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ラ・ファージ「マヤ民族学」ノート
On
La Farge's  Etonologia Maya: Secuencia de las culturas: Rearch note


Oliver La Farge  II, 1901-1963
池田光穂

[出典]
La Farge, Oliver., Etonologia Maya: Secuencia de las culturas. Guatemala: Universidad de San Carlos de Guatemala.1975. (original title)"Maya ethnology: the sequence of cultures" in "The Maya and their neighbors", New York:D.Appleton Century.1940.

・ラ・ファージはクチュマタン高地のマヤ先住民の歴史(征服から1940年まで)を5つの時期に分ける(pp.16-17)。

I. 征服期(Conquista): 1524-1600
II. 植民期(Indigena Colinial): 1600-1720
III.最初の移行(Primera Transicion): 1720-1800
IV.近代先住民第I期(Indigena Reciente I):1800-1880
V.近代先住民第II期(Indigena Reciente II): 1880-1940

 I. 征服期(Conquista)

 1524年[註:Gonzalo de Alvaradoの侵略開始時期か]から1600年以前で、暴力の時期でそれまでの先住民文化が分解した時期。

 II. 植民期(Indigena Colinial)

 征服の完了期から1720年までの時期で、この年にエンコミエンダ制が廃止された。マヤの文化は、この時期に破壊され、変形を受け、そして大きく変化し た。

 III.最初の移行(Primera Transicion)

 1720年から1800年頃まで。スペインによる支配は緩やかになり、先住民文化が復興すると同時に、双方の文化が総合(integracion)され るようになる。

 IV.近代先住民第I期(Indigena Reciente I)

 1800年から1880年。この時期は1877年の土地法令によって先住民の共有地制度が廃止されることによって終わる。つまり国家による先住民族への 介入が始まる。

 V.近代先住民第II期(Indigena Reciente II)

(a) コーヒーと砂糖黍の大幅な導 入と、それによる先住民労働力への期待・依存が生じる。(b)先住民共有地の消失。(c)先住民・非先住民、都市・農村 を問わない国土全体に対する初等教育の普及。(d)先住民の社会的・文化的従属性の継続。(e)地方の共同体の自治あるいは自律性の消失。――コメント: 国民国家統合の過程は徴税ならびに初等教育の普及を通して行われ、それらの過程は結果的に地方共同体の自律性を弱体化させる作用があることは、常識的に考 えられることである。(→「ゴウバウド・カレーラ「近代 国家文化に対する先住民の適応」」)

・1880年移行から著者が論文を書いた1940年まで。ヒスパノアメリカ文化が先住民の生活に浸透する時期であり、変化の地域差が徐々に生じてくる時期 である。しかし、その変化の速度は緩やかであり、先住民文化は維持されている。

・1720年にエンコミエンダ制(→「アシエンダ」)とレパルティミエントはスペイン王室自らによって廃止された。しかし、土地によっては負債を返済するための賦役労働制度は 形を変えて存続していた。さらにマンダミエントという形で強制労働は復活し18世紀を通してそれは続いた。

・1821年の独立以降、中米政府はメキシコとの紛争状態が続いており、さらにクチュマタン高地では、中央政府に服従しない反逆者たちがおり、これが結果 的に中米連邦政府にとって政治的脅威となっていた(p.7)。

・1877年ルフィノ・バリオス(J. Rufino Barrios, 1835-1885)は、大統領令を発して、共同体による共有地を廃止することを定めた(Directo nu'mero 170, Recopilacion de Leyes Agracias,1890, pp.90-93.)(pp.4-5)。

・同じ頃(ca.1877)、ルフィノ・バリオス大統領は、マンダミエントmandamientoを発して、先住民を一定の期間労働に従事することを定め る。このマンダミエントは、1894年には、ハビリタシオンhabilitacionあるいは賦役労働(peonaje de deuda)の形をとって継続し、1934年に廃止されるまで続いた(p.5)。

・19世紀末になって、クチュマタン高原の村村(aldea y caceri'a)にラディーノが住みつくようになる。

・クチュマタン高原では、19世紀末のこの頃に、先の賦役労働に対する不満から反逆行動が散発し、サンファン・イシュコイ(San Juan Ixcoy)では流血をみた(→Recinos 1913:207, Saper 1898)。
・このような状況の中で、低地のサンタ・アナ・ウィスタ(Santa Ana Huista)のような町ではラディーノ進出によって、マヤの伝統的な衣装や文化が次第に放棄され、ラディーノと区別がつかないようになっていった (p.6)。

・19世紀後半にはカトリック司祭が高地にも配されるようになったが、異教的信仰は根強く残っていた。ヌーネス・デ・ラ・ベガ(Nuñez de la Vega)やガージ(Gage)によると、迷信や異教的信仰に対して常に廃絶を試みる動きはあったが、政府の強力な後押しがないために、その試みは消失し た(p.8)。

・ただし、キチェ地方に存在するようなマヤのカレンダーに基づく伝統的宗教司祭とその組織の力は、クチュマタン高地では比較的弱かった(p.9)。

◎クレジット
:#82■ラ・ファージ「マヤ民族学」ノート

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"Oliver Hazard Perry La Farge II (December 19, 1901 – August 2, 1963) was an American writer and anthropologist. In 1925 he explored early Olmec sites in Mexico, and later studied additional sites in Central America and the American Southwest. In addition to more than 15 scholarly works, mostly on Native Americans, he wrote several novels, including the Pulitzer Prize-winning, Laughing Boy (1929). In addition, La Farge's short stories were published in The New Yorker and Esquire magazines. His more notable works, both fiction and non-fiction, focus on Native American culture. He spent much of his adult life championing American Indian rights. He was president of the Association on American Indian Affairs for several years[citation needed]." -
Oliver La Farge  II, 1901-1963

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Oliver La Farge  II, 1901-1963
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