コロナ時代にコミュニケーション能力をつける方法?——そんなものなどない!!!
An Inquiry for Power of Communication; Co-Design Advanced Seminar
Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij
"This now brings us to the factual core of the "pseudoevent," a label applied to the
new media, in general, because of their power to give new patterns to
our lives by acceleration of older patterns. It is necessary to reflect
that this same insidious power was once felt in the old media,
including languages. All media exist to invest our lives with
artificial perception and arbitrary values." -McLuhan, Understanding media.
コミュニケーションの能力をつけるには、とビジネスパースン 向けのサイトには、次のようなことが書いている。コミュニケーション能力とは「人の 気持ちや感情をくみ取りながら、意思疎通ができる力」であり「私たちが生きていく上で大切な「人間関係」を築く力」だという(出典:恥ずかしいので ここでリンクして晒すことにする)。最初はジョークだと思ったよ、俺は。これは、なにかの努力すれば、コミュニケーション能力がつくと宣っている。(引用したサイトには、コミュニケーションは「伝え ること」と「受け取ること(=聴くこと)」なので、 そこに書いてある=何かの努力を実行すれば、という論理である)。僕はバカバカしくおかしくて笑いがとまらない。
《コロナ時代にコミュニケーション能力をつける方法?——そんなものなどない!!!》
なぜ上のサイトの説明が愚かなのか? どんなに、話し下手でも、伝達してくる内容が、受け手にとって重要であれば相手は、必死こいて 聞いてく る。要はコミュニケーション能力とは、その人に効果的に伝えることができるということに呪縛されているのが、上のバカな解説なのである。要 は「私は/僕は /俺はコミュニケーションが下手だ」というコンプレックスがある人に、「これでコミュニケーション能力がつきます」という、言葉巧みな営業トークをしてく ると、大概の連中は食いついてくる。それは、《これでコミュニケーション能力がつきます》というメッセージの内容に食いついてくるのであって、かわいそう なビジネスの餌食になる人は、実際には、そのプログラムをうけてみないと、コミュニケーション力がついたかどうかわからない。実際、そのようなセミナーを 受けてみると、多くの心理学や認知科学の知識を薄めて解説してるにすぎない。そして、そのような受講生をよく観察してみると、上のような「送信・受信」コ ミュニケーションという擬似科学的な理論を理解しているというよりも、実習で場数を踏んでたくさんコミュニケーションをやってるやつが、コミュニケーショ ン能力の向上を達成しているのだ。言い方を変えると、人は産まれながらにコミュニ ケーション能力がある/ないのではない。人は、コミュニケーション過程を 通して、すなわち場数を踏んで、コミュニケーション能力をつけていくのである。
そして、人のコミュニケーション能力とは、実習の時の課題に即応できることではなく、むしろ、君の題材への興味関心がコミュケーションを沸騰させ
る(リチャード・ワーマン先生も言っているぞっ「学習とは君が興味をもっているものを記憶することなんだ」と!!)。すなわち、各人のコミュニケーション能力の向上が重要なのではなく、どのようなコミュニケーションの素材(それを「私はコミュニケーションのパワー」
と呼ぶ)を発掘し、それをコミュニケーションしたい相手にもってくるのかということだ。
コミュニケーションの一番短い定義は「メッセージの伝達(通信)のこと」である。ノーバート・ウィナー(1961)によると、メッ セージとは 「時間内に分布した測定可能な事象の離散的あるいは連続的な系列のこと」 であり「電気的・機械的な方法、あるいは神経系などによって伝送されるもの一切を 含んでいる」(ウィーナー1962:11)。
このような〈情報の共有性〉の確保について、もっとも簡潔で合理的なモデルを与えたのが、クロード・シャノンとワレン・ウィーバー(1949) であった。情報が正しく伝わったり、伝わらなかった(言い換えると、情報が共有されたり、共有されなかったり)するには、情報の発信者と受け手が、別々の 存在であるということが、このモデルの前提になる。それらの間で情報がやりとりされ、最終的に〈共有〉されるわけである。シャノンは情報を数学的にとら え、電気通信的なモデルで表現した。それによると情報源は確率過程として理解され、エントロピー関数により情報量を定義した。シャノンとウィーバーの理論 の要衝は情報をいかに迅速かつ正確に伝えることを実現する数学モデルにあった。しかし、人間を含む生物一般や、生物 の体内のシステムにおいても、このような機能プロセスはよく観察されるために、コミュニケーション一般のもっともシンプルで合理的なものとして利用するこ とができる。
Doppler
Weather Radar in Oklahoma
さ
て、物理でドップラー効果ということについて学んだ学生がいるだろう。ヒューマン・コミュニケーションにおいても、相手が動いているときに、こちらに近づ
いてくれば反響波の波長は圧縮し、遠ざかっていけばその波長は伸長するだろう。「人間の心にもドップラー現象というものはあるのだ」という比喩も、ここで
よく考えてみればよい(特に恋愛)。
シャノンとウィーバーに戻ろう。それは情報源(下図で「情報発信者」と表記)は、伝えたいメッセージを選択し、それを信号に変え、コミュニケーションチャンネル(コミュニケー ション媒体で、音波、電線、電波、インターネットのケーブルなど)を通して、受信体(「受信者」と表記)に送られる。この伝達過程で、情報はさまざまな妨 害をうけ、正確に伝えられないことがある。それをこのモデルはノイズと定義する。受信者は受け取った信号を再びメッセージに解読して、情報発信者の発した メッセージを解読している。情報発信者のメッセージと受信者による解読内容が合致した(共有された)時、コミュニケーションが成立したというのである(下 図:Shannon and Weaver, 1949, p.7より)。
すなわち、コミュニケーション能力とは、メッセージの伝送のことであり、それは一生かけてもよいものでもあり、また0.5秒で済ましてあとは気に せず、それに関わる必要のないものでもある。言い方を変えると、すばらしいヒューマン・コミュニケーション能力とは、送るべき相手をふさわしいタイミングで 判断し、的確に送り届ける能力ということである。
そして、コロナ時代にコミュニケーション能力をつける方法?そんな奥義(the secret)などはない。学生のみなさんにできることは、次のようなことである;(1)あらゆる手段をつかって、いろいろなところに、自分に関する情報を「上手に加工してか ら」伝送しなさい。次に(2)先方からの情報を到来を待ちなさい。その際に、世の中には、君の情報をうまく掠めとって悪用したり、君のプライバシーをいろ いろなところに晒したりする悪者に気をつけなさい。先生や先輩だからといってまともとは限りません。ビジンやイケメンも同じ。相手は君のことが知りたく て接触してくるのではない時もある、君から搾取しようとする危険性もある(=要は健全な疑心暗鬼能力を身につけること)。そして、(3)信頼できる相手と、すこしづつ情報のギャップを埋めていこう。もちろん、刎頚の友 のも「銭の切れ目が縁の切れ目」という言葉があるように、どこかで計算していることもあるはずだ——そしてもちろん君も(鏡像的に)コミュニケーションの損得勘定を勘案しなくて はならない。人生のなかでは「結果的に」裏切る/裏切られることもある。要はリスクテイクとリスクヘッジのバランスである。したがってまとめよう!(4)結論である。人はなぜコミュニケーションをしたがるのか?それは、自分自身を知るためにおこなうのだ(→セミコロン(;)の使い方はここを参照)。他者とのコミュニケーションを求める君は、本当は自分自身のことを知りたいと欲しているのである。
以上、証明終わり(Q. E. D. [ Quod Erat Demonstrandum])
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