マルセル・モースの身体技法
Techniques of the Body, techniques du corps per Marcel Mauss
解説:池田光穂
身体技法とは、身体そのものを道具として、ある目的のために使うための方 法のことである。マルセル・モース(Marcel Mauss, 1872-1950)は、身体技法が文化や歴史によって異なったり変化したりすることを初めて指摘した社会学者で、その例として、歩き方、水泳法、休憩の ポーズ、看護などのケアの仕方などについて議論をしている。目的に叶うために身体を道具に使うわけだから、どうしても人類共通のものではないかと私たちは 思いがちであるが、遠くからシルエットで見るとその違いにすぐ気づくようなもの[=言語で説明すると極めて冗長で質的な表現が多用される]。その違いの理 由はこの技が小さい頃から学習されることにあると考えられている。
モース、M., 1973 『社会学と人類学』有地亨ほか訳、東京:弘文堂(当該論文は、Les techniques du corps, Journal de Psychologie, XXXII, ne, 3-4, 15 mars - 15 avril 1936. Communication présentée à la Société de Psychologie le 17 mai 1934.)
フランス語原文で読めるサイト[«Les techniques du corps» (1934)]
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実際のモースのテキスト
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【泳法の変化】
「かつてはわれわれは泳ぎを知った後ではじめて潜水を習ったものである。また、われわれは潜水を習ったときに、眼を閉じ、それから水中で眼 を開くように教 えられた。今日の泳法ではその逆である。子どもを水中で眼を開いたままにしておくのに慣らすことから一切の遊泳が開始されるのである。このようにして、子 どもは、泳がないうちから、眼の、危険でしかも本能的な反射を抑制することをとくに稽古させられ、なによりもまず水に馴れさせられるわけで、恐怖が除去さ れ、多少の安心感が生れて、休止と運動が選択されるのである。それゆえ、わたくしの時代に発見された潜水の技法とその教育の技法が存在するわけである。そ こで、技法の教育ということが問題であり、また、すべての技法について言えるように、遊泳の練習というものが存在することが分るであろう。他方、われわれ の世代は、ここで技法の完全な変化を目のあたりにするのである。われわれは、平泳と頭を水面に出した泳ぎが各種のクロールにとって代られるのを見てきたの である。さらに、水を呑込んで吐き出す慣わしもなくなった。というのは、われわれの時代には、泳ぐものは自分をまるで汽船のように見立てていたからであ る。それは馬鹿げたことであった。がしかし、結局のところ、わたくしは依然としてそのような動作をしているのである。わたくしは自分の技法から脱すること ができないのである。そういうわけで、このようなものがわれわれの時代の特殊な身体技法、改良された体操術ということになる」(モース 1976:123-124)。
【道具と身体の結びつきの強さ】
「しかし、このような特殊性は技法全体の特色でもある。実は、わたくしは第一次大戦時中にこのような技法の特殊性に関する多くの見聞をする
ことができた
が、シャベルの使い方もその一例である。わたくしと一緒にいた英軍はフランス製のシャベルを使うことができなかったので、われわれがフランス軍の一師団を
交代させる場合には、師団ごとに8万丁のシャベルを取り替えることを余儀なくされたし、その反対の場合も同じようにしなければならなかった。このことから
も、手先の器用さというものがいかに徐々にしか習得されるにすぎないものであるかは明白である。いわゆる技法なるものには、すべてその型があるのである」
(モース 1976:124)。
【身体技法は意識的/無意識的に学ばれ る】
「わたくしはある種の啓示を病院から得たのである。わたくしがニューヨークで病気になったときのことである。わたくしは、以前に付添い の看 護婦と同じ歩き ぶりをする娘たちをどこかで見たような気がすると思った。わたくしは落着いてそのことを想い出してみたのである。やっと、わたくしはそれが映画のなかで あったことに気付いた。フランスに帰ってからも、とりわけパリで、よくこんな歩き方がわたくしの眼を惹いた。若い娘たちはフランス人であったが、彼女らも またそのように歩いているのである。事実、アメリカ人の歩き方が、映画の力でわが国で見られはじめたのである。これは、わた、くしが一つの観念に一般法則 化することができるものであった。歩いている聞の腕の位置や手の位置は社会的な特質を形成していて、たんに純粋に個人的で、ほとんど完全に心的な、なんら かの配置や機構の所産ではない、ということである。一例を挙げると、わたくしは修道院で躾を受けた若い娘を見分けられる、と思っている。それらの娘たちは 普通、こぶしを握りしめて歩くのである。また、わたくしは、《君はいつも大きな手を開けたままで歩いて、まるで動物と同じだぞ》とわたくしに言った高等学 校第六年級の担任の先生のことをいまでも覚えている。だから、歩き方の教育もまた存在するのである」(モース 1976:126)。
