文化人類学に体系はあるのか?
Is There A System in This Anthro Class?
解説:池田光穂
結論:
文化人類学は「ある程度」体系的に学ぶことができます。しかし、文化人類学の学問は「純粋 に」体系的に描くことができるような学問ではありません。このことが文化人類学をわかりにくくしている原因でもありますが、同時に、この非体系的学問の様 相が、この学問をして社会に「開かれた」ものになる可能性をもたらす結果となっているのです。
体系的なものを拒絶する文化人類学者の特異体質性は、体系的なものがもつ(ヨーロッパ起源 の)ある種の自民族中心主義への反発や、そこからすり抜ける文化現象の柔軟性について、文化人類学者がフィールド経験を通して、理論的言語を与える前から 知っていることに由来するようです。
私(池田)じしん上手に表現できませんが、「文化人類学を(過不足なく)体系的に教える」 という命題に、他ならぬ文化人類学者じしんが多少なりとも居心地の悪さを覚えることは、この学問の開放性に由来しているようです。
これまでの[文化]人類学の教科書は、この学問が体系的であるかの印象をもたせてありまし た。その理由は以下のとおりです。
1.アリストテレス、トマス・アクィナスの諸著作、さらには『百科全書』のように、西洋 の学問的伝統には体系としてまとまった「知的構築物」であるという伝統が綿々と続いてきたこと。
2.[文化]人類学は、人間についての学問であり、他者の理解を通して自己および我々じ しんの理解であることから、人間生活一般を「全体論的」にみるという、学問の実践に関するつよい使命感(imperative:文法用語の命令法)が持た されてきたこと。
というわけで、人類学の勉強をするときには、人間一般について精通しなければならないという ことになりました。もちろん、文化人類学者は、先に述べたようにフォールドワークを通して民族誌を書く存在ですから、そのことを個別の時代的・社会的状況 から実践するという、個別性から普遍性へ想像力を職業的に働かせる性向があります。
したがって、人類学の教科書は人間の諸生活の側面を、(1)個別に分解し、(2)体系的に位 置づけ、(3)個々のテーマにある人間生活の多様性を強調しまくり、さらに(4)それらを普遍的なルールにまとめる、という無謀な企てを試みます。そし て、多く——いやすべての!——の教科書の場合、それらの試みが中途半端に終わっています。
これがプロの人類学者で間で(まことしやかに)言われている次のような格言に集約できます。
「人類学によい教科書はない」 「よい民族誌家、名うての人類学理論家が、かならずしもよい教科書を書くとはかぎらな い」 「教科書を勉強しただけで人類学は学べない」 「教科書を書くようになったら人類学者はもう終わりだ」 「年寄りが教科書を書く」 |
というわけで、体系的記述を命令法的に思考せざるをえない人類学者は、教育の現場ではなんと なく不完全燃焼、そして自己意識としてのフラストレーションがたまっているのです。だから、学生諸君にとって、教養の文化人類学の授業は、個々の事例の紹 介はおもしろい一方で、理論的紹介や議論はおおむね退屈になるのです。
そのことを覚悟した上で、私(池田光穂)は、「体系化は不可能と知った上で、あえて体系的に 紹介する」という無謀を試みました。人類学の知識体系はあくまでも擬似的なものにすぎない、という自覚のもとにです。それが、下記にリンクする「小猿のリ スト」です。プロの人類学者なら、それらがまっとうな教科書のどのような項目に相当するのかが、ある程度おわかりになると思います。ギャグをかましている のは、人類学の知識体系はあくまでも擬似的なものにすぎない、ということを自己韜晦的表現しているからです。
ここでは「自己韜晦(じことうかい)」(=自らその本当のところをごまかしたり隠したりする こと)という用語に注意してください。つまり、このページの作者は文化人類学の知識体系の完成は不可能だと思いつつ、それでも体系的なるものにあこがれ、 またそれを志向するような議論の展開をおこなっている、ということをです。
※この部分を(韜晦の意味を理解せずに)安易に引用されたり、この文脈全体をわかろうと せずに、引用されて答案用紙やレポートに引用する学生・院生がおられます。これらの文章は、断片的に流用される時には、危険なものになりうることを、予め ご了承ください。
だから、文化人類学者のコミュニティにおいては、つねに「なになに人類学とは欺瞞である」 「なになに人類学は文化人類学が寛く全体を見回す学問ゆえに限界がある」という指摘がなされるのです。(→「なになに人類学」とは?)
それらの点を踏まえてごらんください。
● プログラマーと文化人類学者[エッセー]
文化人類学者の仕事は、(比喩的表現ですが)社会をモデルとするプログラミングの仕事とよく似ています。社会現象を、一定の理解のもと にプログラミングをして、うまくそのシステムが作動するからと言って、そのプログラミングが必ずしも成功するわけではない。あるいは、ほとんど矛盾のない サブルーチンを組み合わせても、作動しないこともある。あるいは、プログラムを十全に作動するためには、幾度も動かしてバグ取りをしなければならない。小 さなバクが、プログラミングの致命傷になる時もあるし、まったく動作に影響を与えないこともある。やって(=書いて)みなければわからないプログラミング (=民族誌)。
■ 重要なリンク!
◆ 文化人類学の学び方[オリジナルサイト]
とりあえず、予備知識なしに勉強したい方には次のリンクはどうだろうか?
もうすこし、専門的で詳しい話が聞きたい方は次のリンクを参照のこと!
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099