美しい大学解体論
Dismantling our Universities
H大学の新任教員を中心に、FD研修(ワークショップ)「大学を再考する」 を開催した。多くの教員が僕の提示したタイトルに惹かれたようで「大学を再考することなどなかった」「前任校とかなり異なるので躊躇したので、受けてみ た」等の回答を返ってきた。新型コロナウイルスの蔓延状況を危惧して、2つの短いグループワークとそのプレゼンテーションでZoomで2時間にわたって開 催した。
ワークショップの内容は「大学を再考する」を参考にしていただければ、参加者の所属する組織の数名のグループでも使える内容であるので、どうかお試しいただきたい。
さて、ワークショップの内容は参加者には概ね好評だったようだが、その理由は「このようなことが考えたことがなかった」という感想が多かったように思われる。
他方、今回二度目の開催だが、参加者のほとんどすべ てが、1960年末の全世界的な、学生運動、キャンパスへの機動隊導入や、あるいは議論として大学解体論、さらには「自主講座」などの、従来の大学の枠組 みを解体し、市民と大学の関係を問い直そうという社会運動が、かつては(とりわけ先進国を中心に)全世界的に展開したことについて不案内のであったという ことである。
大学解体論(後の)のポイントは次の3点である:
1)問題がおこった冷戦期の先進国の大学は資本主義体制の国々であったので、大学が提供する学問が資本家に寄与して人民に寄与していないのだという批判が
あがった。2)大学への抗議に大学側は管理を強化するために、授業を妨害する抗議活動や、(労働罷業ならく学業罷業たる)ストライキをキャンパス内で実行
し、それが大学管理者が警察権力をキャンパスに動員するきっかけになったこと。3)機動隊の導入により学生運動の側は武装解除されたり、また、学生運動内
部では党派的対立(「内ゲバ」と言われる)がおわり、学生の主だった者たちは学業にもどったために、学生の一部と学生運動を支持した若い大学教員たちが
「自主講座」をたてて、労働者や市民を大学教育の対象にした運動がはじまった。2020年の現在、1)と2)の歴史はほとんど忘れられ風化しているとみて
よい。3)も造反教官と呼ばれた人たちは実質的に死滅したので、そのような自主講座は大学内ではなくなったが、社会との連携を希求する大学教員たちは大学
内外で、大学がもつ批判的機能をより多くの人に知ってもらうために、個別に活動——したがって全国的な運動もネットワークも現在はない——しているのが現
状である。
東大紛争期に(1968-1969)描かれた「帝大解体」のスローガン。
そこで、宇井純・生越忠『大学解体論(1)』亜紀書房、1975年を、参加者に対して示した。これは、東大自主講座の記録である。
彼らの書物の冒頭には、大学解体論の決意表明とも読める文章があるので引用してみよう。
「大学論」開講にあたって——宇井 純(うい・じゅん, 1932-2006) 大学、この偉大なる虚構、壮大なる浪費!外には栄光と期待の幻想、内には腐敗と沈滞の現実。権力の飾り物としてはあまりに腐臭に満ち、大国の虚栄としては 金のかかりすぎる代物となった大学。しかもその成果は日本の文化状況を覆いつくすばかりでなく、学閥社会として民衆の日常的生活にまで根を張り、この国の 強い事大主義の一つの基盤となっている。 この全体系の上に君臨する東京大学。特権の上に大あぐらをかき、日本の針路を誤った数かずの指導者を送り出し、その戦争責任をほとんど負うことなく生き 残ったばかりか、学生の異議申し立てを機動隊で蹴り出していささかの反省も見せない巨大大学は、むしろ一九六九年以後沈滞を深める一方である。大学はけっ して正常化したのではなく、退廃が日常化したというべきであろう。 私たちはこの現実にたえずメスを入れ、それを白日のもとにさらす仕事を、長い作業の第一歩として始める。三O年も続ければあるいはこの仕事はなにがしかの実を結、ふかもしれぬ。 幻想を捨て、現実に足をつけた作業をともに進めてゆくために、あらゆる階層の、まともに考える人びとに参加をよびかける。 |
大学の存立理由を問い直そう ——生越 忠(おごせ・すなお, 1923-2017) 東大闘争泥沼化の責任を負って、とうとう詰め腹を切らされた大河内一男学長(当時)は、「東大をもう一度いい大学に……」と言い残して淋しく東大を去っ た。東大を卒業したために甘い汁を吸いえた人聞にとっては、東大は、たしかに「いい大学」だったかも知れぬ。しかし、圧倒的多数の日本人にとっては、東大 は、自分たちの前に倣慢不遜に立ちはだかる支配者・管理者・差別者・抑圧者の養成機関でしかなかったはずである。 ところが、お人好しの日本人は「怒り」を知らない。東大がどんなに悪いことをしてきでも、その目的とされた「国家ノ須要一一応スル学術技芸ヲ教授シ及基蘊 奥ヲ攻究スル」ことに対しては、不動の価値および絶対的な権威を与えてきた。それをいいことに、東大の教授たちは学問の研究そ名誉をうるための手段と考 え、学生たちもまた、「弱者はますます衰え、強者はますます栄える」という資本主義社会のなかで、強者の地位を獲得するための学問を、弱者の犠牲のもとで ひたすらに学んだ。 しかし、こんな大学を残しておいて、多くの日本人は救われるだろうか。東大を頂点とする今日の大学がだれのために、なにをしてきたかを大衆的に明らかにし、大学の存立理由を改めて聞い直さなければ、日本人は大学によって滅ぼされてしまうことになりかねないだろう。 |
私は、生前の宇井と水俣で見かけたことがある。これが、あの大学解体と、市井の人と連帯して「自主講座」を作り上げた人なのかと、驚嘆を覚えるような人ではなく、有り体にいえば「ふつうのおっさん」であったが、周りの人たちの尊敬に満ちた眼差しは今でも忘れない。
いずれにせよ、ほとんど半世紀ちかくたっているわけなので「破壊的イノベーション」を含めて、今度は、スマートは大学に解体し、そしてスマートに「まったく違ったかたちで」再生されるべきだと私は思うのである。それが私にとっての「美しい大学解体論」なのである。
『反大学70年戦線』合同出版 , 1969年)反大学運動と七〇年闘争(藤本進治) 全共闘=反大学闘争 京都大学(滝田修) 大学解体=反大学闘争 東京教育大学(滝村一郎) 全共闘=反大学運動の結果と展望 京都大学(滝田修)
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