【身体技法:身体の道具化?技法の身体 化?】
「われわれは、多年にわたって、道具がある場合にかぎり技法が存在すると考えるだけだという基本的な誤りを犯してきたし、わたくしもその例 外で はなかっ た。プラトンが音楽の技法、とくに舞踊の技法について語っているように、技法についての古代の概念というか、プラトンの所与に立ち戻り、ついで、その概念 を拡張する必要があった。わたくしは有効な伝承的行為を技法と呼ぶ(そして、御存知のように、それは、この場合、呪術的、宗教的、象徴的行為と別個ではな い)それは伝承的で、しかも有効でなければならない。伝承なくしては、技法も、伝達もありえない。人間はそこでなにはさておき動物と区別されるのであっ て、技法の伝達、それもおそらくは口頭に基づく伝達によるのである」(モース 1976:132)。
【身体は技法対象であり、同時に技法手 段】
「以上の諸条件を考慮すると、われわれの問題は身体技法にある、と端的に言わねばならない。身体こそは、人間の不可欠の、また、もっと
も本
来的な道具であ
る。あるいは、もっと正確に言えば、身体こそは、道具とまでは言わなくとも、人間の欠くべからざる、しかももっとも本来的な技法対象であり、また同時に技
法手段でもある。そうなると、わたくしが記述社会学で《様々な》と分類したものの、かの大範疇そのものが、たちまちこのような見出しから消え失せ、形式と
内容を取得することとなり、われわれはそれをどこに位置づけるべきかが分るのである。/道具を用いる技法に先立って、ありとあらゆる身体技法がある。」
(モース 1976:132-133)。
リ ンク
文 献
そ の他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
"Felice notte, venerabile Jorge," disse. "Ci attendevi?" La lampada ora, avanzati noi di qualche passo, rischiarava il volto del vecchio, che ci guardava come se vedesse. "Sei tu, Guglielmo da Baskerville?" chiese. "Ti attendevo da oggi pomeriggio prima di vespro, quando venni a rinchiudermi qui. Sapevo che saresti arrivato." "E l'Abate?" chiese Guglielmo. "È lui che si agita nella scala segreta?" Jorge ebbe un attimo di esitazione: "È ancora vivo?" domandò. "Credevo che gli fosse già mancata l'aria." - Settimo giorno, Notte, Dove, Il riassumere le rivelazioni prodigiose di cui qui si Parla, il titolo dovrebbe essere lungo quanto il capitolo, il che è contrario alle consuetudini. - Umberto Eco, Il nome della rosa. 1980.
「今晩は、尊師ホルヘ
」と彼は言った。「私たちを待っていらっしゃったのか?」ランプが私たちを数歩前進させ、老人の顔を照らした。「バスカヴィルのウィリアムか?今日の午後
から、晩さんの前に、ここに閉じこもって待っていたんだ。来ると思っていたよ」。「大院長は?」とウィリアムは尋ねた。「秘密の階段で蠢いているのは彼だ
ろうか?ギジェルモは一瞬ためらった。「彼はまだ生きているのだろうか?-
ここで語られる驚異的な啓示を要約すると、タイトルは章と同じ長さになるはずだが、これは慣習に反する。-
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』。1980.