興国との関係拡大などに努めた。

1968
し かし、経済発展による格差の拡大や、隣国アメリカに比べ自由の制約されたメキシコに不満を持つ者がこの時期に学生や知識層から出現する。1968年のメキ シコシティオリンピック直前には、反政府デモ隊を軍隊によって弾圧し300人もの死者を出したトラテロルコ事件や、1971年6月10日の「血の木曜日事 件」など、体制による強権的な反対運動の弾圧が進むにつれ、徐々にPRI体制下での近代化の歪みが露わになっていった。

1970
1970 年に成立したルイス・エチェベリア政権は政治への不満を和らげるため、政治犯の釈放を行った。対外的には資源ナショナリズム前面に出した積極的な第三世界 外交を行い、従来よりも更にアメリカ合衆国や西側世界とは一線を画した外交路線を採ったが、政権末期には対外債務が276億ドルにまで膨張した。

1976
1976 年に成立したホセ・ロペス・ポルティーヨ政権は、前政権以来の経済危機を克服するために国際通貨基金(IMF)の勧告を受け入れ、労働者の賃金抑制や緊縮 政策を採り、さらには石油ブームの助けもあって一時的に経済危機を回避した。内政面では政治改革を行い、国会の議席定数を増やしたほか、比例代表制の導 入、極左・極右政党の認可を行い、反政府派の不満の解消をはかった。外交面ではエチェベリーア以来の第三世界外交を継続し、南北問題を議論する初の南北サ ミット(英語版)を主催した他、第一次ニカラグア内戦に際してはソモサ王朝と戦うサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)への全面的な支持を表明した。

1982
しかし、石油に依存した経済の脆弱さは隠し難く、1982年には876億ドルを超える累積債務問題が表面化し、メキシコの国民経済は危機に直面した。

通 貨危機の中で行われた選挙により、1982年にPRIからデ・ラ・マドリが大統領に就任した。デ・ラ・マドリは国際通貨基金(IMF)の勧告に従って緊縮 財政の続行やペソの切り下げを行い、新自由主義化によって財政の健全化を目指したが、その代償に国民生活は窮乏した。1986年にメキシコの債務は 1,000億ドルを越えた。外交面ではコンタドーラ・グループを結成し、エルサルバドル内戦、第二次ニカラグア内戦の停戦に力を注ぎ、同時にアメリカ合衆 国との関係改善も行った。

1988
1988 年の大統領選挙は、PRIから分離して国民民主戦線(FDN)を結成したクアウテモク・カルデナスとPRIのカルロス・サリーナス・デ・ゴルタリの一騎討 ちとなり、50.36%の得票で辛うじてサリーナスが勝利したが、史上かつてないほどのPRIの低得票率に加え、クアウテモク・カルデナスのように党内か らも離反者が相次ぐなど、PRI一党制の限界は誰の目にも明らかになっていた。サリーナス政権下では、原油価格の上昇が産油国メキシコの追い風となり、経 済は堅調を維持した。サリーナス政権は「サリーナス革命」を掲げながらも社会改革よりも経済開発を優先して前政権以来の新自由主義を推進し、1992年に 憲法を改正して共有農場たるエヒードの廃止と、農地利用の市場経済化を推進し、ここにメキシコ革命の理念の一つだった農地改革の精神は失われた。

1992
憲 法を改正して共有農場たるエヒードの廃止と、農地利用の市場経済化を推進し、ここにメキシコ革命の理念の一つだった農地改革の精神は失われた。さらにサ リーナスは市場原理に基づいてメキシコとアメリカ合衆国の経済統合を進め、1992年にはアメリカ合衆国、及びカナダと北米自由貿易協定(NAFTA)を 締結したが、NAFTAは先住民や農民の生活基盤を破壊する性質を持っていた

1994
NAFTA 発効の1994年1月1日に最南部のチアパス州からマヤ系インディオを主体としたサパティスタ国民解放軍(EZLN)がインディオの生活基盤やメキシコの 農業を破壊するNAFTA発効に抗議して武装蜂起し、近代以降のメキシコのあり方の根本に異議を唱えた。サリーナス政権末期の同年3月には大統領候補のル イス・ドナルド・コロシオが暗殺され、国民の政治不信は一層深まることになった。


大 統領候補の暗殺直後に行われた1994年の大統領選挙では、コロシオに代わって選出されたPRI候補のエルネスト・セディージョが大統領に就任したが、セ ディージョは就任直後からサリーナス前政権の汚職や、EZLNの蜂起への対応に追われることとなった。経済の停滞は如何ともし難く、1994年12月20 日にはヘッジファンドによって通貨危機(テキーラ・ショック)が勃発した。

1996-1997
1996年には中米自由貿易圏の設立の運びとなった。一方EZLNとの関係では、1996年2月にサン・アンドレス合意が締結されたが、以降交渉の進展はなく、1997年にはメキシコ軍の支援する準軍事組織によってチアパス州のインディオ虐殺事件が発生した。

2000
2000 年の大統領選挙で国民行動党(PAN)から出馬したビセンテ・フォックス・ケサーダが勝利すると、前身となった国民革命党設立以来71年間続いたメキシコ の一党独裁体制は終焉を迎えた。フォックス政権誕生によりPRI一党体制は崩壊したが、フォックス政権下でも国民の所得向上やEZLNとの交渉は進展しな かった。

2006
2006年の大統領選挙では国民行動党(PAN)、制度的革命党、民主革命党(PRD)の三党の候補が入り乱れた選挙戦が展開され、PANのフェリペ・カルデロンがPRDのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールを僅差で破って大統領に就任した。

2012
エンリケ・ペーニャ・ニエトEnrique Peña Nieto (1966–) PRI

2018
アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールAndrés Manuel López Obrador, AMLO(1953–) 国民再生運動 (MORENA)













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Mitzub'ixi Quq Chi'j