か ならず読んでください

「忙しいから後にして!」あるいは我々は如何にして……

Me dejas porfa, estoy ocupad@ q me entiendas?

池田光穂

正 式のこの論文のタイトル:「『忙しいから後にして!』あるいは我々は 如何にして暇人(scholar)から時間と金銭に呪縛されたる 知識奴隷 (intellectual slave) / 研究鬼畜 (”intelli-agent”)へと堕落したのか?そしてその解放のための奥義を尋ね生活実践を通して如何なるように自己を改造すべきか?」 pantagruel roy des dipsodes, pagina original

●研究提言「『忙しいから後にして!』あるいは我々は如何にして暇人(scholar) から時間と金銭に呪縛されたる知識奴隷(intellectual slave)/研究鬼畜(”intelli-agent”)へと堕落したのか?またはその解放のための奥義を尋ね生活実践を通して如何なるように自己を改 造すべきか?」、COE「インターフェイスの人文学」第10回研究集合、大阪大学大学院文学研究科本館第一会議室、2005年11月24日

メタファー(隠喩)としての身体

メタファーとは、あるもの(全体)を別のもの(全体)を喩えること。例:王様=ライオン

メトニミーとは、あるもの(全体)を別のもの(部分)で喩えること。例:王様=冠

その社会、その時代の身体に関わる状況から、その個体が置かれている状況を想起する。

Petrus Apianus, Cosmographia 1539

表題の変遷について

ヴァージョン1.「『忙しいから後にして!』あるいは我々は如何にして暇人(scholar)から時間と金銭に呪縛されたる知識 奴隷 (intellectual slave)/研究鬼畜(”intelli-agent”)に堕落したのか?またはその解放のための奥義を尋ね生活実践を通して如何なるよう自己を改造す べきか?」 ※当初原案
ヴァージョン2.「『忙しいから後にして!』あるいは我々は如何にして暇人(scholar)から時間と金銭に呪縛されたる知識 奴隷 (intellectual slave)/研究鬼畜(”intelli-agent”)に堕落したのか?またはその解放のための奥義を尋ね生活実践を通して如何なるように自己を改造 すべきか?」 ※助詞の追加
ヴァージョン3.「『忙しいから後にして!』あるいは我々は如何にして暇人(scholar)から時間と金銭に呪縛されたる知識 奴隷 (intellectual slave)/研究鬼畜(”intelli-agent”)へと堕落したのか?またはその解放のための奥義を尋ね生活実践を通して如何なるように自己を改 造すべきか?」 ※「から」と「へと」の係り結び
最終版「『忙しいから後にして!』あるいは我々は如何にして暇人(scholar)から時間と金銭に呪縛されたる知識奴隷 (intellectual slave) / 研究鬼畜 (”intelli-agent”)へと堕落したのか?そしてその解放のための奥義を尋ね生活実践を通して如何なるように自己を改造すべきか?」 ※接続 詞の変更
冗長なタイトルへのこだわり、些末な分析等々は暇な学問研究のパロディ(もじり?)である。

   
さあ〈暇〉になって考えよう!

大学人の精神状態、大学人の身体状況について考える

忙しいから後にして!と叫んでしまう理由?

【運営】 独法化による予算の緊縮化に伴う大学運営の効率化という圧力(「改革の時代」)

【研究】 成果の社会的利用に対する外部からの圧力(「先端的研究」「社会貢献」「アウトリーチ」)

【教育】 「修行僧としての学生諸君」から「お客様・消費者としての学生様」へ

谷 茂(しげる)・シンドローム:「あ〜忙し忙し あ〜忙し忙し」状態

あ〜忙し地獄からの脱出方法

(1)地獄においてなお殉教の道を貫く(「過労死わが愛」)

(2)地獄を楽しむ(「地獄八景亡者戯」メソッド→仮想現実のユートピア)

(3)地獄において無能の烙印を背負うこと(「サバルタンの中のサバルタン」)

(■)ーー忌み言葉により欠番ーー

(5)生き方を変えて創造的に自己を再生

あ〜忙し忙し地獄双六 〈おさらい〉

生き方を変えて創造的に自己を再生する法

【心得】 万人に通ずるマニュアルはない(かも)。

【治病1】 身体実践を通して〈病んだ精神〉を改造。

【治病2】 仮病〈忙しいふり〉を粧い、忙しさをエスカレートさせる感染源に触れないこと。

【社会的予防】 〈忙しさ〉から逃れようとする自己への配慮と共に、呪縛されている病人の救済を乞い願うこと。

ご専門は?

「無知」あるいは「無知学」です。
無知への自覚こそ、学問探究の駆動力(エンジン)である。
現代社会において「知る歓び」が安売りされた結果、「無知を表明する」ということが勇気のいる発話になりつつあるのでは?
また無知状態と情報不足との混同がしばしば見られる。
もちろん無知にも良いものと悪いものがある。

悪い無知(R.S. Wurman 1989による)

知りすぎ病 見かけ惚れ込み病 相槌症候群 ピントはずれ比較病 過剰〈正確〉信奉病 過剰〈正確〉追求症 過剰形容病 早期記銘障害 詰め込み健忘症 ユーザーフレンドリー盲信症 誰にでもできる喧伝症 専門家の意見症候群 結末を教えない病 見せかけ情報病 管理病 豪華絢爛病

   
よい無知に自己を改造するための模索

ネオテニー(成長過程を逆にする)的方法

心理学者ジェローム・ブルーナーによると、(a)4,5歳の子供は積極的に身体を動かし、運動感覚でものを考える。(b)6〜8歳児 は、それが 視覚優位に置き換わる。(c)さらに成長すると大人と同様、思考を記号操作するように翻訳することができる。

つまりネオテニー的方法は、上述の発達の系譜を逆向き(c)→(b)→(a)に遡行させる。

いわゆる理系の人たちがグラフや作図が好きなのは、単に学問的流儀だけではなく、このネオテニー的思考を実際におこなっている?

よい無知に自己を改造するための模索

若手(実年齢ではなくその分野への参入および熟達度および経験時間で判断された者)には暇の確保による修道院お籠もり法による学問の修 練の継続 を!

中堅には〈想起的回顧〉による自己の研究の反省的と、それにもとづく新規研究事業の開発を!

熟達者には、若手と中堅の研究環境の育成を見守り保護措置をとるだけでなく、ネオテニー的方法により若手として生まれ変わり新しい研究 に着手 を!

【拙僧の結論です!】大学人にとって〈暇〉と〈知的情熱〉が究極の知的回春剤となる!

・ 技 法に習熟しながらも言語化できない準理論的思考が、docta ignorantia である。知恵ある無知は、実践の習熟の全体像を彼ら自身の目から覆い隠す。習熟者が自分の実践を語りきれないという事実は、〈実践知〉の特徴(→兵法の極 意というイデオロギーの特徴?)。

・ただし、もともとのDocta ignorantia の意味は次のとおり。ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401-1464):神は「能産的自然(natura naturans)」、現象世界は「所産的自然(natura naturata)」と捉えて、この矛盾の一致を、神において認識することが「無知の知(docta ignorantia)」に他ならないと説く。(ニコラウス・クザーヌス『学識ある無知について』山田桂三訳、平凡社、1994年_第1部23章、ただし ニコライ・デ・クーサ[クザーヌスのラテン語名称]は、この用語では記述していない。英訳には、nature be prior to eternity(あるいは nature prior to [the effect] of the subsequent)などの特権的なものと nature concomitant などの峻別がある。)




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