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ラカン的ナルシシズムへの理解

Lacanian Narcissim


Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

ラカン的ナルシシズム (Marie-Claude Lambotte. による)を考察する。下記の説明は全部、引用である。

自分自身の像に幻惑されたナルシスは,ラカンが 「鏡像 段階」において描き出した鏡像による主体の籠絡の瞬間を 見事に例証するものである。しかし,この言葉をしゃべれ ない子ども(infans)が虚像とその背後にある種の像への いわば二重の同一化を被るこの段階の経過とは異なり,ナ ルシスという人物は,外的な準拠を何も持たない無知な状 態で,恋の幻影——その情熱的な基調は自我とモデルとの 間の完全な混乱を明らかにしている——の中に浸り込むの である。実際,鏡像は自我の投影の場の境界を画定し,自 我は,一つの形態の知覚において他者との関係の恒常性を 得,それにまなざしを付与する。この関係がないと,主体 は彼自身の「誇大妄想的」像——無限に反射しあう合わせ 鏡の戯れのように彼を見る像——に驚愕したままになるの である。

……こうしてラカンは,彼のセミネールI 『フロイ トの技法論』においてフロイトのこの論文を解説し次のよ うに述べている。
大 文字のSからa'(小文字の他者)を経由してa で顕された自我(moi)に到達する経路が、鏡像段階。鏡像段階では点線でしか示されていない。大文字のS(エス=超自我)から、自我(a)へは実践も点 線もない。自我(moi)はA(大文字の他者)と、鏡に映った他者(a')すなわち、小文字の他者からの承認があって存在する。A(大文字の他者)は、超 自我(Es)にも部分的に投射している=この経路が無意識であり、大文字のS(エス=超自我)に完全に投射されていない。鏡に映った他者(a')から自我 (moi)に投射する経路が想像的関係(relation imaginaire)という。
自 我に比肩しうるものとしてのこの原 型(Urbild)は主体の歴史のある限定された瞬間に構成さ れ,それ以後自我がその機能を果たし始めるのです。つま り,人間の自我は想像的な関係を基盤として構成されるの です。フロイトは書いています,自我の機能は,ある新し い心的(eine neue psychische)……形態(Gestalt)を 持たなければならない。精神の発達において,何か新しい ものが現れる。その機能は,ナルシシズムに形を与えるこ とである。ここには自我の機能の想像的起源が示されては いないでしょうか」
……ラカンは,自体愛からナルシシズム への移行の問題に解答を与えたように,完全にナルシシズム的な宇宙を放棄させる必然 性が何であるのかという問い にも解答を与えることになる。それは,彼がその形成を見 事に明らかにしたこの特異な像が主体に直面させる強制, すなわち,現実の中にこの像を刻印すべしとする強制であ り,これが世界の構造化と自発的な活動に不可避の支えと なるのである。
ラカンは「精神分析における攻撃性」にお いて次のように書いている。
「現実に己の像を刻みつける という人間を特徴づけるこの熱情は,意志の合理的な媒介 のそれと知られていない基盤である」(『エクリ』)。 身体像はしたがって,主体の心的表象の世界と外的知覚 の世界に二重に帰属するということになるであろう。鏡像 段階によって明らかにされたこの帰属は,世界に自身の像 を記載しそれによって世界に意義を与えるという主体の後 のあり様を理解させるものであろう」。
ラカンは,セミネー ルII 『フロイト理論および精神分析技法における自我』の 中で,この実存的であると同時にメタサイコロジー的でも ある力動を次のようにまとめている。
「彼が諸対象の知覚 の中に認めるものは,まさにこのあらゆるまとまりの原理 である身体像なのです。さて,この像そのもののまとまり を,彼は外部に,それも先取りという形でしか知覚するこ とができません。自分自身に対するこの二重の関係のため に,彼の世界のすべての対象は,常に,まさに彼の自我というさまよう影の回りに構造化されるのです」。外的世界 の備給は,この特異な像の再発見がもたらすナルシシズム 的満足なしにはなされないこと,この遍在する像が人間関 係を確立させるのであるということがよく理解できる。さ て,フロイトは探求をさらに押し進め,すべてのリビドー が対象備給に移行すると考えることができるのか,またそ れがリビドーの運命なのかと自問している」。
