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「文化」概念の検討:ルース・ベネディクト:粘土でできたコップ

「文化」概念の検討:連続講義

解説:池田光穂

ルース・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict, 1887-1948)にとって、文化とは、当事者が当たり前のものとして自明視している、暗黙の前提のようなもので ある。ベネディクトはしばしば、それを視覚と装着しているレンズ(=眼鏡)の比喩で語る。

"No man ever looks at the world with pristine eyes. He sees it edited by a definite set of customs and institutions and ways of thinking." (Benedict, Patterns of Culture, 1934:2). ——「人は誰しも、純粋な目で世界を見ることはできない。慣習や制度、考え方によって編集された世界を見るのだ。」

"There is another circumstance that has made the serious study of custom a late and often a half-heartedly pursued discipline, and it is a difficulty harder to surmount than those of which we have just spoken. Custom did not challenge the attention of social theorists because it was the very stuff of their own thinking: it was the lens without which they could not see at all." (Benedict, Patterns of Culture, 1934:9).——「習慣を真剣に研究することが、遅々として進まず、しばしば中途半端な学問になっているのには、もうひとつ事情がある、  そして、この難関を乗り越えるのは、今お話ししたこと以上に難しいことなのである。慣習が社会理論家たちの関心を引かなかったのは、慣習が彼ら自身の思考 そのものであったからである。」

これはルース・ベネディクトが書きとめた ディガー・インディアンの首長ラモンの語りである。 ラモンの言う器 は、彼らの伝統的な儀礼体系にみられる独特の概念であるのか、それとも彼自身の思いつきであったのかは、彼女自 身も分からないという。彼女は白人によって滅ぼされてゆく彼らの文化体系──彼女は価値基準と信条の構造(fabric )と表現する──の崩壊の象徴として「我々の器は壊れてしまった」という表現をとりあげた。ベネディクトは、ラ モンたちが水を掬っていた器が失われて、もはや取り返しがつかないと述べるが、かと言って彼らが完全に絶望的な 状況の中に生きているというわけではないとも言う。白人との交渉の中で生きるという、別の生き方の器は残されて いるからである。つまり、苦悩の宿命を担ってはいるが、彼らは2つの文化の中で生きているからだ。他方、ベネデ ィクトによると北アメリカの「単一のコスモポリタンな文化」における社会科学、心理学、そして神学でさえも、ラ モンの表現する「真理」を拒絶してきたし、そのような語りに耳を傾けてこなかった。

はたして自分たちの器を失い、別の器しか残 されていないラモンにとって、新たな器をもちうる ことが可能だろう か。また彼らの器についてのみ議論すれば、我々はそれで事足りるだろうか。ラモンの器は、ラモン個人が生み出し たメタファーであるのと同時に、ディガーの人びとが共有できるメタファーであり、また人類学者ベネディクトとの 対話の中で生まれた共感のメタファーでもある。ラモンの器は、一種の象徴表現のひとつであるが、器それ自体は、 我々の用語法に従うならば媒体(メディア)のことに他ならない。(→池田光穂「メディアは我々 自身を形づくる」

[おことわり]ディガー・インディアンとい うのは、アルフレッド・クローバー1970 [1961]:23-25.によるとカリフォルニア先住民のことであるが、採集狩猟生活から掘る人すなわちディガーと白人から命名された蔑称に由来する。 適切ではないが、自称名や、より適切な民族名称が見つかった場合には呼称を変更する予定であるが、ここでは引用どおり使っている。


『菊と刀』(1946)

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