はじめに かならず読んでください  民族誌の批判的 読解(I)はこちらです

民族誌は果たして本質主義の根源的表象なのか?

Does ethnography represent of cultural essentialism?

解説:池田光穂

近代民族誌は、登場した時から研究者の間では「事実の素朴な反映」という 概念はすでに乗り越えられており、観察者(民族誌家=民族誌学者 ethnographer)が構築する「理論的枠組によって支えられた体系的記述」という意味合いで用いられてきた。

しかしながら、書かれたもの(=刻まれた もの inscribed)という、西洋の伝統的な表象についての概念の影響を受け継いで、一般には、人々(=民族)について時間を超えた固定的で、本質的(= 人々の文化を実体化する)ものであると理解されてきたことも事実である。また民族誌家も、しばしばそれらの批判に対して無防備であり、ゆゆしき場合は「事 実の素朴な反映」として民族誌の社会的意義を説くものすら登場する始末である。

そのために、民族誌に書かれた事実関係と その解釈をめぐる議論の場においては、民族誌を「事実の素朴な反映」として議論の中心に据える見解 と、「理論的枠組によって支えられた体系的記述」という見解がしばしば混同されることがあり、その状況は現在でも続いている。

→ 民族誌の体系性を過度に強調すると、 民族誌を「何かの主題的テーマにそって記述された」面が注目され、テーマの体系性は、文化要素 内における個々の一般化された事象(政治、経済、象徴、宗教などなど)に〈還元〉されて論じられることになる。この議論の弊害は、文化が外在化されること であり、その結果、文化事象をある一般化されたことがらで論じられ、事象の独自性や文化現象が社会のなかにおいてのみ意味をもつという面がないがしろにさ れることである(cf. 小泉 2002:220)。

ま た、民族誌の対象が民族(ethnos)ないしは民族集団(ethnic group)であった関係で、民族集団を本質主義的に理解するものであるという誤解か ら完全に自由ではない。(このような誤解は、民族誌家が行っているこ とが「理論的枠組によって支えられた体系的記述」であるという事実に注意すれば容易に回避できる[はずであった])。

1980 年代の表象の危機と呼ばれた民族誌記述への反省時期以降、「事実の素朴な反映」 「理論的枠組によって支えられた体系的記述」という 従来の貼り付けられてきた意味のほかに、「研究対象との相互作用の産物」や、民族誌そのものの「時代的・社会的構築物」さらには「民族誌家の創造的思考の 産物」ひいては「かつて研究対象となった人々が自己の集団の文化的アイデンティティを構築する際の再帰的リファレンス」という意味まで付与されるように なった。

「表 象の危機」問題の、真の本源は、エドワード・サイードオリエンタリズム批判にあると私は考える。そこでは、対象と対象を描写すること、知と権力 の結びつき、人間の描写能力の可能性と限界、そして、歴史的存在としての人間という〈多様な集団〉への理解、ということだ(→「文化人類学とは?」)。

現 代社会において、民族誌の意義が多義的であることは、文化人類学を天職とする研究者に とっては福音であるが、初学者や門外漢にとっては、 むしろ「非科学的」ステレオタイプが貼られやすいことも事実である。

し たがって、21世紀の人類学者はさまざまなタイプの民族誌を世に送りだし、また個々の民 族誌がもたらす社会的意味について、初学者ならび に門外漢に広報する義務をよりつよく意識するようになってきている[はずである]。

◆ わかりやすい民族誌は可能 か?

 トランスナショナリティ研究の「フィールド」(あ るいは、マルチサイト民族誌とは?)

 民族誌家と人類学者が区分された時代があった!(下の コラムを参照)

民族誌家と人類学者が区分された時代があった!

「図式的にいうと、19世紀末以前には民族誌家と人類学者、すなわち習俗と描写=翻訳者と一般的理論の構想者と は別々の存在だった。 (民族誌と人類学との緊張関係について明確な感覚をもつもとは、最近の、もしかすると一時的な両企画の融合を正しく見定めるためにも重要である)」(クリ フォード 2003:43)[Predicament of Culture]

 インフォーマントと人類学者の区分は便宜的なものであ る(リンク先の記事を参照)インフォー マントと人類学者の区分は便宜的なものである!


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文献