マヤ人の健康の過去・現在・未来
The future of the Mayan trajects to the Past and the Present of Maya
Medicine
6.マヤ人の健康の過去・現在・未来:The future of the Mayna trajects to the Past and the Present of Maya Medicine
産婆で治癒の女神でもあるイシュチル(Ixchel)は、征服期当時 はユカタン半島のコスメル島やムヘーレス島では巡礼による崇拝対象になっていた(ランダ『ユカタン事物記』)。1950年ごろまでのマヤ医学への関心は、 スペイン征服前の古代マヤ人が維持していた宗教的儀礼の派生として指摘されていたにすぎなかった(Guerra 1964; Thompson 1970)。生物資源のスクリーニングをおこない生薬などの有用な薬物資源の発見に寄与するために作成された、民族植物学のリストの中にマヤ医学に対する 近代医療の実利的関心をみることができる(e.g. Roys 1931)。
長い間、古代マヤの研究者には伝統医療への関心は総 じて低く、マヤの豊富な医学的伝統知識はアマチュア研究者の尚古趣味を満たすだけであった。古代マヤ医学への近代的な学問的関心は全く関係のないところか ら派生する。すなわち遠く離れた古代エジプトの医学的技術の研究——パピルスに書かれた医学的知識やミイラ製作に関わる解剖学的知識の検討、あるいは遺体 そのものの古病理学(こびょうりがく、paleo-pathology)上の分析など——が刺激になり、医学史研究者たちが近代医療の知識を活かして、そ の技術水準の評価を試み始めたのである。古病理学は、遺跡から発掘される骨や身体の一部(排泄物が化石化した糞石など)から当時の人たちの健康状態を調べ るもので、今日ではDNA分析に代表されるように、より詳細な分析化学の手法が発達している。1960年代の東西陣営による冷戦の最中、近代医療の科学的 思考様式(=パラダイム)が成熟しつつあった時期に、今日的なマヤの医学史の研究が華開いた。古代マヤ医学も、次々と発見されてゆく考古学上の知見の影響 をうけて徐々に具体的な研究が試みられるようになった。
他方、文化人類学とりわけラテンアメリカをフィール ドにするアメリカ合衆国の応用人類学者たちは、村落での公衆衛生や児童への栄養プロジェクトに1940年代から積極的に参与するようになっていた(池田 2001:41)。第二次大戦後のグアテマラ市周辺のマヤ人の共同体にも同様なプロジェクトが試みられようとしていた。当時の保健衛生プロジェクトでは、 住民の検診を無料でおこなう代わりに、身長、体重、血圧測定や採血を含む栄養状態など生物計測の資料収集がおこなわれていた(Adams 1952)。
人類学者たちは、現場で働く医学者や栄養学者たちか ら次のような質問をもとめられた。なぜマヤの人たちがデータ収集のための採血を恐れ、また白人たちが将来太らせて食べるためにマヤの子供たちに栄養補給を しているのかという風評をたやすく信じてしまうのか、と。このような疑問に答えるべく民族学的調査結果をもとに、人類学者たちは、マヤの身体観や病気観を 知ることが重要であり、その知識をもとにプロジェクトがもつ科学的意図とそれが住民の福利に繋がるという「本当の目的」をマヤの人びとに説得すべきである と医療関係者たちに主張するようになった。1960年代の、チアパス高地ではメキシコの国立先住民研究所(Instituite Nacional Indigenista)から派遣されて人類学者たちが、先住民族の国民国家への統合政策の一環として、村落において簡易保健所にやってくる人びとの病気 観や健康観の調査を始めていた(Holland 1963)。
考古学資料や歴史資料よりも、現在のマヤの生活デー タにもとづく調査、すなわち民族学的調査を通して、マヤ医学に関する知識はより現実に即したものになった。1960年代以降の文化人類学では、民俗分類 (folk taxonomy)や民族科学(ethno-science)の研究が盛んになり、他方で行動科学の研究手法が導入されて、マヤ医学の病気観や健康観の性 質を調べるだけでなく、観察可能な行動の量的な研究へと展開していった。グアテマラには世界保健機関アメリカ地方支部(WHO/PAHO)直轄の中央アメ リカならびパナマの栄養医学研究所(INCAP)が設置されており、マヤの人びとに関する医学研究データが蓄積されてきた(Villatoro 1984; 池田 2001:311-2)。
このような生物医学中心の研究だけでなく、マヤの人 たちに人道的な医療活動が慈善団体や非政府組織(NGO)を通して試みられるようになった。しかしながらグアテマラの西部高地のマヤの先住民居住地域は 36年間(1961-1996年)にわたる内戦の戦場となり、特に1970年代後半からは紛争が激化して、これらのほとんどのプロジェクトや研究は実質上 停止してしまった。
1990年代からマヤ医学の研究は、それまでのプラ イマリヘルスケア(住民の自助努力を基盤にする衛生改革運動)と連動して行われるようになり、とくに代替技術や伝統的薬草の資料収集や販売用の薬草栽培の プロジェクトが特徴となる。1996年末の内戦の終結の前後からマヤ先住民主体の民族的アイデンティティの覚醒運動が本格化し、近代化運動の中でそれまで 衰退傾向にあった伝統的なマヤ文化の復興がおこり、一般にそれらを総称してマヤ運動(Movimiento Maya)と呼ばれるようになった。この文化運動のなかで、マヤの伝統的な知識を体現する治療師たちやマヤ司祭たちの社会的活躍の期待が高まった。
他方で、生物多様性に関する国際条約協定などの動き
は、マヤの伝統的薬草の知的資源としての価値を見いだすようになった(e.g. Hostnig et al.
1998)。内戦の影響で生まれたグアテマラ国外、とくにアメリカ合衆国への労働移民は、現地への定着が安定化する過程のなかで、出身地の共同体の宗教儀
礼をアメリカ国内のコミュニティにおいておこなったり、薬草の利用を再開する人たちが増えてきた。マヤ医学は、メソアメリカで生まれた土着医療という性格
から少しづつではあるが、マヤ民族の知恵としてのコスモポリタンな代替医療へと変化しつつある(e.g. Luecke
1993)。マヤ医学はマヤの人たちが長い年月をかけて維持発展させてきたものであり、またその知的権利はマヤの人びとに帰属するものに違いない。しかし
マヤ医学は、その意味づけをめぐって外部の人たちが生産したきた情報の歴史的蓄積とさまざまな評価に対する相互作用とによってできあがった複雑な文化的混
成体でもある。21世紀のマヤ医学の研究は、実践と相まってこの文化的過程をさらに推し進めてゆくであろう。
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