「このようなナルシシズム的同一化は,ラカンにとって, 人間の世界全般に対する想像的かつリビドー的関係の源に 姿を現すものである。実際,鏡像段階が教えているように, 主体が世界の中で一つの位置を自分に割りあてることがで きるのは,主体が他者との関わりにおいて反映の中に己の 存在を見て取る限りにおいて,まさに主体が他者の中に知 覚するものを取り入れることによってであり,そしてこの 取り入れは,視線の投げかけの中で行われるのである。他 者の視線を取り入れることは,自分自身を見るということ, および原初的自我(Ur-Ich)——他者との関係のすべて を支配する象徴的基準としての自我理想と同時に,自我理 想が描く枠組に組み込まれている想像的表象としての理想 自我の原因となる——を設立することに寄与する。自我の 二つの理想的審級の聞に設定される力動は,「ダニエル・ ラカーシュの報告についての考察」において,「逆さまに された花束」と呼ばれる光学的、ノェーマにおいて,主体が ブーアスの実験に基づいて作られた実像の縁の近くに位置 しそしてこの実験に付け足された平面鏡に傾斜を加える ことによって,さらに説明を与えられている。
ラカンは 『フロイトの技法論』の中で次のように述べている。
「この 図の中では, Ideal Ich とIch-ideal の間に,理想自我と 自我理想、との間に区別がなされています。自我理想は,他 者とのあらゆる関係を支配する諸関係の作用を操作します。 そして想像的構造化の多少なりとも満足のいく性質は,こ の他者との関係、に依存しているのです」。彼は,このシェ ーマの実像のレベルに位置づけられるあらかじめて、きあが っているいくつかの現実の枠組を示し得る第一のナルシシズム と,他者との関係に起因するであろう鏡による反射と しての第二のナルシシズムを区別している。さて,心の組 織がこのように描き出されれば,フロイ卜的観点の直接的 な帰結として,他者一対象の理想化のために個体をして自 身への敬意をかなぐり捨てさせるものが何であるのか,換 言すれば,何が彼を他者の意志、に全面的にゆだね,致命的 な一種の空洞化が生じるほどに彼を催眠状態に置きうるの か,よりよく理解することができる。/ これは,主体が自分から奪われたと主張する自分の視線 が突然彼の前に生じるのを見るときに,他者の中に自分の 鏡像を見るときに現実のものとなる分身の存在を連想させ る。像の侵入の段階(包括的な枠組み)と像による寵絡の 段階(身体のまとまり)という鏡の力動の諸段階は,鏡像 が鏡の向こう側で〈他者〉の中に位置づけられる親密な承 認の地点(Heim)に到達するときに生じる退行的な驚愕 の瞬間の中で,混乱しかつ宙づりにされる。主体に先行す る〈他者〉の根本的な欠落を明らかにすることができる前 に,自身の鏡像にとらわれるということ,これがラカンに とってのナルシシズム的罠ということになるであろう。 これは自分の像によって無限に繰り返される主体の籠絡で あり,それが続く問久しく消し去られていた享楽の炎が燃 え上がるのである。ラカンが不安についてのセミネールの 中で説明しているように,このような事態において,主体 は,自分自身の一次的攻撃性と戦いつづける。この攻撃性 は,自身の像の形成とその世界への投射にとって不可欠の ものであるのに,自分自身に向きを変え,そしてその危険 度は,主体が,ナルシスを範として,自分の分身による幻 惑の中に沈潜し続けているだけによりいっそう増している のである。おそらくこのように籠絡された主体は,ある意 味で想像的自我と到達不可能な存在の間の不一致,本来な ら反対に決して果たされることのないその解消を目指して 努力が払われるべき不一致を解決してしまい,それらは互 いに融解してしまっているのであろう。それに成功したと き,それは,ラカンの「心的因果性について」を引くなら ば,「ナルシシズム的な破滅に到る攻撃性の,想像的な核 心にまで反響する現実と理想の一致によるのである」(『エ クリ』)。
/……/こうしてナルシシズムは二つの側面を呈することになる。 リビドー備給として,それは自我の保護と文明の成果への 貢献を行う。自我とリビドーの発達における幼児的段階と して,そのモデルが完全な自足的組織であるような最小限 の経済のエネルギー・システムの中に含まれる。そしてそ こでは,死の欲動の痕跡が,再び予感された古い享楽との 再会を目指した緊張の解消へと導くのである。人間の定義 に不可欠なものとして,ナルシシズムは現実に形を与える のだが,それはこの現実が鏡の位置を占め,主体に対して 彼の備給に不可欠の誘惑的な要素をまとっている限りにお いてである。ラカンはその力を次のように表現している。 「ナルシシズムは,人間であろうという情熱,このいわば まさに魂の情熱として,たとえいかに気高いものであろう とすべての欲望にその構造を課すのである」(「心的因果性 について」,『エクリ』)。」
「ナルシシズム」P・コフマン編『フロイト&ラカン事典』弘文堂、 1997年


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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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